日常

2年後

2013-03-13 01:10:26 | 時事
なかなか学術的な仕事が手につかないのがわかった。
3月11日という象徴的な日を超えないと、自分の中で何かが動かなかった。



医学の仕事にも、学問の側面と実践の側面がある。

学問は、管理的、人工的な世界で、言語で支配される世界。ある意味では予定調和な情報に覆われている。
一方、実践的な側面では、人間を扱うから、言葉では説明できない幅広い現象がうごめいている。生も死も、聖も俗も、いろんなものが織り交ざりながら立場を変えている。互いに反転し続けながら光を乱反射する。そこには人間そのものがあり、自然そのものがある。

自然は、海や空や水や岩もあれば、宇宙空間すらも包む。果てはなく際限がない世界。境界はあくまでも人工的で言語的で概念的なものだ。
学問は、言語空間で閉じる。
そこにはいい面と悪い面がある。中にまとまるのがあれば、外にはみ出てこぼれるものがある。



この数か月は、自分の中の心で何かが動いていたので、その動きを客観的に見続けていた。


自分の中では、生も死も分かれていない。
生後には、生後の死があるのと同じように、
死後には、死後の生があると思っている。
何かのおわりは何かの始まりであり、何かの始まりは何かの終わりである。
生が死より価値が高いわけでも、死が生より価値が高いわけでもない。

なぜなら、自然界はもともとそういう二つを分離していないからだ。
すべてが含まれ、包まれている。価値づけ、意味づけるのは人間の自我の営みだ。しかも、それは人間の健康状況や精神状況や環境など、状況で変わりうる便宜的なものだ。


スウェーデンボルグは、揺るぎない知性でそのことを記述している。だから、なぜかこの時期に再読したのだと思う。
「スウェーデンボルグの思想―科学から神秘世界へ」(2013-03-12)






人間は喪に服す時間が必要だ。

どんな死でも、僕らがその死を体験すると(それは道端に落ちている蝉の死でも、食事で食べる豚肉の死でも)、心の奥底では喪に服す厳粛な営みが必ず行われている。それは心の深い場所であれば見えにくく、浅ければ見えやすいだけだ。

大人数が一気に亡くなるような場合、僕らの心は容易にそれを受け取ることができない。
だから、数年かけて心の奥底でひっそりと喪に服す時間が過ごされることになる。
それは、自分の中に死を受け入れ、統合し、一つになっていく時間だ。
そうして生は死と一つになり、境界がなくなり、生命が形作られていく。





3.11から2年経った。何かが変わる。

冬から春へと季節が変わるとき、それは予感や雰囲気としてやってくる。
少し暖かくなり、春が来たと思うと、少し肌寒い冬の季節がやってきて、冬へとまた意識は戻る。

そうして冬と春は複雑に入り交り、意識は往復する。

便宜的な春分の日という極点を通り過ぎると、いつの間にか冬は消え、春が立ち現われている。
その変化は淡く、よくわからない。



冬と春。
二つの季節を知っている人は、それぞれの良さも悪さも知っている。
ただ、冬の時代だけで一生を終えた人は、まさか「春」という季節がこの世に存在するなんて夢にも思わないだろう。
それは、春にとっての冬も同じことだ。

-------------------------------
善導『浄土論註』・親鸞『教行信証』より
『蛄(けいこ)春秋を識らず、伊虫(いちゅう)あに朱陽の節を知らんや』
(「蛄けいこ=夏蝉」は春や秋を知らない。その夏蝉が、なぜ「朱陽の節=赤い太陽の季節=夏」を知ることができるだろうか。)
-------------------------------




僕らは常に、何かしらの冬と春の移行期に立っている。
二つをまたぐ人は、冬の寒さも知る。春の暖かさも知る。
春の陽気は、狂気へもいざなうこともある。

季節の変わり目は、何らかの変化をゆるやかに起こすから、その最中にいるときは何が起こっているのかよくわからない。
ただ、冬と春の二つの季節を知っている人は、結果的にその違いや変化を知る。
それは進化か退化か、善か悪か、・・・意味づけ次第でもある。



今回の震災と原発の事故は、そういう時代の変わり目として、季節の変わり目として記憶されると思う。

この世には、心の浅い層で把握できることもあれば、心の深い層でしか把握できないこともある。それは、その人の心の広さや深さと関係がある。


「革命」は、社会が急激に変化する。
ただ、革命のように急激な変化が起きることは、ほとんどない。
もし起きたとしても、それは起きたように錯覚させ、誰かが見せている巨大な夢だと思った方がいい。



物事はゆるやかに変わりながら、明確に変わる。





3.11の慰霊祭が新宿の経王寺でああった。
そこで田口ランディさんの「アングリマーラ」の朗読会があって聞いてきた。
深く心を動かされる説話で、感動した。
目をつぶると、正気と狂気がモザイクで入り混じり迷い揺れ続ける、アングリマーラの瞳が浮かんだ。それは現代そのものの迷走の瞳。


-----------------------------
<参考>
テーラワーダ仏教、スマナサーラさんによるアングリマーラの解説
【23】 輪廻転生と修行/戒律の役割/アングリマーラ
「後悔」は美徳ですか? ~非難の視線は自分に返ってくる~ Do not repeat your faults
-----------------------------





ランディさんのアングリマーラ現代語訳の朗読の後、穴澤雄介さんという盲目のバイオニストの方の演奏を聞いた。とても素晴らしかった。

目をつぶって聞いていたら、透明のイルカが、水しぶきを上げながら宇宙空間を泳ぎ、虹色の水しぶきをあげながら飛ぶように泳ぐイメージが湧いていた。あれはなんだったのだろうか。
最終的には、その宇宙遊泳するイルカは細かい粒子となり波動となり、宇宙の黒い暗闇の中に「色」そのものとして吸収されて一体化していた。
音楽を聴きながら思わず泣けた。


芸術には力がある。そのことを忘れかけている。
芸術は美術館のガラスケースの中に閉じ込められているものではない。
人間を生かしめている生命エネルギーの触媒となり酵素となるものだ。
芸術は、生命に関わるものだ。




人間は喪に服する時間が必要で、心の中で複雑精妙に起きている心のプロセスを明確につかむため、内部のものを外部に出し、身体言語としてシンボル化して外に出すことが必要な時がある。
それは多義的で矛盾的になるほど意味不明としか言えないグニョグニョした得体のしれないものだけれど、その意味を読み解き、解読し、取り入れていくのは自分だけの大事な仕事。それは人生のプロセスそのもの。


内部での象徴的な死は、再生を意味している。だから、大丈夫。
死は生を意味している。死がなければ生はなく、生がなければ死はない。だから、大丈夫。




キューブラー・ロス
「You are not Ok.
  I am not Ok.
   That's Ok.」
「あなたは大丈夫じゃない。
 わたしは大丈夫じゃない。
 だから、大丈夫。」