日常

山浦玄嗣「イエスの言葉 ケセン語訳」

2013-08-07 02:19:24 | 
山浦玄嗣さんの「イエスの言葉 ケセン語訳」文春新書(2011/12/15)を読みました。
日常とは違う山奥で読んだのですが、目から鱗が何十個も落ちるほどの感動!

個人的に、2013年読んだ本でベスト3に入る本!
(ちなみに、堀内信隆「だるまんの陰陽五行シリーズ」(2013-06-18)もベスト3のひとつ。(^^)



****(今回も長いです・・・)


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<内容紹介>
ケセン語=岩手県気仙地方の言葉で訳された福音書が、なぜこんなにも心を揺さぶるのか。
「愛」とは? 「信仰]とは?「天国」とは? 
難解だった聖書の世界が身近になり、絶望の淵から立ち上がる勇気を与えてくれる。
被災地の医師がたったひとりで書き上げた感動の聖書訳。
<著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)>
山浦/玄嗣
1940(昭和15)年東京生まれ。
生後間もなく母方の故郷岩手県釜石市に移住し、その後気仙郡越喜来村に疎開。
東北大学医学部、同大学大学院(外科学専攻)卒業後、同大学抗酸菌病研究所助教授。
86年故郷に戻り、大船渡市盛町で山浦医院を開業。現在に至る。医
師としての仕事の傍ら、気仙地方の方言をケセン語として研究。
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<聖書は世界でもっとも読まれている本>とよく言われます。


自分も、イエス・キリストは大尊敬しています。(幼稚園が信愛幼稚園というミッション系だったのですが、聖書は30歳過ぎて初めて読みました・・)
ただ、クリスチャンではなく、ブッダも大大尊敬していますが、仏教徒という訳でもない。
今現在も含め、過去も未来も特定の宗教団体に入ることはなさそうな自分ですが、それでもそれぞれの宗教が教えている真理は学びたい!と思っています。そこには科学では到達できない、人間にとって大切なものがたくさん含まれているからです。


イエスの教えの本質を知りたい。世界で十億人以上の人が信仰しているわけですからね。

ただ、何度も何度も聖書を読んでみたものの何か腑に落ちないものが多く残りました。
新共同訳はもちろん、色んな漫画版や解説本なども。聖書物語の漫画は樋口雅一さんが有名ですよね。手塚治虫先生も里中満智子さんも描いてる。ジョージ秋山さんのは文章が多い挿絵のような印象。藤原カムイさんは芸術的な聖書漫画。

「これは自分が日本人だから永久にわからないのだろうか。これが文化の差なのだろうか。」と思っておりました。



そんな自分にとって、この山浦玄嗣さんの「イエスの言葉 ケセン語訳」は超絶に面白い!!!そして分かりやすい!!!五臓六腑に染みわたり、イエスの言葉がよくわかりました。いやはや、すごい本・・・。


山浦先生は岩手生まれのお医者さんです。
そして、聖書をケセン語(気仙地方(岩手県陸前高田市・大船渡市・住田町および宮城県気仙沼市など))の方言で、原典の意味に忠実になるよう訳しています。
すごくテンポがよく痛快。リズミカル。まるで芝居を見ているよう!


・イエス自体がガリラヤの田舎から出てきた人だった。当時支配的だったユダヤ教の律法主義のおかしなところに、田舎訛りで素直に無邪気に噛みついた。
・聖書自体が、当時の学者さんが訳しているので、どうしても堅苦しい翻訳になりがち。
・山浦先生のすごいところは、ギリシャ語の原語に忠実に訳している。違う言語が含んでいる重層的な意味をすべて漏らさないように、そして読み手に伝わるように、リアルな日常語(方言)で訳しているので心にすうっとしみこんでくる。

こういうところが、他の本と一味もふた味も違うところです。


聖書の見方・読み方が一読した後に変わってしまい、衝撃を受けました・・・。

聖書もイエスもとても身近なものに感じられるようになった。
こういうことってあるんですね。いかに翻訳者の存在が重要か、と思います。



この本は新書で読みやすい。ほんの800円ですし是非購入して読んでください!


ただ、それだけだと何なので、この本の魅力をご紹介します。
引用しだすとすべて引用したくなるほど新たな発見に満ち満ちていましたが、3度読んだ上で特に感じ入ったところをご紹介します。



この本で、山浦さんの名訳にあまりに感動して、
山浦玄嗣「ナツェラットの男」ぷねうま舎 (2013/7/24)
山浦玄嗣(翻訳)「ガリラヤのイェシュー―日本語訳新約聖書四福音書」イーピックス出版 (2011/11)

も購入。ちびりちびりと読んでいます。






本書より。
「聖書の主張」とはどのようなものか。
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「この世界は神さまがそこに住むものを幸せにするためにお造りになった舞台である。
あらゆるものはその本来の姿においてよいものであり、すばらしいものである。
神さまのお造りになったものをこよなく愛し、かれらがまことの幸せの中で喜ぶことをこのうえなく喜ぶ。
人間が幸せになることこそ神さまをお喜ばせする道であり、人間が造られた目的なのだ」
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と書かれています。

救世主がメシア、ギリシア語ではキリスト、ケセン語風には「お助けさま」と訳す。

キリストという堅苦しい言葉ではなく、「お助けさま」という親しみやすいイメージなのだと説明されていました。


日本の神道や祭りを思い出しました。
春日大社の元宮司、葉室頼昭さんによると、神社の祭りは「ただ神さまをお喜ばせすることに尽きます」とおっしゃっていました。
(→葉室頼昭「神道 見えないものの力」(2011-08-10)
神さまが心地よくなることをとにかく考える。
そのために日々いい行いをする。いいことを考える。
神饌もカミサマに喜んでもらうため。
カミサマには祝詞の言霊で喜んでもらい、雅楽や神楽(カミサマを楽しませる!)でも喜んでもらう。
とにかく喜んでもらう集大成が「祭り」。

そうしてカガミの前に立ち、自分の「我(ガ)」を無くし、カミさまが現れる。



どの宗教も同じものに行きつくと思っています。同じ人間ですし。根っこは同じなはずなのです。






創世記より。


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 初めに在ったのァ
 神さまの思いだった。
 思いが神さまの胸に在った。
 その思いごそァ神さまそのもの。
 初めの初めに神さまの
 胸の内に在ったもの。

 神さまの
 思いが凝(こご)って
 あらゆる者ァ生まれ、
 それ無しに
 生まれだ者ァ一づもねァ。

 神さまの思いにァ
 あらゆるものォ生がす力ァ有って、
 それァ又、
 生ぎる喜びィ人の世に
 輝がす光だった。

 光ァ人の世の
 闇ィ照らしてだったのに、
 闇に住む人ァその事に
 気ァ付かねァでだったんだ。
(ケセン語訳/ヨハネ一・一~五)
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初めには言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。

万物は言によって成った。
成ったもので、
言によらずに成ったものは
何一つなかった。

言の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。

光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しなかった。
(新共同訳)
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有名な創世記の冒頭。

天地の初めにあったのは、まず神さまの思いであったと、ヨハネは言います。
神さまの思いとは、あらゆるものを幸せと喜びに招く熱き思いです。


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「神さまの思いにはあらゆるものを幸せにピチピチ元気に生かす力があった。」
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「神さまの思いから出てきた幸せと元気は明るい光のように人間を喜びで輝かせた。」
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言(ことば)の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しなかった。


「命」とは、ギリシア語のゾーエーの訳。
本来は「元気に幸せに活き活きと生きること」という意味とのこと。
聖書ではあちこちにこの「命」が出てきますが、基本的な意味は「幸せに活き活き生きること」という意味なのです。


日本語で「命」と書くとなんだか高尚な印象を与えます。
頭でこしらえた「概念」になりやすく、身体感覚や実感から遠くなる。

山浦さんのように「幸せに活き活き生きること」(ゾーエー)と言われると、身体感覚を伴う活き活き(ピチピチ)した言葉として実感できると思います。





ヨハネは続けます
「それなのに、人間は心の目を閉ざしてその光を見ようとしないのだ」と。

自分のことしか考えない人間は、明るく元気でピチピチと幸せになることはむつかしい。

それは闇の中に暮らしているのと同じことだとヨハネは言います。
もちろんこれはヨハネの独創ではありません。
聖書全体を貫く思想であり、ヨハネが師と仰ぐイエスという人物の考えでもありました。



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「この世は闇だなどと言うなよ、とヨハネ福音書は我々に語りかけています。
闇だと思っているのは、君が目を閉じているからだ。
さあ、目を開けてよく見てごらん。
君を元気でピチピチ活き活き生かしてくださる神さまのやさしい思いがまぶしいほどの光となって君を照らし、つつんでいるではないか!」
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なんとも元気が出てくる言葉です。
山浦さんの訳は、こういう風に明るく朗らか。読んでいるだけで元気が出て来る不思議な力があります。これが言霊でしょうか。







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さあ、心ォスッパリ切り換(ゲ)ァろ!
神さまのお取(ド)り仕切(シギ)りァ今まさに此処(コゴ)にある!
(ケセン語訳/マタイ三・二)
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悔い改めよ。
天の国は近づいた。
(新共同訳)
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イエスは、ヘブライ語(当時のユダヤ人の言葉)ではイェホシューアと言います。
ガリラヤの田舎者はひどく訛った言葉を話すものですから、イェシューと言っていたとのこと。
ギリシア語にはシュという音がないのでスの音で代用し、さらに主格名詞語尾をつけてイエスースとなる。
イエスという日本語訳はここからきているらしいです。
勉強になりますねぇ。



「天の国」はギリシア語の「(神さまの)バシレイア」の訳で、動詞バシレウオー(取り仕切る)の名詞形。
本来、国土という概念とは無関係ですから、「神さまのお取り仕切り」とするほうがことば本来の意味。

「お取り仕切り」がギリシア語でエンギケン(近くに来ている状態)だというのは、時間的接近よりはむしろ空間的密着性をあらわす表現なので、今ここにピッタリくっつているという意味になります。


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ヨハネは集まった人々をヨルダン川の深みに連れてゆき、「お水潜り(洗礼)」という行をさせました。
頭までズブリと水に沈め、窒息しそうになり、そうだ、いまおれはここで死ぬのだ。今までの生き方に別れるのだ。
そう思い定めて、ザバッと顔を出す。
窒息寸前の肺に新鮮な空気が吸い込まれる。
ああ、おれは今新たな命に生まれ変わった、これからは神さまのお取り仕切りに身をささげるのだ、と念ずる。

これが大流行し、人々が国中からヨルダン川に集まりました。
あたらしい時代の予感でした。その中にナザレ村の青年イェシューもまじっていたのです。
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「ほら、目を開いてよく見てごらん。きみはわたしを尊敬してくれていて、わたしのことばを心から受け入れてくれている。
だからわたしはとてもうれしい。わたしもきみのことを尊敬している。だからきみも嬉しく思ってくれている。
こうして互いに分かりあい、認め合うことは、何とすばらしいことではないか。
神さまのお取り仕切りは今まさにおれたちのあいだで実現しているのだよ!」
・・・とイエスは叫んでいるのです。
お水潜らせのヨハネからお水を潜らせてもらったイエスは、そのとき、はっきり自分の使命を悟ったのでした。
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「悔い改めよ」と聖書で言われるとなんだか怖いですが、
「さあ、心を切り替えろ!」という意味だとすれば、非常によく分かります。
日常でも「さあ、心を切り替えろ!」と肩を押してほしいときはありますよね。


<洗礼者ヨハネ>と名前はつとに有名ですが、この洗礼を「お水潜り(洗礼)」と訳しているのには感動しました。
水の中で擬似的な死の体験をする。死んで生まれ変わった気持ちで、意識のチャンネルを切り替える。
そして固定観念を更新して新たな生命として生きなおすのです。







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俺ァ、人ォ 本当の幸せに導ぐ。
俺ァ、人ォ 本当に幸せになる なり方(ガだ)ァ教(おせ)える。
俺ァ、人ォ 幸せに活ぎ活ぎ生がす。
(ケセン語訳/ヨハネ一四・六)
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わたしは 道であり、道理であり、命である。
(新共同訳)
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この部分の解説を本文より。
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どんな悲惨の中にあっても「目をつぶるな!」とイエスは朗らかにいいます。

「目をつぶって何が見える? 真っ暗闇だけではないか。
そのままでは一歩も動けまい?ひと足でも動いたら、何があるかわからない。
崖から落ちるかも知れないし、木にぶつかるかもしれないぞ。
その恐怖でお前さんはひと足も進めず、恐ろしさに目をつぶったまま縮こまっているだけだ。
情けない奴だ。いつまでそうしているつもりかね。

さあ、目を大きく開け!どんなに悲惨なありさまが見えようとも、それが現実というものだ。
目をそらすな。こわがるな。この俺がついているんだ。
いいかね、いいことを教えてやろう。

わたしの話していたヘブライ語ではな、≪ことば≫と≪できごと≫はどちらもダーヴァールといってな、互いに区別がないのだよ。
お前の身の回りに起きている≪できごと≫は、すなわち神さまの≪ことば≫なのだ。
耳をすまして、その≪ことば≫を聞け。
そうすればこの≪できごと≫を通じて、神さまがお前に語り掛けている≪ことば≫が聞こえてくるはずだ。

お前が今何をすればいいのか、神さまはお前に何をさせようとなさっているのか、それが聞こえてくるはずだ。
それに従うのだ。
その先に、お前が人間として本当に喜び輝く光の道が見え、お前は幸せに活き活きと生きる!」
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この解説には感動しました。

ヘブライ語でダーヴァールは、≪ことば≫でもあり、≪できごと≫でもある。

≪ことば≫を聞いたら、それを≪できごと≫として同時に受け止め、
≪できごと≫に遭遇したら、それを≪ことば≫としてメッセージを同時に受け止める。

これはまるで、ユーミンの「やさしさに包まれたなら」にあるような
『やさしさに包まれたなら きっと 
目にうつる全てのことは メッセージ』
と同じです。



≪できごと≫を、眼の前を通り過ぎて行くものと捉える事も出来るけれど、≪できごと≫(ダーヴァール)をカミサマの≪ことば≫(ダーヴァール)として捉えた方が、そこで自分にとっての意味を考えるきっかけになります。そうして、僕らの生きている世界と関係性が結ばれるのだと思います。







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光ァ人の闇ィ照らしてだったのに、闇に住む人ァその事(ゴど)に気ァ付かなァでだったんだ。
(ケセン語訳/ヨハネ一・五)
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暗闇の正体は、旧約聖書全体を通しての大きな主題とのこと。
では、人間にとっての暗闇とは果たして何なのでしょうか。


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「善悪の知識の木」で、「知識」と訳されているのは、「知ること」のことで、「知る」には「支配する」という意味があります。
日本語の古語でも「しろしめす」は「知る=支配する」の敬語です。

この実を食べるということは、何が善で何が悪かということを人が判断する力を持つという意味です。
ことの是非善悪を判断するときに、神さまと同じ絶対者、「俺は絶対に正しい!」という信念の人となるという意味なのです。
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善悪の知識の実とは、ものごとを二元論的に善悪に分け、その上で自分が絶対的な善の立場に立っているとしてしまうこと。
こういう立場の人は、色んな状況で見かける気がします。

戦争も喧嘩も、互いが互いの善を主張するから起きるもの。
そこに人間が陥りやすい落とし穴(暗闇)があるようなのです。




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正しいと信じ、善であることを信じたことにとことん誠実を尽くし、まっしぐらに突き進めば、必ず待っている恐ろしい破滅。
ユダヤ人はおそらくこの矛盾に気づいた最初の人々であったのではないかと思います。
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神さま、あなたはどうしてこんな世界をお造りになったのですか。
どうしたらわれわれはこの抜け道のないぐるぐるまわりの悲惨から抜け出せるのですか。
聖書が「闇」とよんでいるのは、この恐ろしい矛盾のことでした。
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人間は「自分が絶対に正しい」という偏見や固定観念に陥りやすい。
それは人間の心の構造に内在されているエゴのせいでしょう。
エゴも成長にとっては非常に重要な働きを持つのですが、度を過ぎるといい面と悪い面が出てくるものです。

自分の中の一部であったはずのエゴに、自分全てが浸食されて覆い尽くされてしまうと、世界は「暗闇」になるのでしょう。その危険性を聖書では「善悪の知識の実」という二元思考の例として指摘しているようです。







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心ォ切り換(ゲ)ァで、
これがらァずっとこの良い便りに
その身も心(こゴろ)も委ね続げろ。
(ケセン語訳/ヨハネ一・五)
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悔い改めて福音を信じなさい。
(新共同訳)
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「悔い改める」は、ギリシア語のメタノエオーの訳です。
「メタ」は変換・転換のこと、「ノエオー」は考えること。
そのことから、山浦さんは考えを切り換えること。と訳されています。


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一度正しい進路に方向転換したら、後はもう過去のことに捕らわれず、明るくまっすぐに前へ進むことが大切です。
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「心を切り換えろ(メタノエオー)」。
心をやわらかくしてスイッチをきりかえてみたらどうか。
そして相手の心の中にも、自分と同じように、神さまの思いを運ぶ熱い息吹が吹いてきているのだということを思い出してみてはどうか。
その思いを互いに尊重してみてはどうか。
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「福音」とは、「(神さまからの)すてきなお便り」ということです。
「信じる」というのは、ギリシャ語のピステウオーの訳で、「信頼する」という意味です。
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→「福音」を「(神さまからの)すてきなお便り」と訳するのは素敵な訳ですよね。


ユーミンの「やさしさに包まれたなら」でも、
『小さい頃は神さまがいて
 不思議に夢をかなえてくれた
 やさしい気持で目覚めた朝は
 おとなになっても 奇蹟はおこるよ』
とあります。

大人も子供のように素直で偏見なく純粋な気持ちに戻ることができれば、「(神さまからの)すてきなお便り(福音)」が常に届いていること、そしてそれが奇跡のような現実を作り出していることを実感できるのかもしれませんね。





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頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ァ幸せだ。
神さまの懐に抱がさんのァその人達だ。
(ケセン語訳/マタイ五・三)
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心の貧しい人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。
(新共同訳)
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従来の訳での「心の貧しい人々」はイメージがしにくい言葉です。山浦さんによると、本来的な直訳では「プネウマに関して弱弱しい人」という意味とのこと。

プネウマというのは広い多層の意味を持ちます。
「風」や「息」という意味を基本形に持ち、同時に「息吹き・呼吸・生命・心・霊魂」の意味もあります。古代人はこれらを区別せずにひとつのこととして認識していたようです。
つまり、すべて同じことで、そこに違いはなかった、と言うわけです。




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「プネウマに関して弱弱しい人」とは、「鼻息の弱い人」のことです。
金もない。力もない。地位もない。健康にも恵まれない。
貧乏に打ちひしがれて望みもなく、頼るものとてなく、神頼み以外には残された道もなく、吐くために息も弱弱しげな、そういう人々のことです。
「弱弱しい人」とは具体的には貧乏人、乞食、病人、憐れむべき境遇の者のことです。
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マタイ四章四節でイエスは
「人間は飯さえ食っていれば本当に喜びに満ちて活き活きと生きるというものではない」
と言っています。

「神さまのことばをいかにもその通りだと心からその身に受けてこそ、喜びのうちに生きることができるのだ」
とも言っています。

では神さまは人間がそのような喜びを味わうためにどうしろとおっしゃっているのでしょう。

それはただ一つ、「目の前にいる人を我が身と同じように大切にしろ」ということだといいます。
そこにこそ「神さまのお取り仕切り」が実現するのであり、それは「あそこにある、ここにある、というものではなく、お前たちの間にある」のです。
これが新約聖書のマカリオスの意味ならば、マカリオスは「幸い」というものではありますまい。
「二つのものや事柄をぴったり合わせること」から生じる喜びこそがその本体ですから、これは「幸せ=仕合わせ」こそがふさわしい。
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逆境にある人は、人と人との交わりにおけるやさしさに対して非常に敏感なものです。
その敏感さが、人をまことの幸せに導くのだとイエスは言いたいようです。
そしてその逆に、そのような交わりにおける鈍感さは人を薄情にし、交わりを破壊し、幸せを壊してしまうのだと言っているのだと思います。
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他者に対して「やさしく」あること。
他者を自分だと思い、押しつけではなく「やさしく」あること。
不幸な境遇にある人こそ、そういう本当の「やさしさ」に対して敏感になるのでしょう。

聖書は、とにかく「やさしい人」になることを促しているのです。
やさしくあり続けることが「幸せ(マカリオスは)」への道である、と。






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心根(こゴろね)の美(うづグ)しい人ァ幸せだ。
その人達(たぢ)ァ神さまのお目通りァ叶う。
(ケセン語訳/マタイ五・八)
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心の清い人々は、幸いである。
その人たちは神を見る。
(新共同訳)
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心は目に見えません。

目に見える世界に比べて、目に見えない世界ははるかに広大。当然、目に見えない世界は大事です。
ただ、だからと言って「目に見えない」ことを言い訳に使うのもよくないと思います。




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イエスがもっとも大事だと考えている、神さまを喜ばせする道は、人に対して親切を尽くすということにつきます。
雑念などあってもいいのです。大切なのは人に親切にすること、これだけです。
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ギリシア語のディカイオスは基本的に「正しい」という意味です。
もとはヘブライ語ツェダーカーに由来し、これは「やさしさ」でもあります。

神さまが求めていらっしゃるのは、ひとえに「やさしいか、やさしくないか」ということに尽きる。
人に対して本当に優しい人は、相手に対して故意に悪いことなどするはずがない。
そして人が本当に幸せになる道は人にやさしくすること、これにつきる・・・とイエスは言っているのです。
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目に見えないからこそ、何らかの形で目に見えるものへと変換する。
その一番分かりやすいのが、その人の行い、でしょう。

行いでしか、その人の心のありようはトレースできないものです。それは行いの規模や大小によりません。形ない世界から形ある世界へと変換する鍵は、「行い」にあるようです。

「やさしい行い」こそが大事。やさしくあり、親切にし、他者を大切にする。それも一過性ではなく、そうあり続ける。
幼稚園で習うような事を、聖書を介して復習させてもらっている気がします。






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人ァその働(かせ)ぎィ見て頂いで、ああ、此奴(こいづ)ァいい奴(やづ)だ、可愛(めんこ)い奴(やづ)だど思って頂ぐのであって、
ただ神さまぁどごォ力便りにしていますづゥだげでァ駄目なのだ。

・・・魂のねァ体(かばね)ァ死んだものだが、
それど同して、何もしねァで、ただお任せしてます、頼りにしてますでァ、死んでるものど同した。
(ケセン語訳/ヤコブの手紙二・二四~二六)
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人は行いによって義とされるのであって、
信仰だけによるのではありません。
・・・魂のない肉体が死んだものであるように、
行いを伴わない信仰は死んだものです。
(新共同訳)
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イエスは何度も繰り返していいました。
「おれがお前さんたちに与える掟というのはたったひとつだ。
それは、互いに相手を大事にしあえということだけだ。
人が心から幸せになり、神さまのお喜びのもとになるためのたったひとつの掟はこれなのだ。」
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心の中で考えて何もしないのであれば、それは死んでるも同じだよ、と痛烈なコトバで表現しています。
改めて、生きている人、死んでいる人、というのを考え直してしまいます。

肉体に魂が入るとそこでゾーエー(いのち)はピチピチと溌剌としてくるように、
心に行動が伴うと、心もピチピチと活き活きとしてくるんだと思います。








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敵(かだギ)だってもどごまでも大事(でァじ)にし続げろ。
(ケセン語訳/マタイ五・四四)
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汝の敵を愛しなさい
(新共同訳)
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「汝の敵を愛しなさい」とは有名な言葉です。
ただ、なかなか実行は難しいものではないでしょうか。


山浦さんによると、ギリシア語のアガパオーは「愛する」ではないとのこと。

420年前のキリシタンは「ドチリイナ・キリシタン」という本の中では、アガパオーは「大切にする」と訳されたとのこと。
おもしろいことに、「愛する」は妄執のことばとして嫌っていたようです。今と少し意味合いが違いますよね。



自分が以前感想を書いた、五木寛之さんの「愛について―人間に関する12章」角川文庫(2004/6)の中にも、
************
16世紀、ザビエルが日本に来たとき、日本には愛と言う言葉がなかった。
代わりに「お大切」という言葉で置き換えた。
************
と書いてあったのを思い出します。



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アガパオーは単に「愛している」というセンチメンタルな言葉ではなくて、
「大事にする!」という力強く、頼もしく、行動的なことばなのです。
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そういう訳(わゲ)だがら、其方等(そなだァど)ァお父様(どッつァま)ァ出来だ方(かだ)でありやるように、
其方等(そなだァど)も又(まだ)出来だ者(もの)んなり、あるがままの我ァ姿ァ受げ入れなれ。
(ケセン語訳/マタイ五・四八)
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だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、
あなたがたも完全な者となりなさい。
(新共同訳)
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ギリシア語のテレイオスを「完全な」と訳されています。
テレイオスは動詞テレイオオー「終える、仕上げる、完成する」から派生する形容詞で、「十分に成長した、おとなの」という意味です。

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神さまはまことに「できたお方」である。
それと同じように、お前たちも「できた者」になれ、とイエスは言っています。
テレイオスにはもう一つの含みがあります。
それは、神さまがお造りになったものはすべてそのままでもっとも美しいのだという考えです。
=========================



テレイオスになれということばの裏には、
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神さまから造っていただいたままの、自分のありのままの姿を素直に受け入れろ、
見栄を捨て、虚勢を張るのをやめて、よいところも悪いところも謙虚に認め、
あるがままの自分の姿にもどれ
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というふくみもあるようです。




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イエス
「お前さまにしっかり申し上げておきましょう。人は誰も、神さまにおすがりしてもう一度あらたに生まれて来ない限り、神さまのお取り仕切りを見ることができません。」
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「お前さまのその体は親からもらったものですな。
でも、お前さまのその思いは神さまの息が風となって、吹き寄せて生まれたものですよ。
神さまの息は、その胸の思いを乗せて風となり、思いのままに吹いてくるのです。」
=========================
「その思いはわたしの心の中にそよそよと吹いてくる。
お前さんの心の中にも吹いている。あらゆる人の心の中に、神さまの思いは風となって吹いている。
ほら、耳を澄ましなされ。聞こえているでしょう、ニコデモの旦那?お前さんはちゃんと聞いているはずですよ。」
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「お前さんはせっかく聞いているその風の声がどこから来ているのかに気づいていないし、
その風がお前さんをどこへ導いていこうとしているのかもわかっていない。
だから、はっきり教えておこう。いいかね。

お前さんの心の中に吹いている風は、みんなこのようにして神さまから吹いてきているのだよ。
そしてまことの幸せにお前さんを導こうとしているのだよ。」
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どんな人の心の中にもカミサマの思いとしての風が吹いていると言います。
その風の名前は「プネウマ」。

「プネウマ」には息も、風も、呼吸も、命も、心も、魂も、区別なく意味しています。
頭の中では、「プネウマ」ですべてを区別なく想起しないといけないのです。



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律法にどう書いてあるとか、偉い人がどう言ったとか、そんなことよりもまず静かに自分の心の中に吹いてくる神さまの思いの風に耳を澄ませ、というのです。
神さまがお前さんに何をさせようとなさっているのか、その思いに心をこらせ、というのです。
他人のいいなりになることではなく、権威者のいうことに盲従するのではなく、世間の流れにただ流されるのでもなく、ひたすら自分の心の中に吹いてくる神さまの思いに心をこらし、心からの信頼をもって、神さまの思いに身をゆだねることこそが、人間として最も大切なことだとイエスは言います。
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こういう風や息のような「神さまの思い」を、僕らは「良心のうずき」として感じるのかもしれません。
人の心には、そうした羅針盤が必ず備わっているものなのだと思います。
風は吹いている。あとは、それを感じるだけ。







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一人息子ォ与(け)やったほどに
神さまァこの世ォ愛(いど)しんだ。
これァ全でこの和子(わゴ)に
その身も心(こゴろ)も委ねる者さ
誰も滅(き)しゃまんねァように。
何時(いづ)でも明(あガ)りぐ活ぎ活ぎど
生ぎる力ァ与(け)べってだ。
(ケセン語訳/ヨハネ三・一六)
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神は、その独り子を与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
(新共同訳)
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「永遠の命」はゾーエー・アイオーニオスの訳語。
新約聖書には全部で四十三の「永遠の命」があるとのこと。
特にヨハネは好きな言葉だったらしく、23/43もあるらしい。



日本語の「命」は「生物が生存するためのもとの力」のこと。
これには必ず誕生と死、始めと終わりがあり、限りのあるはかないものです。

一方、ギリシャ語のゾーエーは動詞「ゾー」の名詞形で、

ゾー:
(1)生きる、生活する。
(2)元気である、働き盛りである、力強い、ぴちぴちしている。
(3)ゾーすること=ゾーエー
こういう意味が含まれています。ゾーエーには命、生き方、の意味が派生します。


「永遠の」と訳されるアイオーニオスは、
アイオーニオス:
(1)始めのない。
(2)始めも終わりもない。
(3)終わりのない。
という意味。


アイオーニオスは「アイオーン(人の一生)」という名詞から生まれた形容詞で、「一生の間」というのがもともとの意味。
つまりは、「一生の間、いつでも」という意味にとるのがことば本来の意味。

それなら、ゾーエー・アイオーニオスとは、「(一生の間)いつでも楽しく幸せにピチピチ元気に暮らすこと」という意味だということになります。



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イエスの言いたいことは
「神さまを本当に力頼りにしている人は、いつでも明るく元気に活き活きと暮らすことができる」ということだと思います。

人生には災害も苦労もつきものですが、どんなに苦しいときでも、
「だいじょうぶ、自分には神さまがついてくださる。神さまはこのわたしを何かの役に立てるためにここにこうして生かしておいでだ。
たとえそれが何なのか今ははっきりわからなくても、だいじょうぶ、わたしはきっと神さまのお役に立っているはずだ!」
と思えば、明るい力がわいてくるというものです。
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イエスとは、こうしてどんな立場や境遇の人にでも明るく背中を押して元気づけてくれる、なんとも頼もしい存在だったんでしょうね。








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神さまさ確実(しッか)ど心(こゴろ)ォ委ねで、
何とがして神さまのお役(やグ)に立ぎでァもんだども、
如何(なぞ)にしたらいいもんでごァせって(どうしたらいいものでしょうかと)、
快様のお声に耳ィ澄ませ。
そうして願いう願(ねげ)ァ事(ごど)だら、何(なん)だって必ず叶う。
(ケセン語訳/マタイ二一・二二)
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信じて祈るならば、
求めるものは何でも得られる。
(新共同訳)
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プロセウコマイは「祈る=願う」と訳するのではなく、
「神さまの声に心の耳を澄ます」と訳すべきでは、と山浦さんはおっしゃっています。



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「神さまに全幅の信頼を置きつつ、自分の使命について神さまのお声を聞きたいという思い(プロセウコマイすること)で、
乞い求める(デオマイする)なら、それはすべて必ずかなう」
という意味であり、これこそが人間が神さまに対してとるべきもっともふさわしい態度なのだと、聖書は教えているのです。
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神さま、私は神さまを深く信頼もうしあげております。
わたしは神さまのお役に立ちたいのです。
どうぞ、その道をお示しください。
神さまは必ずこの願いをお聞きとどけくださいます!
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先日、陰陽師の仕事もされている人から聞いた話しですが、
「お祈りの時に『カミサマ、社会のために何なりと私をお使いください』と言えば、カミサマは自分を社会のためにお使いになるので、丈夫な体にさせ続けてもらえます。そうしないとカミサマも困るからです。お祈りで自分だけの個人的なことを祈るのは、あまり意味がありませんよ。」
とおっしゃっていたことが、なんとなく分かる気がしました。


神社でも、「祈る=願う」というよりは、自分の使命(ミッション)を与えてくれる神さまの声に心の耳を澄ます時間なのだろうと思います。
そこで聞くカミサマの声は、誰の心にも吹いている風(プネウマ)として感じられるもの。

自分のプネウマを感じると言う事は、息も、風も、呼吸も、命も、心も、魂も、すべてを同時に感じるということ。
それがカミサマを感じる事だし、自分と出会う体験でもある。

そうして心のドアをノックして、ノックして、ノックし続けると(knockではなく、keep on knocking)、いづれその扉が開かれるのでしょう。




いい本でした。
目からうろこが何個も落ちまくりました。
勢いで、たくさん引用してしまいました。
正直、本書を読むほうが早いです。是非買って読んでください。本屋直行!!





おまけ。
巻末に書いてあった、山浦さんの新訳の対応表。


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<従来訳>→<新しい訳>
愛する→大事にする
命→幸せに活き活きと生きること、またその力
祈る→神さまのお声に心の耳を澄ます
永遠の命(ゾーエー・アイオーニオス)→いつでも明るく活き活き幸せに生きること
栄光→認められ、受け入れられ、ほめられた喜び
神の国→神さまのお取り仕切り
完全な者→できた者、おとな
義→(1)やさしさ、施し、(2)神さまのみ心を行う事、(3)正しさ
キリスト→お助けさま
悔い改める→心をスッパリ切り換える
心の貧しい人→頼りなく、望みなく、心細い人
ことば(ヨハネ一・一)→神さまの思い
幸い→幸せ
裁く→善し悪しを言う
至聖所→賢所(かしこどころ)
使徒→お使い人
信仰→神さまを力便りにすること、信頼すること
信仰の薄いもの→頼りにならないやつ
神殿→お宮
救い主→お助けさま
聖所→拝みの間
聖霊→神さまの息
洗礼→お水潜り
洗礼者ヨハネ→お水潜らせのヨハネ
正しい→(1)やさしい、(2)神さまのみ心を行なう、(3)正しい
近づいた→今まさにここにあり
天の国→神さまのお取り仕切り
柔和な人→意気地なし、甲斐性なし
福音→よき便り
復活→また立ち上がる
メシア→お助けさま
闇→人間の関心が専ら自己中心であること
預言→御言(みこと)語り
預言者→御言(みこと)持ち
律法→掟
律法学者→掟語り
わたしは命である→わたしは人を幸せに活き活き生かす
わたしは真理である→わたしは人が本当に幸せになるなり方を教える
わたしは復活である→わたしは人をまた元気に立ち上がらせる
わたしは道である→わたしは人を本当の幸せにみちびく
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勉強になりますねぇ。表現が分かりやすい!






山浦玄嗣講演会・上智大学 「そなだも おれも みんな 気仙衆」

山浦玄嗣講演会 上智大学100周年記念 2011/7/23「東日本大震災とどう向き合うか 被災地から見た3.11」

山浦玄嗣×伊藤比呂美「証言でつづる、もう一つのイエスの物語」-これがイェシューだ-

語りもいいですねぇ。
方言って、なんだかホンワリとホッコリとあったかいですね。