三菱一号館美術館の「カンディンスキーと青騎士展」は感動した。
ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky、1866~1944年)は、ロシア生まれの抽象絵画の創始者とされる画家。
カンディンスキーが抽象画にいたるまでの「流れ」がスッと入ってきた。
絵の下にある解説もとても丁寧で、カンディンスキーへの深い愛情や敬意が伝わってきた。
カンディンスキーの絵は、じっと時間をかけて丁寧に見ていると、自分の意識水準が徐々に落ちてくる。
起きていると寝ているのあいだのような意識レベルにもっていかれる。
ボーっとしてくるのだ。
そんな風に、人間が持っているイメージ(image)というものの根源を描いてると感じた。
⇒イメージに関しては『「イメージ」のちから』(2010-08-20)として書いたことがある。人間は、日々イメージに動かされながら生きているものだ。
どの絵も素晴らしくて、魅了された。
その中で、カンディンスキーの《<コンポジションⅦ>のための習作2》という絵があって、10分くらい見続けた。特にイメージを喚起された。
カンディンスキーは、僕らが日々営んでいる通常の意識世界(浅い層)ではなくて、無意識とか夢にきわめて近い、深い層からくるイメージ(image)の集合体を描いている。
だから、テレビや雑誌を見るような、日常の意識状態で見ても何がなんだかわからないんだと思う。
まるで眠りに落ちる直前のような意識状態まで、自分の「意識」をゆるくほどく感じ。
なにものにもとらわれない感じまで、ほどいていく。
そして、そのものを見る。
《<コンポジションⅦ>のための習作2》は、多彩なイメージの複合体だから、色んな風に読み解ける。
自分としては、右から時空を超え、時空を歪ませながら、羽の生えた天空をかけぬけた馬にのってくるひとがいる。
そして、その馬は、巨大な鳥に運ばれている。
そして、その鳥自体も、魚のような生き物、膜状の生き物のようなもの・・に入れ子状に包まれている。
そして、時空を超えて旅をしている。
左上には、ひも状の、くらげのような紐のような原始的な生命体のようなものが渾然一体と息づいていて、そんな生命のできる瞬間のような場所とも、時空を超えた存在は融合しようとしている。
そんな壮大な物語が、自分のイメージと呼応して溢れるように湧きあがってきた。
日々見ている「夢」。
それは、カンディンスキーがギリギリの意識水準で描き切った、色と形のimageの集合的なものだ。
その世界を、自分の意識の奥底に息づいているimageと呼応させて、「無意識」は自動的に物語をつくる。
そして、脳は親切にも「意味」をなんとかこしらえて、つけ加えて、人間が認識できる形に準備してくれる。
そんな巨大な複合体を、ぼくらは「夢」という形で、かろうじて認識しているんだと思う。
カンディンスキーは実物を見てさらに好きになった。
ポストカードはいつものように買ったけど、ポスターもマグカップも買ってしまった。
テレビや雑誌で配布される「カンディンスキー」のイメージは、多数へ向けた記号のようなものだ。
ほんものの絵と自分が向き合うと、そこでは自分とカンディンスキー本人との、一対一の関係になる。
そこは、あくまでも一対一の、ひととして対等の関係。
もし本物を見るような幸運に恵まれているのならば、本物を実際に見た方がいいのだと思う。
そういうことを、本物をみるたびに、思う。
ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky、1866~1944年)は、ロシア生まれの抽象絵画の創始者とされる画家。
カンディンスキーが抽象画にいたるまでの「流れ」がスッと入ってきた。
絵の下にある解説もとても丁寧で、カンディンスキーへの深い愛情や敬意が伝わってきた。
カンディンスキーの絵は、じっと時間をかけて丁寧に見ていると、自分の意識水準が徐々に落ちてくる。
起きていると寝ているのあいだのような意識レベルにもっていかれる。
ボーっとしてくるのだ。
そんな風に、人間が持っているイメージ(image)というものの根源を描いてると感じた。
⇒イメージに関しては『「イメージ」のちから』(2010-08-20)として書いたことがある。人間は、日々イメージに動かされながら生きているものだ。
どの絵も素晴らしくて、魅了された。
その中で、カンディンスキーの《<コンポジションⅦ>のための習作2》という絵があって、10分くらい見続けた。特にイメージを喚起された。
カンディンスキーは、僕らが日々営んでいる通常の意識世界(浅い層)ではなくて、無意識とか夢にきわめて近い、深い層からくるイメージ(image)の集合体を描いている。
だから、テレビや雑誌を見るような、日常の意識状態で見ても何がなんだかわからないんだと思う。
まるで眠りに落ちる直前のような意識状態まで、自分の「意識」をゆるくほどく感じ。
なにものにもとらわれない感じまで、ほどいていく。
そして、そのものを見る。
《<コンポジションⅦ>のための習作2》は、多彩なイメージの複合体だから、色んな風に読み解ける。
自分としては、右から時空を超え、時空を歪ませながら、羽の生えた天空をかけぬけた馬にのってくるひとがいる。
そして、その馬は、巨大な鳥に運ばれている。
そして、その鳥自体も、魚のような生き物、膜状の生き物のようなもの・・に入れ子状に包まれている。
そして、時空を超えて旅をしている。
左上には、ひも状の、くらげのような紐のような原始的な生命体のようなものが渾然一体と息づいていて、そんな生命のできる瞬間のような場所とも、時空を超えた存在は融合しようとしている。
そんな壮大な物語が、自分のイメージと呼応して溢れるように湧きあがってきた。
日々見ている「夢」。
それは、カンディンスキーがギリギリの意識水準で描き切った、色と形のimageの集合的なものだ。
その世界を、自分の意識の奥底に息づいているimageと呼応させて、「無意識」は自動的に物語をつくる。
そして、脳は親切にも「意味」をなんとかこしらえて、つけ加えて、人間が認識できる形に準備してくれる。
そんな巨大な複合体を、ぼくらは「夢」という形で、かろうじて認識しているんだと思う。
カンディンスキーは実物を見てさらに好きになった。
ポストカードはいつものように買ったけど、ポスターもマグカップも買ってしまった。
テレビや雑誌で配布される「カンディンスキー」のイメージは、多数へ向けた記号のようなものだ。
ほんものの絵と自分が向き合うと、そこでは自分とカンディンスキー本人との、一対一の関係になる。
そこは、あくまでも一対一の、ひととして対等の関係。
もし本物を見るような幸運に恵まれているのならば、本物を実際に見た方がいいのだと思う。
そういうことを、本物をみるたびに、思う。