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なんとなく、多田富雄先生の「免疫の意味論」(青土社)を再読している。
ときに、「なんとなく」に任せて本を読むようにしている。
そのために部屋の中に本を積んで置いているようなものだとも思う。
本の山から、何か湯気のようなものがモクモクと出ているのかもしれない。
でも、別に火事ではないので、心配はいりません。
「免疫の意味論」は1993年に出た本だけどまったく古びていない。
むしろ、いまだに斬新であり、新鮮だと思う。
学生当時読んだとき、かなりものすごいことを言っていることは直感したけれど、自分の頭脳がそこに追いついてなくて、よくわからなかった。
ただ、今読むと、頭にしみこんでくる。
医学のことを、ある程度はわかりやすく説明しなければいけない立場になったことで、その立場は見方を変え、自分の中へと入り込んでくる通路も変えているのだろう。
多田先生の言葉は、うつくしく論理的で、それでいて用語の使い方は厳密。そこに無駄なあいまいさはない。
底に流れる学問への厳しさや一途さも、ふと垣間見える。
だから、多田先生の語りが聞こえてくるようで、襟が正される感じがする。
(ちなみに、多田先生は脳梗塞の後遺症の末に、すでに亡くなられた故人の先生です。)
ウズラの脳をニワトリに移植すると、ニワトリの身体からは異物と認識されて、「精神的な自己」は排除されるという話が冒頭に出てくる。
この話は、いまだに新鮮で、かなり根本的な視点だと思う。
脳の優位性をおびやかす「事件」だ。
============
いわば精神的「自己self」を支配している脳が、もうひとつの「自己」を規定する免疫系によって、いともやすやすと「非自己not-self」として排除されてしまう事である。
つまり、身体的に「自己」を規定しているのは免疫系であって、脳ではないのである。
脳は免疫系を拒絶できないが、免疫系は脳を異物として拒絶したのである。
============
============
こうして、「自己」以外の森羅万象、すなわち「非自己」に対応できる反応性のレパートリーが、胸腺の中で選び出され送り出される。
個体はこのようにして、あらゆる「非自己」から隔絶された「自己」なるものを決定し、その全一性を保つ体制を作るのである。
============
============
地球上に存在さえしないものにも反応しうるという免疫系の「多様性」は、実はレパートリーをつくり出す過程におけるランダムネスに基づくのである。
============
============
免疫系というのはこのようにして、単一の細胞が分化する際、場に応じて多様化し、まずひとつの流動的なシステムを構成する事から始まる。
それから更に起こる多様化と機能獲得の際の決定因子は、まさしく「自己self」という場への適応である。
「自己self」に適応し、「自己self」に言及(refer)しながら、新たな「自己self」というシステムを作り出す。
・・・・
こうした「自己self」の変容に言及(refer)しながら、このシステムは終生自己組織化を続ける。
それが免疫系成立の原則である。
============
からだを守っている免疫というシステムを知ることを通して、そこからうっすらと何かが透けて見えてくる。
そのことを、こうしてブログに書いている。
内と外。
内界と外界。
みえないものと、みえるもの。
自己(self)と非自己(not-self)。
・・・・・・
日々は、そういう数個の世界の重なりあいや相互反応。
つねに融合と分離、つねに拡大と縮小、そして包容と排除の過程を延々と続けている。
それでいて、最終的には多様かつ普遍で、全にして一になるような気もする。
そうした言語的に矛盾する不可解な状態は、「体験」としてしかとらえにくいものだ。
読書も、そうした能動的な「体験」のひとつだろう。
ひとの内界には「免疫」というシステムが備わっている。
ひとの外界と内界はせめぎあいをしながら、人体いうひとつの宇宙(Universe、Cosmos)の調和を保っている。
免疫はネットワークであり、場であるから、とらえがたく、見えにくい。
ひとのからだの中で、免疫を担うリンパ球は全部で約2兆個あると言われている。重さにすると約1kgにも達する。
約2兆個のリンパ球がからだを守る。その中で、1日に100億程度、1秒では100万近く死んでいく。
それは同時に、おなじ数だけ生まれていることも意味する。
日々生活しているだけで、0.5%のリンパ球は新旧交代で入れ替わりながら、ひとつの自己(self)という場を保つ。
そうして、not-selfに対するselfを守り続ける。
ふと考えると、このことは免疫システムだけにかかわらず、人間の「こころ」や「たましい」の働きも同じようなものだと感じる。
日々、「自己self」の調和を保つために、せっせと働いているのだ。
ひとは、自分の中のなにものかによって、日々無条件に守られている。
ひとのこころは、常にうちに対するそとにさらけ出されている。
selfは、not-selfとの出会いの中で、たたかい、衝突し、融合し、そして新しい調和を生む。
そして生まれ変わり、全体としてのselfを保ちながら、あたらしいselfの平衡状態へとうつろってゆくのだ。
日々生きているだけで、免疫システムとう巨大な場が、外界からやってくる異物と静かに戦っている。
それは、自己selfというひとつの場を保つため。
病いや老いや死というかたちで、免疫という場の均衡や調和が崩れたとき、自分を守り続けている目に見えない場そのものが、はじめて意識される。
そのとき、はじめて「わたし」は「自己self」と出会う。
病いや老いや死、その他の色んな強い感情。
そういうものをきっかけにして、ぼくらは「自己self」の全体像と出会うことになる。
多田先生の言葉を借りるならば、
「自己self」に適応し、「自己self」に言及(refer)しながら、新たな「自己self」というシステムを作り出す。
そうして、自己は常に更新され、生まれ変わっている。
多田先生は、脳梗塞となり、言葉がしゃれなくなり、手足が動かせなくなった。
その中で、生きた。
多田先生は、能にたしなみ、芸術を愛し、文学を愛する、稀有な科学者だった。
多田先生が病床でうたった詩があって、それが自分の中に深く強く残っている。
多田富雄「新しい赦しの国」
『おれは新しい言語で
新しい土地のことを語ろう
むかし赦せなかったことを
百万遍でも赦そう
老いて病を得たものには
その意味がわかるだろう
未来は過去の映った鏡だ
過去とは未来の記憶に過ぎない
そしてこの宇宙とは
おれが引き当てた運命なのだ』
「歌占」(藤原書店)より
ときに、「なんとなく」に任せて本を読むようにしている。
そのために部屋の中に本を積んで置いているようなものだとも思う。
本の山から、何か湯気のようなものがモクモクと出ているのかもしれない。
でも、別に火事ではないので、心配はいりません。
「免疫の意味論」は1993年に出た本だけどまったく古びていない。
むしろ、いまだに斬新であり、新鮮だと思う。
学生当時読んだとき、かなりものすごいことを言っていることは直感したけれど、自分の頭脳がそこに追いついてなくて、よくわからなかった。
ただ、今読むと、頭にしみこんでくる。
医学のことを、ある程度はわかりやすく説明しなければいけない立場になったことで、その立場は見方を変え、自分の中へと入り込んでくる通路も変えているのだろう。
多田先生の言葉は、うつくしく論理的で、それでいて用語の使い方は厳密。そこに無駄なあいまいさはない。
底に流れる学問への厳しさや一途さも、ふと垣間見える。
だから、多田先生の語りが聞こえてくるようで、襟が正される感じがする。
(ちなみに、多田先生は脳梗塞の後遺症の末に、すでに亡くなられた故人の先生です。)
ウズラの脳をニワトリに移植すると、ニワトリの身体からは異物と認識されて、「精神的な自己」は排除されるという話が冒頭に出てくる。
この話は、いまだに新鮮で、かなり根本的な視点だと思う。
脳の優位性をおびやかす「事件」だ。
============
いわば精神的「自己self」を支配している脳が、もうひとつの「自己」を規定する免疫系によって、いともやすやすと「非自己not-self」として排除されてしまう事である。
つまり、身体的に「自己」を規定しているのは免疫系であって、脳ではないのである。
脳は免疫系を拒絶できないが、免疫系は脳を異物として拒絶したのである。
============
============
こうして、「自己」以外の森羅万象、すなわち「非自己」に対応できる反応性のレパートリーが、胸腺の中で選び出され送り出される。
個体はこのようにして、あらゆる「非自己」から隔絶された「自己」なるものを決定し、その全一性を保つ体制を作るのである。
============
============
地球上に存在さえしないものにも反応しうるという免疫系の「多様性」は、実はレパートリーをつくり出す過程におけるランダムネスに基づくのである。
============
============
免疫系というのはこのようにして、単一の細胞が分化する際、場に応じて多様化し、まずひとつの流動的なシステムを構成する事から始まる。
それから更に起こる多様化と機能獲得の際の決定因子は、まさしく「自己self」という場への適応である。
「自己self」に適応し、「自己self」に言及(refer)しながら、新たな「自己self」というシステムを作り出す。
・・・・
こうした「自己self」の変容に言及(refer)しながら、このシステムは終生自己組織化を続ける。
それが免疫系成立の原則である。
============
からだを守っている免疫というシステムを知ることを通して、そこからうっすらと何かが透けて見えてくる。
そのことを、こうしてブログに書いている。
内と外。
内界と外界。
みえないものと、みえるもの。
自己(self)と非自己(not-self)。
・・・・・・
日々は、そういう数個の世界の重なりあいや相互反応。
つねに融合と分離、つねに拡大と縮小、そして包容と排除の過程を延々と続けている。
それでいて、最終的には多様かつ普遍で、全にして一になるような気もする。
そうした言語的に矛盾する不可解な状態は、「体験」としてしかとらえにくいものだ。
読書も、そうした能動的な「体験」のひとつだろう。
ひとの内界には「免疫」というシステムが備わっている。
ひとの外界と内界はせめぎあいをしながら、人体いうひとつの宇宙(Universe、Cosmos)の調和を保っている。
免疫はネットワークであり、場であるから、とらえがたく、見えにくい。
ひとのからだの中で、免疫を担うリンパ球は全部で約2兆個あると言われている。重さにすると約1kgにも達する。
約2兆個のリンパ球がからだを守る。その中で、1日に100億程度、1秒では100万近く死んでいく。
それは同時に、おなじ数だけ生まれていることも意味する。
日々生活しているだけで、0.5%のリンパ球は新旧交代で入れ替わりながら、ひとつの自己(self)という場を保つ。
そうして、not-selfに対するselfを守り続ける。
ふと考えると、このことは免疫システムだけにかかわらず、人間の「こころ」や「たましい」の働きも同じようなものだと感じる。
日々、「自己self」の調和を保つために、せっせと働いているのだ。
ひとは、自分の中のなにものかによって、日々無条件に守られている。
ひとのこころは、常にうちに対するそとにさらけ出されている。
selfは、not-selfとの出会いの中で、たたかい、衝突し、融合し、そして新しい調和を生む。
そして生まれ変わり、全体としてのselfを保ちながら、あたらしいselfの平衡状態へとうつろってゆくのだ。
日々生きているだけで、免疫システムとう巨大な場が、外界からやってくる異物と静かに戦っている。
それは、自己selfというひとつの場を保つため。
病いや老いや死というかたちで、免疫という場の均衡や調和が崩れたとき、自分を守り続けている目に見えない場そのものが、はじめて意識される。
そのとき、はじめて「わたし」は「自己self」と出会う。
病いや老いや死、その他の色んな強い感情。
そういうものをきっかけにして、ぼくらは「自己self」の全体像と出会うことになる。
多田先生の言葉を借りるならば、
「自己self」に適応し、「自己self」に言及(refer)しながら、新たな「自己self」というシステムを作り出す。
そうして、自己は常に更新され、生まれ変わっている。
多田先生は、脳梗塞となり、言葉がしゃれなくなり、手足が動かせなくなった。
その中で、生きた。
多田先生は、能にたしなみ、芸術を愛し、文学を愛する、稀有な科学者だった。
多田先生が病床でうたった詩があって、それが自分の中に深く強く残っている。
多田富雄「新しい赦しの国」
『おれは新しい言語で
新しい土地のことを語ろう
むかし赦せなかったことを
百万遍でも赦そう
老いて病を得たものには
その意味がわかるだろう
未来は過去の映った鏡だ
過去とは未来の記憶に過ぎない
そしてこの宇宙とは
おれが引き当てた運命なのだ』
「歌占」(藤原書店)より
人間は科学によって信じられないほどの驚異を発見してきた。それは生命が長い歴史をかけて生み出した人類の成果である。しかし、人間の他者や自分に対する態度は大昔から変わっていないんですよね。人間がここに存在するのは当たり前で、ありふれたことだというように平然としている。そして、人間が互いに苦しめ合っているということも変わっていない。
人類は何かに欺かれているのだという気がします。脳も体のシステムに生かされているにすぎないのだとすると、そのシステムが脳を操る黒幕になるのでしょうか。それとも黒幕はDNAなのか。「言うは易く行なうは難し」ということは、頭(理性)で受け入れたことが本能に拒否されることではないでしょうか。科学と技術がこれほど進歩したのに、「行い」という点では変わっていないのはなぜか。本能を創っているものの正体を解明しなければならないでしょう。
2兆ってすごいですよね。
2兆って言えば一言で
2000000000000
なわけですから。
体内のミトコンドリアが10京個というのもすごい。
細胞自体が60000000000000(60兆)あるわけですからねぇ。
脳は、意識を生みだして考える臓器だから、脳がからだを支配しているという錯覚をおこしやすいだけで、ほんとうは莫大な生命体の集合が、ひとりのひとなのですよね。
僕は、医学や生物学を学べば学ぶほど、そんな生命や自然の神秘にノックダウンされます。
科学と、科学技術とは、やはり違うんですが、一般には混同して語られれやすいと感じますね。
科学技術は、電話でありパソコンであり電気であり・・・
そういうものを生み出しのが科学の思考。
思考という観念の産物として、科学技術からモノができたわけで。その中に原子力発電も、原爆もあります。
ここまでやってきたのに、人間の精神性や倫理は進んでいかないというのは、また不思議な気もしますね。
いまだに、人類は絶え間なく殺し合いをし続けているわけですから。
>科学と技術がこれほど進歩したのに、「行い」という点では変わっていないのはなぜか。
ほんとにそうですね。使ったり操ったりする行為の段階で、たいてい悲劇的なことが起きます。
原爆もそうでしょうし。
生命科学は、心理学とかと融合しながら、そういう人間の精神やたましいの奥底まで考えていくことになるのかもしれませんね。