小松左京の「ゴルディアスの結び目」ハルキ文庫(1998/4)を読みました。
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<内容紹介>
少女マリア・Kに取り憑いたのは悪魔なのか、それとも──。
彼女の精神の内部へ入り込んだサイコ・ダイバー伊藤が見たのは、おぞましい"闇"の世界だった!
解こうにも解けない人間の心の闇は、"もう一つ宇宙"への入り口なのかを問う表題作をはじめ、「岬にて」「すぺるむ・さぴえんすの冒険」「あなろぐ・らう゛」等、宇宙創造の真理に鋭く迫る"ゴルディアス四部作"を収録。(解説・小谷真理)
<内容(「BOOK」データベースより)>
荒涼たる山脈に建つ、アフドゥーム病院の一室。
“憑きもの”を宿した少女が寝台に縛られていた。
可憐な顔立ちとは裏腹に、鋭い牙や角がある。サイコ・デテクティヴの伊藤は“憑きもの”の謎を追い、少女の内に滲透して行くが…。
表題作他、破滅した地球を脱出し宇宙を彷徨う宇宙船の行方を描く「すぺるむ・さぴえんすの冒険」など、絶え間なく〈新生〉へと生まれ変わり続ける人類の旅をテーマにした傑作集。
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小松左京が面白い。
今の時代こそ、SFは読まれるべきだと思う。
人間の「イマジネーション」の世界は、右脳が作りだした世界でもあるけれど、それは作りだした「虚構」の世界であると同時にリアルな世界でもある。
リアルな世界とイマジネーションは、ねじれつつ、メビウスの輪でつながる。
仏教やインド哲学では、この世界はすべて幻想(虚構)としてしか認識できない、とする。それは人間が持つ特性によるのだろう。
むしろ、ダイレクトにこの世界を認識することが、カルマからの解脱(この世からの卒業)とするくらい、難しいことなのだ。
だからこそ、僕らが感じるリアルとアンリアルは、視点や観点の違いだけで、同じものの別の形式の表現なのだと思う。
「夢」の世界も、脳が作りだした「虚構(仮想現実)」と考えることもできるけれど、通常と異なる「自分」が体験している別の世界と考えることもできる。
シュタイナーなどによれば、アストラル体という精妙な身体が経験しているとする。この概念は、夢や臨死体験や死やイマジネーションを考えるときに、強力な補助線になる。
そういわけで、SF世界を、パラレルワールドや存在する別のリアルな世界と考えると、学ぶことは多い。
亡くなられたSFの巨匠小松左京は、宇宙、物理、宗教、文学、神話、・・・・あらゆる知識をSF世界という巨大な世界観の中に溶け込ませている巨人。
発想や視点を変えてみる中にこそ、現実を解決する重要な鍵が含まれている事があるだろう。
この本は、
「岬にて」
「ゴルディアスの結び目」
「すぺるむ・さぴえんすの冒険」
「あなろぐ・らう゛」
の4つの作品からなる。
■■■「岬にて」
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●「岬にて」
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クワン師は、その岩棚上のほとんど突端に近い所に、色あせたキャンバスのクッションを置き、荒い茶色の毛布をまとって、沖に向かって結跏趺坐し、瞑目していた。
「ここは宇宙が一番よく見えるでな。」
・・・・・・
「ここからは地球の姿もよく見える・・・」
「こういう場所は、さがせば世界の中にいくらでもある。 私はこの島に年を取りに来た。」
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「ここは、何度も言うように、地球から宇宙へ向かって突き出した岬だ。
地球という船の舳(へさき)の一つなんだ。
宇宙と、その時の流れが自分の中を貫いていくのが感じられ、自分が宇宙の微塵の一つに過ぎず、しかも微塵であってなお宇宙の一員として宇宙と同じ変化を生きていることが感じられる。」
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「私たちは年をとりにこの島に来た。あのごたごたした文明の中では、人間は“老人”にさえなれん。」
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「私たちは老人の未来を取り戻しにこの島へ‐‐“岬”へ来た・・。」
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→この章では、隔絶された「島」に集う人たちの語りが展開されていきます。
岬は「御先(みさき)」とも書き、異界との接点とも考えられている。
「老いる」ために岬に来るクワン師。
地球という球体を宇宙に浮かぶ一艘の船と見たとき、岬は宇宙船地球号の先頭(舳(へさき))の場所。
そこでクワン師は瞑想をし、身体から「意識(第二の身体)」を抜け出すことで、宇宙から地球という一艘の船を見ている。
人間は、自然な形で<生老病死>のプロセスを経ることが難しくなっている。
都市世界のように自然のリズムと隔離されてしまうと、自然のプロセスである「老い」を経験することが困難になる。
アンチエイジングや美容を唄うあらゆるものは、過去人類が追求した不老不死、錬金術、練丹術・・・の現代版の再現のようなものだろう。
能での「翁」の存在を、人間の完成した姿として、「カミ」として尊敬した時代があったのだと思う。それは、<生老病死>という人間のステップを経てきたことへの敬意も意味する。
人間は誰もが生きる自由を与えられていると同時に、常に死ぬ自由も与えられている。
いつ自殺するのも自由だ、という恐ろしい自由意志さえ与えられている。
だからこそ、人間は「生きている」「生き続けている」ということそのものが、既に尊い。
人間が、地位や名誉や善悪ではなく、<とにかく生き続けた>ことへの称号として「翁」という存在があるのだと、思う。
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「近代物理学で言っている宇宙ではないよ。宇宙のイメージだ。
物理学はイメージをつくる手段の一つにすぎん・・。
問題になるのは、その中に自分が含まれ、自分の中を貫いて流れていくことを感じさせてくれる宇宙だ。
人間が古代から、まだ文明もきずけあげぬころから野獣や鳥たちと一緒に感じていたあの宇宙だ。
生まれ、生き、人生をきずいた上で、さらにその先に年をとって死んでいくには、宇宙の一番よく見えるところで、毎日それを眺め、呼吸しなくてはならん。
幸福な死にかたというものは、突然死ぬことではなくて、次第次第に地上の存在を消していき、透明になって宇宙の中へ消えてゆくことだ。」
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→
家の近くに「根津の谷」というよく行く店がある。1978年創業の自然食品店&玄米菜食レストラン。
そこのお店の人と話していると、盛んに「宇宙」という言葉が出てくる。
「一つの食材には一つの宇宙がある」「食材が育つ土壌には、微生物の宇宙がある」・・・と。
この方々が伝える宇宙は、現代物理学が説くような物理的な客観的宇宙ではなく、個々人がイメージ世界で持つ主観的宇宙。それは宇宙のイメージでありシンボルを意味する。
僕らは客観的な知識だけに振り回されるのではなく、各々の想像世界に浮かんでくる主観的な宇宙のイメージを大切にし、その宇宙とつながった生き方をして行く必要があると思う。
なぜなら、宇宙こそは自分たちが生きている「場」そのものだから。
自分を育む「場」から切り離して考えることは、本来的にできない。土から切り離された植物が弱くなるのと同じ。宇宙や地球という「場」と切り離されると人間も弱くなる。枯れる。
そういう風に「宇宙」をとらえれば、肉体が死ぬことは、場として存在している宇宙の中へ戻ることだと考えることも出来る。人間が持つ死への恐れは強いものだけれど、そういう恐れがなくなると、人間が本来持っていた生命エネルギーを発動できるのではないか、と思う。
■■■「すぺるむ・さぴえんすの冒険」
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●「すぺるむ・さぴえんすの冒険」
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「この“杜氏春命題”の逆説が、“捨身飼虎命題”になります。
仏陀が重症の虎を救い、体力の回復にともなって、血を飲ませ、腕を食わせ、ついに自分の全身を食べさせて猛獣を救うとう話ですね。
これは相当高級でスフィスティケートされた命題です。
しかし、これはいずれも、個人の“自己犠牲命題”で、“他者犠牲命題”ではありません。
まして、“一対多”の条件項を含んだ他者犠牲の問題など、ほとんどないと言っていいようです。」
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「最終的には、人間は宇宙を巨大な比喩(メタファー)として、人間的な意味を付与されたイメージとして提示する以外に、宇宙との間に“決着”をつけられないんやないですかね。」
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→
宇宙的知性とスーパーコンピューター(機械的知性)と人間の知性との対話。
人間を、宇宙という巨大なパースペクティブでとらえた時、どういう風に捉えなおす事ができるのか。
地球に存在する「ヒト」という一つの種にすぎないことを感じると、人類は存在する数多の生き物ともう少し調和的に生きないといけないと、思う。
■■■「あなろぐ・らう゛」
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●「あなろぐ・らう゛」
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そう、この娘も、いつかは年をとり、しわ深くなり、腰もまがり、老い朽ちていくでしょう。
しかし、その生命の育って行くある時期、かほどにまで美しく、可憐であり、愛に満たされ、愛に輝いていた、という事実は消す事ができません。
宇宙がこのあと何百億年か先にほろんでも、その宇宙の歴史の中で、たとえ須臾(しゅゆ)の間にしかすぎにないにしろ、「知性体」の意識の映し出す世界に、まぎれもなく「美的感動」というものが成立した、という事実は
・・・それはすくなくとも「この宇宙」における「全宇宙史」の中にきざみこまれ、永遠に消えることはありません。
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→
この作品でも、宇宙という視点での女性性が語られる。
一般的な性ではなく、聖なる結婚をする「聖婚」の世界。
「聖婚」では、シンボルとしての男性性や女性性が、陰と陽とが合一する。
このことは、村上春樹の作品にも多く出てくる。僕らは「性」というものをかなり誤解しているが、性はもっと神秘的で宗教的で根源的な行為なのだと思う。だからこそ、そこに溺れる人がいるくらい。
■■■「ゴルディアスの結び目」
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●「ゴルディアスの結び目」
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「“憑きもの”というやつの大部分は・・ある特定社会の“型”とずっと奥の方でつながっています。
ですから、その“型”を支えるものなしで、つまり人目のない所で“憑かれた”症状を起こすケースはめったにありません。ほとんどの場合は観客が必要なんです。
そうなると、症状を完全に除去しようと思えば、ある地域集団全体の、意識下の改革を行わなければならない。そんな事はとてもできませんからね。
で、“憑きもの”の凶暴性、邪悪さ、というものを慰撫して、周囲との融和を図る。
つまり、おとなしい憑きもの、できるだけ愛すべき憑きものに変えるわけです。
‐‐そのためには周囲の恐怖心をとりのぞかなければなりません。
もし“愛すべきいたずらものの霊”のイメージがその地域文化の伝説や神話の中にあれば、それと入れ替えます。」
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「人間の体の遺伝情報は不思議なものでね・・・。
犬歯を伸ばす情報はストックされているが、それが歴史的に“発現”を抑えられているんですね・・。
何かの機会にそのおさえているブレーキがはずれると、異常成長するんだと思います。」
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→
この「ゴルディアスの結び目」という短編が、この本のメイン。確かにすごい作品です。震えあがりました。
少女マリア・Kに取り憑いた悪魔に対して、精神分析医である伊藤が深層心理での悪魔払いを行う。そこで描く心の深遠の世界は圧倒的だった。
悪魔払いと言うと呪術的で前近代的な世界のようだが、今のバチカンでも、法王公認のエクソシストがいる。その仕事は今でも現に存在している。
ジャーナリストであるトレイシー ウイルキンソンの「バチカン・エクソシスト」(文春文庫)に詳しい。
アンソニー・ホプキンス監督で「ザ・ライト エクソシストの真実」という映画もある。
「愛の宇宙方程式」を書いた物理学者で合気道師範の保江邦夫先生も、留学先で実際の職業的エクソシストと話した内容にも触れられている。
それはともかく。
人間の精神というのは奥深い。それは臨床現場で見ていても日々痛感する。
何かのショックや逃避の結果として、肉体だけの「入れもの」となった人間に、何かが入り込むことがある。それは「悪魔」のこともあれば「カミ」のこともある。「キツネ」のこともある。
いづれも、人間を遥かに超えた「神々の世界の住人」と言われる存在たちのようだ。
村上春樹さんの「海辺のカフカ」でも、現代版悪魔つきのような物語が進行していく。
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ナカタさん
「空っぽということは、空き家と同じなのです。
鍵がかかっていない空き家と同じなのです。
入るつもりになれば、なんだって誰だって、自由にそこに入ってこられます。
ナカタはそれがとても恐ろしいのです。」
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(→舞台版「海辺のカフカ」(2012-05-04))
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●「ゴルディアスの結び目」
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「彼女を・・・あの何か得体のしれないものから引き離し・・正常さを取り戻させ・・・魂というものはどんなにすさまじい傷を受けていても、癒える事があります。
そして魂が癒えるという事は・・・これは“秘蹟”です。
・・その“秘蹟”に期待するほかありませんが、しかし、私はやってみます。」
「君の口から“秘蹟(サクラメント:the Sacrament)”という言葉を聞こうとは思わなかったな。」院長は皮肉な調子で言った。
「君にそんな宗教心があろうとは思わなかった・・。」
「ですが、彼女にとりついているあの憑きものの引き起こしている常識を越えた現象も、言わば“悪魔の秘蹟”じゃありませんか」
と伊藤は言った。「光明の“秘蹟”がないはずはありません・・・。」
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マリア・・・と、彼はしずかに近付きながらささやきかけた。
過去を見るな。未来を見るのだ。君は若く美しい。健康だってすぐ取り戻せる。
ふりかえるな・・・、君にはまだ未来があるのだ・・。
光を見ようとさえ思えば、光があふれてくる未来がある。
・・・傷の痛みを忘れるためにも・・光を見ようと意志するんだ・・。
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→「秘蹟(サクラメント:the Sacrament)」は、重要な概念だと思う。
人間が、人生の中で一回だけ「奇跡(Miracle)」、「秘蹟(the Sacrament)」を起こせるとしたら何を起こすのか。
おそらく、人間の「純粋な思い」というのが結晶化すると、そういう奇跡や秘蹟を起こす力がある。だから、「引き寄せの法則」というのが存在する。
だからこそ、自分の中にある純粋で尊いものを、大切にしなければいけない。
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その沼の向こうは、もはや「マリアの心の中」とは別の世界であり、その橋がその世界への通路になっている事を彼は直感的に悟っていた。
沼の向こうは不気味に黒くしずまりかえっているように見えたが、その森の中や奇妙な城郭のあちこちには、傷つけられた清純な娘が痛みのあまりの激しさに呼び出しつなげてしまった、もろもろの歴史的な怨念、邪悪なもの醜怪なものが、無数にひそみ、うようよと蠢きながら、こちらをうかがっているのが、はっきり感じられるのだった。
そして、マリアもまた、その橋を渡った彼方の世界にいて、その一員となっていた。
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気がつくと、水面に自分の姿がまっさかさまにうつっていた。
そしてそこから先は、水面に映った彼の「影」が、意識の主体となって、沼の底からそろそろと、向こう岸へはいのぼっていくのだった。
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「人間の心の傷、かたくむすぼれた魂を、すべてときほぐし、いやす事ができる、と思うのは、これは傲慢というものではないかな?」
とクビチェック院長はいらだたしげに口髭をこすった。
「君の信念はまちがっているとは言わんが、あまりに若く、理想主義的で楽観的だよ、伊藤・・・。
傷やむすぼれが、ある程度以上になると。もはや完全に癒す事も、ときほぐすこともできなくなるんだ。‐‐ゴルディアスの結び目のように・・。」
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「釈迦がヒンズー世界の認識をバックにして紀元前6世紀に考えた“宇宙=世界=生命=人間観”は、東アジア人のこの世界に関する基本的表象に、深い影響を与えている。
だが、それは一つの見方にすぎん。
もう一つ、アーリア系の宗教にはゾロアスター教からマケイニズムに至るまで、“光”と“闇”、“善”と“悪”はそれぞれ同じものから分かれた、異なる同等の“本質”で、それぞれは固有の存在を主張しつつ、相手を打ち倒して、“究極の勝利”を打ち立てようと激しく争っている、とする二元論が根強く存在する。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教も、一方の“光明”“善”“絶対神”の予定され、運命づけられた勝利、という形で一神教の形をとりながら、なおこの二元論的宇宙観の影響下にある」
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→
「影」は、自分のもう一つの側面だ。誰もが清濁併せ持つ。
ユングも河合先生も、「影との対決」は命をかけるほど大変なものだが、人生の中でいづれは向き合わないといけない問題だと言う。
そんな「影との対決」を表現する小松左京の表現の的確さに、舌を巻いた。
人間の心の深さをここまで正確に冷静に記述できる人はなかなかいない。村上春樹さんを思い出したほどだ(二人とも同じ神戸出身だし、出版社もハルキ文庫だったりして・・・)。
・・・・・・・・・
「ゴルディアスの結び目」という言葉がどういう事象を意味するのか。巻末の小谷さんの解説に分かりやすく書いてあります。
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<解説 小谷真理>
アレクサンドロスの伝説には、結び目の解き方そのものに、意外な発想法がありえることを指し示す。
つまり、ひとつの現象を解き明かすのに、既存の思考法によるたったひとつの答えのみがあるのではなく、複数の次元から問題を解き明かす可能性がひそんでいることを例証するエピソード、それが「ゴルディアスの結び目(Gordian Knot)」の語源である。
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こういう「ゴルディアスの結び目(Gordian Knot)」の視点は、常に求められていると思う。
何か問題解決が滞った時、最終的には力で解決してしまう場面が出てくる。
ただ、智慧というのはそういう時にこそ発揮されるものだろう。
同じ次元では相矛盾するものも、一つ上の次元から見れば矛盾しつつ同居することができる。
そういう意識の転換、意識の変換のきっかけとして、「ゴルディアスの結び目(Gordian Knot)」を思いだせばいい。
「解決できない」と思っているのは大抵「思い込み」であり、「サンカーラ」のようなもの。つくられたものでしかない。
そういう仮想的な行き止まり(デッドエンド)に出会ったときは、「ゴルディアスの結び目(Gordian Knot)」を解くように、意識の舵を取り、一つ上の階層に上がる。
宇宙から地球を見ると青い一つの惑星がただ存在しているように、意識の次元をひとつ上げれば大抵の物事は解決できる。
むしろ、自分がその問題を受け入れられるかどうか、という問題に過ぎない事が多い。
そういうサインはこの世で無数に発信されている。
いかにしてそのサインを受信し、コードを解読し、変換し、次元を一つ上げ、「ゴルディアスの結び目(Gordian Knot)」を解いていくのか、それは人類が宇宙から与えられた宿題のようなものだろう。その宿題を解かないと、永久に地球学校、宇宙学校は卒業できず、再履修されてしまうのだと、思う。いじけて不良に走ってもしょうがない。そろそろ大人になって、本気で宿題にとりかかる時期なのだと、思う。
・・・・・・・・・・
小松左京は、そういう宇宙的な視点で人間を見る視点を与えてくれる偉大な作家です。
今こそ、読まれるべき作家なのだと、思います。
1970年に開催された日本万博では、岡本太郎が「太陽の塔」を立てた。全体の総合的な構想は小松左京だった。
(我が書斎に鎮座する太陽の塔)
岡本太郎は万博のメインテーマ「人類の進歩と調和」に真向から反対した。
「人類は縄文時代から進歩どころか退化しているじゃないか。そして、譲り合い、自分の個性を殺しあう「調和」など愚かなことだ」という想いを太陽の塔に託した。
小松左京や岡本太郎が僕らの世代に残した宿題を、そろそろ本格的に解き始める時代に来ていると思う。
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<内容紹介>
少女マリア・Kに取り憑いたのは悪魔なのか、それとも──。
彼女の精神の内部へ入り込んだサイコ・ダイバー伊藤が見たのは、おぞましい"闇"の世界だった!
解こうにも解けない人間の心の闇は、"もう一つ宇宙"への入り口なのかを問う表題作をはじめ、「岬にて」「すぺるむ・さぴえんすの冒険」「あなろぐ・らう゛」等、宇宙創造の真理に鋭く迫る"ゴルディアス四部作"を収録。(解説・小谷真理)
<内容(「BOOK」データベースより)>
荒涼たる山脈に建つ、アフドゥーム病院の一室。
“憑きもの”を宿した少女が寝台に縛られていた。
可憐な顔立ちとは裏腹に、鋭い牙や角がある。サイコ・デテクティヴの伊藤は“憑きもの”の謎を追い、少女の内に滲透して行くが…。
表題作他、破滅した地球を脱出し宇宙を彷徨う宇宙船の行方を描く「すぺるむ・さぴえんすの冒険」など、絶え間なく〈新生〉へと生まれ変わり続ける人類の旅をテーマにした傑作集。
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小松左京が面白い。
今の時代こそ、SFは読まれるべきだと思う。
人間の「イマジネーション」の世界は、右脳が作りだした世界でもあるけれど、それは作りだした「虚構」の世界であると同時にリアルな世界でもある。
リアルな世界とイマジネーションは、ねじれつつ、メビウスの輪でつながる。
仏教やインド哲学では、この世界はすべて幻想(虚構)としてしか認識できない、とする。それは人間が持つ特性によるのだろう。
むしろ、ダイレクトにこの世界を認識することが、カルマからの解脱(この世からの卒業)とするくらい、難しいことなのだ。
だからこそ、僕らが感じるリアルとアンリアルは、視点や観点の違いだけで、同じものの別の形式の表現なのだと思う。
「夢」の世界も、脳が作りだした「虚構(仮想現実)」と考えることもできるけれど、通常と異なる「自分」が体験している別の世界と考えることもできる。
シュタイナーなどによれば、アストラル体という精妙な身体が経験しているとする。この概念は、夢や臨死体験や死やイマジネーションを考えるときに、強力な補助線になる。
そういわけで、SF世界を、パラレルワールドや存在する別のリアルな世界と考えると、学ぶことは多い。
亡くなられたSFの巨匠小松左京は、宇宙、物理、宗教、文学、神話、・・・・あらゆる知識をSF世界という巨大な世界観の中に溶け込ませている巨人。
発想や視点を変えてみる中にこそ、現実を解決する重要な鍵が含まれている事があるだろう。
この本は、
「岬にて」
「ゴルディアスの結び目」
「すぺるむ・さぴえんすの冒険」
「あなろぐ・らう゛」
の4つの作品からなる。
■■■「岬にて」
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●「岬にて」
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クワン師は、その岩棚上のほとんど突端に近い所に、色あせたキャンバスのクッションを置き、荒い茶色の毛布をまとって、沖に向かって結跏趺坐し、瞑目していた。
「ここは宇宙が一番よく見えるでな。」
・・・・・・
「ここからは地球の姿もよく見える・・・」
「こういう場所は、さがせば世界の中にいくらでもある。 私はこの島に年を取りに来た。」
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「ここは、何度も言うように、地球から宇宙へ向かって突き出した岬だ。
地球という船の舳(へさき)の一つなんだ。
宇宙と、その時の流れが自分の中を貫いていくのが感じられ、自分が宇宙の微塵の一つに過ぎず、しかも微塵であってなお宇宙の一員として宇宙と同じ変化を生きていることが感じられる。」
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「私たちは年をとりにこの島に来た。あのごたごたした文明の中では、人間は“老人”にさえなれん。」
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「私たちは老人の未来を取り戻しにこの島へ‐‐“岬”へ来た・・。」
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→この章では、隔絶された「島」に集う人たちの語りが展開されていきます。
岬は「御先(みさき)」とも書き、異界との接点とも考えられている。
「老いる」ために岬に来るクワン師。
地球という球体を宇宙に浮かぶ一艘の船と見たとき、岬は宇宙船地球号の先頭(舳(へさき))の場所。
そこでクワン師は瞑想をし、身体から「意識(第二の身体)」を抜け出すことで、宇宙から地球という一艘の船を見ている。
人間は、自然な形で<生老病死>のプロセスを経ることが難しくなっている。
都市世界のように自然のリズムと隔離されてしまうと、自然のプロセスである「老い」を経験することが困難になる。
アンチエイジングや美容を唄うあらゆるものは、過去人類が追求した不老不死、錬金術、練丹術・・・の現代版の再現のようなものだろう。
能での「翁」の存在を、人間の完成した姿として、「カミ」として尊敬した時代があったのだと思う。それは、<生老病死>という人間のステップを経てきたことへの敬意も意味する。
人間は誰もが生きる自由を与えられていると同時に、常に死ぬ自由も与えられている。
いつ自殺するのも自由だ、という恐ろしい自由意志さえ与えられている。
だからこそ、人間は「生きている」「生き続けている」ということそのものが、既に尊い。
人間が、地位や名誉や善悪ではなく、<とにかく生き続けた>ことへの称号として「翁」という存在があるのだと、思う。
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「近代物理学で言っている宇宙ではないよ。宇宙のイメージだ。
物理学はイメージをつくる手段の一つにすぎん・・。
問題になるのは、その中に自分が含まれ、自分の中を貫いて流れていくことを感じさせてくれる宇宙だ。
人間が古代から、まだ文明もきずけあげぬころから野獣や鳥たちと一緒に感じていたあの宇宙だ。
生まれ、生き、人生をきずいた上で、さらにその先に年をとって死んでいくには、宇宙の一番よく見えるところで、毎日それを眺め、呼吸しなくてはならん。
幸福な死にかたというものは、突然死ぬことではなくて、次第次第に地上の存在を消していき、透明になって宇宙の中へ消えてゆくことだ。」
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家の近くに「根津の谷」というよく行く店がある。1978年創業の自然食品店&玄米菜食レストラン。
そこのお店の人と話していると、盛んに「宇宙」という言葉が出てくる。
「一つの食材には一つの宇宙がある」「食材が育つ土壌には、微生物の宇宙がある」・・・と。
この方々が伝える宇宙は、現代物理学が説くような物理的な客観的宇宙ではなく、個々人がイメージ世界で持つ主観的宇宙。それは宇宙のイメージでありシンボルを意味する。
僕らは客観的な知識だけに振り回されるのではなく、各々の想像世界に浮かんでくる主観的な宇宙のイメージを大切にし、その宇宙とつながった生き方をして行く必要があると思う。
なぜなら、宇宙こそは自分たちが生きている「場」そのものだから。
自分を育む「場」から切り離して考えることは、本来的にできない。土から切り離された植物が弱くなるのと同じ。宇宙や地球という「場」と切り離されると人間も弱くなる。枯れる。
そういう風に「宇宙」をとらえれば、肉体が死ぬことは、場として存在している宇宙の中へ戻ることだと考えることも出来る。人間が持つ死への恐れは強いものだけれど、そういう恐れがなくなると、人間が本来持っていた生命エネルギーを発動できるのではないか、と思う。
■■■「すぺるむ・さぴえんすの冒険」
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●「すぺるむ・さぴえんすの冒険」
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「この“杜氏春命題”の逆説が、“捨身飼虎命題”になります。
仏陀が重症の虎を救い、体力の回復にともなって、血を飲ませ、腕を食わせ、ついに自分の全身を食べさせて猛獣を救うとう話ですね。
これは相当高級でスフィスティケートされた命題です。
しかし、これはいずれも、個人の“自己犠牲命題”で、“他者犠牲命題”ではありません。
まして、“一対多”の条件項を含んだ他者犠牲の問題など、ほとんどないと言っていいようです。」
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「最終的には、人間は宇宙を巨大な比喩(メタファー)として、人間的な意味を付与されたイメージとして提示する以外に、宇宙との間に“決着”をつけられないんやないですかね。」
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宇宙的知性とスーパーコンピューター(機械的知性)と人間の知性との対話。
人間を、宇宙という巨大なパースペクティブでとらえた時、どういう風に捉えなおす事ができるのか。
地球に存在する「ヒト」という一つの種にすぎないことを感じると、人類は存在する数多の生き物ともう少し調和的に生きないといけないと、思う。
■■■「あなろぐ・らう゛」
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●「あなろぐ・らう゛」
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そう、この娘も、いつかは年をとり、しわ深くなり、腰もまがり、老い朽ちていくでしょう。
しかし、その生命の育って行くある時期、かほどにまで美しく、可憐であり、愛に満たされ、愛に輝いていた、という事実は消す事ができません。
宇宙がこのあと何百億年か先にほろんでも、その宇宙の歴史の中で、たとえ須臾(しゅゆ)の間にしかすぎにないにしろ、「知性体」の意識の映し出す世界に、まぎれもなく「美的感動」というものが成立した、という事実は
・・・それはすくなくとも「この宇宙」における「全宇宙史」の中にきざみこまれ、永遠に消えることはありません。
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この作品でも、宇宙という視点での女性性が語られる。
一般的な性ではなく、聖なる結婚をする「聖婚」の世界。
「聖婚」では、シンボルとしての男性性や女性性が、陰と陽とが合一する。
このことは、村上春樹の作品にも多く出てくる。僕らは「性」というものをかなり誤解しているが、性はもっと神秘的で宗教的で根源的な行為なのだと思う。だからこそ、そこに溺れる人がいるくらい。
■■■「ゴルディアスの結び目」
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●「ゴルディアスの結び目」
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「“憑きもの”というやつの大部分は・・ある特定社会の“型”とずっと奥の方でつながっています。
ですから、その“型”を支えるものなしで、つまり人目のない所で“憑かれた”症状を起こすケースはめったにありません。ほとんどの場合は観客が必要なんです。
そうなると、症状を完全に除去しようと思えば、ある地域集団全体の、意識下の改革を行わなければならない。そんな事はとてもできませんからね。
で、“憑きもの”の凶暴性、邪悪さ、というものを慰撫して、周囲との融和を図る。
つまり、おとなしい憑きもの、できるだけ愛すべき憑きものに変えるわけです。
‐‐そのためには周囲の恐怖心をとりのぞかなければなりません。
もし“愛すべきいたずらものの霊”のイメージがその地域文化の伝説や神話の中にあれば、それと入れ替えます。」
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「人間の体の遺伝情報は不思議なものでね・・・。
犬歯を伸ばす情報はストックされているが、それが歴史的に“発現”を抑えられているんですね・・。
何かの機会にそのおさえているブレーキがはずれると、異常成長するんだと思います。」
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この「ゴルディアスの結び目」という短編が、この本のメイン。確かにすごい作品です。震えあがりました。
少女マリア・Kに取り憑いた悪魔に対して、精神分析医である伊藤が深層心理での悪魔払いを行う。そこで描く心の深遠の世界は圧倒的だった。
悪魔払いと言うと呪術的で前近代的な世界のようだが、今のバチカンでも、法王公認のエクソシストがいる。その仕事は今でも現に存在している。
ジャーナリストであるトレイシー ウイルキンソンの「バチカン・エクソシスト」(文春文庫)に詳しい。
アンソニー・ホプキンス監督で「ザ・ライト エクソシストの真実」という映画もある。
「愛の宇宙方程式」を書いた物理学者で合気道師範の保江邦夫先生も、留学先で実際の職業的エクソシストと話した内容にも触れられている。
それはともかく。
人間の精神というのは奥深い。それは臨床現場で見ていても日々痛感する。
何かのショックや逃避の結果として、肉体だけの「入れもの」となった人間に、何かが入り込むことがある。それは「悪魔」のこともあれば「カミ」のこともある。「キツネ」のこともある。
いづれも、人間を遥かに超えた「神々の世界の住人」と言われる存在たちのようだ。
村上春樹さんの「海辺のカフカ」でも、現代版悪魔つきのような物語が進行していく。
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ナカタさん
「空っぽということは、空き家と同じなのです。
鍵がかかっていない空き家と同じなのです。
入るつもりになれば、なんだって誰だって、自由にそこに入ってこられます。
ナカタはそれがとても恐ろしいのです。」
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(→舞台版「海辺のカフカ」(2012-05-04))
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●「ゴルディアスの結び目」
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「彼女を・・・あの何か得体のしれないものから引き離し・・正常さを取り戻させ・・・魂というものはどんなにすさまじい傷を受けていても、癒える事があります。
そして魂が癒えるという事は・・・これは“秘蹟”です。
・・その“秘蹟”に期待するほかありませんが、しかし、私はやってみます。」
「君の口から“秘蹟(サクラメント:the Sacrament)”という言葉を聞こうとは思わなかったな。」院長は皮肉な調子で言った。
「君にそんな宗教心があろうとは思わなかった・・。」
「ですが、彼女にとりついているあの憑きものの引き起こしている常識を越えた現象も、言わば“悪魔の秘蹟”じゃありませんか」
と伊藤は言った。「光明の“秘蹟”がないはずはありません・・・。」
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マリア・・・と、彼はしずかに近付きながらささやきかけた。
過去を見るな。未来を見るのだ。君は若く美しい。健康だってすぐ取り戻せる。
ふりかえるな・・・、君にはまだ未来があるのだ・・。
光を見ようとさえ思えば、光があふれてくる未来がある。
・・・傷の痛みを忘れるためにも・・光を見ようと意志するんだ・・。
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→「秘蹟(サクラメント:the Sacrament)」は、重要な概念だと思う。
人間が、人生の中で一回だけ「奇跡(Miracle)」、「秘蹟(the Sacrament)」を起こせるとしたら何を起こすのか。
おそらく、人間の「純粋な思い」というのが結晶化すると、そういう奇跡や秘蹟を起こす力がある。だから、「引き寄せの法則」というのが存在する。
だからこそ、自分の中にある純粋で尊いものを、大切にしなければいけない。
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その沼の向こうは、もはや「マリアの心の中」とは別の世界であり、その橋がその世界への通路になっている事を彼は直感的に悟っていた。
沼の向こうは不気味に黒くしずまりかえっているように見えたが、その森の中や奇妙な城郭のあちこちには、傷つけられた清純な娘が痛みのあまりの激しさに呼び出しつなげてしまった、もろもろの歴史的な怨念、邪悪なもの醜怪なものが、無数にひそみ、うようよと蠢きながら、こちらをうかがっているのが、はっきり感じられるのだった。
そして、マリアもまた、その橋を渡った彼方の世界にいて、その一員となっていた。
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気がつくと、水面に自分の姿がまっさかさまにうつっていた。
そしてそこから先は、水面に映った彼の「影」が、意識の主体となって、沼の底からそろそろと、向こう岸へはいのぼっていくのだった。
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「人間の心の傷、かたくむすぼれた魂を、すべてときほぐし、いやす事ができる、と思うのは、これは傲慢というものではないかな?」
とクビチェック院長はいらだたしげに口髭をこすった。
「君の信念はまちがっているとは言わんが、あまりに若く、理想主義的で楽観的だよ、伊藤・・・。
傷やむすぼれが、ある程度以上になると。もはや完全に癒す事も、ときほぐすこともできなくなるんだ。‐‐ゴルディアスの結び目のように・・。」
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「釈迦がヒンズー世界の認識をバックにして紀元前6世紀に考えた“宇宙=世界=生命=人間観”は、東アジア人のこの世界に関する基本的表象に、深い影響を与えている。
だが、それは一つの見方にすぎん。
もう一つ、アーリア系の宗教にはゾロアスター教からマケイニズムに至るまで、“光”と“闇”、“善”と“悪”はそれぞれ同じものから分かれた、異なる同等の“本質”で、それぞれは固有の存在を主張しつつ、相手を打ち倒して、“究極の勝利”を打ち立てようと激しく争っている、とする二元論が根強く存在する。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教も、一方の“光明”“善”“絶対神”の予定され、運命づけられた勝利、という形で一神教の形をとりながら、なおこの二元論的宇宙観の影響下にある」
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「影」は、自分のもう一つの側面だ。誰もが清濁併せ持つ。
ユングも河合先生も、「影との対決」は命をかけるほど大変なものだが、人生の中でいづれは向き合わないといけない問題だと言う。
そんな「影との対決」を表現する小松左京の表現の的確さに、舌を巻いた。
人間の心の深さをここまで正確に冷静に記述できる人はなかなかいない。村上春樹さんを思い出したほどだ(二人とも同じ神戸出身だし、出版社もハルキ文庫だったりして・・・)。
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「ゴルディアスの結び目」という言葉がどういう事象を意味するのか。巻末の小谷さんの解説に分かりやすく書いてあります。
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<解説 小谷真理>
アレクサンドロスの伝説には、結び目の解き方そのものに、意外な発想法がありえることを指し示す。
つまり、ひとつの現象を解き明かすのに、既存の思考法によるたったひとつの答えのみがあるのではなく、複数の次元から問題を解き明かす可能性がひそんでいることを例証するエピソード、それが「ゴルディアスの結び目(Gordian Knot)」の語源である。
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こういう「ゴルディアスの結び目(Gordian Knot)」の視点は、常に求められていると思う。
何か問題解決が滞った時、最終的には力で解決してしまう場面が出てくる。
ただ、智慧というのはそういう時にこそ発揮されるものだろう。
同じ次元では相矛盾するものも、一つ上の次元から見れば矛盾しつつ同居することができる。
そういう意識の転換、意識の変換のきっかけとして、「ゴルディアスの結び目(Gordian Knot)」を思いだせばいい。
「解決できない」と思っているのは大抵「思い込み」であり、「サンカーラ」のようなもの。つくられたものでしかない。
そういう仮想的な行き止まり(デッドエンド)に出会ったときは、「ゴルディアスの結び目(Gordian Knot)」を解くように、意識の舵を取り、一つ上の階層に上がる。
宇宙から地球を見ると青い一つの惑星がただ存在しているように、意識の次元をひとつ上げれば大抵の物事は解決できる。
むしろ、自分がその問題を受け入れられるかどうか、という問題に過ぎない事が多い。
そういうサインはこの世で無数に発信されている。
いかにしてそのサインを受信し、コードを解読し、変換し、次元を一つ上げ、「ゴルディアスの結び目(Gordian Knot)」を解いていくのか、それは人類が宇宙から与えられた宿題のようなものだろう。その宿題を解かないと、永久に地球学校、宇宙学校は卒業できず、再履修されてしまうのだと、思う。いじけて不良に走ってもしょうがない。そろそろ大人になって、本気で宿題にとりかかる時期なのだと、思う。
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小松左京は、そういう宇宙的な視点で人間を見る視点を与えてくれる偉大な作家です。
今こそ、読まれるべき作家なのだと、思います。
1970年に開催された日本万博では、岡本太郎が「太陽の塔」を立てた。全体の総合的な構想は小松左京だった。
(我が書斎に鎮座する太陽の塔)
岡本太郎は万博のメインテーマ「人類の進歩と調和」に真向から反対した。
「人類は縄文時代から進歩どころか退化しているじゃないか。そして、譲り合い、自分の個性を殺しあう「調和」など愚かなことだ」という想いを太陽の塔に託した。
小松左京や岡本太郎が僕らの世代に残した宿題を、そろそろ本格的に解き始める時代に来ていると思う。