(今回も2万字近くあるので、長いです・・・。あしからず。)
井上ウィマラさんの「呼吸による気づきの教え―パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解」佼成出版社 (2005/10)を読みました。
個人的に、今年読んだ本の中でベスト5に入る本!(他のベスト5は、最近では堀内信隆さんの「だるまんの陰陽五行」シリーズの漫画がある。この本も早めに感想を書きたい!)
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<内容(「BOOK」データベースより)>
ウィパッサナー瞑想法を修めアメリカ、イギリス、カナダで瞑想指導をした著者によるブッダ直伝の修行法がここに。
<内容(「MARC」データベースより)>
ブッダが説いた「呼吸による気づきの教え」の解説書。
伝統的な解説書や瞑想法に関する言い伝えを基本とし、精神分析をはじめとする心理学や量子力学などの科学の知識とも比較しながら説明する。
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<目次>
第1部 呼吸について
第2部 悟りとは何か
第3部 実践の道
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この本では、ブッダの考えや教えを、原語やオリジナルに近い形で再現することに細心の注意が払われています。
その上で、現代科学や心理学などの知見との整合性を丁寧に確かめながら記述されていて、腑に落ちるところが多いです。
ブッダの教えを、単に仏教・哲学好きのブレインキャンディーのマニアックな図書館知識にならないように、誰にとっても意味のある記載が随所に施されています。「ひとりの人間が成長しながら生きていくということはどういうことなのか」ということを深く学んだ気がします。
作者の愛や思いやりのようなものさえも、文章から随所に感じられました。本文の引用から、おそらく同じようなことを感じられるのではないか、と思います。
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生きることは、喜怒哀楽のすべてを体験すること
何かを変えようとしなくても
ただありのままに気付いて
自覚しながら生きる自分を見守っていると
生命の智慧が働きだし、必要な変化が生まれます。
生きることは、数限りない生と死に支えられてこそあるもの
痛みや不安を見守る智慧が
静かな平安と共に思いやりの心を生み出します。
息は、自然の心
息は、自然の心
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冒頭のこういう文章から、始まります。
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それでは、私たちはなぜ無意識でもやっていける呼吸をわざわざ意識化しようするとするのでしょうか?
呼吸を調節すると、それまで無意識的に繰り返していた人生の様々な場面を注意深く振り返る気づきの能力を養うことができるからです。
例えば、悲しみに沈んでいる時、呼吸を感じて立ち止まって見ると、心の中で繰り返していた自分を責める独り言のような物語があるのに気づことがあります。
怒りが爆発しそうになったとき、握り締めた拳や噛み締めた顎の緊張感を深呼吸しながら感じてみると、その力強い攻撃性の使い方について考え直すスペースが開けます。
また、怒りの背景には悲しみや罪悪感が隠れている事にも気づきます。
呼吸を自覚することで、自分の中で起こっていることをありのままに見つめることができるようになるのです。
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→
僕らは無意識に呼吸をしている。
その無意識な呼吸を「意識」の軌道に乗せると、おそらくそこで「無意識」と「意識」とが出会う場が形成される。
人間は、「無意識」と「意識」とを合わせて一つの生命体なのだけれど、普段は「意識」だけを乗り物として使い、まるでそこには「意識」しかないようにふるまう。ただ、本当は常に「無意識」という馬に乗っている。(それは禅の「十牛図」でも示される。)
本当は「無意識」と「意識」とが出会う場は、いろんなところで訪れている。気づいていないだけだろう。
それは夢を見るときもそうだし、病気をしたときもそう。死も同じだろう。
僕らを無意識に育んでいる生の調和が少し崩れたとき、病や死というものを意識的に感じる。
生や健康のありがたみは、やっとそこで意識の上に浮上してくる。
人は、そういう体験を経て「無意識」と「意識」との調和点を内側に求めていくのだと思う。
ただ、そういう体験は大抵向こうからやってくる受け身の体験なので、なかなか主体的に向き合うことができない。
原因を内に向けることを避け、相手のせいにしたり、周囲や環境のせいにしたり、社会のせいにしたりする。
それは「怒り」など、自分を通過する感情も同じだろう。
「怒り」を感じるとき、大抵の人はその原因を外に探ろうとする。
ただ、それは本当は違う。
自分が意識化できていない「怒り」という強大なエネルギー体としての感情が何なのか、どういう引き金と連鎖反応で「怒り」は創成され、拡大していったのか、その土壌となった自分の中にある何かを探るためのきっかけにしか過ぎない。
自分の内側で確かに起きた「怒り」という感情は、不可解なブラックボックスとしての「無意識」を嵐のように通過して「意識」の表面に浮かび上がったものだ。
だから、その自分の感情を手掛かりとして、自分の「意識」と「無意識」の組成を見返し、その配合とバランスを見直すことが重要だ。そういう調整因子として、自分の感情が存在することを素直に認めることが重要だ。
自分の深い内側へアクセスする鍵として、ブッダは「意識」と「無意識」が同居する「呼吸」に着目したのだろう。
自分で「呼吸」を意識化し、コントロールすることで、自分の内部に広がる「こころ」の意識と無意識の調整を象徴的に行う。
そういうことを、ブッダの教え、そしてそれを分かりやすく記述される井上ウィマラさんの本から学ぶことができた。
素晴らしい本!!
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気づきは、パーリ語でサティ(Sati)と呼ばれます。
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サティはSarati(思いだす)という動詞の名詞形にあたります。漢訳経典では「念」とか「憶念」と訳されています。
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念という字は、「今を知る心」と分解することができます。それが思いだすという行為と気付きの関係を解明する手掛かりになります。
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自分の内側にないものを、外側から挿入することが「気づき(サティ)」なのではない。
人間の体には宇宙の歴史がすべて含まれている。宇宙と言う超生命体が作り出した「いのち」という働きが、「無意識」層に深く強く刻印されている。
だから、自分の内側にあって忘れていたものを「思い出す」というのが「気づき(サティ)」なのだろう。
僕らのひとつひとつの細胞に、細胞の集合体としての「わたし」の中にすべての智慧は含まれている。
そして、誰もが等しくその智慧を潜在的に持っている。いまここに、自分の中に、答えはすべてある。
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極めて近い過去を思い出すという行為は、日常レベルでの思考の枠を越えて、感覚の流れに直接的に触れる経験になります。
「“世界”の中で“私”が生きている」という時間・空間概念を媒介とした自我レベルでの認識の構図が消失します。
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滝のような流れに触れている事で、ある意味で“永遠に触れる”体験ができるのです。
そこには<私と世界>という二元的な構図の作りだす時間・空間概念が成立していないからです。
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呼吸を意識化するプロセスで、「永遠」という宇宙的な時間にそっと触れることができる。
「わたし」と「わたし以外」という分離したものはそこにはなくなる。
時間や空間や二元論は、すべて作られたものであることを知る。
その体験を経ると、海の広さと深さを知る。
深海までも、自分の意志で水中遊泳できるようになる。
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1歳半を過ぎて離乳し自我が芽生える頃になると、万能感を手離して現実を受容するプロセスが始まります。
なんでも思い通りなるという万能感を手放して、思い通りにならない現実を受容するための心理機能として、自我が出現してくるのです。
現実を受容することは一生涯をかけた仕事です。
人生の最初期に万能感が適切に満たされていることは、現実受容をする健全な自我が育って行くための重要な土台となります。
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「現実を受容する」こと、簡単なようで難しい。
<なぜ自分がこんな目に>、と思う時、「現実」を変形してゆがめて、受け入れることがある。
ただ、そうして歪められた現実は、自分の内部での歪みとして転写され、さらに現実を受け入れにくくする素地を創り出す。
「思い通りにならない現実を受容するため」に「自我Ego」が出現する。
ただ、その自我に振り回されると、現実は無限にねつ造され、歪曲され、受け入れがたきものに変形され続けるから気をつけないといけない。
そうして自我が操作した時間と同じくらい、そこから回復するには時間がかかる。
現実を受容することは一生涯をかけた仕事。
「ありのままを受け入れる」という言葉は、そうたやすいことではない。
それは、自分が無意識に行っている「ありのままを受け入れていない」作業を、素直に見つめなおすことから始まる。
自分の中でのダイアログが必要だ。
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はっきりとした自我が形成される母子一対の意識状態において、母親という他者との関係性の中で形成された思考や感情のパターンは、その後に分離独立して成長した大人の自我意識の背景でも、絶えざる残響を響かせ続けることになります。
それは、ビッグ・バンによる残響が、宇宙の背景放射として現在でも観測されるのに似ています。
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このように、しっかりした自我が形成される3歳くらいまでの経験は、思いだす事はできなくても、無意識的に私たちの意識や行動に繰り返し影響を及ぼします。
人生初期に絶対依存的な成育歴を持つ我々は、知らないうちに他人の行動パターンを取り入れて自分のものだと思い込んでしまうからです。
こうして、私たちは他人の欲望や不安を受け継いでしまうことが少なくないのです。
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僕らは成長のプロセスで、数万、数億、数兆に及ぶ人間や現象に出会う。
その時に学習し深く刻印された「無意識のパターン」は、自動化されたベルトコンベアーで配送されるようなプロセスとなり、そのことが自分の無意識の感情と大きくかかわっている。
そして、そのことを他者や環境や、まわりのせいにしていたら、永遠に「無意識のパターン」の重力圏から脱することはできない。
そこで気づくのも自分だし、脱するのも自分。
自分の中にしか鍵はない。
そのときの自分は、「自分」、「他者」、「自他の間や場」という3つの視点が複雑に交叉しながら絡み合いつつできあがっているので、「意識」と「無意識」の接点として呼吸を見つめなおすことで、その3点での三角形の形を回復していくのだと思う。
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三昧(Samadhi)に出入りする体験に、繰り返し気付きを向け現象分析をしていると、喜怒哀楽のどんな対象が現れてきてもバランスの取れた関心を持って迎え入れ、その対象が消え去ってゆくのを確認して手離す事ができるという平静さが身についてきます。
中庸(Upekkha)とは、このように平静に見守ることのできる意識の姿勢です。
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禅定(Jhana:ジャーナ)には、熟考するという意味と、焼き切るという意味があります。
対象を熟考することで、イメージや概念の壁を焼き切って、心身の真実の流れに触れることができるのです。
禅定には、それを支える5つの心の作用があります。
意識を向ける思考(Vitakka)、観察する思考(Vicara)、喜び(Piti)、リラックス・安楽(Sukha)、一体感(Ekaggata)です。
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禅定から生まれる喜び(Piti)は、心が呼吸に触れ合い一体化することから出てくる喜びです。
それは、命が呼吸によって外界と交流しながら生きる喜びです。
私たちが生きているということは、いつもその喜びに満ち溢れているのです。
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呼吸を深く見つめることで、自分を支える深い無意識へとアクセスできる。
その無意識の根源は、僕らの「いのち」の場所になるだろう。
「いのち」として24時間365日、切れ目なく絶え間なく続いているプロセス。
そんな「いのち」の根源の場所は、感情で言うと「喜び(Piti)」という原書の感情に近いもの。
岡本太郎の画集に「歓喜 (Art & words)」二玄社 (1997/09)というものがある。まさにこの感覚に近いものだろう。
なかなか意識化できないけれど、生命の深い場所で生きている「いのち」は、まさに「よろこび(歓び・喜び)」に近い動きなのだろう。
そういうものが、僕らがこの世に生れ落ちるときから死ぬ時まで絶えず支えてくれていると思うと、すでに感動的なことだ。
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自我は、現実受容をする為の方便として、自己同一性によって構築されます。
「わたしは・・・だ」という自己イメージや自己理想などは、自己同一性が使うラベルやレッテルのようなものです。
それらは自己表象(Self Representation)と呼ばれます。
こうして行為する存在としての「私」の司令塔が形成されてゆきます。
ブッダは、その「私」の総体(マトリックス:母体)を「生存(Bhava)」と呼びました。
フロイトの概念体系では自我と無意識(イド)と含めた全体に相当するもので、ユングでは集合的無意識を含めた自己にあたります。
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自我の成立背景には、このような思い通りにならないことを受け入れなければならない苦しみの残響があるのです。
ブッダの説く苦しみに、完全な満足を得ることができないというニュアンスが含まれるゆえんです。
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現実を受容するのは、一生涯をかけてなされるべき仕事なのです。
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心の動き(Citta-Sankhara)を感じながら呼吸するこの瞑想法は、楽を追い求め、苦を嫌悪して、中性的な感覚による生命の働きを忘れ右往左往している私たちの心のあり様を、その瞬間の呼吸を手がかりにして、ありのままに自覚化してゆく方法です。
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心の動きを鎮めると言うことは、心の動きと闘うことではありません。そういう心のプロセスをしっかりと受容することです。
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ここでも「自我ego」のことが出てきます。
「自我ego」は僕らの「意識」の中心であり光源のようなものですが、この働きを冷静に把握しないといけません。
「自我ego」は、本来的に「自我中心」になることを期待されているものなので、この働きに自分の「意識」も「無意識」も、すべての場を奪われてしまうと、僕らの人生の多くは失われてしまいます。
それは、誰かの巨大な「自我」の中に取り込まれて支配されてしまっているような状況です。
ひとりひとりに生命が与えられていることには、深い意味があると自分は考えます。
だからこそ、自分の「自我ego」をよく知り、うまく上手に付き合っていく必要があると思うのです。
自我の成立背景に、思い通りにならないことを受け入れる<苦しみの残響>がある。
だからこそ、その響きにそっと耳を傾け、愛と思いやりを持って接することで、満たされず愛に飢えた「自我」はひとつの終わりを迎え、再創造への旅路に出ることができるのだと思います。
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この瞑想法の結果として、無意識的にそういう行動(恐怖、無力感、罪悪感・・)を繰り返すパターンから脱して、恐怖や無力感や罪悪感をしっかりと抱きしめ、ただそこに“ある”ことができるようになります。
すると、私たち自身も、そして他者との関係性も、社会も、平和なものへと変容していきます。
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心の動きを鎮めると言うことは、今ここにしっかりあること(Being:Presence)を習うことです。
それは、何かをすること(Doing)への強迫的な呪縛からの解放です。
無意識的な行動化が起ころうとするその瞬間に、しっかりと立ち止まって自らの内面に向かい合うためには勇気が必要です。
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欲求がかなえられなくて不満になったりイライラしたりするのは、思うようにならない現実に対する無意識的な怒りです。
未来の不確実さに対する微細な怒りが、予期不安となって現れることもあります。
怒りが自分自身に向かうと自己嫌悪になり、うつ状態を引き起こしたり自殺念慮を引き起こしたりします。
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欲望や怒りのエネルギーの嵐が過ぎ去るまで、しっかりと呼吸につかまって吹き飛ばされないようにしながら、心というものを体感するよう努めます。
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「怒り」という感情には数多くの課題が含まれているようです。
それは、単に「怒り」を抑圧することではありません。
抑圧は、それを無意識下に押し込むだけです。意識と無意識とが、仲たがいする原因になります。
怒りは、発酵のプロセスに移行すれば自分を育む生命となりますが、腐敗のプロセスに移行すれば自分を殺す素材となりえます。
だからこそ、その自分のうちにある感情と、一対一で真剣に向き合う時期がいづれ必要なのです。
自分の中にあるものからは永遠に逃げられません。
「自分」と鏡の間で出会い、互いがわかり合えないと、内部に敵が潜むようなもの。
その内部にある仮想的な敵は、また外部に投影し、外に敵がいると思うきっかけになると思います。
内側も外側も、すべて敵と思うのも自由ですし、すべて味方と思うのも自由。通常はそのモザイクパターンが多いでしょう。
自由に任されているからこそ、自分の中で適切な時期がやってきたとき、自主的に取り組まないといけない課題なのだと思います。
それは、自分の人生という短いスパン内で限定してものを考えるときに、重要な儀式のようなものなのです。
すべては陰に陽に自分を支えている味方だと思います。その自覚が「縁」なのでしょう。
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ヘラクレイトス(「万物は流転する(パンタ・レイ:panta rhei)」)とほぼ同時代に生きたブッダは、この世界が絶え間なく生滅変化し流転している事を「無常(Anicca)」と呼びました。
そして無常の中に生きる私たちが自分自身や世界を知ることにつきまとう不確定性、世界や自分自身を思い通りには支配できないコントロール不可能性のことを「無我(Anattā)」という言葉で呼びました。
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私たちの自我にとって、自分自身や世界を思い通りにコントロールできないことは、不満足感や不全感を余儀なくされることです。
ブッダはこの不満足感や不全感という実存的な不快や痛みのことを「苦(Dukkha)」と呼びました。
そして、その苦しみの原因は、心が様々な対象を求めてやまない渇愛にあると洞察しました。
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修復された罪悪感が、思いやりの起源になります。
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「心が思考や感情の引力から解放された意識の無重力体験という自由」
「罪悪感が、思いやりの起源」
というのは素敵な言葉です。
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ブッダは輪廻を信じることを強要しませんでした。
その代わりに、眼の前の現実世界で起こっている現象のありさまに、注意深く目を開くように促しました。
そこには因果律のように時間軸に沿った関係性もあれば、共時性のように時空を超えた非局在的な横のつながりもあります。
それらを因縁と呼びます。
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大切な人を失う対象喪失に伴って、リビドーが記憶に執着したままで諦めきれない状態を、“悲嘆”あるいはグリーフ(Grief)と言います。
そして、その対象が消滅したことを認め、自分がその対象にどんな意味を込めていたのか、その対象を失うことで何を失ったかを認めるために時間とエネルギーをかけて悲しむことを、喪の仕事(Mourning)と言います。
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喪の仕事(Mourning)がなされず、充分に悲しまれないと、そのエネルギーは抑うつ状態や様々な身体状態を作ります。
生きたまま、幽霊のような状態になります。
対象を失ったことが認められないと、リビドーは自我と対象を同一視させたまま、自我はあたかも自らの一部が失われたように力を無くし、ナルシシズムへと退行し、他者と関係を結び愛する力が弱くなります。
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人生最後の時期には、リビドーが身体や自己概念を手放して、自由や無条件の愛について学ぶことが大切なテーマとなります。
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ブッダは、その意味で最高のセラピストでした。
出家を意味するパーリ語のPabbajitaは、言語的には「踏み出す」ことを意味します。
出家とは、無自覚的な束縛の枠から一歩を踏み出して、自由へと前進していくことなのです。
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どのような親のもとに生まれるのかは“大きな輪廻”のテーマ、両親や家族の中でどのように成長するのかは“小さな輪廻”のテーマなのです。
そして、“微細な輪廻”を含めて、様々なレベルでの死と再生の繰り返しの束縛から解放されてゆくことが、瞑想修行のテーマになります。
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ひとりの人間が生まれ、成長し、老い、死んでいくというプロセスは、なんとすごいことなのだろうと、改めて感じます。
その無限にも思われるパターンの中からひとりの人生が創造され、それは縁起のネットワークのように互いに影響を受け、影響を与え続け、全体を形作っていく。
医療においても同じようなことを日々感じます。
ひとりひとりの人生を、その壮大な営みのパノラマとして見つめるとき、そこにはある種の感動や畏怖さえ感じます。
自分が知らない間に、この人は生まれ、生きていた、そしてその人生が交差するという縁が生まれると言う事。
ひとりひとりの人生の中には、複雑にもつれてしまった糸玉のようなものがあります。それはその人の「自我」に象徴されるでしょう。
「自我」はひとりひとりの人生の中で生まれては消えていく、点滅する光源のようなもの。一つの点滅の中に、小さいレベルから大きいレベルまで、複数の次元にまたがる生と死が含まれています。
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生存(Bhava)は、執着(abhiniveza (sanskrit))によって作り出されます。
執着は渇愛(TANHÂ)という衝動が習慣化して固着した傾向性、癖、パターン、こだわりのようなものです。何にどのように執着するかが、私たちの性格を構成します。
性格とは、どんな状況でどんな反応をする癖があるか、その反応パターンや傾向性の総体です。
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「私」という自我意識を持った主体が生きているのではなく、心身現象が生滅を繰り返しているだけだということは、シッダッタ菩薩にとっては驚くべきパラダイム・シフトでした。
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「私」自体がひとつの幻想であり、様々な傾向性の織りなす一時的なパターンであることに気づくことによって、苦しみはまったく別な視点から見直されます。
死ぬと思っていた「私」という概念自体が、記憶による自己同一性が作りだした仮想的なもので、実体的なものではないと気付くことが、「不死」に通達することなのです。
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「私」というパースペクティブ(見え方・遠近法)によって隠されてしまう命の層があるのです。
逆な見方をすれば、「私」とは、苦しみの体験を意味づけるために必要な物語の主人公として、絶えず無意識的に作りかえられながら作り続けられる、仮想的な秩序構造として機能しているものなのです。
苦しみを自分のものにしてしまわず、「私」の物語から解放されて、苦しみそのものとして体験し受容することができると、苦しみは誰のものでもないということが理解されます。
誰のものでもないのですが、苦しみは誰にも共通した普遍的な現象です。
苦しみを「私」から解放することで、苦しみを通して、他者を理解し、他者ともつながることができます。
苦しみを理解する洞察が、他者への思いやりを育むゆえんです。
ブッダは苦しみの聖なる真理を解くときに、「これは苦しみである」という言い方をしています。誰かの所有物として苦しみを説明してはいません。
それは漏尽智の中で体験したシッダッタ菩薩の洞察に基づいた表現法の工夫なのです。
*宿住念智(過去生を思い出す智慧)、天眼智(死と生のつながりを見つめる智慧)、漏尽智(漏れだす苦しみを消滅させる智慧:フロイトのリビドーに近い)
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この部分の文章がとても好きです。
自分が普段感じていたことを、ずばり文章で表現してもらったような気持ちになりました。
般若心経の中にも
『乃至無老死 亦無老死尽』
(迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることも、ない。)
という一節がありますよね。
自分は「わたし」というものが秘める謎や、「生や死」がはらむ謎に興味があります。
そして、それは医療行為にも密接につながりますし、自分の人生を考える意味でも重要な問い(「?」)なのだと感じています。
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ブッダが、修行のステップとして戒(道徳:Sila) 定(落ち着き:Samadhi) 慧(智慧:Panna)を説いたのは、自己概念の根底を突き抜ける際の不安や恐怖に耐える力を培うためです。
自己表象(Self Representation)という仮想現実を介さずに、直接的に第一義的真実、あるいは宇宙や命の実相に触れるためには、健全な自我のしなやかさや強さ(Ego Strength)を育成することが必要なのです。
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私たちは過去を変えることはできません。
ただ、過去に何が起こっていたのかを理解することができます。
そして、今ここでの自分のあり方に対して働きかけることができます。
無明によって業を作り上げてしまうパターンを繰り返さないように、智慧によって渇愛や執着が自然に色あせるのを見守り、思いやりが生まれる新しいスペースを開くように努めるのです。
これが人生において変えることのできる部分なのです。
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ウィマラさんの分かりやすい文章で、何十回も目から鱗が落ちました。
まるでブッダが目の前にいるかのような分かりやすさ。腑に落ちる!
「腑に落ちる」というのはまさに肉体感覚の伴う経験。そういう体験を経ないと、僕らはなかなか真の意味で理解することができません。表層意識を少しなでて、ブレインキャンディーとして脳を知的満足で一過性に満たすだけで終わってしまうことがあります。
その対策として、ブッダは『戒(道徳:Sila) 定(落ち着き:Samadhi) 慧(智慧:Panna)』を経て『自我のしなやかさや強さ(Ego Strength)』を育てることを重要視したのでしょうし、その中に呼吸法や座禅などの身体技法も取り入れていたのだと思います。
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自己存在への思い込みを総称して「我」と呼ぶのです。
これは現在の心理学で言うナルシシズム(narcissism:自己愛)と見てよいでしょう。
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思い通りにならないことを許せないことがナルシシズム(自己愛)の中核になります。このナルシシズムから脱却できていない自我のことを、ブッダは「我」と呼んでいるのです。
すなわち、無我とは、ナルシシズムから解放されて、現実を受容できる、しなやかな強さを育んだ自我の自己洞察なのです。
思うようにならないことがあったり、やがては死んでゆく有限なものであることを受け入れて、生きてゆくことができる成熟した自己の姿です。単に自我が「無い」ということではありません。
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“我”とは、システムが集まって出来るスーパーシステムの作り上げた、プロトコルとしての永遠性と不変性と支配可能性への幻想なのです。
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輪廻思想を採用しながらも、輪廻する主体としての永遠不変の実在だと期待される“魂”さえもが、無常や無我をまぬがれないと洞察したことが、ブッダの解脱の最もユニークな特徴なのです。
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ブッダは、三昧を出て集中した心の力を観察や洞察に向けると、現象をありのままに見る智慧が生まれることに注目しました。
この如実智見が生じると、神秘体験や超能力への執着や欲望を自覚することができます。
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最後まで、「自我ego」というもののとらわれや分離感に陥らないよう丁寧な注意がなされていました。
呼吸により「気づき」を得ても、自分が偉いとか、優れているとか、優越感や分離意識を持ってしまえば、それはまた大きな「自我ego」に取り込まれているだけなのだと思います。超能力願望など、幼少期の稚拙な願望を反復しないよう気をつけないといけませんね。それだけ、自分たちは無意識に大きく影響を受けている存在なのでしょう。
ただ、常に呼吸を通して「意識」と「無意識」の接合面としての場を体験する手段を自分が持っていれば、更に新たな「気づき」によってより深く自分は成長していけるのでしょう。
人生は長い長い成長の旅路のようなもので、終わりなく成長し、海のように、地球のように、宇宙のように、広く深い器を育む大事な時間なのだと思います。
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思いのほか長くなり、自分でもびっくりです。
果たして自分以外にこのブログを全部読んでる人がいるのかはなはだ疑問だ、と思うほど、長文になりました。
井上ウィマラさんの「呼吸による気づきの教え―パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解」佼成出版社 (2005/10)は、本当に赤線と青線ひきまくりのひきまくりで、本がボロボロになりました。目から鱗をポロポロ落としながら熟読しました。3回読んでみました。
印象的な部分を引用していたら、この本すべてになってしまいそうです。これでもかなり抜粋して引用したつもりなのです。
少しでも興味が湧いた方は、是非購入して熟読してください!!座右の書になると思いますよ。
いつかご本人に呼吸法や瞑想法を教えていただきたい!
井上ウィマラさんの、今後の本もほんとうに楽しみです!
最近は素晴らしい本と巡り会うことが多すぎて、仕事がなかなか進みません・・・。(^^;
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アーナーパーナ・サティ・スッタ(安般念経)
1 身体
(1) 息を長く吸っている時、吐いている時はそれと知る
(2) 息を短く吸っている時、吐いている時はそれと知る
(3) 全身を感じながら息を吸い、吐くと訓練する
(4) 全身を静めながら息を吸い、吐くと訓練する
以上、いつも身体そのものに注意し続けることで貪欲と苦悩を取り除く
2 感覚
(1) 喜悦を感じながら息を吸い、吐くと訓練する
(2) 楽を感じながら息を吸い、吐くと訓練する
(3) 心のプロセスを感じながら息を吸い、吐くと訓練する
(4) 心のプロセスを静めながら息を吸い、吐くと訓練する
以上、いつも感覚そのものに注意し続けることで貪欲と苦悩を取り除く
3 心
(1) 心を感じながら息を吸い、吐くと訓練する
(2) 心を喜ばせながら息を吸い、吐くと訓練する
(3) 心を安定させながら息を吸い、吐くと訓練する
(4) 心を解放させながら息を吸い、吐くと訓練する
以上、いつも心そのものに注意し続けることで貪欲と苦悩を取り除く
4 法
(1) 無常であることに意識を集中させながら息を吸い、吐くと訓練する
(2) 色あせていくことに意識を集中させながら息を吸い、吐くと訓練する
(3) 消滅に意識を集中させながら息を吸い、吐くと訓練する
(4) 手放すことに意識を集注させながら息を吸い、吐くと訓練する
以上、いつも諸法そのものに注意し続けることで貪欲と苦悩を取り除く
七覚支(七つの目覚めを完成させる)
1 念覚支 :身体に関する気づきの確立を完成させる
2 択法覚支:智慧による分析を完成させる
3 精進覚支:努力精進を完成させる
4 喜覚支 :こころの喜悦を完成させる
5 軽安覚支:心の安静を完成させる
6 定覚支 :心の集中を完成させる
7 捨覚支 :心を平静を完成させる
以上の習熟によって、明知と解脱が完成する
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井上ウィマラさんの「呼吸による気づきの教え―パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解」佼成出版社 (2005/10)を読みました。
個人的に、今年読んだ本の中でベスト5に入る本!(他のベスト5は、最近では堀内信隆さんの「だるまんの陰陽五行」シリーズの漫画がある。この本も早めに感想を書きたい!)
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<内容(「BOOK」データベースより)>
ウィパッサナー瞑想法を修めアメリカ、イギリス、カナダで瞑想指導をした著者によるブッダ直伝の修行法がここに。
<内容(「MARC」データベースより)>
ブッダが説いた「呼吸による気づきの教え」の解説書。
伝統的な解説書や瞑想法に関する言い伝えを基本とし、精神分析をはじめとする心理学や量子力学などの科学の知識とも比較しながら説明する。
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<目次>
第1部 呼吸について
第2部 悟りとは何か
第3部 実践の道
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この本では、ブッダの考えや教えを、原語やオリジナルに近い形で再現することに細心の注意が払われています。
その上で、現代科学や心理学などの知見との整合性を丁寧に確かめながら記述されていて、腑に落ちるところが多いです。
ブッダの教えを、単に仏教・哲学好きのブレインキャンディーのマニアックな図書館知識にならないように、誰にとっても意味のある記載が随所に施されています。「ひとりの人間が成長しながら生きていくということはどういうことなのか」ということを深く学んだ気がします。
作者の愛や思いやりのようなものさえも、文章から随所に感じられました。本文の引用から、おそらく同じようなことを感じられるのではないか、と思います。
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生きることは、喜怒哀楽のすべてを体験すること
何かを変えようとしなくても
ただありのままに気付いて
自覚しながら生きる自分を見守っていると
生命の智慧が働きだし、必要な変化が生まれます。
生きることは、数限りない生と死に支えられてこそあるもの
痛みや不安を見守る智慧が
静かな平安と共に思いやりの心を生み出します。
息は、自然の心
息は、自然の心
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冒頭のこういう文章から、始まります。
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それでは、私たちはなぜ無意識でもやっていける呼吸をわざわざ意識化しようするとするのでしょうか?
呼吸を調節すると、それまで無意識的に繰り返していた人生の様々な場面を注意深く振り返る気づきの能力を養うことができるからです。
例えば、悲しみに沈んでいる時、呼吸を感じて立ち止まって見ると、心の中で繰り返していた自分を責める独り言のような物語があるのに気づことがあります。
怒りが爆発しそうになったとき、握り締めた拳や噛み締めた顎の緊張感を深呼吸しながら感じてみると、その力強い攻撃性の使い方について考え直すスペースが開けます。
また、怒りの背景には悲しみや罪悪感が隠れている事にも気づきます。
呼吸を自覚することで、自分の中で起こっていることをありのままに見つめることができるようになるのです。
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僕らは無意識に呼吸をしている。
その無意識な呼吸を「意識」の軌道に乗せると、おそらくそこで「無意識」と「意識」とが出会う場が形成される。
人間は、「無意識」と「意識」とを合わせて一つの生命体なのだけれど、普段は「意識」だけを乗り物として使い、まるでそこには「意識」しかないようにふるまう。ただ、本当は常に「無意識」という馬に乗っている。(それは禅の「十牛図」でも示される。)
本当は「無意識」と「意識」とが出会う場は、いろんなところで訪れている。気づいていないだけだろう。
それは夢を見るときもそうだし、病気をしたときもそう。死も同じだろう。
僕らを無意識に育んでいる生の調和が少し崩れたとき、病や死というものを意識的に感じる。
生や健康のありがたみは、やっとそこで意識の上に浮上してくる。
人は、そういう体験を経て「無意識」と「意識」との調和点を内側に求めていくのだと思う。
ただ、そういう体験は大抵向こうからやってくる受け身の体験なので、なかなか主体的に向き合うことができない。
原因を内に向けることを避け、相手のせいにしたり、周囲や環境のせいにしたり、社会のせいにしたりする。
それは「怒り」など、自分を通過する感情も同じだろう。
「怒り」を感じるとき、大抵の人はその原因を外に探ろうとする。
ただ、それは本当は違う。
自分が意識化できていない「怒り」という強大なエネルギー体としての感情が何なのか、どういう引き金と連鎖反応で「怒り」は創成され、拡大していったのか、その土壌となった自分の中にある何かを探るためのきっかけにしか過ぎない。
自分の内側で確かに起きた「怒り」という感情は、不可解なブラックボックスとしての「無意識」を嵐のように通過して「意識」の表面に浮かび上がったものだ。
だから、その自分の感情を手掛かりとして、自分の「意識」と「無意識」の組成を見返し、その配合とバランスを見直すことが重要だ。そういう調整因子として、自分の感情が存在することを素直に認めることが重要だ。
自分の深い内側へアクセスする鍵として、ブッダは「意識」と「無意識」が同居する「呼吸」に着目したのだろう。
自分で「呼吸」を意識化し、コントロールすることで、自分の内部に広がる「こころ」の意識と無意識の調整を象徴的に行う。
そういうことを、ブッダの教え、そしてそれを分かりやすく記述される井上ウィマラさんの本から学ぶことができた。
素晴らしい本!!
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気づきは、パーリ語でサティ(Sati)と呼ばれます。
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サティはSarati(思いだす)という動詞の名詞形にあたります。漢訳経典では「念」とか「憶念」と訳されています。
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念という字は、「今を知る心」と分解することができます。それが思いだすという行為と気付きの関係を解明する手掛かりになります。
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自分の内側にないものを、外側から挿入することが「気づき(サティ)」なのではない。
人間の体には宇宙の歴史がすべて含まれている。宇宙と言う超生命体が作り出した「いのち」という働きが、「無意識」層に深く強く刻印されている。
だから、自分の内側にあって忘れていたものを「思い出す」というのが「気づき(サティ)」なのだろう。
僕らのひとつひとつの細胞に、細胞の集合体としての「わたし」の中にすべての智慧は含まれている。
そして、誰もが等しくその智慧を潜在的に持っている。いまここに、自分の中に、答えはすべてある。
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極めて近い過去を思い出すという行為は、日常レベルでの思考の枠を越えて、感覚の流れに直接的に触れる経験になります。
「“世界”の中で“私”が生きている」という時間・空間概念を媒介とした自我レベルでの認識の構図が消失します。
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滝のような流れに触れている事で、ある意味で“永遠に触れる”体験ができるのです。
そこには<私と世界>という二元的な構図の作りだす時間・空間概念が成立していないからです。
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呼吸を意識化するプロセスで、「永遠」という宇宙的な時間にそっと触れることができる。
「わたし」と「わたし以外」という分離したものはそこにはなくなる。
時間や空間や二元論は、すべて作られたものであることを知る。
その体験を経ると、海の広さと深さを知る。
深海までも、自分の意志で水中遊泳できるようになる。
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1歳半を過ぎて離乳し自我が芽生える頃になると、万能感を手離して現実を受容するプロセスが始まります。
なんでも思い通りなるという万能感を手放して、思い通りにならない現実を受容するための心理機能として、自我が出現してくるのです。
現実を受容することは一生涯をかけた仕事です。
人生の最初期に万能感が適切に満たされていることは、現実受容をする健全な自我が育って行くための重要な土台となります。
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「現実を受容する」こと、簡単なようで難しい。
<なぜ自分がこんな目に>、と思う時、「現実」を変形してゆがめて、受け入れることがある。
ただ、そうして歪められた現実は、自分の内部での歪みとして転写され、さらに現実を受け入れにくくする素地を創り出す。
「思い通りにならない現実を受容するため」に「自我Ego」が出現する。
ただ、その自我に振り回されると、現実は無限にねつ造され、歪曲され、受け入れがたきものに変形され続けるから気をつけないといけない。
そうして自我が操作した時間と同じくらい、そこから回復するには時間がかかる。
現実を受容することは一生涯をかけた仕事。
「ありのままを受け入れる」という言葉は、そうたやすいことではない。
それは、自分が無意識に行っている「ありのままを受け入れていない」作業を、素直に見つめなおすことから始まる。
自分の中でのダイアログが必要だ。
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はっきりとした自我が形成される母子一対の意識状態において、母親という他者との関係性の中で形成された思考や感情のパターンは、その後に分離独立して成長した大人の自我意識の背景でも、絶えざる残響を響かせ続けることになります。
それは、ビッグ・バンによる残響が、宇宙の背景放射として現在でも観測されるのに似ています。
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このように、しっかりした自我が形成される3歳くらいまでの経験は、思いだす事はできなくても、無意識的に私たちの意識や行動に繰り返し影響を及ぼします。
人生初期に絶対依存的な成育歴を持つ我々は、知らないうちに他人の行動パターンを取り入れて自分のものだと思い込んでしまうからです。
こうして、私たちは他人の欲望や不安を受け継いでしまうことが少なくないのです。
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僕らは成長のプロセスで、数万、数億、数兆に及ぶ人間や現象に出会う。
その時に学習し深く刻印された「無意識のパターン」は、自動化されたベルトコンベアーで配送されるようなプロセスとなり、そのことが自分の無意識の感情と大きくかかわっている。
そして、そのことを他者や環境や、まわりのせいにしていたら、永遠に「無意識のパターン」の重力圏から脱することはできない。
そこで気づくのも自分だし、脱するのも自分。
自分の中にしか鍵はない。
そのときの自分は、「自分」、「他者」、「自他の間や場」という3つの視点が複雑に交叉しながら絡み合いつつできあがっているので、「意識」と「無意識」の接点として呼吸を見つめなおすことで、その3点での三角形の形を回復していくのだと思う。
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三昧(Samadhi)に出入りする体験に、繰り返し気付きを向け現象分析をしていると、喜怒哀楽のどんな対象が現れてきてもバランスの取れた関心を持って迎え入れ、その対象が消え去ってゆくのを確認して手離す事ができるという平静さが身についてきます。
中庸(Upekkha)とは、このように平静に見守ることのできる意識の姿勢です。
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禅定(Jhana:ジャーナ)には、熟考するという意味と、焼き切るという意味があります。
対象を熟考することで、イメージや概念の壁を焼き切って、心身の真実の流れに触れることができるのです。
禅定には、それを支える5つの心の作用があります。
意識を向ける思考(Vitakka)、観察する思考(Vicara)、喜び(Piti)、リラックス・安楽(Sukha)、一体感(Ekaggata)です。
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禅定から生まれる喜び(Piti)は、心が呼吸に触れ合い一体化することから出てくる喜びです。
それは、命が呼吸によって外界と交流しながら生きる喜びです。
私たちが生きているということは、いつもその喜びに満ち溢れているのです。
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呼吸を深く見つめることで、自分を支える深い無意識へとアクセスできる。
その無意識の根源は、僕らの「いのち」の場所になるだろう。
「いのち」として24時間365日、切れ目なく絶え間なく続いているプロセス。
そんな「いのち」の根源の場所は、感情で言うと「喜び(Piti)」という原書の感情に近いもの。
岡本太郎の画集に「歓喜 (Art & words)」二玄社 (1997/09)というものがある。まさにこの感覚に近いものだろう。
なかなか意識化できないけれど、生命の深い場所で生きている「いのち」は、まさに「よろこび(歓び・喜び)」に近い動きなのだろう。
そういうものが、僕らがこの世に生れ落ちるときから死ぬ時まで絶えず支えてくれていると思うと、すでに感動的なことだ。
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自我は、現実受容をする為の方便として、自己同一性によって構築されます。
「わたしは・・・だ」という自己イメージや自己理想などは、自己同一性が使うラベルやレッテルのようなものです。
それらは自己表象(Self Representation)と呼ばれます。
こうして行為する存在としての「私」の司令塔が形成されてゆきます。
ブッダは、その「私」の総体(マトリックス:母体)を「生存(Bhava)」と呼びました。
フロイトの概念体系では自我と無意識(イド)と含めた全体に相当するもので、ユングでは集合的無意識を含めた自己にあたります。
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自我の成立背景には、このような思い通りにならないことを受け入れなければならない苦しみの残響があるのです。
ブッダの説く苦しみに、完全な満足を得ることができないというニュアンスが含まれるゆえんです。
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現実を受容するのは、一生涯をかけてなされるべき仕事なのです。
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心の動き(Citta-Sankhara)を感じながら呼吸するこの瞑想法は、楽を追い求め、苦を嫌悪して、中性的な感覚による生命の働きを忘れ右往左往している私たちの心のあり様を、その瞬間の呼吸を手がかりにして、ありのままに自覚化してゆく方法です。
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心の動きを鎮めると言うことは、心の動きと闘うことではありません。そういう心のプロセスをしっかりと受容することです。
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ここでも「自我ego」のことが出てきます。
「自我ego」は僕らの「意識」の中心であり光源のようなものですが、この働きを冷静に把握しないといけません。
「自我ego」は、本来的に「自我中心」になることを期待されているものなので、この働きに自分の「意識」も「無意識」も、すべての場を奪われてしまうと、僕らの人生の多くは失われてしまいます。
それは、誰かの巨大な「自我」の中に取り込まれて支配されてしまっているような状況です。
ひとりひとりに生命が与えられていることには、深い意味があると自分は考えます。
だからこそ、自分の「自我ego」をよく知り、うまく上手に付き合っていく必要があると思うのです。
自我の成立背景に、思い通りにならないことを受け入れる<苦しみの残響>がある。
だからこそ、その響きにそっと耳を傾け、愛と思いやりを持って接することで、満たされず愛に飢えた「自我」はひとつの終わりを迎え、再創造への旅路に出ることができるのだと思います。
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この瞑想法の結果として、無意識的にそういう行動(恐怖、無力感、罪悪感・・)を繰り返すパターンから脱して、恐怖や無力感や罪悪感をしっかりと抱きしめ、ただそこに“ある”ことができるようになります。
すると、私たち自身も、そして他者との関係性も、社会も、平和なものへと変容していきます。
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心の動きを鎮めると言うことは、今ここにしっかりあること(Being:Presence)を習うことです。
それは、何かをすること(Doing)への強迫的な呪縛からの解放です。
無意識的な行動化が起ころうとするその瞬間に、しっかりと立ち止まって自らの内面に向かい合うためには勇気が必要です。
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欲求がかなえられなくて不満になったりイライラしたりするのは、思うようにならない現実に対する無意識的な怒りです。
未来の不確実さに対する微細な怒りが、予期不安となって現れることもあります。
怒りが自分自身に向かうと自己嫌悪になり、うつ状態を引き起こしたり自殺念慮を引き起こしたりします。
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欲望や怒りのエネルギーの嵐が過ぎ去るまで、しっかりと呼吸につかまって吹き飛ばされないようにしながら、心というものを体感するよう努めます。
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「怒り」という感情には数多くの課題が含まれているようです。
それは、単に「怒り」を抑圧することではありません。
抑圧は、それを無意識下に押し込むだけです。意識と無意識とが、仲たがいする原因になります。
怒りは、発酵のプロセスに移行すれば自分を育む生命となりますが、腐敗のプロセスに移行すれば自分を殺す素材となりえます。
だからこそ、その自分のうちにある感情と、一対一で真剣に向き合う時期がいづれ必要なのです。
自分の中にあるものからは永遠に逃げられません。
「自分」と鏡の間で出会い、互いがわかり合えないと、内部に敵が潜むようなもの。
その内部にある仮想的な敵は、また外部に投影し、外に敵がいると思うきっかけになると思います。
内側も外側も、すべて敵と思うのも自由ですし、すべて味方と思うのも自由。通常はそのモザイクパターンが多いでしょう。
自由に任されているからこそ、自分の中で適切な時期がやってきたとき、自主的に取り組まないといけない課題なのだと思います。
それは、自分の人生という短いスパン内で限定してものを考えるときに、重要な儀式のようなものなのです。
すべては陰に陽に自分を支えている味方だと思います。その自覚が「縁」なのでしょう。
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ヘラクレイトス(「万物は流転する(パンタ・レイ:panta rhei)」)とほぼ同時代に生きたブッダは、この世界が絶え間なく生滅変化し流転している事を「無常(Anicca)」と呼びました。
そして無常の中に生きる私たちが自分自身や世界を知ることにつきまとう不確定性、世界や自分自身を思い通りには支配できないコントロール不可能性のことを「無我(Anattā)」という言葉で呼びました。
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私たちの自我にとって、自分自身や世界を思い通りにコントロールできないことは、不満足感や不全感を余儀なくされることです。
ブッダはこの不満足感や不全感という実存的な不快や痛みのことを「苦(Dukkha)」と呼びました。
そして、その苦しみの原因は、心が様々な対象を求めてやまない渇愛にあると洞察しました。
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修復された罪悪感が、思いやりの起源になります。
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「心が思考や感情の引力から解放された意識の無重力体験という自由」
「罪悪感が、思いやりの起源」
というのは素敵な言葉です。
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ブッダは輪廻を信じることを強要しませんでした。
その代わりに、眼の前の現実世界で起こっている現象のありさまに、注意深く目を開くように促しました。
そこには因果律のように時間軸に沿った関係性もあれば、共時性のように時空を超えた非局在的な横のつながりもあります。
それらを因縁と呼びます。
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大切な人を失う対象喪失に伴って、リビドーが記憶に執着したままで諦めきれない状態を、“悲嘆”あるいはグリーフ(Grief)と言います。
そして、その対象が消滅したことを認め、自分がその対象にどんな意味を込めていたのか、その対象を失うことで何を失ったかを認めるために時間とエネルギーをかけて悲しむことを、喪の仕事(Mourning)と言います。
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喪の仕事(Mourning)がなされず、充分に悲しまれないと、そのエネルギーは抑うつ状態や様々な身体状態を作ります。
生きたまま、幽霊のような状態になります。
対象を失ったことが認められないと、リビドーは自我と対象を同一視させたまま、自我はあたかも自らの一部が失われたように力を無くし、ナルシシズムへと退行し、他者と関係を結び愛する力が弱くなります。
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人生最後の時期には、リビドーが身体や自己概念を手放して、自由や無条件の愛について学ぶことが大切なテーマとなります。
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ブッダは、その意味で最高のセラピストでした。
出家を意味するパーリ語のPabbajitaは、言語的には「踏み出す」ことを意味します。
出家とは、無自覚的な束縛の枠から一歩を踏み出して、自由へと前進していくことなのです。
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どのような親のもとに生まれるのかは“大きな輪廻”のテーマ、両親や家族の中でどのように成長するのかは“小さな輪廻”のテーマなのです。
そして、“微細な輪廻”を含めて、様々なレベルでの死と再生の繰り返しの束縛から解放されてゆくことが、瞑想修行のテーマになります。
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ひとりの人間が生まれ、成長し、老い、死んでいくというプロセスは、なんとすごいことなのだろうと、改めて感じます。
その無限にも思われるパターンの中からひとりの人生が創造され、それは縁起のネットワークのように互いに影響を受け、影響を与え続け、全体を形作っていく。
医療においても同じようなことを日々感じます。
ひとりひとりの人生を、その壮大な営みのパノラマとして見つめるとき、そこにはある種の感動や畏怖さえ感じます。
自分が知らない間に、この人は生まれ、生きていた、そしてその人生が交差するという縁が生まれると言う事。
ひとりひとりの人生の中には、複雑にもつれてしまった糸玉のようなものがあります。それはその人の「自我」に象徴されるでしょう。
「自我」はひとりひとりの人生の中で生まれては消えていく、点滅する光源のようなもの。一つの点滅の中に、小さいレベルから大きいレベルまで、複数の次元にまたがる生と死が含まれています。
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生存(Bhava)は、執着(abhiniveza (sanskrit))によって作り出されます。
執着は渇愛(TANHÂ)という衝動が習慣化して固着した傾向性、癖、パターン、こだわりのようなものです。何にどのように執着するかが、私たちの性格を構成します。
性格とは、どんな状況でどんな反応をする癖があるか、その反応パターンや傾向性の総体です。
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「私」という自我意識を持った主体が生きているのではなく、心身現象が生滅を繰り返しているだけだということは、シッダッタ菩薩にとっては驚くべきパラダイム・シフトでした。
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「私」自体がひとつの幻想であり、様々な傾向性の織りなす一時的なパターンであることに気づくことによって、苦しみはまったく別な視点から見直されます。
死ぬと思っていた「私」という概念自体が、記憶による自己同一性が作りだした仮想的なもので、実体的なものではないと気付くことが、「不死」に通達することなのです。
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「私」というパースペクティブ(見え方・遠近法)によって隠されてしまう命の層があるのです。
逆な見方をすれば、「私」とは、苦しみの体験を意味づけるために必要な物語の主人公として、絶えず無意識的に作りかえられながら作り続けられる、仮想的な秩序構造として機能しているものなのです。
苦しみを自分のものにしてしまわず、「私」の物語から解放されて、苦しみそのものとして体験し受容することができると、苦しみは誰のものでもないということが理解されます。
誰のものでもないのですが、苦しみは誰にも共通した普遍的な現象です。
苦しみを「私」から解放することで、苦しみを通して、他者を理解し、他者ともつながることができます。
苦しみを理解する洞察が、他者への思いやりを育むゆえんです。
ブッダは苦しみの聖なる真理を解くときに、「これは苦しみである」という言い方をしています。誰かの所有物として苦しみを説明してはいません。
それは漏尽智の中で体験したシッダッタ菩薩の洞察に基づいた表現法の工夫なのです。
*宿住念智(過去生を思い出す智慧)、天眼智(死と生のつながりを見つめる智慧)、漏尽智(漏れだす苦しみを消滅させる智慧:フロイトのリビドーに近い)
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この部分の文章がとても好きです。
自分が普段感じていたことを、ずばり文章で表現してもらったような気持ちになりました。
般若心経の中にも
『乃至無老死 亦無老死尽』
(迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることも、ない。)
という一節がありますよね。
自分は「わたし」というものが秘める謎や、「生や死」がはらむ謎に興味があります。
そして、それは医療行為にも密接につながりますし、自分の人生を考える意味でも重要な問い(「?」)なのだと感じています。
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ブッダが、修行のステップとして戒(道徳:Sila) 定(落ち着き:Samadhi) 慧(智慧:Panna)を説いたのは、自己概念の根底を突き抜ける際の不安や恐怖に耐える力を培うためです。
自己表象(Self Representation)という仮想現実を介さずに、直接的に第一義的真実、あるいは宇宙や命の実相に触れるためには、健全な自我のしなやかさや強さ(Ego Strength)を育成することが必要なのです。
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私たちは過去を変えることはできません。
ただ、過去に何が起こっていたのかを理解することができます。
そして、今ここでの自分のあり方に対して働きかけることができます。
無明によって業を作り上げてしまうパターンを繰り返さないように、智慧によって渇愛や執着が自然に色あせるのを見守り、思いやりが生まれる新しいスペースを開くように努めるのです。
これが人生において変えることのできる部分なのです。
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ウィマラさんの分かりやすい文章で、何十回も目から鱗が落ちました。
まるでブッダが目の前にいるかのような分かりやすさ。腑に落ちる!
「腑に落ちる」というのはまさに肉体感覚の伴う経験。そういう体験を経ないと、僕らはなかなか真の意味で理解することができません。表層意識を少しなでて、ブレインキャンディーとして脳を知的満足で一過性に満たすだけで終わってしまうことがあります。
その対策として、ブッダは『戒(道徳:Sila) 定(落ち着き:Samadhi) 慧(智慧:Panna)』を経て『自我のしなやかさや強さ(Ego Strength)』を育てることを重要視したのでしょうし、その中に呼吸法や座禅などの身体技法も取り入れていたのだと思います。
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自己存在への思い込みを総称して「我」と呼ぶのです。
これは現在の心理学で言うナルシシズム(narcissism:自己愛)と見てよいでしょう。
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思い通りにならないことを許せないことがナルシシズム(自己愛)の中核になります。このナルシシズムから脱却できていない自我のことを、ブッダは「我」と呼んでいるのです。
すなわち、無我とは、ナルシシズムから解放されて、現実を受容できる、しなやかな強さを育んだ自我の自己洞察なのです。
思うようにならないことがあったり、やがては死んでゆく有限なものであることを受け入れて、生きてゆくことができる成熟した自己の姿です。単に自我が「無い」ということではありません。
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“我”とは、システムが集まって出来るスーパーシステムの作り上げた、プロトコルとしての永遠性と不変性と支配可能性への幻想なのです。
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輪廻思想を採用しながらも、輪廻する主体としての永遠不変の実在だと期待される“魂”さえもが、無常や無我をまぬがれないと洞察したことが、ブッダの解脱の最もユニークな特徴なのです。
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ブッダは、三昧を出て集中した心の力を観察や洞察に向けると、現象をありのままに見る智慧が生まれることに注目しました。
この如実智見が生じると、神秘体験や超能力への執着や欲望を自覚することができます。
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最後まで、「自我ego」というもののとらわれや分離感に陥らないよう丁寧な注意がなされていました。
呼吸により「気づき」を得ても、自分が偉いとか、優れているとか、優越感や分離意識を持ってしまえば、それはまた大きな「自我ego」に取り込まれているだけなのだと思います。超能力願望など、幼少期の稚拙な願望を反復しないよう気をつけないといけませんね。それだけ、自分たちは無意識に大きく影響を受けている存在なのでしょう。
ただ、常に呼吸を通して「意識」と「無意識」の接合面としての場を体験する手段を自分が持っていれば、更に新たな「気づき」によってより深く自分は成長していけるのでしょう。
人生は長い長い成長の旅路のようなもので、終わりなく成長し、海のように、地球のように、宇宙のように、広く深い器を育む大事な時間なのだと思います。
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思いのほか長くなり、自分でもびっくりです。
果たして自分以外にこのブログを全部読んでる人がいるのかはなはだ疑問だ、と思うほど、長文になりました。
井上ウィマラさんの「呼吸による気づきの教え―パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解」佼成出版社 (2005/10)は、本当に赤線と青線ひきまくりのひきまくりで、本がボロボロになりました。目から鱗をポロポロ落としながら熟読しました。3回読んでみました。
印象的な部分を引用していたら、この本すべてになってしまいそうです。これでもかなり抜粋して引用したつもりなのです。
少しでも興味が湧いた方は、是非購入して熟読してください!!座右の書になると思いますよ。
いつかご本人に呼吸法や瞑想法を教えていただきたい!
井上ウィマラさんの、今後の本もほんとうに楽しみです!
最近は素晴らしい本と巡り会うことが多すぎて、仕事がなかなか進みません・・・。(^^;
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アーナーパーナ・サティ・スッタ(安般念経)
1 身体
(1) 息を長く吸っている時、吐いている時はそれと知る
(2) 息を短く吸っている時、吐いている時はそれと知る
(3) 全身を感じながら息を吸い、吐くと訓練する
(4) 全身を静めながら息を吸い、吐くと訓練する
以上、いつも身体そのものに注意し続けることで貪欲と苦悩を取り除く
2 感覚
(1) 喜悦を感じながら息を吸い、吐くと訓練する
(2) 楽を感じながら息を吸い、吐くと訓練する
(3) 心のプロセスを感じながら息を吸い、吐くと訓練する
(4) 心のプロセスを静めながら息を吸い、吐くと訓練する
以上、いつも感覚そのものに注意し続けることで貪欲と苦悩を取り除く
3 心
(1) 心を感じながら息を吸い、吐くと訓練する
(2) 心を喜ばせながら息を吸い、吐くと訓練する
(3) 心を安定させながら息を吸い、吐くと訓練する
(4) 心を解放させながら息を吸い、吐くと訓練する
以上、いつも心そのものに注意し続けることで貪欲と苦悩を取り除く
4 法
(1) 無常であることに意識を集中させながら息を吸い、吐くと訓練する
(2) 色あせていくことに意識を集中させながら息を吸い、吐くと訓練する
(3) 消滅に意識を集中させながら息を吸い、吐くと訓練する
(4) 手放すことに意識を集注させながら息を吸い、吐くと訓練する
以上、いつも諸法そのものに注意し続けることで貪欲と苦悩を取り除く
七覚支(七つの目覚めを完成させる)
1 念覚支 :身体に関する気づきの確立を完成させる
2 択法覚支:智慧による分析を完成させる
3 精進覚支:努力精進を完成させる
4 喜覚支 :こころの喜悦を完成させる
5 軽安覚支:心の安静を完成させる
6 定覚支 :心の集中を完成させる
7 捨覚支 :心を平静を完成させる
以上の習熟によって、明知と解脱が完成する
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ただ、過去に何が起こっていたのかを理解することができます。
そして、今ここでの自分のあり方に対して働きかけることができます。
無明によって業を作り上げてしまうパターンを繰り返さないように、智慧によって渇愛や執着が自然に色あせるのを見守り、思いやりが生まれる新しいスペースを開くように努めるのです。
これが人生において変えることのできる部分なのです。
コピーの部分が気に入りました。
早速買います。
今2回目です。
素晴らしすぎて唖然。
この本、名著ですよね!まさに隠れた名著。
共感頂き嬉しいです。(^^