日常

川上未映子「へヴン」

2010-05-04 22:34:01 | 
■「へヴン」

川上未映子さん「へヴン」を読んだ。

熊本から東京への待ち時間、飛行機の中、電車の中・・・
物語の中に入り込み、深くその森に沈んだ。


何という感情と連動しているのか分からないけれど、涙が出て、本の文字が滲んだ。  
かなしみでも、あわれみでも、つらさでもなく・・・

そういう言葉で名づける以前に、ただ、ただ、涙が、溢れて出てきた。


イイ作品は、一人でも色々語りたくなるもの。
そして、読んだ他の人とも、色々語りたくなるものだ。
そういう作品は、時代や世代を超えても読み継がれるはず。



■どの側か

この本は、いろんな分野で話題になっていて、今読むべき本の一つだと思っていた。

大きくは、「イジメ」問題と「善悪」を入口にして、読み手を自分の頭で考えるよう促す作品だと思う。


イジメられている描写が出てくる。僕とコジマの二人。
口の中に何かを入れられたり、砂利を噛んだり、口の中に血が出たりする描写を読むたびに、自分の口の中にも同じような違和感を感じる。
眼を背けたくなるけれど、それでも読み続ける。
深い森に入っていく。


百瀬のイジメに対する考え方、コジマのイジメラレルことに対する考え方や態度。
このあたりが本の山場となるのだけど、そこは本を読んでもらうとして、ブログではこの本を通して自分が感じたことを簡単に書いておきたい。


イジメは、ある集団の中で、ちょっとしたことがきっかけで起き始める。
そして、イジメが起きている場所には、水面下で生まれては消えるイジメの前段階も必ず起きている。



イジメの現場を見ると、誰もがゾッとする。
それは、誰もがイジメの対象になりうるから。
イジメる側、イジメられる側、その他大勢。
その3つは必ずセットとして存在する。



■理由なんて、ない

イジメる側も、いつ立場が変わるか分からず、きっと不安で不安でたまらないはずだ。

なぜなら、イジメるに足る決定的な理由なんて、はじめからないのだから。
そんなものはこの世に存在するはずがない。

人をいじめたり、虐げたり、損なう正当な理由なんて、絶対に存在しない。
だからこそ、理由は単なるコジツケに過ぎない。
理由なんて本当は何でもいいのだ。


「へヴン」に出てくるような、くさいとか、汚いとか、身体的特徴があるとか、そういう「しるし」は、単に分かりやすいからに過ぎない。



力があるもの、力がないもの。
たまたま自分に力があれば、イジメる側に回りさえすれば、イジメられない。
だから、いじめるものはいじめる側にたつ。
それだけの理由だ。

それは、殺される前に殺す。
力があるうちに、暴力を受ける前に暴力で先手を打つ。
という考えと、同じようなもの。相似形にある。



■大人の社会のイジメ

イジメは子供社会の問題のようだけれど、大人の社会でも当たり前のように起きている。

子どもの社会と少し違うように思うのは、大人の場合は「その場を去る」という選択肢が比較的早めに実行されうるということくらいか。
ただ、その場が何も変わらなければ、その人が去っても、また別の人が標的にされる。イジメは再生産され続ける。


大人でも子供でも、起きていることは同じようなものだ。
受けた傷はきっと何らかの形で残り、ある一線を越えて大きく損なわれた人は、その欠損を長い時間抱えなければいけない。それはその人を飲み込むほどの、大きい闇へと変貌することもある。



■イジメが生まれる理由

イジメは、その場全体が持つ均衡が崩れ、影と闇が「かたち」として目に見えるようになったものだと思う。
その「かたち」はきっと複数存在していて、そのひとつが「イジメ」なのだ。


全体のバランスが大きく崩れ、闇や影が一点に集中した密度の高い場所として、「イジメ
」は起きている。


イジメる側、イジメられる側、その他大勢。
それは常に変わりうる。
善と悪も、そのようにして入れ替わることがある。
微妙な均衡の問題だ。


恨みや怨念や憎悪は、復讐という形で善と悪が入れ替わりながら繰り返す。


「へヴン」でのコジマの姿勢からも、復讐が復讐を生むこと。復讐や暴力での反逆はイジメる側と同じ立場になること。
そのことを拒みつつ、いじめられ続けているように見えた。



■場が持つ均衡

場が持つ均衡が崩れ出していることを誰かが察知して、その損なわれたバランスの原因を探さなければいけない。
学校、会社・・・その場の中に、その答えは必ずあるのだと思う。


そんなバランスを考えなければ、また何らか別の形での「悲惨」が生まれる。


全体のバランスが歪むと、親切で優しく全てを受け入れる人に、負の高密度が凝集してしまう傾向にある。それを便宜上、その場での弱者と呼ぶ。


光があれば、必ず闇ができる。
このことは、「影の現象学」(河合隼雄)を読んで強く感じたことでもある。
光と闇は、つかず離れずの関係にある。
それはバランスの問題だ。



全体のバランスが何らかの形で保たれ、常に補正され続けていれば、
暗闇は一点には集中していかない。一人には集中していかない。

イジメという局所的な部分への解決をはかりながら、その歪みを起こすきっかけになった、全体が大きく損なったバランスを考えないといけない。
そうでないと、偶然を装いながら、イジメられる対象をサーチライトで照らし続ける。



イジメる側、社会的な強者・・・。
暴力や殺人。

理屈は、「ヘ理屈」も含めていくらでも立てられる。
刃向かうものには圧倒的な暴力でねじ伏せればいいから。


暴力に暴力で立ち向かうのは、恨みが恨みを産む連鎖と同じだ。

暴力に対抗するには、善と悪が圧倒的な非対称にならないよう、全体のバランスを保つ努力をする必要がある。
そして、そのバランスを保ち続けることで、その場に暴力を無化するものを作動させ続ける。

暴力へと向かう負の大きなエネルギー。
「なんとも言葉にできないけれどイライラする、ムカムカする、とにかくウザい」というような、行き場もなく、言語化もできない巨大なエネルギー。
そんなものを、何かしらで言語化する作業を通過させて、何かの「かたち」にして、その余剰部分を、場全体の力で向きを変えていく必要がある。





イジメや暴力のような悪の結晶化が起きるためには、その場全体のバランスに問題がある。このことは局所のイジメの問題だけにとらわれず、常々意識していないといけない。
子供の社会は大人の社会の縮図。
子供がお互いに純粋なだけに、残酷な形で表現される。

光があれば闇ができる。
それは、常にバランスの問題。

その場が持つバランスが大きく崩れた時、優しく、おおらかで、何でもありのまま受け入れる、やさしい人へめがけて、その崩れた高密度は集中する。
それが、持続するイジメへとつながる。
瞬間的な突発的なイジメにも似た現象は、きっと日々起きては消えている。


局所に目を向けるとともに、必ず全体のバランスに目を向けなければいけない。

そして、理論や知性や学問は、そういう人を守るためにこそ、発揮されなければ、偽物だと思う。


イイ作品は、一人でも色々語りたくなるもの。
そして、読んだ他の人とも、色々語りたくなるものだ。

4 コメント

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キター! (maki)
2010-05-05 14:26:24
ども~おひさしぶりです。
多分、同じ建物の中にいるのでしょうが…

ヘヴン、私も強烈に印象に残っている本の一つです。
自分自身は、「僕」がいじめの理由を問いただした時の、百瀬の言葉があまりに衝撃的で。「ことの始まりは何だって、いつだって、たまたまでしかないよ。」という、あの言葉。
なんというか、単なる”いじめ問題”を主題とした物語ではなく、やはり俊君と同様、「バランスと場のチカラ」の怖さを感じる物語でした。
いじめのリアルな描写にもドキドキしたけど、どちらかというと、背景には人間の本質をかなり鋭く突いてくるテーマが見え隠れして心をぐりっとえぐられるような、本でした。

ちなみに、紙がきれいでさわり心地がよくて、余計にストーリーが沁みました。

今度、ぜひとも語りましょう。
わたし、このテーマ、色々と思うところがある。
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子供の社会は大人の社会の縮図 (いなば)
2010-05-06 08:00:27
>>>>>maki様

ヘヴン、意外に一気に読めるよね。
百瀬の言葉は、この本の見せ場だよね。
あと、コジマという女の子が見せる態度とか、「汚れ」をしるしとして、頑なに汚れを保ち続けることとか。
汚れとか汚いとかは、日本的な「穢れ」の概念とも結びつきますよね。
汚れがうつるとか、穢れがうつるとか・・・・
そういう伝染性を持つって発想は、差別意識の根幹にあるもので。



あ、確かにそういわれて、紙を見てみたら、確かにきれいだねぇ。
あれは川上さんのコダワリなんだろうね。文庫版にはないあの感じ。ハードカバーはかさばるけど、あの本をめくる神聖な儀式のような感じは、イイよね。

この本がテーマにするような問題は、常にその現場現場で違う形で、その場にオリジナルな形で生まれてくるものだから、常に更新して考え続けないといけない問題なのだろうね。


子供の社会は大人の社会の縮図。
子供がお互いに純粋なだけに、残酷な形で表現されるものです。

子供が人を傷つける言葉って、ほんと装飾が無いから残酷だもんね。
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まだ読んでないわー (Is)
2010-05-06 22:06:40
川上未映子さんの出てる「トップランナー」がアメリカの日本チャンネルで放映されていて見ました。
女優さんのようにキレイな人だけど、やっぱり改めて、言葉遣いが、独特…であり、丁寧というか、正確だと感じた。奇を狙っているようなコピーが多いけど、まったく「不思議ちゃん」ではないんですよね。論理の反対ではなく、論理の向こうに届く言葉だと思った。

『ヘヴン』未だ読んでないのよねん。
イジメ…と言えば、僕は社会学者・内藤朝雄さんの『いじめの社会理論』に影響を受けました。内藤氏自身、かなりハードないじめの現場を経験し、それを社会学的に解決を模索している実存的労作!
学校からいじめを無くす短期的手段(渦中の人間にとっては、今が重要)…「クラス制の廃止」…このラディカルな制度変更へは何より現場の先生から反対があるんだろうな~。
でも、市民社会では当たり前の、「距離を取る自由」さえあれば、あたかも今や奴隷制が歴史的なもののように、「いじめ」という概念自体が理解できないくらいになるんだろう。
…ぼくは、社会の学に強い関心がある。それは、この世界から不幸を完全に無くすことは出来ない(し、無くすべきでもない…完全な世界は一つの抑圧された世界だと思うから)。しかし、不幸の総量を今の1/10、1/100にすることは、社会の制度変更で可能だと強く思うからです。
自殺とか孤独死とか無縁社会とか…とかく気の滅入るような話題の多い豊かな国日本ですが、でも大好きな国だから、少しづつでも、微力ながら、良い社会に変えていく努力をしたいです。
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詩人 (いなば)
2010-05-09 06:00:25
>>>>>Isくん
川上未映子さんって、確かにほんと美しいよねぇ。そして、すごくお洒落だし。ネコ系ですよね(どうでもいい)。

言葉遣いも、確かに正確で、思いつきで話しているようで、すごく言葉を選んでる気がします。
<論理の向こうに届く言葉>っていうのはいいね。
感覚系、直感系の要素もありつつ。その辺は詩人なんだろうなぁ。


その内藤朝雄さんみたいに、とりあえず、今どうするかっていう短期的な問題と、長期的な問題。
どっちも大事よね。
それは生命倫理の問題を哲学者がグダグダ話すのも大事だけど、今自殺しようとしている人を止めるだけの言葉を持てるかっていうのと同じだと思うな。

世界から不幸を完全に無くすっていうのは、ある意味脳の中でしか成立しないバーチャル世界だろうけど、僕もそこで完全に打ち切るのはイヤで、でも、だからこそ、出来る範囲で、独りよがりではない方向で、なんとかしたいっていうのも同時にある。
まあ、できる範囲で、コツコツと力を蓄えて行かないといかんですなぁ。
また本読んだら感想聞かせてー。
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