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日常

考えること

2010-12-24 17:18:26 | 考え
■「偏見」

「偏見」、「決めつけ」、「レッテル貼り」について考えている。


あの人は変だとか、妙だとか、意味わかんないとか。・・・
「決めつけ」で「レッテル貼り」をする「偏見」を見かけることがある。
それを見るたびに、<人のふり見てわがふり直せ>で、いつのまにか自分もそうならないよう注意しないといけないなと思う。



狭い業界、専門的な業界は、視点を狭くして精密に見ることを重視した世界だ。
精密に細かく見ることができる反面、そこは偏見に満ちた袋小路の迷宮に入り込んでいることもあるから、注意が必要だと思う。
偏見は偏った見かた。そこにバランスはない。


決めつける前に、<なぜ・どこが・どう変なのか・・・・>を、具体的に考えてみる。
イメージで流されず、具体的に。
具体的に考えると、同じ人間だから、共感できるところを探す。
ひとつくらいは共感や長所が見つかるはずで、そこを糸口にしていく。
どんなに探しても長所が見つからない場合、確かにその人とはうまくやっていくことは難しいかもしれない。
ただ、それはあくまでも例外的な場合だ。


自分が狭く硬く固定化していると、相手も固定化してもらわないと困る。
だから、「偏見」をもって相手を決めつけなければいけなくなるのだろう。



■考えること


脳があるから考えるし、考えるから脳は育つ。

人間が持つ大脳みたいな特殊なかたまりは、自然界を探しても「ヒト」くらいしか見当たらない。
どんどん肥大して膨らんだ感じだ。

ヒトに特殊だからこそ、いろんな生物や無生物を代表して、ヒトの脳を使って僕らは「考える」ことをすべきなのだと思う。


基本的には、考えることに知識とか「幅広く豊かな」経験とかはいらないんだと思う。
それはあくまでもオプションで、自分のできる範囲でいいから、とにかく考えてみることは大事だ。  


理由の底の底、さらにその底。 
自分にとっての関係性や意味づけ。
ためしに考えてみること。 それは高級な暇つぶし。高級な遊びだ。


「偏見」、「決めつけ」、「レッテル貼り」・・・
そういうものは、自分の脳も含め、自分の身体感覚の閾値を、静かに落としていくのだと思う。



■勝海舟

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勝海舟「氷川清話」

『主義といい、道といって、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。
単に道といっても、道には、大小厚薄濃淡の差がある。
しかるにその一つを揚げて、他を排斥するのは、おれの取らないところだ。
人が来て囂々(ごうごう)とおれを責めるときには、おれは『そうだろう』と答えておいて争わない。
そして後から精密に考えてその大小を比較し、この上にもさらに上があるだろうと想うと、実に愉快で堪えられない。

もしわが守るところが大道であるなら、他の小道は小道として放っておけばよいではないか。
智慧の研究は棺の蓋をするときに終わるのだ。こういう考えを始終持っていると実に面白いよ」

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勝海舟の、主義や道にこだわらないところ、そして、後で落ち着いて自分なりに考えてみること。
そんな地道で謙虚な姿勢は好きだ。
「智慧の研究は棺の蓋をするときに終わるのだ。」と言っているのは好きだ。  


僕らは、今この時点で、せっかく運よく死なずに生きている。
それ自体で、かなりの幸運の持ち主だ。

それならば、ほんとうに自分の棺がバタンと閉まってしまうまで、いろいろやってみたり、考えてみたりすればいいんだと思う。