日常

笑う神々 東京ノーヴィ『古事記』

2015-11-19 01:21:28 | 芸術
東中野の梅若能楽学院会館にて、東京ノーヴィ・レパートリーシアターの古事記を見た。今回で3回目になるが、素晴らしい舞台だった。見れば見るほど深みが出る。

ロシアという風土を背景に持つアニシモフ芸術監督の作品。
アニシモフ監督から見えている日本神話のVisionを共有しているようでとても新鮮だった。

日本神話の神々を、笑顔として表現しているのが素晴らしい。笑顔ではじまり、天岩戸の神々の笑いで終わる。メビウスの輪のようにループする。その展開が素晴らしい。笑いは意味や論理を超えている。
笑いが笑いを生み出し、笑いが笑いの共鳴を起こす。
笑顔が笑顔を生み出し、笑顔が笑顔の共鳴を起こす。
波紋は空間にも伝わり、空間を漏れ出てその波動は別の場へも伝わるといいなと思う。

戦争や戦いによって何かを解決しようとする方法が存在しているこの世の中。そこを突破していくためには、笑いや芸術の力が内在する本質を探ることが求められているのだと思う。その一つの表現として芸術や芸能がある。



音声やリズムも、人間界ではない天上界のリズムのよう。能楽堂と共鳴していた。
ポンポコポンポコ・・・・

ゆっくり動く、というだけで、何かそこに神聖さが付与されるのも不思議なところだった。日常的に速い動きに慣れ過ぎているのだろう。ゆっくり歩くと、心の動きもゆっくりとなり、熟考でき、時が満ちるのをゆっくり待つこともできる。今は待つことができない時代になっている。


能楽堂という空間自体が持つ奥の深さも感じた。異界に入っていくようで。


Health(健康)と言う言葉は、元々、古代ゲルマン語のHagalから来ている。それは、最初の生命体であるCosmic Egg(宇宙卵の)のこと。ゲルマン神話では、この世は完全なCosmic Egg(宇宙卵)が割れ、父なる天と母なる大地ができたとされる。

Hagal(最初の生命、Cosmic Egg:宇宙卵)から、古英語のHal(完全な)が生まれ、そこからHeal(癒す)→Health(健康)という言葉や、Holism(全体論)、Whole(完全な)という言葉や、Holy(神聖な)という言葉が分岐している。
(江藤裕之, Bull.Nagano Coll.Nurs.長野県看護大学紀要 4:95-99, 2002)

だからこそ、Health(健康)という言葉は、元々が全体論的であり神聖なものだ。
能楽堂という神聖なる空間が、そのままCosmic Eggのようなもの。そこに入って出ると、人はholyになり、holismになり、healthになり、変容して出てくるのだろう。卵から孵化するように。


強い場の力を感じた。その場と、鎌田東二先生の超訳古事記、その本にInspirationを受けたアニシモフ芸術監督解釈の古事記も、素晴らしい共鳴現象を起こしていた。

その場に居合わす事ができたことを光栄に思う。補助椅子が出るほどの満員御礼であったことも嬉しく思う。


P.S.
こちらは1年前の初演の時に書いた感想です。こうして見かえすと、感じいるポイントが微妙に変わる。
東京ノーヴィ・レパートリーシアター「古事記 天と地といのちの架け橋」(2014-10-10)

P.S.2
これは何が何でも行きたい。
古代日本と古代ギリシアとのリンクとなる重要な演目。
耳をすませば、時空を超えて、世阿弥とホメロスが、日本の能楽師梅若玄祥先生とギリシアの劇作家ミハイル・マルマリノスさんとが、依り代として共鳴している。


○2016/1/20(水)18時 新作能『冥府行 ~ネキア』 国立能楽堂
出演:梅若玄祥ほか
舞囃子 隅田川:観世清和
発売日:11/21(土)10時~
  原作:ホメロス作「オデュッセイア」
   能本脚本:笠井 賢一
   節付:梅若 六郎玄祥
   演出:ミハイル・マルマリノス
   能楽囃子監修:大倉 源次郎
   プロデューサー:伊藤 寿
   エグゼクティブプロデューサー:西尾 智子、ヨルゴス・ルコス
 チケット発売日:11/21(土)10時~
梅若会インフォメーション より)





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2015年07月10日の読売のInterview記事より。

能楽師の梅若玄祥が古代ギリシャの叙事詩「オデュッセイア」を題材に創作した新作能「冥府行~NEKYIA(ネキア)」が、ギリシャ・エピダウロスの古代劇場で7月に上演される。
 玄祥に創作を依頼したのは、ギリシャ人演出家のミハイル・マルマリノス。生者と死者が対話する能の手法に興味を抱いたという。
 エピダウロスは紀元前4世紀頃に栄えた都市。同劇場で毎年開かれる演劇祭で上演される。取り上げるのは叙事詩の第11章で、英雄オデュッセウスが、魔女キルケーの助言に従い、冥府にいるという予言者ティレシアスに会いに行く物語になるという。
 これまでも各地で劇化されてきた有名な叙事詩だが、「この章だけは、ほとんどが省かれてきた」とマルマリノス。自身もこの章を演出する手段が見つからず、「何かを見失ってしまいそうな気がして、長年、触れられなかった」と明かす。
 ひらめいたのが、学生時代から親しんできた能だった。後にキリスト教が広がるギリシャでは、古代人と現代人の精神性に「大きな断絶」があり、今もルーツを探すマルマリノスは「能と出会い、古代と向き合う小道を見つけた気がした」と言う。
 作曲や振り付けを考えた玄祥は「ほとんどの能で生者と死者の対話が描かれますが、ミハイルから『普通の演劇ではそうした表現が難しい』と頼まれ、大きな宿題を与えられた」と話す。舞などの能の様式を強調するため、ティレシアスとキルケーを主人公とし、両ジテで自ら勤めると言う。
 玄祥は見所として、オデュッセウスを見送るキルケーの舞や、オデュッセウスが亡き母と出会う場面と母が亡き子供の幻を見る古典作品「隅田川」との共通点などを挙げている。