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連休中もずっと当直だー。
ふと本棚で「日本の伝統」(岡本太郎)が目に付いたので、当直中の時間あるときにこそこそと読んでいる。
伝統について、感じ入ることが多い。
岡本太郎の思索は、伝統という狭い意味だけでもなく、「過去・現在・未来」に関する「時間論」にも聞こえてくる。だから、さらにすごい。
岡本太郎「日本の伝統」より
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伝統とは何か。それを問うことは己の存在の根拠を掘り起こし、つかみとる作業です。
伝統-それはむしろ対決すべき己の敵であり、また己自身でもある。そういう激しい精神で捉えかえすべきだと考えます。
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『(法隆寺焼失の記事を受けて)自分が法隆寺になればいいのです。失われたものが大きいなら、ならばこそ、それを十分に穴埋めすることはもちろん、その悔いと空虚を逆の力に作用させて、それよりもっとすぐれたものを作る。
そう決意すればなんでもない。そしてそれを伝統におしあげたらよいのです。
そのような不逞な気魄にこそ、伝統継承の直流があるのです。
むかしの夢によりかかったり、くよくよすることは、現在を侮蔑し、おのれを貧困化することにしかならない。』
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『人間としてぶつかり、つかみとり、食えるものはすべて我々の餌とすべきです。そして、たくましく全的に生きる情熱こそ、新しい伝統のあかしとなる。
徹底的にたたかい、痕跡を地上にふかくえぐり、塗りこめ、それが風に耐え、電撃と爆風と苛烈な太陽の直射に耐えて生きぬくことによって、人間の伝統をつらぬいていくのです。』
==================================
岡本太郎の伝統に対する考えに深く共感する。
伝統を受け継ぐとは、「昔はよかった」と遠い目をして過去の物語に引きこもり、過去と現在の時間を分断させることではない。
そういう態度は、現代を侮辱したり、見下げたりする態度へとつながる。
イマ、ココというのは、良くも悪くも、個としてのヒトが集まった全体が、過去には無限にあると思われた選択肢の中から選び取った、「過去から見た、まだ見ぬ未来」が現在であったはず。
もちろん、それはヒトの「みずから」だけではなく、「おのずから」も複雑に混ざってはいると思う。
伝統として偶然残ったもの。
それは価値を見出されて博物館や美術館の中にあるものもあれば、誰も価値を認めず、その辺りに転がっているものもある。
過去から現在に続く切れ目ない流れの中で、そんな過去や伝統を現在の目で見直してみる。
マスコミとかが作り出したイメージに惑わされず、自分自身の眼で、じっと見つめる。
自分たちの特権は、「現在」に「生きている」ことだ。
だから、過去に現在しかないものを吹き込む。
一度ほどいて、今、もう一回編み直す。
そうして、過去は現在の中に本当の意味で取り込まれて、連続する。
歴史を学ぶのは、教訓を得るとかの損得勘定ではない気がしてきた。
現在は、全ての過去を取り込みながら流動して、常に生成・消滅されている。
その現在を引き受ける運動のようなものが、現在を生きていくということなのかもしれない。
31歳になってその辺りがやっと分かってきたから、狭い意味の教育・勉強を超えた文脈の中で、世界史にもすごく興味があるし、宇宙とか地球とか人類の歴史そのものにも、ものすごく興味が湧いている。
そして、その全てを、今やっている仕事自体にぶつけて融合させて、新しい現在を見据えていきたいと思っている。
現代の社会を見ると、確かに多くの矛盾を抱えている。
弱肉強食での格差増大、職につけない人の増加、環境破壊、・・・
ただ、そんな現代にツバを吐いて、背を向けて、過去の物語に閉じこもって、御伽噺の世界に行ってしまうと、何も始まらない。
「昔はよかったねー」という同窓会になって、その時はその時で気持ちいいかもしれないけど、そこからは何も始まらない。
そこで、過去は本当に死んでしまう。
古典に現在の息吹きを加え、現代で「受け」、現代に「継ぐ」。
それが「受け継ぐ」こと。
過去に息吹を加えることで、過去は死なず、現在の中で生き続ける。
そんな運動の連続こそが、イマココの地平からはぼんやりとしか見えない、「まだ見ぬ未来」になるのだと思う。
岡本太郎は、過去を過去として固定化せず、殺さず、そこに現在と未来を見出しながら、「飛び込め!」と激を飛ばしているようだ。
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過去もナマの眼で見返したとたんに、現在、つまりわれわれ自身に変貌するのです。
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過去は現在が噛み砕き、乗り越えて、我々の現実をさらに緊張させて輝かすための契機であるに過ぎません。
現在が未来に飛躍するための口実なのです。
つまり、かんじんなのはわれわれの側なので、見られる遺物のほうではない。
==================================
自分も、自分なりに過去を見返して掘り起こして、現実の、現在の契機にしてみよう。そういう「動き」として捉えなおそう。
それは学問の過去でもあり、医学の過去でもあり、ヒトの過去でもあり、生命体の過去でもある。
結局は、全ての過去になる。
自分が生きている間、できる限りの範囲で。
2010年の頭に読むには、すごくいい本だった。
過去とか伝統を見る眼が変わってしまった。
視点が変わるだけで、世界は変わる。
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過去といっても、過ぎ去り、すべて終わってしまったものではない。
自分の責任において創造的に見返すべきモーメントなのです。
自分の全存在で挑み、新しくひらくものです。
過去は自分が創るのです。そのようにして瞬間瞬間に創られて行く過去だけが、生きて、伝統になるのだと私は思っています。
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自分は、今死んでいなくて生きている。だからこんな文章を書いている。
過去を殺して死んだものとするかは、生きている側の働きかけにより、決まる。
死者も、思い出の中で生きていれば死んではいない。
過去も、僕らの中で生きていれば死んではいない。
ふと本棚で「日本の伝統」(岡本太郎)が目に付いたので、当直中の時間あるときにこそこそと読んでいる。
伝統について、感じ入ることが多い。
岡本太郎の思索は、伝統という狭い意味だけでもなく、「過去・現在・未来」に関する「時間論」にも聞こえてくる。だから、さらにすごい。
岡本太郎「日本の伝統」より
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伝統とは何か。それを問うことは己の存在の根拠を掘り起こし、つかみとる作業です。
伝統-それはむしろ対決すべき己の敵であり、また己自身でもある。そういう激しい精神で捉えかえすべきだと考えます。
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『(法隆寺焼失の記事を受けて)自分が法隆寺になればいいのです。失われたものが大きいなら、ならばこそ、それを十分に穴埋めすることはもちろん、その悔いと空虚を逆の力に作用させて、それよりもっとすぐれたものを作る。
そう決意すればなんでもない。そしてそれを伝統におしあげたらよいのです。
そのような不逞な気魄にこそ、伝統継承の直流があるのです。
むかしの夢によりかかったり、くよくよすることは、現在を侮蔑し、おのれを貧困化することにしかならない。』
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『人間としてぶつかり、つかみとり、食えるものはすべて我々の餌とすべきです。そして、たくましく全的に生きる情熱こそ、新しい伝統のあかしとなる。
徹底的にたたかい、痕跡を地上にふかくえぐり、塗りこめ、それが風に耐え、電撃と爆風と苛烈な太陽の直射に耐えて生きぬくことによって、人間の伝統をつらぬいていくのです。』
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岡本太郎の伝統に対する考えに深く共感する。
伝統を受け継ぐとは、「昔はよかった」と遠い目をして過去の物語に引きこもり、過去と現在の時間を分断させることではない。
そういう態度は、現代を侮辱したり、見下げたりする態度へとつながる。
イマ、ココというのは、良くも悪くも、個としてのヒトが集まった全体が、過去には無限にあると思われた選択肢の中から選び取った、「過去から見た、まだ見ぬ未来」が現在であったはず。
もちろん、それはヒトの「みずから」だけではなく、「おのずから」も複雑に混ざってはいると思う。
伝統として偶然残ったもの。
それは価値を見出されて博物館や美術館の中にあるものもあれば、誰も価値を認めず、その辺りに転がっているものもある。
過去から現在に続く切れ目ない流れの中で、そんな過去や伝統を現在の目で見直してみる。
マスコミとかが作り出したイメージに惑わされず、自分自身の眼で、じっと見つめる。
自分たちの特権は、「現在」に「生きている」ことだ。
だから、過去に現在しかないものを吹き込む。
一度ほどいて、今、もう一回編み直す。
そうして、過去は現在の中に本当の意味で取り込まれて、連続する。
歴史を学ぶのは、教訓を得るとかの損得勘定ではない気がしてきた。
現在は、全ての過去を取り込みながら流動して、常に生成・消滅されている。
その現在を引き受ける運動のようなものが、現在を生きていくということなのかもしれない。
31歳になってその辺りがやっと分かってきたから、狭い意味の教育・勉強を超えた文脈の中で、世界史にもすごく興味があるし、宇宙とか地球とか人類の歴史そのものにも、ものすごく興味が湧いている。
そして、その全てを、今やっている仕事自体にぶつけて融合させて、新しい現在を見据えていきたいと思っている。
現代の社会を見ると、確かに多くの矛盾を抱えている。
弱肉強食での格差増大、職につけない人の増加、環境破壊、・・・
ただ、そんな現代にツバを吐いて、背を向けて、過去の物語に閉じこもって、御伽噺の世界に行ってしまうと、何も始まらない。
「昔はよかったねー」という同窓会になって、その時はその時で気持ちいいかもしれないけど、そこからは何も始まらない。
そこで、過去は本当に死んでしまう。
古典に現在の息吹きを加え、現代で「受け」、現代に「継ぐ」。
それが「受け継ぐ」こと。
過去に息吹を加えることで、過去は死なず、現在の中で生き続ける。
そんな運動の連続こそが、イマココの地平からはぼんやりとしか見えない、「まだ見ぬ未来」になるのだと思う。
岡本太郎は、過去を過去として固定化せず、殺さず、そこに現在と未来を見出しながら、「飛び込め!」と激を飛ばしているようだ。
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過去もナマの眼で見返したとたんに、現在、つまりわれわれ自身に変貌するのです。
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過去は現在が噛み砕き、乗り越えて、我々の現実をさらに緊張させて輝かすための契機であるに過ぎません。
現在が未来に飛躍するための口実なのです。
つまり、かんじんなのはわれわれの側なので、見られる遺物のほうではない。
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自分も、自分なりに過去を見返して掘り起こして、現実の、現在の契機にしてみよう。そういう「動き」として捉えなおそう。
それは学問の過去でもあり、医学の過去でもあり、ヒトの過去でもあり、生命体の過去でもある。
結局は、全ての過去になる。
自分が生きている間、できる限りの範囲で。
2010年の頭に読むには、すごくいい本だった。
過去とか伝統を見る眼が変わってしまった。
視点が変わるだけで、世界は変わる。
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過去といっても、過ぎ去り、すべて終わってしまったものではない。
自分の責任において創造的に見返すべきモーメントなのです。
自分の全存在で挑み、新しくひらくものです。
過去は自分が創るのです。そのようにして瞬間瞬間に創られて行く過去だけが、生きて、伝統になるのだと私は思っています。
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自分は、今死んでいなくて生きている。だからこんな文章を書いている。
過去を殺して死んだものとするかは、生きている側の働きかけにより、決まる。
死者も、思い出の中で生きていれば死んではいない。
過去も、僕らの中で生きていれば死んではいない。