日常

挨拶

2010-10-25 10:26:17 | 考え
「関係性」というものを考えている。

物事に関心を持つとき、「自分との関係性」がないと考えにくい。
関係性を失ったものを自分がいくら考えても、それは思弁的で空想的で形而上学的でフワフワした力のない空疎なものになる。
地面が無い空中に家を建てる感じ。空中建築。


だから、何かを考えるとき、自分との何かしらの関係性を結ぶことは大事だ。
『「ワタシ」を入れること』(2010-10-14)のときも、同じようなことを考えた。
「ワタシ」がその中から見事に抜けていると、悪口でも何でも、何とでも言える。



<不親切な人がおおい><態度が悪い>・・・・・
他人へのいろんな文句を言いがちだけど、じゃあ自分は実行できているのかとなると、そう簡単に人の文句を言うことができないものだ。



ワタシとの関係性。
ワタシ以外の他者との関係性。

社会生活の中で、「関係性」の基本は何かと考えてみると、「挨拶」はすごく大事な要素を占めていると思った。
見過ごされやすいけれど、雰囲気が悪い職場は挨拶がなく、挨拶がない職場は雰囲気が悪い。
挨拶は、無理やりにでも人と人との間に関係性をつくる、そういう社会の知恵なのだろう。




職場での挨拶は、<ワタシとアナタは何かしらの関係性があります>という意思表明でもあると思う。
通り過ぎても挨拶もしないのは、まるでそこには何の物体もないかのように振舞うということであって、その人の存在を消去しているということでもあると思う。存在の否定。



関係性を持つこと。それを煩わしい、面倒くさいものとして、今は排除する傾向にある。
関係性を排除することで個人の自由な時間を得ることもできたけど、同時に、関係性を失い、阻害という新たな状況が生まれたんだと思う。


こういうものを打破するものとして、「挨拶」は有効なのだと思う。
幼稚園でも教わる簡単なことなのだけど、てらいなく自然に実践することは難しい。
むしろ、自然に実行している人はとても偉いと思うようになった。
登山のときに挨拶を交わすように自然に。

挨拶をされると、気持ちいい。悪い気はしないものだ。
それなら、自分も「挨拶」というものとの関係性を切るのではなく、自分が挨拶をする側に回った方がいいと思う。挨拶をしたからといって、失うものは何もない。



田舎に旅に出るとき、見知らぬ小学生に挨拶をされることがある。
それは、地域が持つ知恵なのだと思う。
そうして、関係性をつくる。それは、広い意味では犯罪を減らし、安全を作り出す目に見えない土壌になっているのだろう。

挨拶を日常的に交わしている場所では、ある邪悪なエネルギーが特定の場所に蓄積して凝縮していくことは、実際に難しいのではないかと思う。



素直に挨拶を交わすことことで、関係性は常に更新される。
窓を開けて空気を喚起するように、場の持つ雰囲気も更新されていく。


関係性の喪失、それが生み出した場全体の持つ空気の悪さ。
そういうことを悲劇的に嘆くより、まず職場でもっと挨拶をするようにしようと、ふと思っている。

4 コメント

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こんばんは! (imura)
2011-01-03 21:03:00
ふとこの記事を読んでいて、以前あの南浦和の塾で、「この先生が、ハイタッチをしたら子供が目を輝かせて喜ぶんだよー」と言われていたのを思い出しました。ハイタッチは大げさな例ですが、関係性を作る、場の雰囲気を作るというのには非常にいい挨拶の例だなぁと思いだしました。
「礼に始まり、礼に終わる」というのはいいことですよね。僕も心がけます。
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どうもどうも。 (いなば)
2011-01-04 21:08:24
やっぱり、いい関係だと挨拶って自然に出ちゃうものだよね。
逆に言えば、どんなに毎日会っていても、挨拶すらしない関係はいかがないもんかって気がするよ。
おはようとかおやすみとかいただきますとか・・・まあこの世には色んな挨拶があるわけで。


難しい事も大事だけど、こういう素朴で簡単な事の中に、生活の知恵も隠されてるし、おろそかにしてはいかん大事なことが隠れてるんでしょう。

礼に始まり、礼に終わる」もそうだし、「親しき仲にも礼儀あり」とかも同じようなものかもしれないねぇ。

まあ、自分への自戒もこめて、書いたわけです。
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あなたとわたしが分かちはじめたときに。 (sachiolin)
2011-01-05 15:48:58
挨拶や眼差しや微笑みってほんとうに大切だよね。

マザーテレサの言葉を思い出しました。
いまいちど読んで、昔より、より一層ぐっとくるものがあり、目頭が熱くなりました。



「構わず、あなたでありなさい」
人は不条理で自己中心的なものです。
構わず、彼らを許しなさい。
あなたが人に親切にすると、
人はあなたの偽善を責めるでしょう。
構わず、親切でありなさい。 
あなたが正直であれば、
人はあなたを騙すでしょう。
構わず、正直でありなさい。
あなたが幸せだと、
人はあなたを妬むでしょう。
構わず、幸せになりなさい。
     
今日あなたのしたよい行いは、
明日には忘れ去られるでしょう。
構わず、よい行いをしなさい。
               
親切で慎み深くありなさい。
あなたに出会った人がだれでも
前よりももっと気持ちよく
明るくなって帰れるようになさい。
親切があなたの表情に、まなざしに、
ほほえみに、温かく声をかけることばに
あらわれるように
子どもにも貧しい人にも
苦しんでいる孤独な人すべてに 
いつでもよろこびにあふれた笑顔をむけなさい
世話するだけでなく
あなたの心を与えなさい
何もしなくてもいい。
そこに苦しんでいる人がいることを
知るだけでいいのです。
あなたがちょっと微笑むだけでいいのです。
新聞を読んであげると、慶ぶ目の不自由な人も、
買い物をしてあげると、慶ぶ重い病気の母親も
いるでしょう。
小さいことでいいのです。
そこから、愛は始まるのです。
平和は微笑みから始まります。
1日5回あなたが本当は笑顔を見せたくない人に
微笑みかけなさい。
それを平和のためにするのです。
健康な人やお金持ちは、どんなウソでも言えます。
飢えた人、貧しい人は、
にぎりあった手、見つめあう視線に、
ほんとうに言いたいことをこめるのです。
ある人が尋ねました。
「いったいいつ、貧しい人々の貧困はやむのですか?」
私は、あなたと私が分かちはじめたそのときに、
と答えました。
より少なく持てば、
その分、より多く与えられるのです。
より多く持とうとすれば、
より少なく与えることしかできません。
私は、不親切で冷淡でありながら奇跡を行うよりは、
むしろ親切と慈しみのうちに
間違うほうを選びたいと思います。
      
(マザーテレサ)
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力のあるコトバ (いなば)
2011-01-06 09:14:25
このマザーテレサの言葉はほんとに力あるよね。
心の底から沸いてきた詩のような言葉は、ひとのたましいをつかむのでしょうね。


一続きの文だからもちろん分解はできないんだけど、この3つは、今の自分になんだか特に感じ入るものがあった。

・『平和は微笑みから始まります。
1日5回あなたが本当は笑顔を見せたくない人に
微笑みかけなさい。
それを平和のためにするのです。 』
平和のためにするのです。というところが強い力を感じるよね。表層的ではない強い信念のようなもの。自分と世界とを連続的につないだようなコトバ。

・『飢えた人、貧しい人は、
にぎりあった手、見つめあう視線に、
ほんとうに言いたいことをこめるのです。』
ことばにならないコミュニケーションは、ある程度自分の側の感度をあげないと、その微力なシグナルは感じ取ることが難しいものだよね。でも、そんなコトバにならない場所に大切なものはあるし、だからこそ、コトバはコトバとしてちゃんと考えていけないものなのでしょうね。コトバがわかるからこそ、コトバ以外の場所がわかるわけで。


・『「いったいいつ、貧しい人々の貧困はやむのですか?」
私は、あなたと私が分かちはじめたそのときに、と答えました。 』
自分のできる範囲で、そういう何気ない他者との関係性の中に、自分と世界や宇宙との関係性をアナロジーで考えていくのは、まさしく自分も最近は努めて励んでいることです。
なんだかいろいろ、勇気が湧くコトバですよね。ほんとうに。
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