渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムに、『レオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想』を見に行ってきました。6月10日まで。
ダ・ヴィンチの絵画で現存するものは15点しかないといわれていますので、今回の中でダ・ヴィンチの絵は1点だけです。(ダ・ヴィンチの習作、メモ書きのようなものもさらに2点あり)
それでもやはり、「ダ・ヴィンチ」の言葉が持つ言霊はすごく、自分はオープンの10時を狙っていきましたが展覧会の中は溢れんばかりの人でした。
ダ・ヴィンチの描いた《ほつれ髪の女》を見ながら、
「ああ、この絵の前にダ・ヴィンチはかつて生きていて、この場所で絵筆を持って描いていたんだ・・」
と忘我の境地で絵画を見ていると、まるで隣にダ・ヴィンチがいるかのような臨在感がリアルに感じられてくるから不思議です。
荘子『忘己観物 忘物観道(おのれを忘れてモノを見よ モノを忘れて道を見よ)』
やはり、絵画の周辺には当時のダ・ヴィンチの人体を構成する原子の一つくらいは浮遊しているのかもしれません。
髪の毛のDNAからある人が復元できるように、浮遊する原子の一つにもダ・ヴィンチの全情報が詰まっていて、向き合う人の心理状況がひとつの鍵となり、その鍵で秘密の扉を開けることができるのかもしれません。
本物の絵がもつ独特の臨場感、リアリティーと言うのは不思議なものです。それは、聖地を訪れた時と同じような感覚があります。
ダ・ヴィンチの絵をじっと見ていて強く感じられたのは、線の一本一本に、すごいエネルギー密度を感じました。精神の集中力を感じました。
一本の線を書き終わった後に自分の生命は朽ち果てるのではないか、と思うほどの強密度の集中力を感じます。
そういう行為により、作品に生命(life)は注入されるのでしょう。生命に類するものを作りげるというのは大変な営みですから。
僕らの人体も、60兆個すべての細胞が生きています。お腹の中にも数兆単位で腸内細菌が生きている。ミクロの生命が生きているからマクロな自分自身も生存を続けることができるわけで、細胞の一つ一つが着実に生きている。
ダ・ヴィンチの一本の線は、僕ら人体の一つの細胞に比することができるのかもしれません。
以前、漫画家の森薫さんの仕事場で、実際に漫画を描いているところを見せてもらったことがあります。
そのときも一本一本の線を祈りのような精神状況で描いているように見えて、とても感銘を受けたことがあります。(ここにも動画がありますね)
ダ・ヴィンチの絵画も、祈りのような精神状況の産物で生まれたのでしょう。
形なきものを、そうして形あるものに変換させる。その一部がこうして時代を超えて残っている。
精神エネルギーを使う「祈り」も、本人の人格が損なわれているとたちまち「呪い」へと変容してしまいます。白魔術と黒魔術は危うい境界で区切られています。そこは作者の人格を信頼する以外ありません。
ダ・ヴィンチのの白魔術に僕らの意識が変容させられるように、僕らは絵画を通して作者の精神の転写を見ているのだろうとさえ、思うわけです。
この絵画展は、ダ・ヴィンチの絵を見るというよりも、ダ・ヴィンチの同時代の人、弟子たち、ダ・ヴィンチの絵画を模した人たちの絵などが主なものです。
ただ、それだけの計り知れない影響を与えたダ・ヴィンチの人となりを間接的に知ることができるとも言えます。
ちなみに、「レオナルド・ダ・ヴィンチ展 in シアター」というのもあるみたいです。
2011年、ロンドン・ナショナルギャラリーで開催された。現存する15点のうち9点が集められた展覧会「Painter at the Court of Milan」を撮影したもの。
さらにちなみに、自分の部屋には巨大なモナリザの絵が飾ってあります(2000年に上野でやっていた「モナ・リザ100の微笑展」で購入した記憶が)。
毎日モナリザを見ているわけですが、逆に言えば毎日モナリザに見られています。悪いことはできません。
ちなみに、自分はダ・ヴィンチ作品の中でデビュー作の「受胎告知」がいちばん好きです。いつか複製でもいいので買いたいなぁと思いつつ、なかなか出会いません・・・。
(これは2007年の国立博物館のポスター。当時は仕事で東京にいなかったから見れなかったー。)
----------------------------
Leonardo da Vinci
『人間固有の行動がどれほど多様であるか君にはわかるだろうか。また動物や草木や花の種類がどれほど数多いか君にはわかるだろうか。山地や平地、泉、川、都市、公共建築物、住宅、そして人が使う道具、衣装、装飾、美術、この世はなんと学ぶべきことが多いことか。』
----------------------------
『わからないことがあると私は答えを求めて田園をさまよった。なぜ貝殻が山の頂上で見つかるのか。しかも、海にあるはずのサンゴや海藻などの跡をつけて。雷はなぜ起こった後までなり続けるのか。雷光は起こった瞬間から目に見えるのに、雷鳴はなぜもっとあとになって聞こえるのか。水に石を投げると、水面に輪ができるのはなぜか。鳥はどうして空中にとどまっていられるのか。こういう数々の疑問や不思議な現象が私の心をとらえていた。』
----------------------------
『人間は古代人によって小宇宙と呼ばれた。この言葉は実に当を得ている。なぜなら、人間には肉を支える枠組みとしての骨があり、地球には土を支える岩がある。人間は血液という湖を持ち、そこでは肺が膨らんだり、しぼんだりして呼吸作用をしているように、地球には海があり、四六時中潮の満ち引きが宇宙の呼吸作用を繰り返す。血液の湖からは静脈が出ており、体中に枝分かれしていくように、海は地球に無限の水脈を広げている。』
----------------------------
『経験は決して間違えない。間違えるのは人間の判断だ。自分で実験してもいない結果を予測して、判断を間違えるのだ。』
----------------------------
『人が一番惑わされやすいのは、自分自身の考えによってだ。』
----------------------------
『質素であることは最も素敵なことだ。』
----------------------------
『本当に物事が分かっている人は、大声を出さないものである。』
----------------------------
『 時々、機会を見つけて外出しなさい。そして、リラックスしよう。
外から帰ってくると、あなたの判断はより確かなものになります。
いつも仕事にへばりついていると、あなたは、判断力を失ってしまいます。』
----------------------------
ダ・ヴィンチの絵画で現存するものは15点しかないといわれていますので、今回の中でダ・ヴィンチの絵は1点だけです。(ダ・ヴィンチの習作、メモ書きのようなものもさらに2点あり)
それでもやはり、「ダ・ヴィンチ」の言葉が持つ言霊はすごく、自分はオープンの10時を狙っていきましたが展覧会の中は溢れんばかりの人でした。
ダ・ヴィンチの描いた《ほつれ髪の女》を見ながら、
「ああ、この絵の前にダ・ヴィンチはかつて生きていて、この場所で絵筆を持って描いていたんだ・・」
と忘我の境地で絵画を見ていると、まるで隣にダ・ヴィンチがいるかのような臨在感がリアルに感じられてくるから不思議です。
荘子『忘己観物 忘物観道(おのれを忘れてモノを見よ モノを忘れて道を見よ)』
やはり、絵画の周辺には当時のダ・ヴィンチの人体を構成する原子の一つくらいは浮遊しているのかもしれません。
髪の毛のDNAからある人が復元できるように、浮遊する原子の一つにもダ・ヴィンチの全情報が詰まっていて、向き合う人の心理状況がひとつの鍵となり、その鍵で秘密の扉を開けることができるのかもしれません。
本物の絵がもつ独特の臨場感、リアリティーと言うのは不思議なものです。それは、聖地を訪れた時と同じような感覚があります。
ダ・ヴィンチの絵をじっと見ていて強く感じられたのは、線の一本一本に、すごいエネルギー密度を感じました。精神の集中力を感じました。
一本の線を書き終わった後に自分の生命は朽ち果てるのではないか、と思うほどの強密度の集中力を感じます。
そういう行為により、作品に生命(life)は注入されるのでしょう。生命に類するものを作りげるというのは大変な営みですから。
僕らの人体も、60兆個すべての細胞が生きています。お腹の中にも数兆単位で腸内細菌が生きている。ミクロの生命が生きているからマクロな自分自身も生存を続けることができるわけで、細胞の一つ一つが着実に生きている。
ダ・ヴィンチの一本の線は、僕ら人体の一つの細胞に比することができるのかもしれません。
以前、漫画家の森薫さんの仕事場で、実際に漫画を描いているところを見せてもらったことがあります。
そのときも一本一本の線を祈りのような精神状況で描いているように見えて、とても感銘を受けたことがあります。(ここにも動画がありますね)
ダ・ヴィンチの絵画も、祈りのような精神状況の産物で生まれたのでしょう。
形なきものを、そうして形あるものに変換させる。その一部がこうして時代を超えて残っている。
精神エネルギーを使う「祈り」も、本人の人格が損なわれているとたちまち「呪い」へと変容してしまいます。白魔術と黒魔術は危うい境界で区切られています。そこは作者の人格を信頼する以外ありません。
ダ・ヴィンチのの白魔術に僕らの意識が変容させられるように、僕らは絵画を通して作者の精神の転写を見ているのだろうとさえ、思うわけです。
この絵画展は、ダ・ヴィンチの絵を見るというよりも、ダ・ヴィンチの同時代の人、弟子たち、ダ・ヴィンチの絵画を模した人たちの絵などが主なものです。
ただ、それだけの計り知れない影響を与えたダ・ヴィンチの人となりを間接的に知ることができるとも言えます。
ちなみに、「レオナルド・ダ・ヴィンチ展 in シアター」というのもあるみたいです。
2011年、ロンドン・ナショナルギャラリーで開催された。現存する15点のうち9点が集められた展覧会「Painter at the Court of Milan」を撮影したもの。
さらにちなみに、自分の部屋には巨大なモナリザの絵が飾ってあります(2000年に上野でやっていた「モナ・リザ100の微笑展」で購入した記憶が)。
毎日モナリザを見ているわけですが、逆に言えば毎日モナリザに見られています。悪いことはできません。
ちなみに、自分はダ・ヴィンチ作品の中でデビュー作の「受胎告知」がいちばん好きです。いつか複製でもいいので買いたいなぁと思いつつ、なかなか出会いません・・・。
(これは2007年の国立博物館のポスター。当時は仕事で東京にいなかったから見れなかったー。)
----------------------------
Leonardo da Vinci
『人間固有の行動がどれほど多様であるか君にはわかるだろうか。また動物や草木や花の種類がどれほど数多いか君にはわかるだろうか。山地や平地、泉、川、都市、公共建築物、住宅、そして人が使う道具、衣装、装飾、美術、この世はなんと学ぶべきことが多いことか。』
----------------------------
『わからないことがあると私は答えを求めて田園をさまよった。なぜ貝殻が山の頂上で見つかるのか。しかも、海にあるはずのサンゴや海藻などの跡をつけて。雷はなぜ起こった後までなり続けるのか。雷光は起こった瞬間から目に見えるのに、雷鳴はなぜもっとあとになって聞こえるのか。水に石を投げると、水面に輪ができるのはなぜか。鳥はどうして空中にとどまっていられるのか。こういう数々の疑問や不思議な現象が私の心をとらえていた。』
----------------------------
『人間は古代人によって小宇宙と呼ばれた。この言葉は実に当を得ている。なぜなら、人間には肉を支える枠組みとしての骨があり、地球には土を支える岩がある。人間は血液という湖を持ち、そこでは肺が膨らんだり、しぼんだりして呼吸作用をしているように、地球には海があり、四六時中潮の満ち引きが宇宙の呼吸作用を繰り返す。血液の湖からは静脈が出ており、体中に枝分かれしていくように、海は地球に無限の水脈を広げている。』
----------------------------
『経験は決して間違えない。間違えるのは人間の判断だ。自分で実験してもいない結果を予測して、判断を間違えるのだ。』
----------------------------
『人が一番惑わされやすいのは、自分自身の考えによってだ。』
----------------------------
『質素であることは最も素敵なことだ。』
----------------------------
『本当に物事が分かっている人は、大声を出さないものである。』
----------------------------
『 時々、機会を見つけて外出しなさい。そして、リラックスしよう。
外から帰ってくると、あなたの判断はより確かなものになります。
いつも仕事にへばりついていると、あなたは、判断力を失ってしまいます。』
----------------------------