大今良時さんの『聲の形(こえのかたち)』(講談社)という漫画。
傑作でした。何度も涙しました。
ただ、テーマはかなり重いです。
いじめ、聴覚障害。こどもの世界・・・。
それぞれの登場人物の視点が複雑に書かれ、すべての登場人物の体験をします。
読んでいて思う。
それぞれは何かベストを尽くそうとしているはずなのだが、その表現方法や行動が適切ではなく、ほんの少しズレてしまう。本当にしたいことは同じはずなのに。
その小さいズレが大きなズレとなり、人間関係の中で複雑に共鳴して拡大され、個を超えた大きな破綻へとつながる。
そして、それは自分に返ってきて、自分をさらに痛めつけ、自己否定へとつながる。
自己否定は、自分の事だから見ないふりをしたい。そうなると他者否定として顕在化する。それはいじめや悪口となる。
自己否定をすべて自分へ向けると、24時間365日、常に自分を痛め続けてしまうことにもなる。
自分の内部でのことが、すべて外の世界に顕在化してしまう・・。
こどものときに体験するいじめや人間関係、噂話、悪口。小さい世界ではそれがすべてだと思ってしまう。
ただ、それと同程度に、友情や愛や希望も、間違いなくある。
その拮抗関係の中で、こころの世界をわが体験として学び、向き合わされる。見ないふりをしても、何か別の形でつきつけられる。
自分のふとした言動や勇気も、色々な人の心の中へと深い影響を与えている。
それはいい方向に使わないといけないが、こどものときはわからない。大人になって身に染みてわかる。ただ、そのことを現実世界で正しく応用できているかどうかは、難しい。
こどものときに解決しなかった問題は、大人の世界へと持ち越され、似たようなことを職場や親子関係や人間関係の中で繰り返してしまうのだろう。何か深い所での気づきが起きるまで・・・。
こどもの世界からいじめをなくすには、まず大人の世界でいじめをなくす必要がある。
それは、何か問題が起きたら個人のせいにするのではなく、そういうことが起きない場づくりに励むことだとも思う。
個人攻撃にエネルギーを使うのではなく、背後の場そのものを見て、場を整える方向へとエネルギーを使う。起きえない場づくりを。人は、場によって善も悪も誘発される。
都知事の問題も、おそらくそういう状況が起きえない仕組みづくりが必要なのだし、科学者の論文ねつ造問題も、そういう状況が起きえない仕組みづくりが必要なのだし、条件が揃うとそういうことが起きてしまう場そのものを問題にした方がいい。それは共同で力を合わせないと解決しない。個人攻撃をしても、きっと何も解決しない。同じ条件が整ってしまった別の人が、また似たような状況に追い込まれ、同じことは繰り返されてしまう。
いじめに関しては、さかなくんが書いた文章が素晴らしい。
対談本「無意識の整え方」(ワニブックス)で、自分はさかなくんのメッセージを紹介した。そのおかげで、さかなくんとのご縁も生まれた。言霊は、いい方向へも影響を及ぼす。
大人の世界で起きていることは、子供の世界で起きていることと同じだと日々感じていたから。
狭い世界では、いじめが生まれる。
だから、小さい環境で抑え込まれても、自分の内的世界だけは宇宙の果てまで無限に持ち続ける勇気が必要だと思う。
孤立をおそれず、孤高の道を歩むように。それが、自分がさかなくんから受け取ったメッセージです。
・・・・・・・・
『聲の形』という漫画は、本当に傑作です。
何度も涙しました。
きっと、読み手もこどものころを思い出しながら、心の中がかき乱されると思います。
その葛藤は、大人の社会への問題として、自分の事として考えるテーマとして引き渡されたものでしょう。
いじめで悩んでいるすべての関係者に、ぜひ読んでほしい作品です。
コミュニケーションは、必ずずれます。
常に言い足りないし、常に言い過ぎます。
だからこそ、そのズレを恐れず、誠心誠意、真剣にコミュニケーションをし続けることを、諦めてはいけないんでしょうね。
自戒も込めて。
--------------
○広い海へ出てみよう
東京海洋大客員助教授・さかなクン
さかなクン
中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩(せんぱい)が3年になったとたん、無視されたこともありました。突然のことで、わけはわかりませんでした。
でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。
中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。
ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。
(朝日新聞2006年12月2日掲載)
傑作でした。何度も涙しました。
ただ、テーマはかなり重いです。
いじめ、聴覚障害。こどもの世界・・・。
それぞれの登場人物の視点が複雑に書かれ、すべての登場人物の体験をします。
読んでいて思う。
それぞれは何かベストを尽くそうとしているはずなのだが、その表現方法や行動が適切ではなく、ほんの少しズレてしまう。本当にしたいことは同じはずなのに。
その小さいズレが大きなズレとなり、人間関係の中で複雑に共鳴して拡大され、個を超えた大きな破綻へとつながる。
そして、それは自分に返ってきて、自分をさらに痛めつけ、自己否定へとつながる。
自己否定は、自分の事だから見ないふりをしたい。そうなると他者否定として顕在化する。それはいじめや悪口となる。
自己否定をすべて自分へ向けると、24時間365日、常に自分を痛め続けてしまうことにもなる。
自分の内部でのことが、すべて外の世界に顕在化してしまう・・。
こどものときに体験するいじめや人間関係、噂話、悪口。小さい世界ではそれがすべてだと思ってしまう。
ただ、それと同程度に、友情や愛や希望も、間違いなくある。
その拮抗関係の中で、こころの世界をわが体験として学び、向き合わされる。見ないふりをしても、何か別の形でつきつけられる。
自分のふとした言動や勇気も、色々な人の心の中へと深い影響を与えている。
それはいい方向に使わないといけないが、こどものときはわからない。大人になって身に染みてわかる。ただ、そのことを現実世界で正しく応用できているかどうかは、難しい。
こどものときに解決しなかった問題は、大人の世界へと持ち越され、似たようなことを職場や親子関係や人間関係の中で繰り返してしまうのだろう。何か深い所での気づきが起きるまで・・・。
こどもの世界からいじめをなくすには、まず大人の世界でいじめをなくす必要がある。
それは、何か問題が起きたら個人のせいにするのではなく、そういうことが起きない場づくりに励むことだとも思う。
個人攻撃にエネルギーを使うのではなく、背後の場そのものを見て、場を整える方向へとエネルギーを使う。起きえない場づくりを。人は、場によって善も悪も誘発される。
都知事の問題も、おそらくそういう状況が起きえない仕組みづくりが必要なのだし、科学者の論文ねつ造問題も、そういう状況が起きえない仕組みづくりが必要なのだし、条件が揃うとそういうことが起きてしまう場そのものを問題にした方がいい。それは共同で力を合わせないと解決しない。個人攻撃をしても、きっと何も解決しない。同じ条件が整ってしまった別の人が、また似たような状況に追い込まれ、同じことは繰り返されてしまう。
いじめに関しては、さかなくんが書いた文章が素晴らしい。
対談本「無意識の整え方」(ワニブックス)で、自分はさかなくんのメッセージを紹介した。そのおかげで、さかなくんとのご縁も生まれた。言霊は、いい方向へも影響を及ぼす。
大人の世界で起きていることは、子供の世界で起きていることと同じだと日々感じていたから。
狭い世界では、いじめが生まれる。
だから、小さい環境で抑え込まれても、自分の内的世界だけは宇宙の果てまで無限に持ち続ける勇気が必要だと思う。
孤立をおそれず、孤高の道を歩むように。それが、自分がさかなくんから受け取ったメッセージです。
・・・・・・・・
『聲の形』という漫画は、本当に傑作です。
何度も涙しました。
きっと、読み手もこどものころを思い出しながら、心の中がかき乱されると思います。
その葛藤は、大人の社会への問題として、自分の事として考えるテーマとして引き渡されたものでしょう。
いじめで悩んでいるすべての関係者に、ぜひ読んでほしい作品です。
コミュニケーションは、必ずずれます。
常に言い足りないし、常に言い過ぎます。
だからこそ、そのズレを恐れず、誠心誠意、真剣にコミュニケーションをし続けることを、諦めてはいけないんでしょうね。
自戒も込めて。
--------------
○広い海へ出てみよう
東京海洋大客員助教授・さかなクン
さかなクン
中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩(せんぱい)が3年になったとたん、無視されたこともありました。突然のことで、わけはわかりませんでした。
でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。
中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。
ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。
(朝日新聞2006年12月2日掲載)
しみじみと。
小学校時代の自分に聞かせてあげたかったけど、
今聞けてよかったです。(^^)
さかなクンのことば、いいですよね!
何度もこの話してたからなのか、さかなくんとも実際に会ってご飯食べたりして、嬉しかったです。
さかなクンのように、純粋に自分の道を歩き続けている人だからこそ、言葉の質が重いですよね。