日常

ダークナイト(映画)

2009-05-20 22:14:38 | 映画
アメコミ『バットマン』を原作とした、『ダークナイト』(The Dark Knight)(監督 クリストファー・ノーラン)という映画をやっと観た。

めちゃんこ面白かったー!
これぞ映画って感じでしたね。いい映画を見れて大満足!!


色んな人が色んな角度から語りつくしていると思うんで、個人的に考えたり感じたことを書きたい。


■「善と悪」「光と闇」

大きいテーマとして「善と悪」「光と闇」というものがあると思った。
(タイトルも、「ダークナイト」=「闇の騎士」)


西洋哲学では、「善と悪」は二項対立的に描かれることが多い。
それに対して、東洋哲学と称されるもの、宗教だとヒンドゥー教とか仏教とか老荘思想とか禅とかでは、善悪が混沌とした分割されない塊のようなものを対象にしていると思っている。分割される前のカオスを、そのまま扱っていると。


ダークナイトという映画は、西洋的な映像・グラフィック表現を駆使しながら、そんな東洋的な思想へ越境していこうとしているように感じ取った。


あの映画で執拗に書かれる世界は、
善と悪は分割できないということ。
そして、善は容易に悪にも反転するということ。
善が肥大すると、同じように悪も肥大する。
バットマンという善がいる限り、ジョーカーという悪も存在する。

人には光と闇がある。
過剰な光は、絶望や失望や恐怖により容易に同じ振幅の闇へと転じる。

そんな印象を映画から受けた。



印象的なシーンがある。
囚人の船と普通の市民を乗せた2艘の船があって、悪の象徴であるジョーカー(ヒース・レジャー)が、お互いの船長にお互いの船を爆破させるスイッチを持たせる。
12時までにどちらかの船を爆破させるスイッチを押さないと、2台とも爆発して沈没するとジョーカーは告げ、2艘の船員がどういう判断をするかを試す。

そこで行われる人間の醜い心理を覗こうと、人間が奥底に隠し持っている闇の部分を光の下にさらそうと、そういうふざけたゲームをジョーカーが試してくる場面がある。

悪の象徴であるジョーカーは、どんな善良に思える市民も、結局は自分のことしか考えていなくて、ちょっとした恐怖や絶望や不安を与えることで、暴徒と化し悪の権化となると思っていた。

ただ、実際の市民は必ずしもそうではなかった。
必ずしも、人間は自分中心に発想し、無駄な殺し合いをするわけではない。

善悪とはそんな単純なものではなく、複数の人間が織りなすことで、善悪の問題は個人の問題以上に更に混沌としてくるというような、そんな「善悪」の複雑性が見え隠れしていると思った。



■自由意思

他にも、そんな命の選別を、ジョーカーが挑発的に試してくるシーンが出てくる。

「どちらを助けるか」という点で、「人間の自由意思」のようなものが顕在化してくる。
自分はこの人より、この人を助けたいというような自由意思のこと。

自分の自由意思に基づいてそんな命の選別を放棄する時、コインを投げて表か裏かで決めるような、そんな偶然性にすべてを委ねる場面も出てくる。

これは、人間が持つ自由意思に対する問いのように、自分は見えた。



映画で描かれるように、どんなに理知的であると思われた人間も、混乱と不安の渦では、容易にコインの裏か表かで重要な選択を決めるようになってしまう。

それほど、人間は弱いのだと思う。
みんな、実は誰かに色んなことを大枠では決めてほしくて、その中で「自由意思で選択した!」と錯覚をして、「自分」というものを確認したいのかもしれない。


そして、僕はその問いに、「自己」とはなんぞや、にも通じる問いを見た。

そして、「弱さ」や「脆さ」を出発点として人間を見ていく重要性を見た気もした。


■弱さ 脆さ

つまり、僕らは「自己」だ、「自我」だと言いたがり、その延長で自由意思なるものを強調したくなるけれど、そんな自意識過剰な自由意思という錯覚は、弱い人間を過剰に強いと錯覚するだけで、自分の首を絞めるだけの概念なのではないか。


だから、自分を忘れること、自分を無くすこと。

強いと思わないこと。
弱さや脆さを出発点として人間をとらえていくこと。

だから、現時点で、社会的に相対的に弱いと思われる人間や世界を中心に、物事を発想していくことが大事なのではなかろうか。
そして、この視点が現代に欠けている点ではないかとも思う。


それは、老いや病いや死や貧しさを中心に世界を見ていくこと。
抽象的に言えば、「無い」というものを中心に世界を見ていくこと。

決して、若さや強さや健康や生や豊かさや富を中心に世界を見ていくではない。
抽象的に言えば、「有る」というものを中心に世界を見ることではない。


僕は、その考えだけで、このダークナイトという映画の世界観を大きく揺るがす力があると感じています。

自己や自由意思の産物である善悪という、強い観点から「暴力」を否定していこうとするとなかなか難しくて、
自己を無くした上での弱さや脆さを中心に据えた弱い観点から「暴力」を否定しないといけないと思うのです。


根本の発想が違うと、そんな小さい歩みの最果てである「戦争の否定」とか「平和の肯定」というものにもなかなか到達できないし、容易に善は悪に反転するし、平和は戦争に反転するし、殺人や暴力も肯定化される危険性が出てくるんではなかろうか。


映画の主題と少しずれたかもしれないけど、個人的にはこの映画を見た後、そんなことを勝手に感じました。


とにかく、お薦めです!
色んなことを考えさせてくれる映画です。

P.S.

個人的に、外人の顔をうまく識別できてないだけの、本当にどうでもいい問題なんですが、
バットマン=大金持ちのブルース・ウェイン(クリスチャン・ベール)と、検事役のハービー・デント(アーロン・エッカート)が、別の人だってうまく認識できなかったんで、少し最初の辺りの話の伏線がよく分からず、もう一回見直してしまいました。笑  
こういうのは、DVDで見る長所だなー。