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(補足:写真は8年前くらいに登った厳冬期の木曽駒ケ岳辺りです)
■光と闇 星と神話
最近、「星」というものを考えていた。
中国の陰陽五行説もそうだろうし、太古の航海術もそうだろうけど、昔の人はよく星を見て、色々なことを考えていたと思う。
光と闇というのは相対的な概念だと、個人的に思う。
昼間も星は輝いている。
けれど、星は見えない。
夜になり、世界が閉じようとする。
すると開かれていた世界は、暗闇へと転じていく。
そこで初めて、闇に対する相対的な光として、星が見えるようになる。
星は、闇に対しての光でもある。
ぼんやりと長時間星を見ていると、星は少しずつ弧を描いて動いているのが分かる。
そして、弧の運動の中で動かないものがあって、それを「北極星」と名付け、太古の人は「宇宙の中心 center of universe」と思った。
それは、ごく自然な発想だと思う。
暗闇の夜空を見上げると、全ての光であり星であるものが、ある一点を中心に「環」の運動をしている。それはそれは不思議だったに違いない。
今でも、相変わらず不思議だと思う。
太古の人は、暗闇に光る星を見て、僕らが映画を見るような感じで、暗闇の劇場に浮かぶ星の運動に、物語や神話を見ていた。
太古の人は、獰猛な動物の世界の中で生きていた。
世界が暗闇に包まれ、睡眠という究極的に無防備な状態に入る前、人間は何を思ったのだろうかと、思いを馳せてみる。
寝てしまうと、そのまま野生動物に殺されてしまい、目覚めることはないかもしれない。
そんな生と死の挟間としての夢の世界に入る前、ふと夜空の星を見あげる。
そこで、妄想や想像という無限に開かれた意識の世界と夜空が連結するとき、物語や神話が自然に生まれるのかもしれない。
そんなことを、熊本や大分の田舎に行き、当たり前のようにキレイに星が見える場所で、少し考えていた。
■池澤夏樹「スティル・ライフ」
友人のともこさん(参考:ブログ「空と智」)から、池澤夏樹「スティル・ライフ」を借りていた。一度読んで、もう一回読み直してから返そうかと思っていた矢先、偶然にこんなサイトを知った。
それは、紀伊国屋書店(新宿南口店)企画の「編集長の本棚」というサイトで、自分が秘かに激しく尊敬している『風の旅人』編集長の佐伯さんの、「佐伯剛氏が選ぶ100冊」というページがあって、その中でも「スティル・ライフ」(池澤夏樹)が含まれていた。(→#41~#60のとこにあります。)
そんな偶然性を感じつつもう一度読んでみた。
そして、最近星を見て感じたこととも共時性を感じた。
この池澤夏樹「スティル・ライフ」には、「スティル・ライフ」と「ヤー・チャイカ」の2作があって、「スティル・ライフ」は中央公論新人賞・芥川賞を受賞している。
どちらも、詩的な表現が多くて、自分の想像や体験で連結させながら作り上げていく、異空間へ誘う作品だと感じた。
そこは、暗闇や宇宙のような、音も方向も倫理も欲望もない、遥か静寂な世界に思えた。
「スティル・ライフ」の中で印象的だったところを引用する。
********************************
文庫版P9(冒頭)
『この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。
二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過ごすのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。
星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。 』
********************************
********************************
文庫版P88(最後の辺り)
(1万年くらい前のことを語りながら)
『心が星に直結していて、そういう遠い世界と目前の狩猟的現実が精神の中で併存していた。』
『今は、どちらもない。あるのは中距離だけ。近接作用も遠隔作用もなくて、ただ曖昧な、中途半端な、偽の現実だけ』
********************************
■自然と星
大学生の時、暇さえあれば登山をしていた時期があった。
その時に好きだったのは、朝日や夕陽の美しさを見ること。
そして、星を見ることだった。
山の中で、テントも張らずに野宿する時がある。
山の天気は変わりやすいので、翌朝まで晴れるという確信がある時だけ、テントなしで寝袋だけで山の土の上で寝る。
夢か現か、ウトウトと空を見ていると、視覚領域は暗黒か星だけになる。
全ては闇か光になる。
起きているのか、寝ているのかの状態で、全ての星が目の前に降ってくるような気がしてくるし、手前とか奥とかの距離感がなくなる。
「イマ、ココ」の感覚が遥か彼方に遠のいていく。
何万光年もかかって星の光が届いてきているとは思えないほど、自分が宇宙や星と一体であるような気がしてきて、宇宙の部分でもあり全体でもあるような気がする。
そんな不思議な気がしてくる。
徒然草(卜部兼好)風に言えば、『あやしうこそものぐるほしけれ』とでも言おうか。
そんな妖艶な力が、暗闇と星空にはある。
それこそ、世界が都市化される前は、そんなことは誰しもが感じる当たり前の体験で、あえて言語化すらしないよう事だったのかもしれない。
僕らが、朝起きて、顔を洗って、歯を磨いて、・・・・のようなレベルの当たり前のこと。
■粘土・泥のような質感
最近は、なんとなくボーッとした感じで日々徒然なるままに過ごしていて、空っぽだからこそ、あらゆるものが自分の中に無条件に、無制限に入ってくる。
人間の中には粘土のような質感を伴う領域があって、そんな個体でもない液体でもない、泥のように無限にヌチャヌチャとグチャグチャと形が変化する領域がある。
「心」も同じような質感のものかもしれない。
無限に色んなものが自分の中を通過していく日々の中で、その自分の中の粘土領域に引っ掛かってくるものも間違いなくある。
そういうものは素通りせずに、そんな粘土質の中で引っかかって、ヌチャヌチャ・グチャグチャと渾然一体に混ざり合い、自分の中にいづれ融合していく。
そんな風に自分の中に引っ掛かってくるものを大事にしようと思っているのだけど、「星」もその一つです。
こういう日々の中で出会う人たちも、その一つなのかもしれないですね。
そんな気がします。
■光と闇 星と神話
最近、「星」というものを考えていた。
中国の陰陽五行説もそうだろうし、太古の航海術もそうだろうけど、昔の人はよく星を見て、色々なことを考えていたと思う。
光と闇というのは相対的な概念だと、個人的に思う。
昼間も星は輝いている。
けれど、星は見えない。
夜になり、世界が閉じようとする。
すると開かれていた世界は、暗闇へと転じていく。
そこで初めて、闇に対する相対的な光として、星が見えるようになる。
星は、闇に対しての光でもある。
ぼんやりと長時間星を見ていると、星は少しずつ弧を描いて動いているのが分かる。
そして、弧の運動の中で動かないものがあって、それを「北極星」と名付け、太古の人は「宇宙の中心 center of universe」と思った。
それは、ごく自然な発想だと思う。
暗闇の夜空を見上げると、全ての光であり星であるものが、ある一点を中心に「環」の運動をしている。それはそれは不思議だったに違いない。
今でも、相変わらず不思議だと思う。
太古の人は、暗闇に光る星を見て、僕らが映画を見るような感じで、暗闇の劇場に浮かぶ星の運動に、物語や神話を見ていた。
太古の人は、獰猛な動物の世界の中で生きていた。
世界が暗闇に包まれ、睡眠という究極的に無防備な状態に入る前、人間は何を思ったのだろうかと、思いを馳せてみる。
寝てしまうと、そのまま野生動物に殺されてしまい、目覚めることはないかもしれない。
そんな生と死の挟間としての夢の世界に入る前、ふと夜空の星を見あげる。
そこで、妄想や想像という無限に開かれた意識の世界と夜空が連結するとき、物語や神話が自然に生まれるのかもしれない。
そんなことを、熊本や大分の田舎に行き、当たり前のようにキレイに星が見える場所で、少し考えていた。
■池澤夏樹「スティル・ライフ」
友人のともこさん(参考:ブログ「空と智」)から、池澤夏樹「スティル・ライフ」を借りていた。一度読んで、もう一回読み直してから返そうかと思っていた矢先、偶然にこんなサイトを知った。
それは、紀伊国屋書店(新宿南口店)企画の「編集長の本棚」というサイトで、自分が秘かに激しく尊敬している『風の旅人』編集長の佐伯さんの、「佐伯剛氏が選ぶ100冊」というページがあって、その中でも「スティル・ライフ」(池澤夏樹)が含まれていた。(→#41~#60のとこにあります。)
そんな偶然性を感じつつもう一度読んでみた。
そして、最近星を見て感じたこととも共時性を感じた。
この池澤夏樹「スティル・ライフ」には、「スティル・ライフ」と「ヤー・チャイカ」の2作があって、「スティル・ライフ」は中央公論新人賞・芥川賞を受賞している。
どちらも、詩的な表現が多くて、自分の想像や体験で連結させながら作り上げていく、異空間へ誘う作品だと感じた。
そこは、暗闇や宇宙のような、音も方向も倫理も欲望もない、遥か静寂な世界に思えた。
「スティル・ライフ」の中で印象的だったところを引用する。
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文庫版P9(冒頭)
『この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。
二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過ごすのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。
星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。 』
********************************
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文庫版P88(最後の辺り)
(1万年くらい前のことを語りながら)
『心が星に直結していて、そういう遠い世界と目前の狩猟的現実が精神の中で併存していた。』
『今は、どちらもない。あるのは中距離だけ。近接作用も遠隔作用もなくて、ただ曖昧な、中途半端な、偽の現実だけ』
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■自然と星
大学生の時、暇さえあれば登山をしていた時期があった。
その時に好きだったのは、朝日や夕陽の美しさを見ること。
そして、星を見ることだった。
山の中で、テントも張らずに野宿する時がある。
山の天気は変わりやすいので、翌朝まで晴れるという確信がある時だけ、テントなしで寝袋だけで山の土の上で寝る。
夢か現か、ウトウトと空を見ていると、視覚領域は暗黒か星だけになる。
全ては闇か光になる。
起きているのか、寝ているのかの状態で、全ての星が目の前に降ってくるような気がしてくるし、手前とか奥とかの距離感がなくなる。
「イマ、ココ」の感覚が遥か彼方に遠のいていく。
何万光年もかかって星の光が届いてきているとは思えないほど、自分が宇宙や星と一体であるような気がしてきて、宇宙の部分でもあり全体でもあるような気がする。
そんな不思議な気がしてくる。
徒然草(卜部兼好)風に言えば、『あやしうこそものぐるほしけれ』とでも言おうか。
そんな妖艶な力が、暗闇と星空にはある。
それこそ、世界が都市化される前は、そんなことは誰しもが感じる当たり前の体験で、あえて言語化すらしないよう事だったのかもしれない。
僕らが、朝起きて、顔を洗って、歯を磨いて、・・・・のようなレベルの当たり前のこと。
■粘土・泥のような質感
最近は、なんとなくボーッとした感じで日々徒然なるままに過ごしていて、空っぽだからこそ、あらゆるものが自分の中に無条件に、無制限に入ってくる。
人間の中には粘土のような質感を伴う領域があって、そんな個体でもない液体でもない、泥のように無限にヌチャヌチャとグチャグチャと形が変化する領域がある。
「心」も同じような質感のものかもしれない。
無限に色んなものが自分の中を通過していく日々の中で、その自分の中の粘土領域に引っ掛かってくるものも間違いなくある。
そういうものは素通りせずに、そんな粘土質の中で引っかかって、ヌチャヌチャ・グチャグチャと渾然一体に混ざり合い、自分の中にいづれ融合していく。
そんな風に自分の中に引っ掛かってくるものを大事にしようと思っているのだけど、「星」もその一つです。
こういう日々の中で出会う人たちも、その一つなのかもしれないですね。
そんな気がします。
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起きているのか、寝ているのかの状態で、全ての星が目の前に降ってくるような気がしてくるし、手前とか奥とかの距離感がなくなる。
「イマ、ココ」の感覚が遥か彼方に遠のいていく。
*****
↑まさに、自分も同じような感覚になったことがあります。
広大な星空や、無数にちりばめられた星を眺めると、自分の体と自然が融合するような、自分が開かれる状態になりやすい気がします。
先頭にアップされている写真、素晴らしいですね。
生の景色は、もっとずっと素晴らしいのでしょうね!
個人的にはもう出だしでガーンって打たれるように引き込まれた感じで。どういうストーリー?って聞かれると難しいんだけど、ほんと最初から最後まで、ある上でもない、下でもない、縦でも横でもないようなそういった不思議な空間に引き込まれていく感じなのです。
「スティル・ライフ」の最後の方に、海岸で雨が上からじゃなくて下から降ってくるような感じになったところがあったでしょう。あれもまた好きなところです。
池澤夏樹は「夏の朝の成層圏」も旅行中に読むと特に好きなんだけどね。サッと自分の今から別世界に飛んでいくような気持ちになります。自然が、そのために息づいていることがより感じられて好き。
星野道夫さんの「旅をする木」にもあった1節だけど、「人間のためでも、誰のためでもなく、それ自身の存在のために自然が息づいている」その感覚が好きだなぁ。
佐伯さんの推薦書、初めて見たけど、その中にある「ビジョナリーカンパニー2」も私&うちの会社が大好きな本です。"Good to Great"という洋書しか読んでないけど、もう何回読んだか分からないほど好き!
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写真、美しいね。凍てつく冬山の中からこのような美しいものが見える。素晴らしさを垣間見させてくれてありがとう!
みんなで山登りしたいね。
maki様
>>>>>>>>>>>>>>>>>
ほんと、星とか夜空とか暗闇って不思議だよね!!
宇宙空間に行くとさらに不思議~な感じなんだろうなぁ。
星ってもの自体が、子供の頃に「何万年も昔の光を、今見てるんだよ」って言われたとき、本当に眼の玉飛び出るくらい驚いたなー。なんじゃそりゃ!!って感じで。今だに不思議ですよ、ほんとに。
自分が開かれる状態になりやすいっていうのがいいよね~。
どんなに自分の中で閉じてても、いつのまに開かれちゃうんだろうね!
自然にはその凄さがある。
自意識で閉じて、狭い世界でクヨクヨ悩んでいることも、全部彼方にふっ飛ばしちゃうくらいの開く力があるよね!
>>>>>>>>>>>>>>>>>
ともこ様
>>>>>>>>>>>>>>>>>
「スティル・ライフ」、よかったよ!
ていうか、今読み返すと、本自体の感想はあんまり書いてなかったね。
まあ、詩的な文章だから感想が書きにくいっていうのもあるけど、まあそこから色んなことを感じて考えたっていうのは、そんな自分の触媒になった本はきっといい本なんですよね。だから、それを持って感想にしちゃったんだと思う。
そうそう。やっぱりいい作品って、出だしがイイ!
映画ダークナイトも、出だしで掴まれちゃう!って、それこそ今日RYM君と話してたところです。
池澤夏樹「夏の朝の成層圏」ね。今度読んでみよう。佐伯さんお薦めに、『真昼のプリニウス』ってのもあったから、それも要チェックだなぁ。
「人間のためでも、誰のためでもなく、それ自身の存在のために自然が息づいている」
→イイよね!
僕ら人間の狭く閉じられた視点で自然を捉えるんじゃなくて、それぞれはそれぞれのために生きているっていう感覚!
それは人間も同じだよね。自然のために人間が奴隷のように生きているわけではないしね。
「ビジョナリーカンパニー2」も読まないといけないし、なんか課題図書が多くてうれしい!
仕事中毒の時は、世界が閉じてたから、他の人が奨めているものも読もうという元気もなかったけど、今は開いているから何でも入ってくるし、吸収も早いー。
みんなで山登りしたいね~!!
東大医学部で開設している診療所が、夏期限定で開設するから、その時にでもみんなで行けるといいなー。
穂高の涸沢カールのすぐ前にある診療所なんだけど、最高だよー!もう20回近く行ってるかも。
この涸沢ヒュッテってのが、すぐ目の前にある山小屋。
http://www.karasawa-hyutte.co.jp/
そこに行くまでの道のりと、秋の紅葉はこんな感じ!
http://akira12345.web.fc2.com/2007akikarasawa.htm
佐伯さんの文章は何度読んでもその味わいが増していき、岡潔さんと同じく、今急速に惹かれている人、そのいちです。だからして、特に気になったのを自分の本棚に追加してしまいました^^。
この写真は、今から夜空がくる時でしょうか?それとも早朝かな。しーーーんとして、全てがひとつになって、きらきらしていく様子が伝わってきます。一瞬たりとも同じ時はないのですよね。無限の変化を感じる。そんな中に、森羅万象のひとつとして自分が融けていく感じはたまらないのだろうなぁ。(早くも妄想が。。笑)
池澤夏樹さんの文章は一度高校の時だったか、授業で読みました。どの作品かは忘れてしまったけれど。「雪が舞い降りる姿をじっと見ていると、雪が上から下に落ちるのではなく、自分とこの景色が下から上に上昇しているような錯覚を覚える」という内容の一節を何故か強烈に覚えています。何ていう感覚の持ち主なんだろう、しかも、それ分かるかも!って驚きと共感を同時に得たのでした。文章って不思議で、うまい文章であるほど、いい所が浮き上がってくるんですよね。そしてそれが強烈に残る。
今見ているこの星の光はずーっと昔の光なのですよね…と思うと、何だか不思議な気分にいつもなります。そして、自分が悩んでいたことが、いかにスケールの小さいことだったかを思い知る。笑。。。夜空を眺めるのは好きですね。
la strada様
>>>>>>>>>>>>>>
あの編集長の本棚、もともとは間接的にla stradaさんに教わってたんですよね。ありがとう!
佐伯さんが日野啓三さんを尊敬されてるっていうのは、風の旅人という雑誌ができた秘話のようなものを直接伺ったときから聞いているので、佐伯さんを後押しした日野さんという存在に、すごく興味をもっています。
あと、あそこで佐伯さんが推薦されていた作家の方は、風の旅人の雑誌に出てきた人ばかりで、佐伯さんが尊敬する人を雑誌に書いてもらうという形をとっていると思うんですが、それもいいなぁと。
やはり、ある人が心から好き!というものはすごく共鳴できるし、切実さが増すものですよね。
佐伯さんの風の旅人ブログも、かなり深い話多いし、本質にスバリ切り込んでくるので、かなり凄い。
http://kazetabi.weblogs.jp/
きっと、あのブログの内容は単行本化とかされないんだろうから、いつも味わって読んでますよ。
この写真ですねぇ。今から夜空がくる時の方です。
でも、昼から夜のときも、夜から朝の時も、ほとんど同じような風景で、それはそれは美しい。
静寂な中に光と暗闇が映えるし、もう言葉では表現できない圧倒的な世界観なのです。
この世の法則は、大自然から学ぶことが多いと、痛感しますね。
それは水の動きとか雲の動きとか、太陽の動きとか・・・色んな全てですけど。
LaStradaさんが覚えておられる文章は、正しくこの「スティル・ライフ」の一節ですよ!!
さすがよく覚えてますねー。すごいなー。
宇宙とか地球とか規模に視点をずらすと、そんな風に世界に対して自分を開くと、以下に自分の悩みが小さいことか相対化されますよね。
それは海とか空とかもそう。
そんな圧倒的な世界が実は広がっていることをついつい忘れちゃいますよね。
いつか、みんなで登山とかできると最高だろうなー。
みんな感度高いから、ビンビン感じすぎると思う~。この年代で行くと、さらに感じ方も深まりそう!
そして、登山の話が出ていて、とても惹かれました。確か昨年、今年は登山を教えてもらおう!って言ってたもんね~。
テントなしで空を見上げて寝るなんて、なんて贅沢なんだろう。
それと池澤さん。彼は星野さんの追悼本も出しているし、生前は交流があったみたい。世界観が似てるんだろうね。
次の一文が特によかった。
****
外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
****
今日、プラネットアース買ってきて家で見てますよ。なんだか美しい風景がみたくなりまして。
今は、我ながら「行雲流水」の心境になっていて、すごくゆるゆると居心地良い。
6月から白い巨塔の大学病院で仕事だし、かなり生気を奪われそうで、ヘロヘロになりそうだけど、まあなんとか頑張ります。
家に帰ると不忍池見れるし、そこで自然から英気をもらうこととします。
池澤さんの、内なる宇宙と外に広がる宇宙をどこかでつなげないといけない。
そこを、星のような自分の手が及ばない彼方の存在で連結させるってのは実にカッチョイイ。
プラネットアース、いいよねー。おれも自然系のDVDはなんとなく手元に置きたくて買ってます。DEEP BLUEとかもいいのよねー。なんかはるか彼方に自分を連れて行ってくれる!
驚き。またしても偶然の必然でしょうか?笑。
しかし、本当に記憶というのは不思議なものですね。その時はそれほど気にならなかったものがあるタイミングで突然湧いてきたり。
漁師さんが、随分昔にしかけた網に「お~い、こんなもんがひっかかってたぞ~」となんか不思議な魚を発見して奥さんに報告するみたいな?笑。そういえば、宮崎駿さんが、映画を作っていくとき、「脳みそに釣り糸を垂らしているようなものだ」みたいなことをおっしゃっていたなぁ。面白い表現!釣れるまで待つのでしょうかねぇ。
以前「呼び覚ますもの」というタイトルで日記に書いたのだけど(いつどこだったか見つからない・・・笑)、本当の意味でいい演奏というのはそういう、人の心になぜかふと置き去りにされ、引き出しにずーっと閉まってあった欠片たちが、ふわーっと浮き上がってくるような、そういうものだと思っています。(めちゃくちゃ抽象的ですが・・・)
しかも、同じ箇所をともこさんも好きだって言ってたし、わしも同じとこが好きだった!
あの記述(雪が上から下に振っているというより、自分が下から上に動いているようだ・・)は、まさしく冬山で同じような経験しましたね。
全てが雪で、視野が真っ白のとき、上とか下とかの空間認識ができなくなるのですよね。
自分を中心に見ていく自意識というものが、実は相対的なものなのだ!と実感させてくれる出来事です。
そういえば、LaStradaさんも読み途中だと思うんですが、立花隆の「宇宙からの帰還」でも、そんな記述ありますよね。
宇宙空間に行くと、いわゆる遠近法というものが失われて、遠いとか近いって感覚がなくなって、神がかりな感じになるって箇所。
記憶は不思議ですよねー。
思い出さない間は、そこに何もなかったはずなのに、何かを引き金として嵐のように記憶の扉があくことがある。
でも、そんな何十年も使っていなかったものも、記憶の奥底にキレイにしまわれていたってことが、なんとも不思議で。それは未来を予感して、捨てないで保存してたのだろうか?それとも、実は自分が得たあらゆる情報(ほぼ無限に近いけど有限ではある)は、実は海馬に全て記憶されていて、単に取り出す鍵がないだけだとか?
免疫学の分野でノーベル賞をとった利根川進先生も、免疫学から脳科学に分野を代えて、記憶の座である海馬の研究をMITでしていたりするし、やはり記憶の謎ってのは生命の謎を追求するときに避けて通れないものなのかなぁ。
宮崎駿の「脳みそに釣り糸を垂らす」ってのも面白い表現だねー。
自分から頑張って取り出すっていうより、自然に出てくるのをジッと待つって感じなのかな。
いい演奏が、その人の中にある欠片のようなものを浮き上がらせるっていうのは言い得て妙だね!
俺も、基本的に演奏や音楽で何かを与えられるっていうより、自分の奥深くにある何か大事な部分を触れてきて、そんな自分が知らなかった更なる奥行きを見出すって感じが近いのかもしれない!
音楽という他者との相互作用により、自分と他者、双方の奥深くを見出すって感じね。外から来るものというより、内から来るものに近いなー。
これも地下を掘って地下水脈にあたるのと同じ??笑
→《穴を掘ることと地下水。》
http://sachiolin.exblog.jp/11347713