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■『風の旅人』 36号 「時と転」 2009年2月
2009年2月、最新号の『風の旅人』 36号 「時と転」が届いたので一気に読んでみた。
今までは2ヶ月に1度というハイスピードで刊行されていたけれど、今後は4ヶ月に1度の発行になる。
個人的には、スピードよりもゆっくり継続していくこと自体を重視しているので、年に1回になろうと、数年に1回になろうと、是非ともこの雑誌は果てしなく続いてほしいと思う。
4ヶ月に1度になるから、せっかくなのでもう一度全巻見直して、それぞれの号の感想を暇な時に書いていこうかと思っている。バックナンバーどれ読んでもすごくイイ!
写真も文章もイイ!イイものはイイ!
思い立ったが吉日。今月号の感想を書いてみよう。
少なくとも、このブログ読んでるわしの友人で、10人くらいはこの『風の旅人』を定期購読している人がいるはずなので、基本的にその10人のために書くようなものですね。
この雑誌を買ってない人も、この熱の雰囲気を感じ取って購入してくれると嬉しいな。たったの1200円ですよ!ビール2杯我慢して買ってください!
■佐伯編集長の巻頭言
わしは、毎号毎号、佐伯編集長の巻頭言に勝手に感動している一人なのです。
いつも本当に名文を書いていて、一番楽しみにしてる。心に響くのです。
『風の旅人』は、31号から『FIND the ROOT 永遠の現在』というシリーズになっていて、31号『時と命』、32号『時と廻』 、33号『刻と哀』 、34号『時と揺』 、35号『時と相』 、そして今回の36号『時と転』になります。
『風の旅人』36号『時と転』での佐伯編集長の巻頭言は、バルタザール・ブルクハルトの砂漠の写真を背景に、こうした文章で始まります。
*************************************
【時と転】
*************************************
砂漠の中を歩きながら、砂嵐に巻き込まれると、
視界がきかず、混沌とした世界に感じられるが、
全体を眺め渡せる場所に出ると、
局面ごとの様相や、動きの方向性が見えてくる。
時代や社会の急激な動きの中に巻き込まれると、
視界の中に飛び込んでくる物事に意識がとらわれ、
混沌とした世界に感じられるが、
そこから距離を置くと、様々な関係性が見えてくる。
世界が混沌に見えたり、秩序的に見えたりするのは、
どこを、どう切り取るかという意識次第である。
意識が変わると、視点が変わる。
視点が変わると、世界が変わる。
*************************************
この文章は、まさしく今の心境というか、考えていることにドンピシャだった!
今の時代には資本主義や金融主義の大きな流れがある。
光と影の部分があるのはよくわかる。今は金融破綻でみんなが不安の渦に飲み込まれていて、チョイ前にバブルで浮かれた人たちが、一斉に金融主義の批判を始める。竹中さんや小泉元首相を批判しだす。
わしに言わせれば、その当時の金融主義の渦に飲み込まれていたとき、本当にそう思っていたのか!と言いたくなる事がある。
でも、社会とか時代の大きな流れというのは恐ろしいもので、テレビや新聞や色んなマスコミが、雪崩れのようにその雰囲気を作ることに躍起になる。
その台風の中で、『風の旅人』という雑誌は、上辺ではない、人間や世界の根源に迫るようなものを、創刊号から地道に追求してきた雑誌だった。
古代とかの大きい過去の時間の流れを受けながら、今の空虚な時代の雰囲気には迎合しないで、ホンモノのホンモノを真面目に追求する硬派な雑誌。
巻頭言にも
『混沌とした世界に感じられるが、そこから距離を置くと様々な関係性が見えてくる。』とあって、その距離を置かせてくれる触媒になる、まさにこの雑誌なのです。
■医療の現場での混沌さ
日常での仕事は、短期的な視点に立つことも多い。お金やいろんな人の思惑が複雑にからみあって、結局何がしたかったのかが混沌としてきてよくわからなくなることは多い。
でも、この雑誌の「本気さ」や「一途さ」に触れることで、
医療に携わる自分も原点を見直すわけです。
===============================
『医療や医学は本来患者さんのためにある。
患者さんとは、一時的に社会的な弱者になってしまった人や病いをもつ人。
社会的な弱者や病者は、次の瞬間にも自分もそうなるかもしれない存在。相対的なもので自分が反転されたような存在で、対岸の火事ではない。
今、自分が偶然に社会的な弱者になっていないにすぎない。
だからこそ、医学や医療は、相対的に社会的な強者になっている医療者にとっての、見栄や虚栄心のためにあるものではない。
奉仕とか献身とか、他者や弱者への愛とか優しさとか真心とか思いやりとか、人間を大切に思う思いや祈りや、生命そのものへの敬意や畏怖の念、そういうものが根源にあるはずだ。』
===============================
という風に、ふと深呼吸をして立ち止まらせてくれる。そんな雑誌なのです。
日常は、すごく混沌としていて、色んな人の思惑や自己中心的な発想にまみれていて、「あら、この仕事の本来の目的ってなんだっけ?」と立ち位置がよくわからなくなることが多い。
その混沌の中で、自分の意識がかわるだけで、同じ世界がガラッと別の様相を呈して見えることがある。
きっと世界はまるで何一つかわっていない。
でも、自意識が変わることで、自分以外の世界のあらゆる全ての意味が、180度ひっくり返ることがある。
世界が宙返りして反転する。
これは、大きな挫折とか、大切な人の死とか、自分の大きな病とか・・そういうことが反転するきっかけになるかもしれない。大きな悲しみや喜びで、世界は反転しうるんじゃなかろうか。
そして、その助けをしてくれる触媒になるのは、自分の周りにいる『他者』であるのは間違いない。
そういう、ごく当たり前の事実に本当の意味で分かってきた感触があるのですね。
「いまさら」でもあります。
■『今』という瞬間に参加すること
自分は、最近「『今』という瞬間に参加すること」を意識しだしている。
これは、奇しくも友人のShin.K氏が、よしもとばなま『彼女について』の感想をブログで引用していて、よしもとばななの文章に同じようなものがあることに気付いた。
==================================
よしもとばなな『彼女について』 P213
==================================
「そうか、ピクニックそのものよりも、そのイメージで人は活気づくんですね。イメージが全てなんだ。でも、イメージ以上のものを知るには、今の瞬間にぐっと参加することしかないんだ。」
==================================
最近、『時間』という概念の不思議さを考えていて、その結果決意するに至った。
それは「『今』という瞬間に参加すること」なのです。
別の言い方をすれば、去年くらいまでは、『今』という舞台があるとすると、そこから距離を置いた傍観者・観客だったような気がしているんですね。
過去の作品を味わったりするものも、傍観者のような一人の観客として味わっていた。
毎日毎日、それなりに真剣に生きてきたつもりではあったけど、本当の意味で、「今」という時間にグイッと参加して、「今」の同時代に生きている人たちと呼応していきたいと深く思い始めたのはつい最近でもある。
「今」という時間をあまり考えてなかったから、「今」の時間を学校の休み時間みたいにボンヤリと生きてきたんだと思うけど、最近はよしもとばななが表現するように、「今」という舞台の傍観者や観客としてではなく、自分も参加者とかプレイヤーになって、その「今」の舞台の上でみんなと呼応していきたいって感じ始めている。
「今」という瞬間に参加すること。
「今」に参加していこうという決意は、自分が死んでいなくて生きていることへの感謝であるし、過去に無念の中で死んで行った人たちや、自分の担当の患者さんで無念にも亡くなった患者さんたちへの、追悼とか恩返しとか鎮魂のようなものでもある気がしておるのですよね。
そういう風に意識がかわると、世界は変わる。
全て別の彩りを呈するように百花繚乱に見えてくる。
そして、「イイものはイイ!」と声を大にしていくことで、足を引っ張り合う関係性ではなく、この世界に散らばる自分にとってイイものを探して、同じくイイ!と思う人と共に、世界を味わっていきたいと思っているのですよね。
それが「今」に参加していくことなのです。
そんなことを考えていたので、今月号の巻頭言は特に心に響いてしまった。
・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
ここから下は、本号で特に感じ入ったものを端的に記します。
◆◇【写真】川田喜久治「遠い場所の記憶」
1960-1965「地図」という写真集から。原爆ドームの接写写真?とか、日本国旗がボロボロになった写真(ココにも一部載っている)、圧倒的な迫力がある。魂をつかまれるような写真。その当時の時間が、完全にこの写真の中に封印されて生命体のように生きている。そして、何故か今、自分が追体験している不思議さ。時代という得体の知れないものが透けて見える。「被爆者」という写真での手や額の皺にも、過去の時間が深く永遠に刻印されていて感じ入った。
◆◇【文章】佐伯剛「目に見えにくいところに見えるもの」
その川田喜久治さんの写真を受けて、佐伯編集長が文章を寄せているんだけど、これもまたいい文章なのです。
『どすぐろい「しみ」は、川田さんにとって、意識下に染みこんでいた原爆や戦争のおぞましい光景の陰影そのものだ』
『日本人の魂と社会に深く染み込んでいる筈なのに、その当時、次々と新しく出現する物事の背後に隠れて急速に見えにくくなりつつあったもの。それが濃密な「しみ」となって見る者に迫ってくる』
『川田さんの写真を見る事は、"状況"を頭で知ることではなく、瞬間の"気分"に浸るのでもなく、フレームの中に創出された別次元の空間を、新たに体験することだ』
『短期の記憶によって作り出される情報の大半は、現在の再生産であって、未来ではない。長期の記憶と呼応するものこそ、未来へとつながっている』
こういう文章はかなり心に染み入りました。
◆◇【文章】 森達也「転移する全体と、一人ひとり」
フランス革命で、一般民主が武器を持って浮浪者狩りをはじめ、少年たちを襲撃した事実を引用しながら
『一人ひとりは善良な市民のまま。でも全体としての相が転移する。まるでサバクトビバッタがバズズに変わるように』
(バズズとは、サバクトビバッタが大群になって全ての農作物や草木を食いつくす現象の事)
◆◇【写真】ユージン・スミス「Japan…a chapter of image, 1961」
ユージン・スミスの写真は本当に昔から好きだけど、この日本の日立の会社の写真とかは初めて見た。ユージン・スミスって写真がなんとも言えず濃密な写真なのですよね。念の強さ、強度を感じる。
◆◇【文章】 前田英樹「日本の天職を知る」
前田英樹さんの文章はいつも格調高くて好きなんだけど、今回は、キリスト教徒の内村鑑三がアメリカを批判した文章を引き合いに出して文章を書いている。日本人の本質は農の民であると説く。
『農の民の本質とは何であろうか。宗教的情操の純粋さにほかならない。農によってだけ生きる共同体は、何ものも殺さないで成り立つことができる。農は殺すどころか、植物を愛して育てる。この愛情こそ、農の本質である。』
◆◇【文章】田口ランディ「神を求めて泣きなさい」
屋久島に住みついた詩人:山尾三星を書いている。
『彼は「山を見ているとき、山も見ている」という詞句の中に、世界の相対性を凝縮して表現している。山と自分はもはや別個の存在ではなく、見るものと見られるものは、同時に在る。常に「カミ」は現象として立ち現れている。だがそれは隠れている。すべての現実の背後にある「カミ」を映し出すのはただ、私たちの心だけだ。』
◆◇【写真】石元泰博「戦後東京、50年のうつろい」
これもかなりいい写真ばかり。女の子が赤羽台団地で野球している写真は特に素晴らしいと思った。こういう時間の流れの中で、今があることに改めて気付く。
・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
ということで、今月号も、風の旅人はいい雑誌だった!
ほんと、すごい雑誌です。
◆【お知らせ】◆
風の旅人で、泥と波の写真が掲載されていた森永純さんという方がいます。あのユージンスミスのカメラ助手だった方ですが、その森永純さんの写真展「瞬~謡」が新宿三井ビルのエプサイトで開催されているようです。
風の旅人に掲載されたのも素晴らしい写真だったので、Amazonで探してみましたが、『河ー累影―森永純写真集 (1978年)』というのが¥60,000!のプレミア価格で販売されているほどで、風の旅人以外で写真を見ることができない!
ということで、本物の写真見れる数少ないチャンスですんで、是非見に行ってみてください。僕も時間ある時見に行こうかと思ってます。3月1日までなのでお急ぎを。
ちなみに、風の旅人のブログ『私の写真論』でも佐伯さんの感想が書いてありますのでご参考に。
2009年2月、最新号の『風の旅人』 36号 「時と転」が届いたので一気に読んでみた。
今までは2ヶ月に1度というハイスピードで刊行されていたけれど、今後は4ヶ月に1度の発行になる。
個人的には、スピードよりもゆっくり継続していくこと自体を重視しているので、年に1回になろうと、数年に1回になろうと、是非ともこの雑誌は果てしなく続いてほしいと思う。
4ヶ月に1度になるから、せっかくなのでもう一度全巻見直して、それぞれの号の感想を暇な時に書いていこうかと思っている。バックナンバーどれ読んでもすごくイイ!
写真も文章もイイ!イイものはイイ!
思い立ったが吉日。今月号の感想を書いてみよう。
少なくとも、このブログ読んでるわしの友人で、10人くらいはこの『風の旅人』を定期購読している人がいるはずなので、基本的にその10人のために書くようなものですね。
この雑誌を買ってない人も、この熱の雰囲気を感じ取って購入してくれると嬉しいな。たったの1200円ですよ!ビール2杯我慢して買ってください!
■佐伯編集長の巻頭言
わしは、毎号毎号、佐伯編集長の巻頭言に勝手に感動している一人なのです。
いつも本当に名文を書いていて、一番楽しみにしてる。心に響くのです。
『風の旅人』は、31号から『FIND the ROOT 永遠の現在』というシリーズになっていて、31号『時と命』、32号『時と廻』 、33号『刻と哀』 、34号『時と揺』 、35号『時と相』 、そして今回の36号『時と転』になります。
『風の旅人』36号『時と転』での佐伯編集長の巻頭言は、バルタザール・ブルクハルトの砂漠の写真を背景に、こうした文章で始まります。
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【時と転】
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砂漠の中を歩きながら、砂嵐に巻き込まれると、
視界がきかず、混沌とした世界に感じられるが、
全体を眺め渡せる場所に出ると、
局面ごとの様相や、動きの方向性が見えてくる。
時代や社会の急激な動きの中に巻き込まれると、
視界の中に飛び込んでくる物事に意識がとらわれ、
混沌とした世界に感じられるが、
そこから距離を置くと、様々な関係性が見えてくる。
世界が混沌に見えたり、秩序的に見えたりするのは、
どこを、どう切り取るかという意識次第である。
意識が変わると、視点が変わる。
視点が変わると、世界が変わる。
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この文章は、まさしく今の心境というか、考えていることにドンピシャだった!
今の時代には資本主義や金融主義の大きな流れがある。
光と影の部分があるのはよくわかる。今は金融破綻でみんなが不安の渦に飲み込まれていて、チョイ前にバブルで浮かれた人たちが、一斉に金融主義の批判を始める。竹中さんや小泉元首相を批判しだす。
わしに言わせれば、その当時の金融主義の渦に飲み込まれていたとき、本当にそう思っていたのか!と言いたくなる事がある。
でも、社会とか時代の大きな流れというのは恐ろしいもので、テレビや新聞や色んなマスコミが、雪崩れのようにその雰囲気を作ることに躍起になる。
その台風の中で、『風の旅人』という雑誌は、上辺ではない、人間や世界の根源に迫るようなものを、創刊号から地道に追求してきた雑誌だった。
古代とかの大きい過去の時間の流れを受けながら、今の空虚な時代の雰囲気には迎合しないで、ホンモノのホンモノを真面目に追求する硬派な雑誌。
巻頭言にも
『混沌とした世界に感じられるが、そこから距離を置くと様々な関係性が見えてくる。』とあって、その距離を置かせてくれる触媒になる、まさにこの雑誌なのです。
■医療の現場での混沌さ
日常での仕事は、短期的な視点に立つことも多い。お金やいろんな人の思惑が複雑にからみあって、結局何がしたかったのかが混沌としてきてよくわからなくなることは多い。
でも、この雑誌の「本気さ」や「一途さ」に触れることで、
医療に携わる自分も原点を見直すわけです。
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『医療や医学は本来患者さんのためにある。
患者さんとは、一時的に社会的な弱者になってしまった人や病いをもつ人。
社会的な弱者や病者は、次の瞬間にも自分もそうなるかもしれない存在。相対的なもので自分が反転されたような存在で、対岸の火事ではない。
今、自分が偶然に社会的な弱者になっていないにすぎない。
だからこそ、医学や医療は、相対的に社会的な強者になっている医療者にとっての、見栄や虚栄心のためにあるものではない。
奉仕とか献身とか、他者や弱者への愛とか優しさとか真心とか思いやりとか、人間を大切に思う思いや祈りや、生命そのものへの敬意や畏怖の念、そういうものが根源にあるはずだ。』
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という風に、ふと深呼吸をして立ち止まらせてくれる。そんな雑誌なのです。
日常は、すごく混沌としていて、色んな人の思惑や自己中心的な発想にまみれていて、「あら、この仕事の本来の目的ってなんだっけ?」と立ち位置がよくわからなくなることが多い。
その混沌の中で、自分の意識がかわるだけで、同じ世界がガラッと別の様相を呈して見えることがある。
きっと世界はまるで何一つかわっていない。
でも、自意識が変わることで、自分以外の世界のあらゆる全ての意味が、180度ひっくり返ることがある。
世界が宙返りして反転する。
これは、大きな挫折とか、大切な人の死とか、自分の大きな病とか・・そういうことが反転するきっかけになるかもしれない。大きな悲しみや喜びで、世界は反転しうるんじゃなかろうか。
そして、その助けをしてくれる触媒になるのは、自分の周りにいる『他者』であるのは間違いない。
そういう、ごく当たり前の事実に本当の意味で分かってきた感触があるのですね。
「いまさら」でもあります。
■『今』という瞬間に参加すること
自分は、最近「『今』という瞬間に参加すること」を意識しだしている。
これは、奇しくも友人のShin.K氏が、よしもとばなま『彼女について』の感想をブログで引用していて、よしもとばななの文章に同じようなものがあることに気付いた。
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よしもとばなな『彼女について』 P213
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「そうか、ピクニックそのものよりも、そのイメージで人は活気づくんですね。イメージが全てなんだ。でも、イメージ以上のものを知るには、今の瞬間にぐっと参加することしかないんだ。」
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最近、『時間』という概念の不思議さを考えていて、その結果決意するに至った。
それは「『今』という瞬間に参加すること」なのです。
別の言い方をすれば、去年くらいまでは、『今』という舞台があるとすると、そこから距離を置いた傍観者・観客だったような気がしているんですね。
過去の作品を味わったりするものも、傍観者のような一人の観客として味わっていた。
毎日毎日、それなりに真剣に生きてきたつもりではあったけど、本当の意味で、「今」という時間にグイッと参加して、「今」の同時代に生きている人たちと呼応していきたいと深く思い始めたのはつい最近でもある。
「今」という時間をあまり考えてなかったから、「今」の時間を学校の休み時間みたいにボンヤリと生きてきたんだと思うけど、最近はよしもとばななが表現するように、「今」という舞台の傍観者や観客としてではなく、自分も参加者とかプレイヤーになって、その「今」の舞台の上でみんなと呼応していきたいって感じ始めている。
「今」という瞬間に参加すること。
「今」に参加していこうという決意は、自分が死んでいなくて生きていることへの感謝であるし、過去に無念の中で死んで行った人たちや、自分の担当の患者さんで無念にも亡くなった患者さんたちへの、追悼とか恩返しとか鎮魂のようなものでもある気がしておるのですよね。
そういう風に意識がかわると、世界は変わる。
全て別の彩りを呈するように百花繚乱に見えてくる。
そして、「イイものはイイ!」と声を大にしていくことで、足を引っ張り合う関係性ではなく、この世界に散らばる自分にとってイイものを探して、同じくイイ!と思う人と共に、世界を味わっていきたいと思っているのですよね。
それが「今」に参加していくことなのです。
そんなことを考えていたので、今月号の巻頭言は特に心に響いてしまった。
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ここから下は、本号で特に感じ入ったものを端的に記します。
◆◇【写真】川田喜久治「遠い場所の記憶」
1960-1965「地図」という写真集から。原爆ドームの接写写真?とか、日本国旗がボロボロになった写真(ココにも一部載っている)、圧倒的な迫力がある。魂をつかまれるような写真。その当時の時間が、完全にこの写真の中に封印されて生命体のように生きている。そして、何故か今、自分が追体験している不思議さ。時代という得体の知れないものが透けて見える。「被爆者」という写真での手や額の皺にも、過去の時間が深く永遠に刻印されていて感じ入った。
◆◇【文章】佐伯剛「目に見えにくいところに見えるもの」
その川田喜久治さんの写真を受けて、佐伯編集長が文章を寄せているんだけど、これもまたいい文章なのです。
『どすぐろい「しみ」は、川田さんにとって、意識下に染みこんでいた原爆や戦争のおぞましい光景の陰影そのものだ』
『日本人の魂と社会に深く染み込んでいる筈なのに、その当時、次々と新しく出現する物事の背後に隠れて急速に見えにくくなりつつあったもの。それが濃密な「しみ」となって見る者に迫ってくる』
『川田さんの写真を見る事は、"状況"を頭で知ることではなく、瞬間の"気分"に浸るのでもなく、フレームの中に創出された別次元の空間を、新たに体験することだ』
『短期の記憶によって作り出される情報の大半は、現在の再生産であって、未来ではない。長期の記憶と呼応するものこそ、未来へとつながっている』
こういう文章はかなり心に染み入りました。
◆◇【文章】 森達也「転移する全体と、一人ひとり」
フランス革命で、一般民主が武器を持って浮浪者狩りをはじめ、少年たちを襲撃した事実を引用しながら
『一人ひとりは善良な市民のまま。でも全体としての相が転移する。まるでサバクトビバッタがバズズに変わるように』
(バズズとは、サバクトビバッタが大群になって全ての農作物や草木を食いつくす現象の事)
◆◇【写真】ユージン・スミス「Japan…a chapter of image, 1961」
ユージン・スミスの写真は本当に昔から好きだけど、この日本の日立の会社の写真とかは初めて見た。ユージン・スミスって写真がなんとも言えず濃密な写真なのですよね。念の強さ、強度を感じる。
◆◇【文章】 前田英樹「日本の天職を知る」
前田英樹さんの文章はいつも格調高くて好きなんだけど、今回は、キリスト教徒の内村鑑三がアメリカを批判した文章を引き合いに出して文章を書いている。日本人の本質は農の民であると説く。
『農の民の本質とは何であろうか。宗教的情操の純粋さにほかならない。農によってだけ生きる共同体は、何ものも殺さないで成り立つことができる。農は殺すどころか、植物を愛して育てる。この愛情こそ、農の本質である。』
◆◇【文章】田口ランディ「神を求めて泣きなさい」
屋久島に住みついた詩人:山尾三星を書いている。
『彼は「山を見ているとき、山も見ている」という詞句の中に、世界の相対性を凝縮して表現している。山と自分はもはや別個の存在ではなく、見るものと見られるものは、同時に在る。常に「カミ」は現象として立ち現れている。だがそれは隠れている。すべての現実の背後にある「カミ」を映し出すのはただ、私たちの心だけだ。』
◆◇【写真】石元泰博「戦後東京、50年のうつろい」
これもかなりいい写真ばかり。女の子が赤羽台団地で野球している写真は特に素晴らしいと思った。こういう時間の流れの中で、今があることに改めて気付く。
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ということで、今月号も、風の旅人はいい雑誌だった!
ほんと、すごい雑誌です。
◆【お知らせ】◆
風の旅人で、泥と波の写真が掲載されていた森永純さんという方がいます。あのユージンスミスのカメラ助手だった方ですが、その森永純さんの写真展「瞬~謡」が新宿三井ビルのエプサイトで開催されているようです。
風の旅人に掲載されたのも素晴らしい写真だったので、Amazonで探してみましたが、『河ー累影―森永純写真集 (1978年)』というのが¥60,000!のプレミア価格で販売されているほどで、風の旅人以外で写真を見ることができない!
ということで、本物の写真見れる数少ないチャンスですんで、是非見に行ってみてください。僕も時間ある時見に行こうかと思ってます。3月1日までなのでお急ぎを。
ちなみに、風の旅人のブログ『私の写真論』でも佐伯さんの感想が書いてありますのでご参考に。
私の仕事は,犯罪が起きてから判決が下るまでが主戦場ですが,いま受けている修士は,判決のその後をたどる修士です。刑罰とは何か,刑務所内はどうなっているのか,自由剥奪以外のさまざまな刑罰の可能性,社会復帰のための方策,福祉・心理などの隣接分野・・・。そこから自然と突きつけられるのは,何のために刑罰はあるのかという問いで,それは人間が作った社会のあり方そのものに直結している気がします。
入り口からインサイダーとして(しかも仕事を覚えるのに必死でもがきながら)しか見ていなかったものを,出口から一歩ひいて振り返る,という体験は,とても新鮮です。同時に外国なので,国民性の違いがどれほど制度に影響するかも肌で感じると,いろんなものが相対的に見えてきます。まだもやもやとしていますが,いろんな形で自分の仕事の位置づけ(「方向性」「関係性」ですね)がほんの少しずつ自分のなかで見えてくる気がするんです。
この数ヶ月は大学を通してそういう漠然とした感動を折に触れて感じていたので,思いきり琴線に触れてしまいました!私は放っておくと小さな日常の枠内でわりと満足してしまう人間なので,この巻頭言,忘れずに精進したいです。
最近はコメント先がフランスとかドイツとか、このブログもインターナショナルな感じ!笑
巻頭言,いいでしょ!!
MYさんが感じる力は、ワシと全然違う相互作用をしていて、多様なものを感じ取るんだと思う。
ちなみに、前回の『風の旅人』 35号(2008年12月号)の『時と相』はこう来ました。
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森羅万象は、内も外もない生命流のうねりであり、
多種多様な波が絶え間なく揺らぎながら、無限に連続している。
生命流のうねりのなかで、それぞれの波が複雑精妙に関係し合い、
その時ならではの相が現れ、たちまち消えて、また現れる。
この世で見られる一切の現象は、生命流の変容していく相であり、
一つの断面を固定して決定付けることは、人間の都合にすぎない。
================================
佐伯編集長は、人間が、いかに人間の都合いいように世界を解釈しているかを指摘してくる。
いかに人間の意識次第で、世界や自分以外の人間が、善にも悪にも反転しうるか、その怖さを指摘しているのです。
世界や人間をもっとありのままに見つめないといけない。
狭い自意識にとらわれず、全てをありのまま見つめること。
『何のために刑罰はあるのかという問い』
→MYさんのように司法のプロ中のプロにとって、ここは実は根源につきつめないといけない問題ですね。そして、MYさんのように才気溢れる人にこそ追求してほしい!そこを追及できる人は、単に頭がいいとか司法試験の成績がいいとかじゃ駄目で、MYさんのように当たり前の人間の優しさとか温かさとか情けを持っている人ぢゃないと駄目だと思う。
人間は環境や意識次第で、人間本来がもつありのままの優しさとか温かさが失われることもあるし、さらに深みを増すこともある。いい方に強化されることもあるし、悪い方に強化されることもある。それは自分の意識次第でもある。
司法も人間がつくった人工物だろうし、人間の意識次第でどうとでも方向付けることができるし、その方向付けによって大部分の人間の生活や価値観も無意識に方向付けられることがある。時代によっても大きく変動して流動していくのかもしれない。
だから、司法のプロ中のプロに求められるのは、人間の悪の部分や善の部分を徹底的に見て、その悪とか善のような二項対立の概念を自分の中で融合させながら全部ありのまま受け入れて、その塊を人間本来が持つ優しさとか温かさを軸に方向付けることができるのか、自分の狭い自意識や価値観だけで恣意的に方向付けるのか、そういう点にかかっているんだと思う。
きっと、MYさんにそれは託されているんだと思いますね。色んな人の願いが込められて、日本からリヨンへと、日本の頭脳は流出されたんじゃなかろうか。そういう引力と斥力が働いたんじゃなかろうか。そういう風に考えております。
きっと、異国の文化って日本の常識や価値観も全く通じないだろうし、
今月の巻頭言でいうと、こういう状況がズバリあてはまるんでしょうね。
********************
時代や社会の急激な動きの中に巻き込まれると、
視界の中に飛び込んでくる物事に意識がとらわれ、
混沌とした世界に感じられるが、
そこから距離を置くと、様々な関係性が見えてくる。
********************
最初MYさんの留学話を聞いたときから思ったのだけど、MYさんには、日本とかフランスとか、国の違いを超え人間存在そのものを見つめなおして、その人間の本質そのものから再度司法を捉えなおして、それを日本や世界に還元すること。そんな祈りや願いを託されているように感じたよ。
MYさんならきっと、それができるんだと思うなー。
そこには僕らでは考えられないような悩みとか葛藤とかの混沌とした渦を経ないといけないのかもしれない。でも、MYさんならきっと、それができる!それだけの、「ノリしろ」をいつも感じてます。
そして、「今」という瞬間に存在する司法に、MYさんは参加しだしているんだと思う。
>>佐伯編集長は、人間が、いかに人間の都合いいように世界を解釈しているかを指摘してくる。
人間の都合・・・本当ですね。解釈しようとす試みを放棄してはいけないけど,知らないうちによくわからない既存の枠組にとらわれていることってありますよね。
フランスって面白いんですよ。伝統的に,学問の世界では,何か論文やレポートや答案をまとめるとき,必ず1部と2部にわけ,各部分をそれぞれ2つにわけるというスタイルで書くんです。どんな内容でも,どんな規模の文章でも,伝統的には必ずI-A, I-B, II-A, II-Bの四部構成なんです。この伝統を下らないと言う進歩的な人たちもいますが,大学教授はかなりの確率でこの構成が最良だと思っています。私は,物事が必ず2つずつにわけられるなんてとんでもないフィクションだと思いますが,こちらの学生たちは,最初は「なんだそれ」と思いつつも,ずっとその書き方で訓練しているうちに,どんな題材でも4つにわけないと気が済まなくなってくると言っていました。そういう思考の形式って,考え方そのものにも影響してきますよね!これはほんの一例ですが,抽象的な概念での大議論をこよなく愛するフランスの世界観ってかなり人工的だなと思うことがあります。
日本は,二元論ではないですし,世界観として,流転しながらも無限に続く営みというとらえ方がわりと文化の中にありますよね。「この世で見られる一切の現象は、生命流の変容していく相であり、一つの断面を固定して決定付けることは、人間の都合にすぎない。」って
方丈記の「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」というのを思い出します。こうして書いてたら,高校の教科書に載っていた山崎正和の「水の東西」を思い出しました。(あまりいいリンクじゃないですが,http://www.e-t.ed.jp/edotori390112/1cmizutozai.htm)水の鑑賞の仕方ひとつにも,特有の意識や感性が奥底にあるという指摘にすごく納得した覚えがあります。
それでも,そんな世界観をもつ日本は日本で,人間に対しては一定の型にはめて無理を強いる傾向が強いように思います。フランスには「人それぞれ」ということが当然な空気が流れている気がします。
いろいろとうまく表現できませんが…。「世界や人間をもっとありのままに見つめないといけない。」って,難しいけれど,そのとおりなのでしょうね。果てしないです。
ユクスキュルという人の書いた「生物からみた世界」という大好きな本を思い出しました。偶然見つけた本だったのですが、この自然界に暮らす生物たち(ハエ、かたつむり、くらげなどが登場)から見た世界は、こんな風になっているのか!と感動すら覚えてしまいました。
風の旅人、これまたいつか手にとってみたい雑誌です。本当に素敵な写真と文章ですね。
↑リヨン!!今まで旅した中で、一番好きな町です♪私が初めてヴァイオリンを習った先生がそこに住んでいらして、案内していただきました。あの丘の上からの眺め、世界遺産の街並み、美味しいチョコレートたち。全てがとっておきで、忘れられません。
『知らないうちによくわからない既存の枠組にとらわれていること』
→これは本当に多いですよねー。我ながら反省すること多し。
自分、人間、日本人、男、30歳、医者、・・・・自分を規定している色々なもの。
まずはそういうものを出発点として考えたり、世界を見つめたりするから、初めは既存の枠組みに縛られたりするのはしょうがない。
でも、丁寧にその先を見つめていくと、その視点からでは到達できない広い領域に気付く。
自分に対して他者、人間に対して動物や昆虫や魚などの生物、日本人に対してアメリカ人やヨーロッパ人やアフリカ人や少数民族、男に対して女、30歳に対して赤ん坊や学生やお年寄り、医者に対して病者・・・・。
そういう視点から再度見直してみること。その両方向から光を当てることで、対象が立体的にリアルに浮かび上がってくることってある。
自分の視点を、狭い自意識で固定化しないこと。常に流動化させて変化させること。
そういうことが大事なんだと、30年生きてきてちゃんと分かってきた気がしとります。
『フランスは伝統的には必ずI-A, I-B, II-A, II-Bの四部構成』
→そうなんだー。これは初耳!!勉強になるわー。
日本だとそういうのあるかなぁ。『起承転結』と概念近いのかなー。
でも、日本人はまあダラダラ遠回りにスパイラルを描きながら中心に触れていくって手法は好むよね。
アメリカ人のように、まず中心となる結論を言って、それを箇条書きに番号ふって簡潔に表現するってやり方はしない。
渦を巻くように、遠いところからグルグルと中心に自然に向かっていく。その中心が日本人の言いたい結論なんだけど、またそこからグルグルと中心からずらしていくような手法もとる傾向にある気がする。
『煙に巻く』って言葉も、言い得て妙な気がする。
これは、やはり断定を避けた、争いや衝突を好まない表現技法なのかねぇ。
『方丈記:行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず』
→日本はまさしくそうなんだよね!
事物を流動のものとして捉える傾向にある。それは無常観とかにもつながるのかもしれん。
万物は全て滅びるというような発想法。それは儚い美しさとか、もののあはれとか、そういう美意識にもつながる。
そう言う意味で、わしは相当に日本人の美意識や世界観に忠実な人間だと自覚しております笑
『山崎正和の「水の東西」』
→このリンク先、勉強になりました!
→→《日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮したりねじ曲げたり、粘土のように造型する対象ではなかったのであろう。》
というのは確かにその通りですね。水と聞くと、大自然にある、ありのままの姿としての、流動の相としての水を、まずイメージしてしまいます。
水に近いものとして、雲とかも、かなり感じ入ること多しです。
自分の意識次第で、バナナに見えたり人の顔に見えたり車に見えたりする。でも、常に実態はなく流動的で・・・。般若心経の『色即是空、空即是色』とか、日本人にフィットするんでしょうなー。
『そんな世界観をもつ日本は日本で,人間に対しては一定の型にはめて無理を強いる傾向が強い』
→ここは不思議だよねー。《長いものに巻かれろ》《出る杭は打たれる》の理論は確かに強い気がする。個の論理より集団の論理が強いんでしょうね。だから、一定の型にはめるのかな。
これは、聖徳太子の17条の憲法
「一に曰わく、和を以て貴しと為し、忤ろうこと無きを宗と為せ。」
につながるのかもしれん。和の発想は儒教でも仏教でもないし。
実は、この辺は今自分の中で最もホットな話題で、「日本人とは何か」を考えるうえでの鍵になりますね!
「世界や人間をもっとありのままに見つめないといけない。」って,MYさんにはきっとできると思うなー。わしも頑張ります。
>>>>>>>>>>>>la stradaさん
ユクスキュル「生物からみた世界」
→実は僕もこれ、読んでます!(でも6割方で終わっているのに今気づいた)
la stradaさんのブログの右側にもこの本載ってて嬉しく思いました。
蝿とかから見た世界が、ピカソの抽象画に滅茶苦茶近くて、相当驚いた記憶があります。
自然界の生物から世界を捉えなすと、本当は世界は全く変わらないのに、世界が反転しますよね!
これはまさしく『風の旅人』で佐伯さんが指摘していること、そのものだと思います。
自意識とか、人間の都合だけで世界を解釈することの危うさが、ユクスキュル「生物からみた世界」から感じ取れる。仏教での「殺生をしない」という概念や、「一寸の虫にも五分の魂」という諺も、人間だけで都合よく切り取った世界観への警鐘のようにも聞こえますし。
『風の旅人』は、相当にいい雑誌ですよ!la stradaさんは、かなりビンビン感じると思います。きっと、バックナンバーとかも全部欲しくなっちゃう可能性アリです。
リヨンにも旅しているなんて素敵デス!わしはドイツもリヨンもないなー。フランスは、スペインとイタリアを2ヶ月くらい旅した時に、通り過ぎた感じでしか滞在しとらんですし(カンヌとかマルセイユとか、あの辺を一泊しながら列車で旅しただけ)。
この辺のクロストーク大歓迎です!気にせずガンガン交差して交わって下さい!
はじめまして。リヨンが大好きだなんて,嬉しいです!フルヴィエールの丘の上からの眺めは忘れられないですよね。パリやマルセイユに比べると観光地度が低いのであまり知っている人がいないのですが,リヨンは落ち着いたちょうどいい規模の街だと思います!
リヨンはなにげに美食の都と言われていて,ソーセージやハムなどの肉製品も名物ですし,本当に美味しいお菓子屋さんがたくさん・・・。私は甘い物はあまり好きでなかったのですが,ここに来てからすっかり近くのお菓子屋さんの常連になってしまい,最近では形の崩れたマカロンをよくおまけにもらって餌付けされています。ドイツにいらっしゃるならそう遠くないですから,リヨンにお立ち寄りの際は是非ご一報下さいね♪
リンク先のブログにお邪魔したのですが,私も「センセイの鞄」好きです。詳しい内容は忘れましたが,あの小説の時間の流れ方がとても良かった。「生物からみた世界」も読んでみたいです。色とかも全然違って見えているんでしょうね。
>>>> いなばさん
雲,いいですね。そういえば,ヨーロッパの冬はなんだかどんより雲の絨毯が空を覆っていることが多いです。晴れの日は青空ですが,いろんな形を想像できるような雲が青空にぷかぷかと浮かんでいるのって久しく見ていない気がします。関係ないですが,飛行機で離陸して雲の上に出たときって毎回すごく感動します。雲の切れ間から村や町が見えるとなおさら…。
>実は、この辺は今自分の中で最もホットな話題で、「日本人とは何か」を考えるうえでの鍵になりますね!
私の中でもこれは熱いテーマです。いつか日本に帰ったら何かの折に語り合いたいですね!
>>>>>>>>>MY@リヨンさん
『センセイの鞄』
→la stradaさんのブログ内容に触発されて、以前Shin.K氏から薦められて購入してたってのもあったので、わしも先日読みました!不思議な感覚が残る物語ですね。じんわりキマス。
全然関係なさそうで自分的に少し関係あるので、浦沢直樹の漫画『20世紀少年』の感想書くときに、『センセイの鞄』の感想も書きますね。
『雲』
→あの自然の造形美はすごい。人間が、自然の美を超えれる日は、果たしてくるのだろうか。
『飛行機で離陸して雲の上に出たとき』
→確かにあれはスゴイ!科学の進歩のおかげですな。上空と逆に、深海もあんな感じなのかもね。(行ったことないけど)
『日本人とは何か』
→僕らが日本人である以上、ちゃんと考えたい!僕らはどこから来て、どこへ向かうのか。日本人の戸良さ、そして悪さ。その辺は丁寧に考えて、未来に生かしたい。
帰国したらみんなで話しましょう。喉が枯れるまで話しますよ!喉飴必須!
ここのQ&Aに載っていました。やっぱりよく聞かれるんでしょうか(笑)。以下転載。
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UHAはユニーク・ヒューマン・アドベンチャーの略です。人の夢をかなえるために、独創的、個性的に未来に向けてチャレンジしていこうという会社の信念を表しています。食べるという行為を通じて、多くの人が大きな夢を心に抱き、快適で健全な生活を送っていただくことこそ、私たちUHA味覚糖の最大の願いなのです。また、UHA味覚糖がお菓子というフィールドで追求するのは、楽しみ、遊び、ときには人を精神的に、肉体的に向上、リラックスさせる"食"の創造です。そんな食で遊ぶ『遊食』を社会に提供することで、味覚糖から『遊』の『波』を広げていただきたい。それが、私たちの掲げる『遊波』という考え方です。
そして、『遊』の中にある『もっと』という欲求に応えていくために、味覚糖は、最先端技術を投入し、オリジナルティあふれる商品の開発を推進しています。
そんな『もっと』という姿勢を貫きながら、食で『遊』ぶUHA味覚糖の姿は、お店に並ぶ商品一つひとつからでも、感じ取っていただけるはずです。
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話すごいそれましたけど(ごめんなさい!笑),一応「遊び」に着地ということで…深イイ?!