ふと思いついたことは、メも書きのようにTwitterに書いたりしていてるけれど、時にはふとした思いつきをブログにも。
学ぶこと、考えること。
「世界はなぜできたのか」
「世界はどうやって出来たのか」
「何のために人間は生まれ、生きているのか」
「なぜ人間は死ぬのか」・・・・・・・・
こういう問いは、一般的には哲学的な問いだと言われる。
問いの立て方次第で、答え自体が出ない、迷路のようにグルグル回る問いなのかもしれない。
ただ、それは問い方が悪いのであって、考えることが悪いとか、無駄とか、意味がないというわけではないだろう。
人間は、生きている以上、上のような根本的なことを考えていないようにみえても、無意識のうちに考えている。
そして、無意識の気付かない場所に、少しずつ溜まっている気がする。
何かの拍子に、その蓋が開くと、一気に噴出する。
哲学とか考えることは、そういう根源的なことを、小出しに意識の上にヒョイヒョイ移動させることだと思う。
哲学とか、考えるとか、学ぶとか・・そういうものは、自分の考えを補強するためのものではない。
自分の考えを補強するために、本を読んで知識を得ると、確かに10年もすればそれなりの補強してくれる知識の数も集まるし、古典を含めて権威ある人の意見はたくさん集まるだろう。
ただ、学ぶことは、自分の考えを「補強」するために使うのではなく、自分の考えを「検証」するためなのだと思う。
デカルトの「われ思う、故にわれあり」。
(→<参考>デカルト「方法序説」(2009-08-26))
デカルトは、自分の考えを補強するためではなく、自分の考えを検証するために、考えること自体の出発点を作ろうとしたのだと思う。
知識が深くなることは、単に知識が増えて積み重なることではなくて、
自分の主観的で個別的な考えが、より普遍的になってくることのはず。
自分の考えを強固に補強するための知識はむなしい。
自分の道が正しいか、ずれてないか、それを絶え間なく検証することが、学ぶことで考えることのだろうと思う。
学ぶこと、考えること。
「世界はなぜできたのか」
「世界はどうやって出来たのか」
「何のために人間は生まれ、生きているのか」
「なぜ人間は死ぬのか」・・・・・・・・
こういう問いは、一般的には哲学的な問いだと言われる。
問いの立て方次第で、答え自体が出ない、迷路のようにグルグル回る問いなのかもしれない。
ただ、それは問い方が悪いのであって、考えることが悪いとか、無駄とか、意味がないというわけではないだろう。
人間は、生きている以上、上のような根本的なことを考えていないようにみえても、無意識のうちに考えている。
そして、無意識の気付かない場所に、少しずつ溜まっている気がする。
何かの拍子に、その蓋が開くと、一気に噴出する。
哲学とか考えることは、そういう根源的なことを、小出しに意識の上にヒョイヒョイ移動させることだと思う。
哲学とか、考えるとか、学ぶとか・・そういうものは、自分の考えを補強するためのものではない。
自分の考えを補強するために、本を読んで知識を得ると、確かに10年もすればそれなりの補強してくれる知識の数も集まるし、古典を含めて権威ある人の意見はたくさん集まるだろう。
ただ、学ぶことは、自分の考えを「補強」するために使うのではなく、自分の考えを「検証」するためなのだと思う。
デカルトの「われ思う、故にわれあり」。
(→<参考>デカルト「方法序説」(2009-08-26))
デカルトは、自分の考えを補強するためではなく、自分の考えを検証するために、考えること自体の出発点を作ろうとしたのだと思う。
知識が深くなることは、単に知識が増えて積み重なることではなくて、
自分の主観的で個別的な考えが、より普遍的になってくることのはず。
自分の考えを強固に補強するための知識はむなしい。
自分の道が正しいか、ずれてないか、それを絶え間なく検証することが、学ぶことで考えることのだろうと思う。
藤原和博さんは、正解から納得解へって言うし。
竹田青嗣の現象学的には「了解」を得るって感じ。
僕は、竹田哲学を知って、たまたま人生の岐路の時だっただけに、激しく腑に落ちた覚えがあります。
哲学は、考える技術であると。
確かに、学校では〈考え方〉って訓練しないものね。いわゆる「お勉強」は、基本的に、「情報処理」って感じで。
20代の前半、それまでとは方法論が決定的に違うと思えるような、学びや考えることができた気がする。その後、しばらく忙殺されて、
最近、30代でまたこうして、幅広く深く学び考える人や場に出会えたことは、ホント幸せなことだと、休みの日の前の夜など静かになる頃にフト思います。
…ありがとう。
ちなみに、ツイッター僕も開通(というか8ヶ月前に登録したままだったらしい…)。まだ使い心地が分かってません(笑)。
というのは全くその通りですね。しかし、評論家や学者は論争に勝つために知識を溜めこむ人が多すぎる。思想というのは全て主観による抽象ですが、そこに政治が絡むと実際に金と人が動くから、終わりなき論争になるのでしょう。科学の分野でも、地球温暖化のデータが誇張だったことが明らかになったりしています。
『ミトコンドリアが進化を決めた』、いま第3部まで来ています。高校で化学を取らなかった私には難しい話ですが、とてもドラマティックですね。私の中では1京個!のミトコンドリアがエネルギーを作り、100兆個の腸内細菌が消化活動をしている。自分が呼吸や食事をして生きていると思うのは妄想にすぎないわけで。
ところで、104ページの12行目、「この連鎖反応では、炭素原子と水素原子が剥ぎ取られ、二酸化炭素として廃棄される。」の水素原子は酸素原子の間違いですよね?
学校では、勉強を目的として教えちゃうのよね。
それ自体が目的になっちゃうし、大学入学が目的になって。
学びも学問も、大学も・・・常に手段であって道具でしかない。
そのことをちゃんと伝えないから、勉強自体にキナ臭いイメージがつくし、
そういう学ぶことから離れると、とんでもないマガイモノは簡単に信じちゃうようになるし。
この前も、患者さんから「ミトコンドリアを飲むっていうサプリメント使ってます」
とか言って、びびりました。
ミトコンドリアって、飲めないんですけど・・・
60兆個の細胞の中に最低一個ある、細胞内小器官のことを言うんですけど・・・
って感じで。
そういう無知なことをいいことにして、あいまいなイメージだけで連結させて、それを情動的に煽って(病気になる、癌になる、太る・・・・)、商売にしていくっていう手法は、害にも毒にもならなければいいけど・・・健康を害していることも多いから、僕ら専門の人間がちゃんといわないとまずいなぁと思います。
学問とか学びを、包丁のような道具として学べば、中華も日本料理もフレンチも作れるわけでねぇ。
>>>>>>>>YUTAさん
『ミトコンドリアが進化を決めた』、すごいペースで読んでますねー。うらやましいなぁ。
僕は途中でそのままになってます。
ミトコンドリアの共生説って、ほんとたまげた。
ミトコンドリアは、古代にαプロテオ細菌(好気性細菌、リケッチアに近い)が真核細胞に共生したという話。
リン・マーギュリスの細胞内共生説も、当時はなかなか信じられなかったんですよねー。
でも、ミトコンドリアが独自のDNAを持っているし、母系遺伝しかしないし、そんなことから進化の証明とか、人類の起源とかにもつながっていって、人体の細胞の中に歴史の鍵が潜んでいるっていうのは壮大な話です。
(追記:水素原子は酸素原子の間違いでいいと思いますよ。)