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■プロジェクト大山の踊り
『プロジェクト大山』という、吾が母校:熊本高校の後輩の女性を中心としてやっているダンス集団があります(ボスの方だけ熊高の後輩ね)。mixiというSNSがありますが、わしは普段まったくと言っていいほど活用しとらん。でも、美術館情報とか、好きな人(岡本太郎とかピカソとか写真家とか・・)のコミュニティーに入っていると、展覧会とかテレビの情報が自然に入ってくるんで、その点だけで重宝しとります。わしは熊本とか熊本高校を愛してやまない人間なので、熊高卒業生のコミュニティーにも登録しておるのですが、そこの書き込みを見たのが、踊りを見に行ったきっかけデス。
そこにはyou tubeの動画にリンクされていて、それを見て心がザワザワして、言語化できないけれど新しい何かを直感的に予感したのです。それは、まだ直感でしか感知できない何かモヤモヤしたザワザワしたもの。
百聞は一見にしかず。ココにyou tubeにUPされている動画があります。
・・・・・・・・・・・
11/23に、神楽坂セッションハウスというところで、彼女たちの踊りがあり見に行ってきました(11/24もやってます)。とてもいい空間と時間だったので、そのことで感じたことを書き連ねていこうと思う。
熱のようなものが電流のように伝播した。その熱の余韻で一気に書いてみた。
・・・・・・・・・・・
■表現とリスクを負うこと
まず、舞踊の前に、「表現とリスクを負うこと」に関して書こうかと思います。
関連するので、以前自分のブログで書いたことを引用します。
--------------------------------------
『人体と金融 入り口と出口』(2008-11-11より)
--------------------------------------
(テレビ番組より、金融業界で『リスクをとる』ということに反応して)
『リスクをとること』
医療行為もリスクです。あえてやらないといけない。あえて人体に針を指して、数mmの針穴から血管を通して心臓や人体を治療する。それが自分の専門としている医療行為です。
人体内部で完結している世界に、体外から針を指して異物を入れていく行為は非常なリスクを伴う。でも、やらないといかん時がある。
僕らがやっていることは、リスクを引き受けないと何も始まらない。神秘の世界である人体に介入するっていうのは、やはりある一線を越えた行為だから。
そういう意味で、金融の世界の人がいうところの、『リスクをとる』という発言は素直にうなずけた。ある程度いい仕事をしたいとか、人のためになりたいとか、よりよい世界を作るお手伝いとしたいとか、やや傲慢な考えを実現するには、高みの見物を決め込んで、その世界のプレイヤーに石を投げて批判するだけではだめで、ある程度のリスクを自分自身で背負わないといけない。
リスクを引き受ける覚悟。
表現でもそうでしょう。文学、絵画、彫刻、舞踊、演劇、映画、漫画・・・言語以外の表現っていうのもたくさんあるわけですが、何かを表現するとき、自分自身を完全否定されるかもしれない、ある一定のリスクを引き受けなければいけない。
でも、その物事に真剣に一途に立ち向かって表現したとき、その良さを感じ入ってくれる理解者はきっとあらわれるはずだと思う。実際そうだと思うのです。
そういう意味では表現は孤独なものだけど、決して絶対的な孤独ではないと思う。そして、リスクを取るという意味では、表現行為も同じだと思うのです。自由な表現とはそれなりのリスクを負う、でも、それだけのリスクを負っても、表現しなければいけないことがある。表現しないといけない時がある。
--------------------------------------
引用、終わり
--------------------------------------
表現にはリスクが伴います。伝えたいこと、止むに止まれず表現せざるにはえられないこと、それを世界に表現するだけでも批判されるリスクがある。
さらに、プロとしてお金をとるとき、この世の金融全ての価値観と、好むと好まざるを得ずに同一テーブルに載る運命に晒される。例えば2500円という値段を設定した場合、フランス料理などの料理、有名歌手のCD、少し高めの書物、ホテルで受けるマッサージ、健康ランドのような温泉・・・この世には2500円の金額で流通している色んなものやサービスがあり、数多の2500円と同じ目線で評価される運命を背負うことになる。
それは比較されるということであり、価値を相対化されてしまうということ。『あそこで使った2500円の方がよっぽど良かったー。損したー。』などという文脈に乗せられてしまうということ。ただ、プロとして表現の場に立つとき、その運命は受け入れなければいけない。
プロとして医療に携わっている僕らでも同じ。2500円払わせるだけのサービスをして、患者さんに満足してもらわなければいけない。むしろ、2500円以上の満足を得て帰ってもらいたいとすら思っている。相対的な評価が難しい芸術表現も、きっとそういう思いはあると思う。
だから、まず《舞踊》という表現でお客さんに見せているという姿勢、舞踊のように相対的な評価が難しい世界で挑むということ、まずそれだけで十分に敬意を払いたい。
この世には、わかりやすいもの、表面的なもの、中身がないもの・・・数え切れないほど色んなものが溢れていて、価値観が確立されているものほどそこに携わる人間のリスクはドンドン少なくなる。この世知辛い昨今、もっと楽に安住できる世界は無数にある。リスクが少ない世界はきっと安全だろう。そして、自分も傷つかないだろう。
ただ、その半面に自分の五感で感じられる絶対的な歓喜も小さくなる欠点もある。あえてリスクを引き受けること、そこで挑むこと。
自分も人間の生命ギリギリを扱う、ハイリスクなことをやっているだけに、そのリスクを引き受ける姿勢に対して、まず十分な敬意を払いたい、そう思っている。
■踊りや舞い
踊りや舞いという表現は、肉体を波打たせることであり、人間の表現において動物的な根源に近いものがある。人体は、骨があり、そこに肉がつき、肉の中に臓器の入れ物があり、それら部分をつなぐ血管や神経線維がある。そういう部分の複雑な連関で一つの固体としての肉体が動く。普通は生活のために動くのだけれど、動くことを目的として動くこと、そういうものを踊りや舞いというのかもしれない。定義は良くわからないのであまり深く突っ込まないことにするが、その踊りや舞いにより、古来から人は喜・怒・哀・楽を表現したり、何かを伝えようとした歴史もある。
『プロジェクト大山』の踊りで、惹かれる要素になったのは、<他者性>や<場>というものがなんとなしに意識されているように感じたこと。
表現は、概して独りよがりの自己満足とかに陥りやすい落とし穴がある。
そこを越える表現には、要素として他者や場に対する配慮や気配りが含まれていると思っている。
他者との、「双方向性」や「呼応」を意識すること、そして、表現者と他者の間で作られる、「イマ、ココ」の場への配慮。このことを意識するだけで、絶対に独りよがりの自己満足には陥らないのだと思う。
更に言えば、それを意識しながら継続していくこと。継続とは、時間に晒されることであって、その表現が更に純化されていくプロセスを伴う。時間に晒されることで、独りよがりではない普遍性を徐徐に自然に帯びてくるんだと思う。
わしは、そういうものを『プロジェクト大山』から勝手に感じ取った。だから、実際に見に行った。生で見ないと、その「場」を感じることができないと思ったから。
■感想
すごく想像力を喚起される場であり、踊りであり、舞いだった。見ているときは、その世界観に完全に没入していたのだけれど、後になって思えば、60分の踊りだけで休みない表現の連なりは、相当に練習した結果であることを思わせた。
●1:変化し移ろいゆく連鎖
踊りは、すごく素晴らしかった。若々しく、生命感に溢れ、生き生きとしていた。自分にも色々な感情が自然に沸き起こった。目の前の空間には、錯綜して躍動する肉体の歓喜があり、常に変化し移ろい行く踊りがあった。あの場、あの時間でしか、もう一生見ることができないであろう、再現できない場と踊りは、一期一会の本質を思わせる肉体的動きの連鎖だった。科学は再現性があることをもって真理とみなすが、再現性がないもの、その瞬間だけが持つ美しさというものもある。
●2:意味の手前
それは意味の手前の世界のように感じられた。
人間は意味づけしたくなる悪い癖があるのだけれど、あの場で見た踊りは、ただ肉体の動きがあり、その動きの連なりがあった。集団で踊っていたので、個人だけではない集団の連なりもあり、その全体的な連なりに、付けたい人が後で勝手に意付けをするのかもしれないと思った。意味の手前とはそういうこと。
●3:踊るカラダ
踊りのための踊りの筋肉があり、そのバランスはとても人間的で美しいと思った。人工的ではない自然につくられたカラダであり、踊りに踊った結果、必要に応じて勝手に形成されたカラダだった。登山や岩登りを現役でしていたとき、山や大自然に応じて作られた、自然な筋肉やカラダを思い出した。
●4:世界に開かれること
そして、踊りの表現そのものが、個人で閉じられていなかった。観客や世界に開かれていた。
会場全体が一つの場であり、ステージの狭い場所だけが一つの場ではない印象があった。それは観客の原始的な感情深くに触れてくる感覚を伴っていた。
踊り手の表情にも、何か自己満足だけではない周囲を巻き込む凄みがあった。踊り手と観客とが、何か深い部分で呼応して影響しあい、その結果、常に新たな場が立ち上がり、そして消滅することを繰り返す感覚とでも言えばいいのだろうか。
踊り自体が、世界に開かれていたような気がした。
■喚起された課題
このブログと呼応しているIs氏の予定が偶然空いていたので一緒に見に行ったのだが、見終わってからも、想像力を喚起された。
彼女ら踊り手の熱が伝播した分だけ、その伝播した熱で、熱く色々話し合った。
その一部を少しだけ書いてみる。
●問1●
人間は意味をつけたがる存在であり、それ故に悩むことも多い(「生きる意味ってなんだろう?」「愛したり恋したりする意味ってなんだろう?」・・・などなど)。踊りの表現にも色々あり、何か大きな意味とか伝えたい考えとかがあり、それを踊りとして表現するものもあるだろう。それは演劇に近いもの? では、この「プロジェクト大山」の踊りにおいて、意味みたいな概念は想定されているんだろうか?何か意味があり、それを表現するための手段として踊っている?それとも、みんなでタダ踊る。タダ肉体を動かす。その結果として誰かが勝手に意味づけをしてみたくなるだけなのだろうか(→意味の手前)?それとも、ある意味のある世界みたいなのがあって、それを極力意味のない世界に分解して作り変えているのだろうか?
→このことは、絵画などを含めた表現全般にもつながる。意味で満たされた窮屈なこの世界で、意味から解放される時間というのは、ある意味とても自由な気がする!子供のころ、人生や動くことに意味なんて感じず、ただ無条件に無限の世界を生きていたような覚えがある。
●問2●
1人ではなく集団で踊る場合、集団で同期して踊る。そのとき、何か共有する考えというか、踊り手で共有する舞踊哲学みたいなものがあるのだろうか。みんなが好き勝手に別々のことを考えながら肉体的な動きだけをあわせて踊るには、60分という時間は長い。根底の深い部分を肉体だけではなく精神でも共有していないと集団で踊るというのは難しいんじゃないだろうか。果たしてそれは何なのだろうか。肉体を動かす原始的な歓喜とか、そういう曖昧に緩く共有されたものなのだろうか。
→このことは、一人でやる表現と、他者も交えて共同して行う表現全般につながる。共通の何かというものは、根源的で本質的でシンプルであればあるほど、個々人の表現は自由になるし、受け手も自由に解釈できる。
●問3●
踊りの中にわざと吐息や呼吸の音が聞こえてくる場面はあったが、言語を発する場面というものはなかった。「雄たけび」とか「叫び」とか、そういうのも含めて言語が存在しなかった。これは、「プロジェクト大山」の世界観としてあえて言語を排除し、言語を超えた世界や言語化される以前の世界観のようなものを表現しているのだろうか。(→これは既に意味の世界にとらわれている!?)
→この世は言語では越えられない壁があり、言語化できない世界が無数にあるのは間違いない。一個前に書いた諸星大二郎の漫画も同様。外人と言語を介しては意思疎通できないし、英語が話せてもこの世には数千の言語があるって言われているし、全て理解するのは到底無理。言語では越えられない壁がある。言語では表現できない大切な世界が、間違いなくある。
●問4●
踊りを個人的な趣味ではなく、人に見せるものに昇華させる。というとき、そこには大きいワンステップの飛躍があると思う。自分だけに閉じられたものから、他者とか世界に開かれたものになるステップ。そこを一段越えるきっかけになるのは何なのだろうか。
→この問いは、自分にも返ってくる問いでもある。昔から、思ったことや感じたことを、自分なりに考え直し、自分で思考し、文章や絵にしていた。それは自分だけに閉じられらたもので、人に見せることは意図していない個人的な日記のようなものだった。最近はブログ上に自分の考えを書くようになり、開かれた世界に表出させている。これは何故なのかという問いにも近い。
→→→自分の解としては、偶然に少しだけブログに書いたら、それに呼応してコメントを書いてくれる他者がいて、さらに呼応しあっていったらいつのまにか、以前は自分の中だけで閉じて書いていたものが開かれていったという感じなのです。ですから、こうなったのは、一回でもわしのブログにコメント書いてくれた人々全員から、この開かれた世界に勝手に引っ張られたという感覚が強い。それは他者と呼応していくことの歓喜であったり、そこで偶然に作られる場の面白さや一人では到達できない、予想できない面白さでもある。
→→→→→→この問いこそ、表現とは何か?ある表現に人が感動するというのはどういうことか?という要素も含んでいる気がしてすごく面白い。 アウトサイダーアートみたいな表現は(→2008-06-06「アール・ブリュット」というタイトルで以前触れたことあり。)、世に出すことを目的としていない表現のための表現のようなものだが、過去、この圧倒的な表現の前で呆然と立ち尽くし、猛烈に感動した自分がいた。これは何なのだろうか。この魂を掴まれた感じは!?そのときに感じたものと同じようなものだろうか。
個人的に、「プロジェクト大山」の方々の生の踊りは、何か心を掴まれる様なザワメキがあったのは事実なのです。
■終わりに
長くなりましたが、以上が『プロジェクト大山』の踊りを見て、感じたこと、それを言語化してみたこと。
生で感じた感覚と少し離れてるかもしれないけれど、今の自分の文章の表現力ではこの辺りが限界で、後は自分の課題とします。
総じて、素晴らしい時間だった。しばし、自分に余韻が残った。前売り2300円以上の価値がそこにはあったし、お金で還元できないものを喚起させられた。今、ふと目をつぶっても印象的なシーンが余韻として、網膜の残像として残っている。
ああいう生々しい表現から、学問や医学の世界も学ぶことは多いと思う。学問とか医学って、今の位置に安住してアグラを書いていることもある。少しリスクをおかして新しい彼方に足を踏み入れないといけないこともある。
踊りを生で見て、何か新しいものを生み出そうとして、生まれようとしている瞬間のライブ感を感じた。踊りは、その同じ空間を共有しないと、そのものを感じるのは難しい。テレビとか映像で見ると、何重にもフィルターがかかってしまうし、その場の中で一体化して感じることができなくなってしまう。
いい踊りや表現とはそういうもの。テレビや映像で見るのではなく、その場で、「イマ、ココ」で感じるもの。それは一期一会の感覚と同じかもしれない(→2008-10-27「一期一会」というタイトルで以前書いたことあり)。
お世辞ではなく、本当に素晴らしかったと思っています。
素晴らしい時間と空間を、ありがとうございました!
『プロジェクト大山』という、吾が母校:熊本高校の後輩の女性を中心としてやっているダンス集団があります(ボスの方だけ熊高の後輩ね)。mixiというSNSがありますが、わしは普段まったくと言っていいほど活用しとらん。でも、美術館情報とか、好きな人(岡本太郎とかピカソとか写真家とか・・)のコミュニティーに入っていると、展覧会とかテレビの情報が自然に入ってくるんで、その点だけで重宝しとります。わしは熊本とか熊本高校を愛してやまない人間なので、熊高卒業生のコミュニティーにも登録しておるのですが、そこの書き込みを見たのが、踊りを見に行ったきっかけデス。
そこにはyou tubeの動画にリンクされていて、それを見て心がザワザワして、言語化できないけれど新しい何かを直感的に予感したのです。それは、まだ直感でしか感知できない何かモヤモヤしたザワザワしたもの。
百聞は一見にしかず。ココにyou tubeにUPされている動画があります。
・・・・・・・・・・・
11/23に、神楽坂セッションハウスというところで、彼女たちの踊りがあり見に行ってきました(11/24もやってます)。とてもいい空間と時間だったので、そのことで感じたことを書き連ねていこうと思う。
熱のようなものが電流のように伝播した。その熱の余韻で一気に書いてみた。
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■表現とリスクを負うこと
まず、舞踊の前に、「表現とリスクを負うこと」に関して書こうかと思います。
関連するので、以前自分のブログで書いたことを引用します。
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『人体と金融 入り口と出口』(2008-11-11より)
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(テレビ番組より、金融業界で『リスクをとる』ということに反応して)
『リスクをとること』
医療行為もリスクです。あえてやらないといけない。あえて人体に針を指して、数mmの針穴から血管を通して心臓や人体を治療する。それが自分の専門としている医療行為です。
人体内部で完結している世界に、体外から針を指して異物を入れていく行為は非常なリスクを伴う。でも、やらないといかん時がある。
僕らがやっていることは、リスクを引き受けないと何も始まらない。神秘の世界である人体に介入するっていうのは、やはりある一線を越えた行為だから。
そういう意味で、金融の世界の人がいうところの、『リスクをとる』という発言は素直にうなずけた。ある程度いい仕事をしたいとか、人のためになりたいとか、よりよい世界を作るお手伝いとしたいとか、やや傲慢な考えを実現するには、高みの見物を決め込んで、その世界のプレイヤーに石を投げて批判するだけではだめで、ある程度のリスクを自分自身で背負わないといけない。
リスクを引き受ける覚悟。
表現でもそうでしょう。文学、絵画、彫刻、舞踊、演劇、映画、漫画・・・言語以外の表現っていうのもたくさんあるわけですが、何かを表現するとき、自分自身を完全否定されるかもしれない、ある一定のリスクを引き受けなければいけない。
でも、その物事に真剣に一途に立ち向かって表現したとき、その良さを感じ入ってくれる理解者はきっとあらわれるはずだと思う。実際そうだと思うのです。
そういう意味では表現は孤独なものだけど、決して絶対的な孤独ではないと思う。そして、リスクを取るという意味では、表現行為も同じだと思うのです。自由な表現とはそれなりのリスクを負う、でも、それだけのリスクを負っても、表現しなければいけないことがある。表現しないといけない時がある。
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引用、終わり
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表現にはリスクが伴います。伝えたいこと、止むに止まれず表現せざるにはえられないこと、それを世界に表現するだけでも批判されるリスクがある。
さらに、プロとしてお金をとるとき、この世の金融全ての価値観と、好むと好まざるを得ずに同一テーブルに載る運命に晒される。例えば2500円という値段を設定した場合、フランス料理などの料理、有名歌手のCD、少し高めの書物、ホテルで受けるマッサージ、健康ランドのような温泉・・・この世には2500円の金額で流通している色んなものやサービスがあり、数多の2500円と同じ目線で評価される運命を背負うことになる。
それは比較されるということであり、価値を相対化されてしまうということ。『あそこで使った2500円の方がよっぽど良かったー。損したー。』などという文脈に乗せられてしまうということ。ただ、プロとして表現の場に立つとき、その運命は受け入れなければいけない。
プロとして医療に携わっている僕らでも同じ。2500円払わせるだけのサービスをして、患者さんに満足してもらわなければいけない。むしろ、2500円以上の満足を得て帰ってもらいたいとすら思っている。相対的な評価が難しい芸術表現も、きっとそういう思いはあると思う。
だから、まず《舞踊》という表現でお客さんに見せているという姿勢、舞踊のように相対的な評価が難しい世界で挑むということ、まずそれだけで十分に敬意を払いたい。
この世には、わかりやすいもの、表面的なもの、中身がないもの・・・数え切れないほど色んなものが溢れていて、価値観が確立されているものほどそこに携わる人間のリスクはドンドン少なくなる。この世知辛い昨今、もっと楽に安住できる世界は無数にある。リスクが少ない世界はきっと安全だろう。そして、自分も傷つかないだろう。
ただ、その半面に自分の五感で感じられる絶対的な歓喜も小さくなる欠点もある。あえてリスクを引き受けること、そこで挑むこと。
自分も人間の生命ギリギリを扱う、ハイリスクなことをやっているだけに、そのリスクを引き受ける姿勢に対して、まず十分な敬意を払いたい、そう思っている。
■踊りや舞い
踊りや舞いという表現は、肉体を波打たせることであり、人間の表現において動物的な根源に近いものがある。人体は、骨があり、そこに肉がつき、肉の中に臓器の入れ物があり、それら部分をつなぐ血管や神経線維がある。そういう部分の複雑な連関で一つの固体としての肉体が動く。普通は生活のために動くのだけれど、動くことを目的として動くこと、そういうものを踊りや舞いというのかもしれない。定義は良くわからないのであまり深く突っ込まないことにするが、その踊りや舞いにより、古来から人は喜・怒・哀・楽を表現したり、何かを伝えようとした歴史もある。
『プロジェクト大山』の踊りで、惹かれる要素になったのは、<他者性>や<場>というものがなんとなしに意識されているように感じたこと。
表現は、概して独りよがりの自己満足とかに陥りやすい落とし穴がある。
そこを越える表現には、要素として他者や場に対する配慮や気配りが含まれていると思っている。
他者との、「双方向性」や「呼応」を意識すること、そして、表現者と他者の間で作られる、「イマ、ココ」の場への配慮。このことを意識するだけで、絶対に独りよがりの自己満足には陥らないのだと思う。
更に言えば、それを意識しながら継続していくこと。継続とは、時間に晒されることであって、その表現が更に純化されていくプロセスを伴う。時間に晒されることで、独りよがりではない普遍性を徐徐に自然に帯びてくるんだと思う。
わしは、そういうものを『プロジェクト大山』から勝手に感じ取った。だから、実際に見に行った。生で見ないと、その「場」を感じることができないと思ったから。
■感想
すごく想像力を喚起される場であり、踊りであり、舞いだった。見ているときは、その世界観に完全に没入していたのだけれど、後になって思えば、60分の踊りだけで休みない表現の連なりは、相当に練習した結果であることを思わせた。
●1:変化し移ろいゆく連鎖
踊りは、すごく素晴らしかった。若々しく、生命感に溢れ、生き生きとしていた。自分にも色々な感情が自然に沸き起こった。目の前の空間には、錯綜して躍動する肉体の歓喜があり、常に変化し移ろい行く踊りがあった。あの場、あの時間でしか、もう一生見ることができないであろう、再現できない場と踊りは、一期一会の本質を思わせる肉体的動きの連鎖だった。科学は再現性があることをもって真理とみなすが、再現性がないもの、その瞬間だけが持つ美しさというものもある。
●2:意味の手前
それは意味の手前の世界のように感じられた。
人間は意味づけしたくなる悪い癖があるのだけれど、あの場で見た踊りは、ただ肉体の動きがあり、その動きの連なりがあった。集団で踊っていたので、個人だけではない集団の連なりもあり、その全体的な連なりに、付けたい人が後で勝手に意付けをするのかもしれないと思った。意味の手前とはそういうこと。
●3:踊るカラダ
踊りのための踊りの筋肉があり、そのバランスはとても人間的で美しいと思った。人工的ではない自然につくられたカラダであり、踊りに踊った結果、必要に応じて勝手に形成されたカラダだった。登山や岩登りを現役でしていたとき、山や大自然に応じて作られた、自然な筋肉やカラダを思い出した。
●4:世界に開かれること
そして、踊りの表現そのものが、個人で閉じられていなかった。観客や世界に開かれていた。
会場全体が一つの場であり、ステージの狭い場所だけが一つの場ではない印象があった。それは観客の原始的な感情深くに触れてくる感覚を伴っていた。
踊り手の表情にも、何か自己満足だけではない周囲を巻き込む凄みがあった。踊り手と観客とが、何か深い部分で呼応して影響しあい、その結果、常に新たな場が立ち上がり、そして消滅することを繰り返す感覚とでも言えばいいのだろうか。
踊り自体が、世界に開かれていたような気がした。
■喚起された課題
このブログと呼応しているIs氏の予定が偶然空いていたので一緒に見に行ったのだが、見終わってからも、想像力を喚起された。
彼女ら踊り手の熱が伝播した分だけ、その伝播した熱で、熱く色々話し合った。
その一部を少しだけ書いてみる。
●問1●
人間は意味をつけたがる存在であり、それ故に悩むことも多い(「生きる意味ってなんだろう?」「愛したり恋したりする意味ってなんだろう?」・・・などなど)。踊りの表現にも色々あり、何か大きな意味とか伝えたい考えとかがあり、それを踊りとして表現するものもあるだろう。それは演劇に近いもの? では、この「プロジェクト大山」の踊りにおいて、意味みたいな概念は想定されているんだろうか?何か意味があり、それを表現するための手段として踊っている?それとも、みんなでタダ踊る。タダ肉体を動かす。その結果として誰かが勝手に意味づけをしてみたくなるだけなのだろうか(→意味の手前)?それとも、ある意味のある世界みたいなのがあって、それを極力意味のない世界に分解して作り変えているのだろうか?
→このことは、絵画などを含めた表現全般にもつながる。意味で満たされた窮屈なこの世界で、意味から解放される時間というのは、ある意味とても自由な気がする!子供のころ、人生や動くことに意味なんて感じず、ただ無条件に無限の世界を生きていたような覚えがある。
●問2●
1人ではなく集団で踊る場合、集団で同期して踊る。そのとき、何か共有する考えというか、踊り手で共有する舞踊哲学みたいなものがあるのだろうか。みんなが好き勝手に別々のことを考えながら肉体的な動きだけをあわせて踊るには、60分という時間は長い。根底の深い部分を肉体だけではなく精神でも共有していないと集団で踊るというのは難しいんじゃないだろうか。果たしてそれは何なのだろうか。肉体を動かす原始的な歓喜とか、そういう曖昧に緩く共有されたものなのだろうか。
→このことは、一人でやる表現と、他者も交えて共同して行う表現全般につながる。共通の何かというものは、根源的で本質的でシンプルであればあるほど、個々人の表現は自由になるし、受け手も自由に解釈できる。
●問3●
踊りの中にわざと吐息や呼吸の音が聞こえてくる場面はあったが、言語を発する場面というものはなかった。「雄たけび」とか「叫び」とか、そういうのも含めて言語が存在しなかった。これは、「プロジェクト大山」の世界観としてあえて言語を排除し、言語を超えた世界や言語化される以前の世界観のようなものを表現しているのだろうか。(→これは既に意味の世界にとらわれている!?)
→この世は言語では越えられない壁があり、言語化できない世界が無数にあるのは間違いない。一個前に書いた諸星大二郎の漫画も同様。外人と言語を介しては意思疎通できないし、英語が話せてもこの世には数千の言語があるって言われているし、全て理解するのは到底無理。言語では越えられない壁がある。言語では表現できない大切な世界が、間違いなくある。
●問4●
踊りを個人的な趣味ではなく、人に見せるものに昇華させる。というとき、そこには大きいワンステップの飛躍があると思う。自分だけに閉じられたものから、他者とか世界に開かれたものになるステップ。そこを一段越えるきっかけになるのは何なのだろうか。
→この問いは、自分にも返ってくる問いでもある。昔から、思ったことや感じたことを、自分なりに考え直し、自分で思考し、文章や絵にしていた。それは自分だけに閉じられらたもので、人に見せることは意図していない個人的な日記のようなものだった。最近はブログ上に自分の考えを書くようになり、開かれた世界に表出させている。これは何故なのかという問いにも近い。
→→→自分の解としては、偶然に少しだけブログに書いたら、それに呼応してコメントを書いてくれる他者がいて、さらに呼応しあっていったらいつのまにか、以前は自分の中だけで閉じて書いていたものが開かれていったという感じなのです。ですから、こうなったのは、一回でもわしのブログにコメント書いてくれた人々全員から、この開かれた世界に勝手に引っ張られたという感覚が強い。それは他者と呼応していくことの歓喜であったり、そこで偶然に作られる場の面白さや一人では到達できない、予想できない面白さでもある。
→→→→→→この問いこそ、表現とは何か?ある表現に人が感動するというのはどういうことか?という要素も含んでいる気がしてすごく面白い。 アウトサイダーアートみたいな表現は(→2008-06-06「アール・ブリュット」というタイトルで以前触れたことあり。)、世に出すことを目的としていない表現のための表現のようなものだが、過去、この圧倒的な表現の前で呆然と立ち尽くし、猛烈に感動した自分がいた。これは何なのだろうか。この魂を掴まれた感じは!?そのときに感じたものと同じようなものだろうか。
個人的に、「プロジェクト大山」の方々の生の踊りは、何か心を掴まれる様なザワメキがあったのは事実なのです。
■終わりに
長くなりましたが、以上が『プロジェクト大山』の踊りを見て、感じたこと、それを言語化してみたこと。
生で感じた感覚と少し離れてるかもしれないけれど、今の自分の文章の表現力ではこの辺りが限界で、後は自分の課題とします。
総じて、素晴らしい時間だった。しばし、自分に余韻が残った。前売り2300円以上の価値がそこにはあったし、お金で還元できないものを喚起させられた。今、ふと目をつぶっても印象的なシーンが余韻として、網膜の残像として残っている。
ああいう生々しい表現から、学問や医学の世界も学ぶことは多いと思う。学問とか医学って、今の位置に安住してアグラを書いていることもある。少しリスクをおかして新しい彼方に足を踏み入れないといけないこともある。
踊りを生で見て、何か新しいものを生み出そうとして、生まれようとしている瞬間のライブ感を感じた。踊りは、その同じ空間を共有しないと、そのものを感じるのは難しい。テレビとか映像で見ると、何重にもフィルターがかかってしまうし、その場の中で一体化して感じることができなくなってしまう。
いい踊りや表現とはそういうもの。テレビや映像で見るのではなく、その場で、「イマ、ココ」で感じるもの。それは一期一会の感覚と同じかもしれない(→2008-10-27「一期一会」というタイトルで以前書いたことあり)。
お世辞ではなく、本当に素晴らしかったと思っています。
素晴らしい時間と空間を、ありがとうございました!
俗っぽいところでは、(最近、貨幣価値を考えるのが癖になってしまい…)
2300円は安いなと思った。と同時に、1時間見終わって、もっと見たい、もう少し見たいと思った。(…ので、あるいは3500円で、もう30分くらいあったらとかも思いました。)
さらに、プロデューサ体質の余計なお世話的には、あれで100人くらい入って、かけ算していくらで、会場経費がいくらで…とか、やっていって、どれくらいの儲けがあって…とかババッと計算してしまい、
ホントにすごくよかったので、もっとたくさんの人に見てもらいたく、そのためには、どういうメディアで告知し…、
しかし、複製芸術と違い、ある程度、勘当を共有できるキャパがあるなとか。
しかし、最近、もっぱら、「やりたいことやってれば、お金なんていりません」的発想(僕も元々この考え出身ですが)に強く反対したくてなっていて、やっぱり、いいものは儲からなきゃあかん!とかも思い(そうじゃないと、結局、実家から通えるお嬢さんの遊びに、業界自体がなっちゃう!…というか、そういう別の業界を目の当たりにしてまして…)
あと、最近、すごく関心のある「時間」に対して、
この踊りでは、「空間」が大切な要素だなと思った。
だから、他のライブものと、その映像作品に比べると、
今回のは、圧倒的にライブであることが要素として重要だと思った。
だから、必然、会場の広さ(あるいは、コンクリート打放しなのか、木造なのか、…とか)なども、関わるのかと思った。
あと、変な話、お客さんの客層とか(余談ですが、美しい女性が多かったように感じました。余談ですが。)
あと、個人的には練習風景とか、台本(のようなものあるのかな?)、舞台裏も興味津々です。
意外と、抽象的な、前言語的な表現であるがゆえに、逆に、舞台裏はすごくロジカルに綿密な下準備があるのかもとかも思いました。
…と、外苑的な感想ばかりで申し訳ないですが、
僕も、総じて、貴重な価値ある場を共有させてもらい、再び見たいと思いました。ありがとうございました。
>>>>>>>>Is
安いと思うってのはいいことだよねー。質が高く満足した証拠だ。
俺も休憩挟んで第2部とか見たい!って思った。この子なら、もっと違う世界を見せてくれるんじゃないか!っていう予感や期待。
でも、腹八分で終わることも大事だしね笑
何かの形に残るわけではないけど、自分の世界観の裾根を広げてくれるもの。その世界観の広がりは、今まで見ていたものの奥行きを増すきっかけになる。
これは近視眼的な見方では到達できないところで、かなり俯瞰的に人生とか世界を見ないと、この価値観って分かりにくい。
でも、今はそういうものが大事だって改めて思ってるし、近視眼的な慌しい世俗的な生活を何年か味わっただけに、今はそこから脱して初めてよさも分かるってことだね。
最初から最後までずっとそういう心境でいる人ってなかなか少ないし。
俺もフラフラ色んな世界(極限に忙しい世界とか、極限に勝ち負けにこだわる世界とか・・・)覗いて、そういうとこに落ち着いてきた感じです。
そういう観点で見ると、2300円払う価値あるものに、正しく投資したいなって思う。
無印良品とかもそうなんだけどね。
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「やりたいことやってれば、お金なんていりません」的発想(僕も元々この考え出身ですが)に強く反対したくてなっていて、やっぱり、いいものは儲からなきゃあかん!
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これは同感よ。
わしも金とか地位とか名誉とかに興味なし。
ただ、そういう世界に生きているからこそ、否定したり別の価値観を提示するためにはそこを乗り越えていかないといかん。そこから目をそらしちゃ駄目で、その山を登った先の山を目指したい。
質が高くいいものほど、あえて今の経済原理主義でも成功しないといかん。それが普遍性。お金が至上目的なのはどう考えても違うんだが、その通過点として、市場にもまれてもちゃんと自分のポジションを明確に主張できる。こういう状態が理想ですな。
遠い未来の世界は、今みんなが登っている山が違うからって、一度下山して全然違う山を探すべきではなく、既存の山を乗り越えた先にある山を目指すべきなんじゃないか。
わしはこんな風にとらえとる。
「時間」+「空間」
俺もかなりあの踊りの鍵になってると思った。
それを作者が意図しているか、意図せず元々の彼女の才能で掴んでいるのかは別問題だけど。
照明が真っ暗の闇の世界になって、パっと照明が付くと別の世界が始まっているところとか、人間の
朝~昼~夜~闇~朝~→延々と繰り返し
みたいなものと同じだしね。
あれは演出に空間が絶対大事。闇を共有しないといかん。目をこらせば人が移動してるのが分かったら絶対駄目だもん。
俺も練習風景とか台本とか舞台裏も興味津々。
創作のプロセスね。
文章とかも、頭の中で悶々と創作していることも多いとは思うけど、そこに至る前に漫画を読んで感じたこととか、ふと朝外を歩いた風景で感じた匂いや音とか・・・
色々なものがきっかけになると思うんだけど、ああいう踊りの創作プロセスって、そういう個人での創作プロセス+集団での創作っていうtwo stepあるからね。
個人でストイックに踊りの世界を追及していくのとまた違う世界観がある。
『抽象的であるがゆえに逆に、舞台裏はすごくロジカル』
かなり読んでるね笑
ま、今度作り手の人に会って色々話してみましょう。わしもああいう世界観って、未来の世界にめちゃくちゃ重要な要素の一つだと思うので、未来性と含めて興味津々なのです。
また、次回新作あるとき一緒に見に行きましょう!
俺はほんとお世辞じゃなくてかなり新しいものを予感したからねー。