先日、こういう質問を受けた。
「見えない世界は大事ですよね。この世界は見えない世界に支えられていますよね。見える世界なんてほんの一部ですよね。
でも、こういう話をするとオカルトと言って馬鹿にされるんです。
こういう人たちってどうかしてますよね。
私が正しくて、オカルトと批判する人は間違っていますよね。」
・・・・・
自分はこう答えた。
「それは表現の問題だと思います。
オカルトと言われると言う事は、あなたがオカルトとされた人たちの表現を真似してコピーして使っているからではないでしょうか。
あなたは、本当にあなた自身のコトバで話していますか?
それはあなた自身の表現ですか?
誰かの真似だったり、権威を利用してはいませんか?
芸術も古典芸能も文学も神話も・・・、あらゆるものは深層世界の表現です。見えない世界の表現と言っても過言ではありません。
なぜなら、表層の世界は、あえて表現する必要すらありませんから・・・。
人の心をうつもの、心が震えるもの、長い時の流れの中で今でも残っているもの・・・
は、すべてその人自身のコトバだから、です。
誰かの真似ではありません。誰かのコピーではありません。
表現において、うまいとか下手とか、そういうことは気にする必要はありません。
気にすべきことは、それが自分自身のコトバなのか、という一点です。
あなたはあなたの世界を追求し、あなたの表現を追求すればいいのです。
誰のものでもなくあなた自身のコトバで表現することに意識を集中すればいいのです。
自分は色々な世界を見て来ました。
そして、多くの人が自分のコトバで語っていないことに気付きました。
オカルトと批判されている現象の本質は、それが誰か別の人のコトバであり、表面の真似に過ぎない、ということを直観的に感じてしまうから。そこに反発・抵抗しているのだと思います。
お互いにその本質を受け取らないと、狭い水槽の中に閉じ込められてしまいます。
自分たちだけは正しい、あの人たちは分かっていない、という自分自身が作りだした袋小路の水槽の中に・・・。
必死に絞り出したコトバは、そのひと自身のオリジナルなものです。
そういうコトバを聞いた時、絶対にその人を馬鹿にしたり批判したりできないはずです。
「たましい」とはそういう世界ではないでしょうか。
自分はほんとうに自分自身のコトバで表現しているだろうか。
自分はほんとうに自分自身の人生を生きているだろうか。
そういうことを見直すいい機会だと思った方が、より豊かな出会いが待っていると思いますよ。
心や魂は、必ず共鳴します。
だから、あなたは、あなたのコトバを深めて、磨いていって下さい。
あなたの人生は、唯一無二のものです。誰のものでもありません。
素晴らしいことではないですか。」
「見えない世界は大事ですよね。この世界は見えない世界に支えられていますよね。見える世界なんてほんの一部ですよね。
でも、こういう話をするとオカルトと言って馬鹿にされるんです。
こういう人たちってどうかしてますよね。
私が正しくて、オカルトと批判する人は間違っていますよね。」
・・・・・
自分はこう答えた。
「それは表現の問題だと思います。
オカルトと言われると言う事は、あなたがオカルトとされた人たちの表現を真似してコピーして使っているからではないでしょうか。
あなたは、本当にあなた自身のコトバで話していますか?
それはあなた自身の表現ですか?
誰かの真似だったり、権威を利用してはいませんか?
芸術も古典芸能も文学も神話も・・・、あらゆるものは深層世界の表現です。見えない世界の表現と言っても過言ではありません。
なぜなら、表層の世界は、あえて表現する必要すらありませんから・・・。
人の心をうつもの、心が震えるもの、長い時の流れの中で今でも残っているもの・・・
は、すべてその人自身のコトバだから、です。
誰かの真似ではありません。誰かのコピーではありません。
表現において、うまいとか下手とか、そういうことは気にする必要はありません。
気にすべきことは、それが自分自身のコトバなのか、という一点です。
あなたはあなたの世界を追求し、あなたの表現を追求すればいいのです。
誰のものでもなくあなた自身のコトバで表現することに意識を集中すればいいのです。
自分は色々な世界を見て来ました。
そして、多くの人が自分のコトバで語っていないことに気付きました。
オカルトと批判されている現象の本質は、それが誰か別の人のコトバであり、表面の真似に過ぎない、ということを直観的に感じてしまうから。そこに反発・抵抗しているのだと思います。
お互いにその本質を受け取らないと、狭い水槽の中に閉じ込められてしまいます。
自分たちだけは正しい、あの人たちは分かっていない、という自分自身が作りだした袋小路の水槽の中に・・・。
必死に絞り出したコトバは、そのひと自身のオリジナルなものです。
そういうコトバを聞いた時、絶対にその人を馬鹿にしたり批判したりできないはずです。
「たましい」とはそういう世界ではないでしょうか。
自分はほんとうに自分自身のコトバで表現しているだろうか。
自分はほんとうに自分自身の人生を生きているだろうか。
そういうことを見直すいい機会だと思った方が、より豊かな出会いが待っていると思いますよ。
心や魂は、必ず共鳴します。
だから、あなたは、あなたのコトバを深めて、磨いていって下さい。
あなたの人生は、唯一無二のものです。誰のものでもありません。
素晴らしいことではないですか。」
私にも突き刺さるお言葉でした。
自分の言葉で語る難しさから、つい本に書いてある表現を借用してしまうことがあります。
霊的な話題は特に難しく感じています。
自分の言葉で語り合えるということが真の友への第一歩なのですね。ありがとうございました。
どうしてなんだろう? と思っていたけど、
きっとその人が自分の中から生まれた言葉を
使ってくれたら、
どんなにつたなくても、響いたんだね。
出雲でのINAさんのお話は、
本当に時間が経っても薄れません。
身体に残る言葉でした。
業田良家さんの『自虐の詩』、読んでみますね☆
はじめまして。書き込みありがとうございます。
そうですね。自分の言葉で語り合う、というのが極めて大事だと思います。上手だとか下手だとかは気にせず。。。その中で、自分の実感性や身体性を伴った言葉が紡ぎだされるのだと思いますね。
>スイッチさん
出雲でのお話しは、なかなかレアな機会でしたね。
カフェまないなの空間も素晴らしかったですしね。
http://manai7.tumblr.com/
そういう意味では、スイッチさんはいつもご自身の言葉で、言の葉を放たれているなぁ、と思いますよ。
それこそが最も大事なことだと思うんですよね。
先に進めない!と思ったら、下を掘れ、という言葉がありますが、自分の地層を掘り起こしていくと、古層を貫通して普遍の地下水に通じているのだと思います。
業田良家さんの『自虐の詩』は本当に名著です!