「だいじょうぶかな。学校まで歩けるかな。教室は分かるかな」
「だいじょうぶかな。先生は声をかけてくれるかな。友だちはできるかな」
「だいじょうぶかな。寂しくないかな。一人で泣いていないかな」
「ほっておかれたらどうしよう。まだ何もできないのに」
話すたび、涙があふれる。
それでも、迷いがみえないのはなぜ?
「だって、この子が楽しみにしてるから」
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保育園に入ってすぐに、子どもたちは、この子の「いいところ」や「好きなこと」を見つけて、私に教えてくれた。親の「私しか知らなかったこと」が、子どもたち「みんなの知っている」ことに変わり、そして私の知らなかった新しいこの子に出会う日々が、始まった。
去年まで台風の日はお休みだったのに、今年は「おともだち?」と聞いた。雨や風の音が怖くて仕方ないのに、みんながいると分かると、泣きながらカバンを持ってきた。
みんなとのつながりで、この子が選ぶものがある。
一年生になれるどうか、この子の能力で決まると思っていた。
でも社会交流の能力を育てるのは、つながりだった。
はじめから「相手にされ、理解され、受け入れられている」つながりが、この子と私を育ててくれた。
聞き取れない言葉で話すこの子と私の会話を聞いて、「うらやましい」と言った子がいる。
相手にされ、理解され、受け入れられたのはこの子の障害じゃなく、私が大切に思うこの子だった。だから私のなかにも、相手にされ、理解され、受け入れられている時間が溜っていった。
いま、みんなが一年生になることを楽しみにしている。
この子たちのつながりのすべてが、「一年生」に向かっている。
だから。
このつながりの先の世界を、この子にも楽しんでほしい。
だけど。
だいじょうかな、は止まらない。