ワニなつノート

わたしは、無条件に子どもの側につく

【わたしは、無条件に子どもの側につく】


なじんでいる行動の枠組みを疑問視すること。
「当然、通訳を求めていいのだ。」
周りが訳さないのが悪いのだ。

「情報が伝わっていないのは、
周りの人間がその責務を
果たしていないことなんだから。」

「要求していいんだ!」

誰かに、その言葉を言ってもらえたとき、
壁が消えます。
その言葉を口にしていいんだと、自分が思えたとき、
自分の中の壁が、消えます

   □    □    □

安心と安全を求めていいんだ。
子どもなんだから。

たたかれないことを求めていいんだ。
どなられないことを求めていいんだ。

みんな同じ学校に行きたいって思っていいんだ。
勉強なんかできなくたって、
友だちはほしいに決まってる。
歩けようが、歩けまいが、
友だちが大事に決まってる。

食べることが1人でできなかったら、
介助者を要求していいんだ。
ストーカーみたいな介助なら、
あっちへ行ってと言っていいんだ。

溺れたら、助けを求めていいんだ。
周りが助けないのが悪いのだ。

医療的ケアが必要なら、保育園でも学校でも、
看護士を要求していいんだ。

たとえ、テストの点が0点だって、
高校に行きたいって思っていいんだ。


   □    □    □


なのに、自分は助けてもらえないと、
まちがっている子がいる。

その子は、なぜ助けを求めないのか?

まっくらだ。助けて!
一人ぼっちなんだ。タスケテ。
あれ、でも、タスケテって、
どうやって伝えたらいい?

見えない、聞こえない。
しゃべれない。
しゃべっても、目の前に誰かいるのか分からない。
声が届いているのかどうかも、分からない。
どうやってタスケテを表したらいいのか?

「助けて」をどうやって、伝えるのか?
どうやって、表現するのか?
だれが、聞いてくれるのか?

誰が、聞いてくれるかを、
どうやって見分けたらいいのか?
見分ける?
いや、見えないんだから。
聞き分ける?
それもできない。

自分は助けてもらう資格があると、
どうしたら、その子は思えるのか?

「助けてと言ってもいいの?」
「ぼくでも?わたしでも?」
「助けて、と言ってもいいなんて、知らなかった。
だって、そんなこと、誰にも聞いたことがない。
誰とも話したことがない…」


「わからない。 助けてもらえるの?」
「こんな私を助けることができるの?」
「助けられる人がいるの?」
「私を助けるって、どういうこと?」
「わたしは何が苦しいのか、それもわからない。」


「タスケテ」「タスケテ」
「私は誰にタスケテを言えばいい?」
「誰に伝えればいい?」
「誰なら、聞いてくれる?」
「誰が私を助けてくれる?」


私を助けてくれる人は、この世界にいるの?
だって、わたしは「盲ろう」  
だって、ぼくは「知的障害」
だって、わたしは「自閉症」  
だって、ぼくは「不登校」
だって、わたしは「認知症」
だって、ぼくは「統合失調症」
「だって」は、限りなくある。

「助けて」そんなこと、思っても仕方ない。
そんなこと誰も聞いてくれない。
この世には、私を助けてくれる人はいない。
なぜなら、わたしは「・・」だから。
助けてほしかったら、○○しなくちゃ。


   □    □    □


助けてもらえる子どもと、
助けてもらえない子どもと。
子どもには2種類の子どもがいると教える学校。

そうして大人になって、
「この子は助けてもらえない」と
間違えたままの大人も大勢いる。

子どものことを誰よりも大事に思い、
大事にしながら、自分と、
そして子どもをがんばらせてしまう。

助けてもらって当たり前だとは思えない。
周りがこの子の声を聞かないのが悪いのだとは、
考えられない。

その方向では「がんばることができない」でいる。
そして、「必要以上に、子どもにがんばらせてしまうこと」
につながってしまう道を行く。



「助けて」と言わないのは、
「ここに助けてくれるコミュニオンがない」
と思うからです。

「コミュニケーションの前にコミュニオンがある」
それは、やっぱり本当のことだと思います。

コメント一覧

yo
コメントありがとうございます。

とくに、この「無条件に子どもの側に立つ」に
立ち止まってもらえて、うれしいです。

この言葉も、アリスミラーの本でみつけた言葉で、
私がもっとも好きな言葉の一つです。

でも、それをうまく自分の言葉で表現できず、
このページにも、自分の未完成なメモを
忘れないように載せて、
あとで続きを書こうと思っていたのでした。
(・_・;)

ここにコメントをいただいて、
改めて、ここには、大切なことが
あるのだと思えました。
また、書きます。

「だって、だって、だって」の中身は、
分かりませんが、
どれほどの思いを飲み込んでこられたのかを
思います。

また、「その後」のこと、
教えてください。
本当にありがとうございました。


(このブログはヘンな仕組みで、
拍手コメントを「公開」にすることができません。
なので、こちらに移しました。
それはいいのですが、「名前」がこまりました。
仮にaと記号だけいれました。
今度、コメントくださるときには、
「名前」を考えておいてください(^^)/ )


a
大切なことを教えてくださって
ありがとうございます。

だって、だって、だって、の毎日でした。

コミュニケーションの前に、まずコミュニティ。
ポン!と膝を打ちました。

なきゃ作ればいいんです。
壊されたら、また立て直せばいいんですよね。

憎まれたり、嫌われたりしたっていいんです。

なまじ、地域の中で、いい人でいようなんて思うから、中途半端で、やわな生き方しかできないんだって
解りました。

お母さん大好き!と言ってくれる子どもが
いるだけで十分だわ。

「わたしは、無条件に子どもの側につく。」
拍手です。

いつの間にか、差別する側についていた自分に、
今頃になってやっと気付いた馬鹿親からの
自戒と反省をこめたメッセージです。

来年の就学に向けての闘いは、
厳しいでしょうが、頑張ってください。


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