「あそこは何もしないんですよ」と言う人がいて、思わず「うちも何もしないですよ」と答えた。
「でも、何もしないが違うんですよ」とその人は言った。
「何もしない」が違う? おかしな言い方。
「だって、ほったらかしなんですよ」
「うちもそうですよ。放し飼い、みたいなもんだから」
「…でもAちゃんはつながりができてるじゃないですか」
そこで気づいた。
そうか、《何もしない》でできる《つながり》があるんだ。
でもそれは何?
私は「何もしない」で、「何をしている」んだろう?
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「do nothing」。
何もしないを、している。
《何もしない》を繰り返しているうち、「余計なことをしない」が積み重なる。
たとえばうちには門限がない。外泊も自由。
いつ、どこで、どれくらい働くかも、本人次第。
学校に行く、行かない、退学するも、本人任せ。
もし門限や規則があれば、私が何もしなくても、「規則を破らせる」をしている、になる。
それで怒られないとしても、「どこまでなら見逃してくれるのか」、「どこかで見放されるんじゃないか」という疑いは、本人の中に溜まっていくだろう。
もともと家でも学校でも児相でも、そういう経験をくり返してきたのだから。
「ちゃんとしろ」と言われたら「どう言い返すか」。
「規則を守れ」と怒られたら「どう言い訳するか」。
そんな身構えが身体に溜まり、その子の「居方」になる。
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そもそも「規則」がなければ。「ああしろ、こうしろ」「あれをするな、これをするな」と言われなければ。「指導される、説教される、正される、直される、怒られる」という構えは、薄れていく。
怖れを身構えなくていい時が続けば、身構えない時が身体に溜まる。
防御に費やす時間とエネルギーを、別のことに使える。
他のことを考える時が、溜まる。
身の「構え」が変わる。
身の置き方、「居方」が変わる。
自分で感じ、自分で選び、自分で失敗して、自分でやり直す。
自分のやりたいこと。自分を生きること。
自分のエネルギーを「つながり」に使える。
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「花を知らんと思はば先ず種を知るべし。花は心、種は態(わざ)なるべし」だな。