21世紀の定員内不合格(№03)
《手をかすように 知恵をかすこと》
20代から40代までいさせてもらった定時制高校はすごいところだったと、感謝している。
私がこのブログに書いていることが、普通に、当たり前に、どこの学校の中でも、「実現可能」なことを、あのころの定時制高校の年月が教えてくれた。
その定時制高校の保健室の先生は、もともと中学校の先生だった。
ある日、定時制高校に進学した生徒が、中学まで文句を言いに来た。
「先生は、定時制高校がどんなところか知っているのか。おれたちをあんな学校に入れて、おれたちがどんなに苦労しているか分かっているのか」と。
その先生は「じゃあ、私もそこに行く」と応えた。
そんな、子どもに対してアツい先生がふつうにいる学校だった。
いま思えば、子どもたちとのつきあい方の基本を、私はその保健室で学んだ。
毎日のように保健室に入り浸り、生徒からよく聞かれた。
「先生なの?生徒なの?」
あるとき、「障害児を排除したくてしかない」先生と口論になり、それを保健室で愚痴りながら悔しくて涙が止まらなくなったことがある。後日、保健室の先生が教えてくれた。
「あの後、先生のこと、どういう人なのって熱心に聞いてくる女の子がいてね…」、「惚れたでしょ?」と聞くと、「ううん、そういうんじゃないの」と。
「そういうんじゃなくて、ただ、あんな人が同じ空の下にいてくれるだけでいいの」
当時は、「そういうんじゃないの」という全否定に傷ついていたが、いまは後半の「いてくれるだけでいい」と言ってくれる子がいたことに、どれほど救われてきたかを思うようになった。
私はその学校で、いい先生や、クソみたいな先生や、心から尊敬できる生徒たちに育てられてきたのだと、いま、こころからそう思う。
2階の教室で授業をしていると窓の外を、3階の教室から投げ落とされた机や椅子が降ってきたり、消火器は週に一度は噴射され、男子トイレの個室はほとんどドアがなかったり、廊下を自転車やバイクが走っていたり、本当にマンガみたいな学校だったけど、ガンになって5年目のいま、あのころが人生で一番楽しい時期のひとつだったと心から思う。
点数で子どもを切らない。定員が空いているのだから、来たい生徒はみんな受け入れる。つきあう。ただ、それだけのことが、私の人生で一番楽しい場所をつくる大切な姿勢だったと心から思う。
その学校ですべてうまくいっていた訳じゃない。やんちゃな子も多すぎて、そういう雰囲気が恐くて辞めた子もいる。
だけど、障害のある子も、外国の子も、不登校だった子も、誰もが自分の道を歩もうとして通過しなければいけないのが「高校」であるなら、誰もが通過する場所を、誰もが通れる場所にすること。
そのことが、子どもたちに対して、子どもたちの未来と希望に対して、大人の最低限の敬意ある態度だったのだとおもう。
その当時(17年前)書いたのが、「手をかすように知恵をかすこと」という文章だった。
その後、何度か時代に合わせて、書き換えたりしてきたが、やはり最初のものに一番思いが宿る。
◇
手をかすように知恵をかすこと
◇ そこに目の見えない人がいたら、その人が必要とするときには、私が手を差し出したり、肩を貸してあげたり、見ることが必要なときには、私の目を貸してあげようと思う。
でも、私が目を貸してあげることより、学校に点字の教科書があればすむこともある。
たとえば、メガネをかければすむ程度の、視力が低い人はたくさんいる。
◇ そこに耳の聞こえない人がいたら、その人が必要とするときには、私が筆談をしたり、手話を覚えたり、聞くことが必要なときには、私の耳を貸してあげようと思う。
でも、私が耳を貸してあげるより、テレビで手話通訳や文字放送が当たり前になればすむこともたくさんある。
たとえば、私が外国映画を見るときに戸田奈津子さんの字幕にどれほど助けれられたかを思ってみる。
数々の映画の思い出は、字幕の助けなしにはありえなかった。
ロッキーもスターウォーズもETも…。
ということは、幾度かのデートも成り立たなかったかもしれない…。
◇ そこに車椅子を利用している人がいたら、その人が必要とするときには、私が手や肩をかしたり、階段を上がるのを手伝ったり、歩くことが必要なときには、私の足を貸してあげようと思う。
でも、私が車椅子を持ち上げるより、エレベーターやリフトがあればそれですむことの方が圧倒的に多い。
たとえば、エレベーターがなければ、都庁や県庁やデパートなどはほとんど利用不可能じゃないかと思う。
高層ビルで働く職員は、エレベーターなしでは今のようには働けないだろう。
(学校にエレベーターを設置しようとしない、文部省や教育委員会で働く人や国会議員や市議会議員は、みんな自分たちの職場にはエレベーターを設置して利用している。
それなのに、6才7才の歩けない子どもたちに、「自分の足ではってでも昇り降りしろ」と言って平然としている。)
◇ そこに「知的障害」があると言われる人がいたら、その人が必要とするときには、私が文字を読んであげたり、お金の計算をしてあげたり、難しい問題を考える必要があるときには、私も一緒に考えていこうと思う。
漢字が読めなければ、ひらがなに直したり、文を読んであげることもできる。
旅行に行きたいと頼まれたら、切符の買い方や、ホテルの予約の仕方、観光する場所や手順をいくつか考えてあげようと思う。
そうして、できないことを代わりに手伝ってあげて、その人がこの社会でのあたりまえ生活を送ることを手助けしたいと思う。
必要なのは、漢字を読めるようになることより、そこに書いてある情報を手に入れて利用できることだったりする。
必要なのは、お金の計算ができるようになることより、欲しいものや必要なものを売っている店を知り、その品物を手に入れることだったりする。
必要なのは、ホテルや飛行機の予約をパソコンで扱えることができるようになることより、ただ旅行にいけることだったりする。
高校や大学を出て、難しい漢字を読めたり計算のできる人でも、海外旅行はほとんどの人が旅行会社の人に頼むし、ツアーガイドを必要とする場合だってある。
◇ だから、高校に入るのに「筆記試験」を受けなければいけないのなら、問題を読むこと、問題を解くこと、答えを記入すること、に私の目を、私の口を、私の頭を、そして私の手を貸してあげようと思う。
その子が必要としているのは、英語の点数が取れることや数学の二次関数の問題が解るようになることでなく、「高校生」になって、15・16・17・18歳の同世代の仲間と学校生活を楽しみ、過ごし、そして、みんなが生活する社会へ、仲間と一緒に社会に出ていくことだったりするから。
生きていくのに大切なもの、その社会の97%の人間がごくあたりまえのこととして保証されている権利を、同じように保証されること、そのための援助の手段が、「知恵遅れ」の子どもに「知恵」を貸すことであっても、それが「不公平」「不平等」であるはずがない。
◇ ある定時制高校の入試の受験のとき、自分の名前しか書けない生徒が、名前だけを書いた。
生徒を点数では切らない高校だから、そのままでも合格できるはずだったが、試験監督の先生が励ますつもりで「しっかりがんばりなさい」と言った。
すると彼は、がんばって、がんばって、がんばって、でも何を書いていいかわからず途方に暮れて、隣の人の答案をのぞきこんだ。
合否判定会議で、そのことが問題になった。
点数が取れないこと、0点であることは問題ではないが、「カンニング」「不正行為」をしたからには不合格ではないか、と。
彼は合格して高校生になれた。
4年間の高校生活を、高校の授業、高校の給食、高校の部活、高校の文化祭、高校の体育祭、毎冬のスキー教室、高校の修学旅行を楽しんで、高校を卒業した。
その学校の先生たちは、彼の「カンニング」を「不正行為」ではなく、「試験をがんばりなさい」という言葉に応えた彼の「高校に入りたいという意欲」であると考えた。
まったくその通りだ。
他に考えようはない。
◇ 目の見えない人に「点字」を使わせずに入学試験をして、その人を不合格にしたら、それは「公平」だろうか?
耳の聞こえない人に「英語のヒアリング」や「音楽を聞いて曲名を答える」試験をして、その人を不合格にしたら、それは「公平」だろうか?
歩けない人に100メートルを走らせて、タイムが遅いからとその人を不合格にしたら、それは「公平」だろうか?
「知恵遅れ」の人に入学試験を受けさせて、点数が低いからとその人を不合格にしたら、それは「公平」だろうか?
目の見えない人は文字が見えない。でも点字は読める。
目の見える人は文字が読める。でも点字は読めない。
違いはあるけど、同じ社会でいっしょに暮らしている。
耳の聞こえない人は、話す声は聞こえない。手話や筆談で会話する。
違いはあるけど、同じ社会でいっしょに暮らしている。
車椅子を利用している人は、自分の足では歩けない。
違いはあるけど、同じ社会でいっしょに暮らしている。
「知恵遅れ」と呼ばれる人は、文字が読めなかったり、計算ができなかったりする。
違いはあるけど、同じ社会でいっしょに暮らしている。
◇ 目が見えなくても、耳が聞こえなくても、車椅子を使用していても、高校生になれないハンディにはならない。
どうして、「知恵遅れ」の人のできないこと、苦手なこと、そのハンディだけが、高校生にさせない「理由」になるのだろう?
その「理由」だけが、なぜ、これほど多くの人に受け入れられているのだろう?
「高校は義務教育じゃないから‥。みんなじゃない、ただの97%‥」
「点数が足りない」 それだけで、どうしてこれほど、嫌がられ、嫌われ、無視され、排除され、差別され、何の価値もない人間のように扱われるのだろう?
「点数が足りない」 それだけが、どうして「正当」「公平」「公正」「平等」な理由として、子どもたちを分けるために受け入れられるのだろう?
私はうなずかない。
高校が義務教育じゃなかろうと、高校以外の道もあると言われようと、なんと言われようと、私はうなずかない。
毎年、毎年、受検しては落とされる子どもたちの姿を見ながら、これは「いかさま」か「差別」のどちらかだという確信がある。
だから、私はうなずかない。
絶対にうなずかない。
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