北海道新聞と並んで、道内地方紙として発行されていた新聞
「北海タイムス」
札幌市内にあった北海タイムス専売店の看板 2009年撮影 題字
その歴史は、明治20(1887)年に札幌で創刊した「北海新聞」が始まりです。
明治34(1901)年に他紙と合併し「北海タイムス」となります。しかし、昭和17(1942)年の新聞統制により
「北海道新聞」に統合されてしまいます。
戦後、昭和21(1946)年に戦前の北海タイムス社員有志が集まり「新北海」を創刊。同年に北海道新聞社が
「夕刊北海タイムス」を創刊し対抗するも、昭和24(1949)年に「新北海」が「夕刊北海タイムス」を合併し、
再び「北海タイムス」が復活します。明治期より慣れ親しんだ名前に愛着のある読者は多く、全盛期には札幌、
旭川両本社の下に50か所以上の支社・支局を擁して18の地方版を製作、20万部を超える発行部数を誇りました。
北海タイムスと北海道新聞の両社はその後も道内主力紙の地位の争奪をめぐって激しい競争を演じました。
しかし、昭和34(1959)年に読売・朝日・毎日新聞が札幌での印刷を始めました。それまでは、青函連絡船経由で札幌市内に
届くまでに1~2日遅れとなり、速報では地元紙には全く歯が立たない状態でしたが、ファクシミリの伝送技術によって地元紙有利
の構図は崩れ、これを契機に販売戦の口火が切られました。また、印刷も活版印刷から植字に換わっていきます。販売部門だけで
はなく、印刷部門の設備投資や人材確保など、本州紙との戦いで北海タイムスは次第に体力を奪われていき、本社ビルの売却や
多角化を行うものの、経営陣の入れ替わりが激しくなっていきます。そして資金確保のために、外部オーナーを招き入れますが、
役員との対立から平成10(1998)年6月に社長が休刊宣言を出し辞任、経営が急速に悪化し、社内が混迷を極めます。
ついに平成10年9月1日に破産宣告。9月2日に休刊となりました。
北海タイムス 平成10年9月2日の紙面(休刊告知)
札幌市電・中央区役所前停留所(内回り)が目の前にある「タイムスビル」に見覚えがある方もいるはず。
(札幌市中央区南1条西10丁目)
このビルは、かつて北海タイムスの本社ビルでした。
印刷された新聞がまだ日が昇る前に、各販売店に向けて運ばれていた発着場跡。
北海タイムス休刊後、かつての社員や、販売店経営者が復刊運動を起こし、北海道二十一世紀タイムス社を設立。
平成11(1999)年6月1日に週刊の「フロンティアタイムス」を創刊しました。
7月1日には朝刊日刊紙に移行しましたが、1ヵ月ほどで夕刊紙に移行。
フロンティアタイムス 平成13年1月31日の紙面(改題前最終日)
札幌圏の地域紙として平成13(2001)年2月1日に「札幌タイムス」に改題しますが
資金難により再び週刊へ移行。経費を半分に圧縮することには成功したものの、収入は1/3に悪化。
一度も銀行融資を受けることが出来ず、広告収入の減少により負債が2億1千万となり、経営の
目途が付かず平成21(2009)年3月6日に休刊となりました。
公称は3万部でしたが、実売は3000部程まで落ち込んでしまっていました。
札幌タイムス 平成21年3月6日の紙面(休刊告知)
フロンティアタイムス・札幌タイムス共に、写真の通り札幌圏の記事が一面に載っていて地域密着型の新聞でした。
フロンティアタイムス→札幌タイムスは、なぜか職場で取っていました。
当時、「北海タイムス」が復活したと年配の上司が喜んでいました。
やはり北海道ではタイムスの名前は名門であったと言う事でしょう。
私自身、祖父母が新聞販売店を経営していたので、新聞はとても身近な存在で、お手伝い程度ですが配達をしたこともあります。
毎日、朝に新聞を読むことが日課となっています。
ですが、ネットニュースの普及によりスマホなどで手軽に、しかも無料でニュースを目にすることが出来てしまい若者の新聞離れ
は大きく、さらに苦境に立たされていると思います。
紙面(内容)よりも、販売力・財務力が無ければ、今後も地方紙の淘汰が進んでいくのではと思った23年前の出来事でした。
※ 北海タイムス・フロンティアタイムス・札幌タイムスの紙面については、札幌市中央図書館にて
マイクロフィルム複写及びコピー保管をしてあるものを複写し、デジカメ撮影いたしました。