「言の葉」
「人は、人生が公平ではないことを悟れるくらいに、成長しなく
てはならない。そしてただ、自分の置かれた状況のなかで、最善を
つくすべきだ。」
上の言葉は古代ローマの聖人アウグスティヌスの言葉を、最近で
は物理学者のスティーブ・ホーキング博士が講演か何かで引用して、
再び人口に膾炙され始めているが、なるほど難病に苛まれた博士が
上のような言葉を吐くことは至極尤もだと考えられるが、それでは、
たとえば独裁者が同じ言葉を国民に向かって語ったとしたら同じよ
うな理解を得られるだろうか?権力者が「社会というのは不平等な
ものなのだ。だから、自分の身分を弁えて生きろ」と言ったら、い
ったいどれ程の国民が納得するだろうか。つまり、言葉というのは
誰が語ったのかが問われ、言葉自体に何らかの絶対性があるわけで
はない。上の言葉は「絶対的な」ハンディーキャップを抱えた博士
であるが故の、彼個人にとっては悟らなければならない重い言葉で
あったかもしれないが、だからと言って、それを社会一般に当て嵌
めると公平社会の理念は破綻し、その国名に「民主主義」をも掲げ
ている朝鮮民主主義人民共和国の様になってしまう。言葉とは「誰
が、何時、何処で、誰に、」更に言えば「どの様に」語られたかに
よってその意味が変わってしまうし、それどころか彼国の指導者の
ように偽りさえも騙れるのだ。つまり、如何なる言葉であっても絶
対性を持ちえない。上の言葉は封建的な古代ローマ帝国時代を生き
た人の告白であり、また、回復が絶望的な難病を抱えた人の告白で
あるという事情を弁えもせずに、感銘を受けたからといって拙速に
今の社会に蘇らせようとするのは言葉の相対性を理解しない者の浅
薄な考えとしか思えない。個人が悟った「言の葉」をそのまま社会
に当て嵌めてはならない。つまり、言葉なんて信じちゃいけない。