「明けない夜」
(七)―⑩
「社会を捉えなおす」―⑩
世界経済は「世界限界論」の壁に撥ね返えされてその逆流に阻まれ
て様々な「価値の転換」が起こる。たとえばゴミ問題が深刻化して生
産活動を制限させるだとか、いずれ価格は製造コストではなく廃棄コ
ストで決められるようになるに違いない、またヒューマニズムが世界
人口の増加に寄与したが、ところが人口爆発によってヒューマニズム
が後退し人権意識が希薄化する。閉塞した「世界限界論」の下では豊
かさは他者から奪い取るほかないので格差対立がいっそう深刻になっ
て、進むべきだという意見と撤退すべきだという意見が対立して社会
が停滞する。「世界限界論」に行き着いた社会ではそのような対立が
経済を停滞させついには国民の不満が高まり、その捌け口を国外に向
けられる。紛争による殺戮と破壊は図らずも社会再生の経済成長をも
たらすかもしれないがそんなものは一時凌ぎにすぎないし、殺戮と破
壊がフロンティアをもたらすとすれば、もはや近代文明は終焉したと
断言しても過言ではないだろう。
近代文明が自然循環を破壊して「世界限界論」をもたらしたのなら
「ポスト近代」を模索するしかないが、近代科学とは自然科学から科
学技術だけを抜き取った自然循環から逸脱した技術である。自然内存
在である我々は、自然循環から逸脱すれば生存の術を失う。ハイデガ
ーによれば、そもそも古代ギリシャの思想家たちにとって自然(ピュ
シス)とは「存在者そのものと存在者の全体を名指す本質的な名称で」
「存在者とは、おのずから無為にして萌えあがり現れきたり、そして
おのれへと還帰し消え去ってゆくものであり、萌えあがり現れきたっ
ておのれへと還帰してゆきながら場を占めているものなのである」(
ハイデガー著『ニーチェ』) 生成をもたらす自然(ピュシス)を破壊す
ることは「自然」内存在たる存在者が萌え出る源泉と還帰する故郷を
自ら破壊することに他ならない。原子核を破壊してエネルギーを取り
出す原発技術とは自然破壊の最たるものではないか。そもそも限られ
たレガシーエネルギーに依存した近代文明に永続性はない。いずれ遺
産を使い果たせば環境破壊という莫大な負債にも苦しまなければなら
ない。数百年後の人類はレガシーエネルギーを使い果たし温暖化によ
る異常気象に怯えながら、ガス欠で動かなくなったベンツを馬に牽か
せて走っているのかもしれない。科学文明社会がエネルギーの枯渇と
環境破壊によって永続性のない一瞬の繁栄だとすれば、そもそも科学
技術によって補完された人類の進化を果たして生物進化といえるかど
うかも疑わしい。やがて、レガシーエネルギーを失い無用の長物と化
した近代機器を放置して、しかし生存をそれらに頼っていたが故に運
動や感覚といった身体能力を退化させた人間が、つまり精神を弱体化
させた人間が、温室効果ガスによって原始地球へと回帰した世界の下
でいったい如何なる夢を描いてなおも生きていると断言できるだろう
か? ただ忘れてならないのは、我々が「生存」を委ねているのは自
然環境であって、決して文明ではないということだ。我々は今こそ以下
のニーチェのアフォルズムに耳を傾けるべきではないだろうか。
「ニーチェ『曙光』第一章五五より」
「道。」―― いわゆる「近道」は、いつも人類を大きな危険に導
いた。そのような近道が見つかった、という福音に接すると、人類は
いつも自分の道を離れ――そして道を失う。
(ちくま学芸文庫ニーチェ全集7 茅野良男:訳)
(つづく)