「明けない夜」(七)―⑩

2017-08-23 21:34:27 | 「明けない夜」7~⑪

       「明けない夜」

         (七)―⑩

 

      「社会を捉えなおす」―⑩


 世界経済は「世界限界論」の壁に撥ね返えされてその逆流に阻まれ

て様々な「価値の転換」が起こる。たとえばゴミ問題が深刻化して生

産活動を制限させるだとか、いずれ価格は製造コストではなく廃棄コ

ストで決められるようになるに違いない、またヒューマニズムが世界

人口の増加に寄与したが、ところが人口爆発によってヒューマニズム

が後退し人権意識が希薄化する。閉塞した「世界限界論」の下では豊

かさは他者から奪い取るほかないので格差対立がいっそう深刻になっ

て、進むべきだという意見と撤退すべきだという意見が対立して社会

が停滞する。「世界限界論」に行き着いた社会ではそのような対立が

経済を停滞させついには国民の不満が高まり、その捌け口を国外に向

けられる。紛争による殺戮と破壊は図らずも社会再生の経済成長をも

たらすかもしれないがそんなものは一時凌ぎにすぎないし、殺戮と破

壊がフロンティアをもたらすとすれば、もはや近代文明は終焉したと

断言しても過言ではないだろう。

 近代文明が自然循環を破壊して「世界限界論」をもたらしたのなら

「ポスト近代」を模索するしかないが、近代科学とは自然科学から科

学技術だけを抜き取った自然循環から逸脱した技術である。自然内存

在である我々は、自然循環から逸脱すれば生存の術を失う。ハイデガ

ーによれば、そもそも古代ギリシャの思想家たちにとって自然(ピュ

シス)とは「存在者そのものと存在者の全体を名指す本質的な名称で」

「存在者とは、おのずから無為にして萌えあがり現れきたり、そして

おのれへと還帰し消え去ってゆくものであり、萌えあがり現れきたっ

ておのれへと還帰してゆきながら場を占めているものなのである」(

ハイデガー著『ニーチェ』) 生成をもたらす自然(ピュシス)を破壊す

ることは「自然」内存在たる存在者が萌え出る源泉と還帰する故郷を

自ら破壊することに他ならない。原子核を破壊してエネルギーを取り

出す原発技術とは自然破壊の最たるものではないか。そもそも限られ

たレガシーエネルギーに依存した近代文明に永続性はない。いずれ遺

産を使い果たせば環境破壊という莫大な負債にも苦しまなければなら

ない。数百年後の人類はレガシーエネルギーを使い果たし温暖化によ

る異常気象に怯えながら、ガス欠で動かなくなったベンツを馬に牽か

せて走っているのかもしれない。科学文明社会がエネルギーの枯渇と

環境破壊によって永続性のない一瞬の繁栄だとすれば、そもそも科学

技術によって補完された人類の進化を果たして生物進化といえるかど

うかも疑わしい。やがて、レガシーエネルギーを失い無用の長物と化

した近代機器を放置して、しかし生存をそれらに頼っていたが故に運

動や感覚といった身体能力を退化させた人間が、つまり精神を弱体化

させた人間が、温室効果ガスによって原始地球へと回帰した世界の下

でいったい如何なる夢を描いてなおも生きていると断言できるだろう

か? ただ忘れてならないのは、我々が「生存」を委ねているのは自

然環境であって、決して文明ではないということだ。我々は今こそ以下

のニーチェのアフォルズムに耳を傾けるべきではないだろうか。

 「ニーチェ『曙光』第一章五五より」

 「道。」―― いわゆる「近道」は、いつも人類を大きな危険に導

いた。そのような近道が見つかった、という福音に接すると、人類は

いつも自分の道を離れ――そして道を失う。

(ちくま学芸文庫ニーチェ全集7 茅野良男:訳)

                          (つづく)


「明けない夜」 (七)―⑪

2017-08-23 21:32:49 | 「明けない夜」7~⑪

          「明けない夜」

           (七)―⑪


        「社会を捉えなおす」―⑪


 環境に関する指標でエコロジカル・フットポイント(EF)というのが

あります。それは「人間活動が環境に与える負荷を、資源の再生産お

よび廃棄物の浄化に必要な面積として示した数値で」(ウィキペディ

ア)、1990年代初期にカナダのブリティッシュコロンビア大学の

ウィリアム・リースとマティス・ワケナゲルによって提唱された指標

で「ある特定の地域の経済活動、またはある特定の物質水準の生活を

営む人々の消費活動を永続的に支えるために必要とされる生産可能な

土地および水域面積の合計」(〃)と定義されている。EFの発表は世

界自然保護基金(WWF)が隔年ごとに発行している『生きている地球

レポート』で報告され、すでに1980年代にオーバーシュート(需

要過剰)になり、つまり負荷が勝るようになって久しい。2012年

版の報告では人が1年で消費する再生可能資源を地球が完全に再生す

るには1.5年かかる。つまり利子で生活するどころか、私たちは自

然資源の元本を食い潰しているのだ。たとえば日本の消費水準で世界

中の人々が生活するとすればもう一つ地球がなければ持続できない。

こうして人間はグローバル経済の下で地球の再生能力を越えた様々な

負荷を与え続けている。当然のことであるが地球の限界を越えた資源

消費や環境破壊はそのまま人間はもちろん地球上のすべての生物に跳

ね返ってくる。つまりもう一つ地球が用意できなければ、いずれ我々

の生活水準が低下するか、さもなければ我々以外の人々の生活水準を

低下させなければならなくなる。すでに自由主義経済の下でグローバ

リズムはゼロサム世界へと推移している。つまり、国家間の経済競争

はそれを支える地球環境を再生不能へと到らしめ、いずれの国家も存

亡のときを迎えることになる。もはやどの国が繁栄してどの国が衰退

するかは問題ではなく、その前に地球そのものが生物生産力を失って

しまうのだ。レガシーエネルギーに頼った近代文明は文明の終焉だけ

でなく生成の源である地球そのものを不毛にする。すでに国連の部会

では気候変動枠組条約を締結した国による会議(COP)で温室効果ガ

スの排出量の規制が話し合われているがほとんど効果が表れていない

。そこで、「世界限界論」を回避するためにはレガシーエネルギーの

供給そのものを国際的(グローバル)な管理の下で厳しく制限し人口当

たりの配給制にしなければならない。それは自由主義経済の終焉、つ

まり近代文明の終焉を意味するが、幸いにも未だ太陽は見放すことな

く我々の生存のために光エネルギーを届けてくれている。「ポスト近

代」は再生可能エネルギーだけによって営まれる社会でなければ永続

性が維持できない。もちろん、原子力エネルギーはそれを充たしてい

ない。

                       (つづく)


「明けない夜」 (八)

2017-08-23 21:31:05 | 「明けない夜」8~②

         「明けない夜」

            (八)

         「社会を捉えなおす」―⑫


 これまで述べてきたように「世界限界論」は近代文明の限界である

。それはエネルギー資源の限界、世界人口の限界、地球環境の限界な

どによって自由主義経済が限界に到ってやがて世界経済が行き詰る。

それらの問題は国家単位の対策では解決することができない。さらに

言えば、COP(Conference of the Parties)のような締約国だけに

よる規制では間に合わなくなる。世界的規模でのエネルギー資源の配

給制や、人口制限、地球環境の保全などをそれぞれの国家の自由に委

ねるわけにはいかない。やがて国際的なガバナンスが求められ世界政

府による強制的な規制の下で、その全権を奪われた国家は自由主義経

済が成り立たなくなり世界政府に取って代わられる。こうして「世界

限界論」が求めるのは何よりも自由の制限であり、かつて旧ロシアの

革命家レーニンは「自由は大事である。だから平等に分け合わなけれ

ばならない」と言ったが、自由が平等に分け与えられた社会とは、ま

さに社会主義そのものである。つまり「世界限界論」の下で人々が平

和を望み、つまり誰のものでもない領土や資源を奪い合う戦争をせず

に、なお近代文明を手放すことができないとすれば、世界政府が目指

す体制は必然的に社会主義世界で、それはイデオロギーに基づく転換

ではなく、世界限界という事実存在による転換であって思想対立の余

地はない。

                          (つづく)


「明けない夜」 (八)―②

2017-08-23 21:29:31 | 「明けない夜」8~②

          「明けない夜」

           (八)―②


         「社会を捉えなおす」―⑬

 さて、これまで「成長の限界」について長々と述べてきましたが、

それでは逆に「限界なき成長」などというものが果たして可能なので

しょうか? 実際、われわれは様々な行動をする時にすでにその限界

を予想しています。たとえば京都への旅は京都までという限界の中で

の行動の自由であって、だからといって不自由だとは決して思いませ

ん。否むしろ、逆に「宛てのない旅」ほど不安が勝って自由など感じ

られないかもしれません。つまり、自由は決して限界によって制約さ

れるだけではありません。それどころか制限のない自由とは不自由で

さえあります。「成長の限界」をわれわれ生命体の成長に置き換えま

すと、限界なき成長とはひたすら分裂増殖を繰り返すばかりで成体を

形成しない生命体です。もちろんそんな生命体は生存できませんので

存在しません。すべての生命体は生成の段階ですでに成体形、つまり

どこへ行くかは決定されています。途中からネコになったりサルにな

ったりヤッパ人間に戻ったりはできません。そもそも「在る」こととは

「限る」ことで、すべての存在は限界に封じ込められています。つまり

「限界なき成長」などというのはあり得ないことで、それどころか「成長

の限界」こそが成長をもたらすのです。

                        (つづく)


「明けない夜」 (九)

2017-08-23 21:18:34 | 「明けない夜」9~⑩

           「明けない夜」

             (九)


 年の瀬も押し迫ったころ、寛は半年ほど一緒に交通警備の仕事をし

ていた相棒が年内で会社を辞めるということを、人員を振り分ける担

当者から聞かされた。もともと彼は「何時までも続けるつもりはない」

とは言っていたが、もしも彼が居なくなればまた新しい者と気心を探

りながら付き合わなければならなくなる。さっそく仕事の合間に無線

で聞いてみた。

「誰から聞いた?」

「近藤さん」

「ああ、そうだよ、今週で終わりだよ」

「いい仕事でも見つかったんですか?」

なぜ辞めるのかとは聞かなかった。それは、なぜ辞めないのか言いた

くなるほど待遇は酷かったからだ。何よりも交通警備員を置かなけれ

ばならない道路関係の仕事はすべてが公共工事なので、新年度の予算

が議会で審議されるまでの四月からほぼ三カ月はほとんど仕事がなか

った。大概の者はこの時に辞めてしまう。さらに天候次第で作業が中

止になったりと、出てナンボの非正規にとって安定した収入が見込め

なかった。にもかかわらず建設業界のヒエラルキーの最下層に位置す

る警備業は、期限が迫ってくると元請けの無茶な要望を拒むことさえ

できずに労基法で決っている休憩時間さえも削らされた。そして土建

業界といえども、たとえば作業者が指を落とすほどのケガをした時も

、下請け会社の社長は元請けに監督責任が及ばないようにするために

救急車を呼ばずに自分の車で病院に連れて行き、事故などなかったよ

うに装うために一部始終を見ていた私にも堅く口止めした。そんな酷い

労働環境を放置したままでいくら公共工事をばら撒いても人手が集ま

るはずがない。潤うのは工事を下請けに丸投げして利ザヤだけを稼ぐ

ゼネコンだけだ。

「何をしたってこの仕事よりも悪い仕事なんてないさ」

「まあ、そうですよね」

「短い間だったけど世話になったな」

「あのー、吉崎さん。もしよければ一緒に帰りませんか?」

「ほおー、まさか君の方から声を掛けてくるとは思わなかった」

私は彼の誘いを何度も断ったままで会えなくなってしまうことに不義

理を感じていた。そして、私自身も年収にすれば生活保護費と変わら

ない収入にしかならないこの仕事に見切りをつけるつもりでいたので、

彼には先を越された思いがした。


                   (つづく)