「生まれ出づる歓び」(八)

2019-04-07 03:29:32 | 「生まれ出づる歓び」(六)~(十)

          「生まれ出づる歓び」

 

               (八)

 

 佐藤が個人情報保護法に抵触して警察から事情聴衆を受けたことは業界

内でも周知のこととなった。情報そのものは住所氏名が数字化されていて

それだけでは個人を特定できなかったが、しかし多額の金銭の授受が行わ

れ、保険会社は顧客情報を漏えい売買した元社員を告訴していた。佐藤は

任意による取り調べを受けたが、問題は佐藤が元社員に教唆したかどうか

だったが、どうもその証言は得られなかった。間もなく彼は不起訴になっ

て釈放されたが、いつもならそんなことがあればいつもの居酒屋で祝杯を

あげるところなんだが、たぶん何か思うところがあってのことだと思うが

、彼は会社には休暇を届けてすぐに実家のある福島へ帰省した。これは佐

藤が口にしたことばだが、いよいよ「晴耕雨描」の生活を始めるつもりな

のかなと思っていると、ある夜突然デンワがかかってきて、

「お前んとこの音声技術な、あれちょっと教えてくれないか」

仕事の話だった。うちの会社は過去に音声認識システムの会社を買収して

いて、その技術はいまや性能を格段に向上させて感情までも読みとること

ができるようになっていて、うちの主力コンテンツの一つになっていた。

おれは、

「ずいぶん突然だな。もちろん構わないけど、いったい何を思い付いたの

「そうなんだ、ちょっと思い付いたんだ。すぐに帰えるから会えないか」

「だったらまだお前の無罪放免の祝杯をあげてないからいつものところで

会おうか」

「よし、そうしよう!」

「なんか元気そうで安心したよ」

「ああ、心配させて申し訳なかった」

おれは、彼の無沙汰を咎めようとは思わなかった。

 次の日の夜、佐藤は例の居酒屋で日本酒を舐めながらおれを待っていた

。おれが遅れて入って行くと、いつもの席に座って手を上げた。その様子

にこれまでと変わったところはなかった。おれはその向かいに腰を下ろし

て、

「アレッ、ちょっと太ったんじゃないの?」

「そうかもしれない、毎日運動もしないでカツ丼ばかり食ってたからな」

佐藤は勾留中の取り調べを笑いにした。おれは笑いながら、

「なんだ、日本酒なんか飲んでるのか」

「ああ、年を取るとやっぱりこれだわ」

そもそもこの店は佐藤の行きつけで、オーナーも福島出身の人で、メニュ

ーにも馴染みのない福島の郷土料理が載っていた。そして佐藤が舐めてい

る酒も福島の地酒に違いなかった。おれは注文を聞きに来た店員に、

「同じものを」と、地酒の燗を頼んだ。さすがに首都である東京はすでに

地方に先駆けて桜の開花宣言が出されてはいたが、それでも陽ざしが隠れ

た夜半には冬のなごりの北風が春待つ思いに冷水を浴びせるように吹き荒

んだ。

「福島は、桜はまだか?」

佐藤は無言だったが、それは想いの詰まった無言だった。おれはあの日も

春が待ち遠しい頃だったことを思い出した。

 猪口を合わせてから、ひとしきり事件の話を聴いていたが、彼がそれほ

ど話したがらないのでそれ以上問い詰めて聴こうとは思わなかった。しば

らく黙りこんだ後、彼はテーブルの上に置いたスマホを操作して、「とこ

ろで、お前んとこの音声技術なんだけど」と言いながら、そこに録音され

ている留守電と思われる男性の声を再生した。そして、

「実はこの声なんだけど、生き返らせてほしいんだ」

「ええっ、どういうこと?」

佐藤が言うには、福島県の避難指示が解除された町で、彼はかねがね馴染

みのあるその地を見ておきたいと思って訪れたらしいが、そこで一人の中

年の女性と出遭って言葉を交わした。佐藤は、

「彼女は津波で仕事中のご主人を亡くされて、そのあと避難区域に指定さ

れたので家にも住めなくなって仮設住宅に身を寄せていたが、ずっと家に

戻ることを待ち望んでいて、やっと戻って来ることができたと笑って言っ

た。そして、慣れない仮設住宅の暮らしで彼女が辛くなるといつも聴いて

いたのがご主人が残したこの留守電の声だったんだ」

そのスマホからはご主人の、

「心配するな、すぐ帰るから」

という低い声が何度も繰り返されていた。佐藤は、

「彼女の話を聴きながら、俺はどう応えていいのか分らなかったが、その

時思い付いたんだ。もしかしたら声だけなら生き返らせることができるか

もしれないって」

「なるほど」

今や音声アシスタントの技術は著しい進化を遂げ、かつてのようなタドタ

ドしい音声をただ繰り返すだけではなく、AI化によって会話さえも続け

られるようになっている。会話ができるということは相手の言葉が理解で

きるということで、もちろん人間がするように認識しているわけではない

が、単純な遣り取りをするくらいの装置ならすでに製品化もされていて、

新しい言葉を覚える学習機能さえも備わっている。一方で、音声によって

個人を特定する声紋認証の技術はすでに顔認識に変わる抵抗の少ない技術

として実用化されている。つまり、オリジナルの音声さえあれば、それを

複製して本人になり変わって会話することもできるかもしれない。おれは

、佐藤が思い付いたことがすぐに理解できた。たとえばアマゾンのアレク

サのような装置に亡くなった人の音声を復元させて会話することができれ

ば、残された人の悲しみは癒されるに違いない。それでも、おれは、

「ただ、それはたぶん危ない技術かもしれないね」

「なんで?」

「だって、そんなことが出来るならオレオレ詐欺なんて簡単に出来ちゃう

じゃないか」

「ええ、そうかな?」

 ただ、おれは音声技術に関してはまったく専門外だってので、佐藤のア

イデアに技術的なアドバイスをすることはできなかった。そこで、

「うちの技術者でいいなら、紹介するけど」と言うと、佐藤は「是非そう

してくれないか」と、この企画を前に進めたいという意志は強かった。

 おれはさっそくその場で音声技術の責任者にデンワをして佐藤の話をす

ると、「それ、おもしろそうですね」と乗ってきた。彼は野上という男で

おれたちとさほど年は変わらなかったが、何よりも彼は業界内では名の知

れた佐藤の仕事をリスペクトしていた。だから「会ってくれない?」と訊

くと、「えっ、会えるんですか!」と喜んで受けてくれた。

 

                            (つづく)