ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社)
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ニーチェの形而上学的命題を、私にとって重要と思われるいくつ
かを繰り返しになるが整理すると、まず変遷流転する「生成」の世
界で、絶対不変の「真理」とは幻想でしかない。そして「真理」を
掴めなかった理性はニヒリズムに陥る。たとえば、宗教は現世にお
けるニヒリズムの克服ではなく来世における救済を説くが、それは
現実のニヒリズムからの「逃避」であって、ニヒリズムそのものは
何もなくならない。つまり、宗教もまた現実逃避のニヒリズムにほ
かならない。では、一体どうすればニヒリズムから抜け出せるか?
ニーチェは、「芸術はニヒリズムに対する卓越した反対運動であり」
、「芸術は真理よりも多くの価値がある」と言い、そして「われわ
れは真理のために没落することがないようにするために、芸術をも
っている」とまで言う。しかし、芸術によって没落からまぬがれた
としても、理性が形而上学的「真理」を掴んでニヒリズムを解消さ
せなければ依然としてニヒリズムは大きな口を開けたまま待ち構え
ている。つまり、理性に従う限りニヒリズムに到るのは避けられな
いとするなら、芸術の優位は形而上学的思惟の敗北宣言にほかなら
ない。ニーチェは、プラトン・アリストテレスから連綿と続く西欧
形而上学の、それは存在の本質を問うことの限界を確認して、理性
による認識の限界を訴え、自らを最後の形而上学者であると名乗っ
た。「芸術は真理よりも多くの価値がある」とは、まさに形而上学
的思惟からの撤退にほかならない。だとすれば、理性からもたらさ
れる科学的認識もまたニヒリズムを解決できないことになり、そも
そもプラトンの「イデア」以来、それに続く「キリスト教世界観」、
そして「科学」もまた、それらはニヒリズムの克服ではなく逃避から
生まれた価値定立でしかなく、つまり、どれほど科学技術が進歩して
も、決してニヒリズムはなくならない。つまり、それらは固定化した
世界認識であり変遷流転する「生成」の世界にそぐわない。たとえば、
世界とは涯てしなく広がる海の上に浮かぶ船のようなものだとすれば
、身を預ける世界という船がどれほど堅固に建造されても、船底の板
子一枚下には理性では計り知れない底なしのニヒリズムが口を開けて
待ち構えているのだ。敢えて言えば、「生きていることは意味がない」
と考えて生きることをやめる者は、理性的には決して間違っていない、
アクマでもだが。
(つづく)