「あほリズム」(536)

2019-08-14 17:44:00 | アフォリズム(箴言)ではありません

          「あほリズム」


           (536)

 

「本日、わが大韓民国は国名を改めます。

新しい国名は、『朝鮮民主主義人民共和国』です」

  南朝鮮民主主義人民共和国最高指導者 文在寅

         


ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社) ―⑦―

2019-08-14 17:41:32 | ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ,Ⅱ 細谷貞雄 監訳

     ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社)

             ―⑦―


 ニーチェが「芸術は《真理》よりも多くの価値がある」という時

、それは絶対不変の《真理》とは幻想に過ぎないからだ。幻想でし

かない《真理》の追究はニヒリズムに陥る。では芸術はニヒリズム

に陥ることがないのだろうか?ニーチェは《真理》よりも価値のあ

る《芸術》をどう捉えていたのだろうか?そもそも芸術の本質は美

学によって規定される。「美学とは人間の感覚的感情的な態度とこ

れに規定を与えるものごとについての知である」(本書:ハイデガー)

つまり、認識としての美学は人間の感受性を規定し、感受性は美し

いものを対象にする。そこで、美しいか否かはそれぞれの感受性に

委ねられ、しかし、感受性は身体的状態に還元され、つまり、それ

らは《応用生理学》にほかならないと言うのだ。

ところで、生理学とは自然科学のカテゴリーであり、自然科学とは

あるがままの世界であり、何らかの意志、つまり創造性とは無縁で

ある。たとえば、花は昆虫による受粉を促すために華やかに彩られ

ていても、それは決してただ美しさのためにそうあるわけではない。

花の美しさというのはその関係性から逸脱した第三者の観照から生

まれる。そもそも植物自身は美しさを目的にして花を咲かせるわけ

ではない。美しさは生理学とは無縁である。美学が生理学によって

規定されるとなると、美しいか否かもまたその時その時の感情の状

態によって印象が変わり、真理と同じように「美もまた幻想なり」

ということになる。ところで、ニーチェは次のように考える。

『芸術家の心理についてーー芸術が存在するためには、なんらかの

美的な行為や観照がおこなわれるためには、どうしても或る生理学

的前提条件が不可欠である。それが陶酔なのである。陶酔がまず全

器官の興奮性を亢進させておかなくては、芸術というものは成立し

ない。どれほど異質な条件のもとで生じたいかなる種類の陶酔でも

、すべてこの力をもっている。なかでも著しいものは、性的刺激の

陶酔。――もっとも古くからの、もっとも根源的な陶酔形態である

。また、すべての大きな欲望、すべての強い情動にともなう陶酔、

たとえば祝祭、競技、神技、戦勝、あらゆる極端な動作の陶酔、残

虐行為の陶酔、破壊における陶酔、たとえば早春の陶酔のように、

一定の気象条件の影響をうけた陶酔、また麻酔薬の作用下での陶酔

、最後に、意志の陶酔、過度にはりつめて充溢した意志の陶酔も、

これと同様である』。【ニーチェ著「偶像の黄昏」第8巻】

 ハイデガーは、「以上のことを一般的命題に総括して、根本的な

美的状態とは陶酔であり、これはまたさまざまな仕方で条件づけら

れ触発され、促進されることがある、ということができる。」【本

書「美的状態としての陶酔」】

 つまり、美くしさは理性によって規定されるのではなく、むしろ

生理学的前提条件、つまり《陶酔》が不可欠であると言うのだ。

 

                        (つづく)