「言葉のひびき」
2021年1月Ⅰ日に、あっ、年が改まりましたね、
ことしもどうぞ当ブログをよろしくおねがいいたします。
本人は、アクセスランキングなんか気にするもんかと言いながら、
本人のアクセスが一番多いことにショックを受けているようです。
では改めまして、1月1日に「ドイツ語のひびきについて」とい
う記事を載せましたが、ふと思いついたことを書きたいと思います
。
その記事はニーチェの「悦ばしき知識」からの引用でしたが、そ
こでニーチェは、言葉の「きまりきったひびきに仕付けられた習慣
は、性格に深く食い入るからだ。」そして「やがて人々はこのひび
きにぴったり合った言葉や言い廻しや、ゆくゆくはまたそうした思
想さえも、身につけるだろう!」と言っています。つまり「言葉の
ひびき」は思想にまでも影響を与えると言うのです。たとえば、我
々は日本語を使いますが、日本語には儒教道徳が教える上下関係で
使い分ける敬語がありますが、しかし、「きまりきった」敬語に「
仕付けられた習慣は、性格に深く食い入り」「やがて人々は、この
ひびきにぴったり合った言葉や言い廻しや、ゆくゆくはまたそうし
た思想さえも、身につける」とすれば、我々日本人は敬語を使って
いる限り、古い社会システム(アンシャン・レジーム)を壊して新し
い時代を切り拓いていくことの妨げになるのではないだろうか?こ
のことは拙著である小説「儒魂」のテーマとして取り上げましたが
、儒教思想を「腐儒の腐説」とまで貶した福沢諭吉でさえも、思想
そのものは否定しても「敬語のひびき」に仕付けられた習慣までは
想い到らなかった。さて、そこではそもそものドイツ語の由来が、
宮廷を畏敬する国民がお役所が書いたものを手本にして「書くとお
りに話すようにもなった」のは「そうするのが自分らの日常そこに
生活している都会のドイツ語に比して何か高尚なことと看做された。
」からだと言います。つまり、お役所風の高尚とされる書き言葉が
そのまま話し言葉として用いられ、ニーチェにすれば「これ以上に
忌わしいひびきは、ヨーロッパ中を探したとて無駄骨というしろも
の」で、その「没趣味で横柄な」声調における何か嘲笑めいたもの
、冷やかなもの、どうなりかまわんといったもの、なげやりなもの
、そうしたものが今日ではドイツ人に『高尚な』というふうにひび
く」らしい。なるほど、そう言われてみれば我々日本人でもドイツ
語を読むときにそのままローマ字読みをすればそれほどドイツ語の
発音と違っていない。たとえば、フランス語の言葉のように発音し
ない子音などはまずありません。確かに、かつてゲーテ(Goet-
he)の読み方を「ギョエテとは俺のことかとゲーテいい」とからか
われたりもしましたが、それは名前だからで、それこそニーチェ(
Nietzsche)だって決して「ニーチェ」とは読めたもんでは
ありません。
ところで、書き言葉をどう読むかの難しさは外来語である漢字を
公用語に採用した古代日本でも、これまで使っていた話し言葉とど
う連繋させるかは大いに苦労したに違いない。その過程でひらがな
が生れたのではないかと思うが、この漢字とひらがなの併用という
のは日本人の優れた応用力だと言われる。やがてひらがなは雅(みや
び)を競う宮廷文化の下で重用され、そののちに朝廷から政治権力を
奪った武家は漢字を多用した。日本における帝(みかど)と将軍の関
係は、精神と肉体の二元論に帰納する。精神つまり朝廷が腐敗すれ
ば肉体つまり武家が実権を奪い、そして肉体が衰えれば精神が立て
直す。この二元性こそが我が国の天皇制であり、ひらがな文化と漢
字文化はそれぞれに適応したが、近代化を迫られた明治維新は天皇
がひらがな文化を捨てて漢字文化を求めたことが誤りだった、とい
うのは私論です。それでは、書き言葉を高尚なものと見做して話し
言葉にしたドイツ語は日本における漢字のようなもので、だとすれ
ば話し言葉に適応したフランス語はひらがなのようなものかもしれ
ない。
(つづく)