「二元論」
(11)
初期のハイデガーは現存在(人間)が《存在》を了解することに
よって世界を作り変えること(企投)が許容されると考えていた。
何故なら「現存在が存在を了解するときにのみ、存在はある」(
ハイデガー)のであれば、存在を了解(認識)できるのは人間を措い
て他に存在しない。つまり人間が存在しなければ《存在》という
概念も存在しない。実際、世界を人間の思い通りに作り変えること
はすでに近代社会の下で自然は単なる《材料・質料》(希hylēヒュレ
―はラテン語ではMateria マテリアと訳されそれが英語のMaterialに
なった)として、 現前の快適さだけを求めて作り変えられてきた。そ
れはプラトン・アリストテレス以来の「存在=現前性=被制作性」
という伝統的存在論によって構成されている。ところが、ハイデガ
ーは世界を循環再生する《生成》として捉え直さなければ、固定化
した非生成の世界はいずれ行き詰まると気付いて、世界を「存在=
生成=自然」という存在概念によって改めて構築し直さなければな
らないと考えた。形而上学的思惟がもたらした「二元論」的世界観
は生成としての自然を二分化して「死んだ世界」を固定化させるこ
とにほかならない。循環回帰しない文明はいずれ限界に達して間違
いなく行き詰まる。もしも将来にも人類が存在してるとすれば、今
われわれが享受している科学文明社会を続けることはできない。持
続可能な世界(SDGs)でなければいずれ限界に達して淘汰される
に違いない。それどころか、技術進化は本来の人類進化を妨げてい
るのではないか。文明の進化は車社会をもたらし、われわれの歩行
能力を徐々に衰えさせ、すでに乗り物のない生活は考えられなくな
っている。また来るAI化社会はおそらくわれわれの思考能力を著
しく退化させるに違いない。こうして人間は目の前の幸福だけを追
い求める近代社会の中で、たぶんわれわれは視力の退化によってす
でに遠くが見えなくなってしまったに違いないが、もはやわれわれ
は「人工の楽園」から脱け出せない家畜化へと向かっている。自分
自身を《生成》としての存在者であることを見失えば、つまり「自
然=内=存在」としての本来性を見失えば、間違いなく絶滅するで
あろう。そもそも何れ死んでしまうのであればさらなる幸福を求め
ることにいったいどれほどの価値があるのだろうか。幸不幸は社会
的な優劣感情であって、そんなことのために生れてくるわけではな
い。「なぜ生れてきたのか?」もまた形而上学的問題に違いないが、
すべての生き物と同じように、われわれだけが何らかの目的のため
に生れてきたわけではない。つまり「実存は本質に先行する」のだ。
話が大分逸脱しまいましたが、われわれが拠って立つ循環再生する
《生成》の世界こそが存在の根源であると認識しなければならない。
それは「現存在が存在を規定する」という存在概念から「存在が現
存在を規定する」という存在概念への転換であり、何よりも現存在
が主導権を行使する人間中心主義(ヒューマニズム)的文化の転換に
ほかならない。しかし、人間中心主義的文化からの撤退を人間によ
って行なわれることは如何にも自己撞着ではないか、と初期のハイ
デガーは、「存在と時間」上巻の発刊後に気付いた。確かに、近代
科学文明の黎明期にいち早くその過ちに気付いたからといって後戻
りすることなど到底できるはずはなかった。そこで、ハイデガーの
信奉者である木田元氏曰く、
「この形而上学の時代、存在忘却の時代に、われわれに何がなしう
るのか。失われた存在を追想しつつ、待つことだけ、と後期のハイ
デガーは考えていたようである。」(木田元『ハイデガーの思想』)
ところで、いまや時代は科学技術がもたらした自然環境破壊や地
球温暖化による異常気象が深刻な問題になっていますが、それでは
「存在=生成=自然」という存在概念への回帰を訴えたハイデガー
は、いつまで待てばいいと思っていたのでしょうか?
「今でしょ!」(古いか?)
(つづく)