「自己責任論と殺人」のつづき

2019-12-16 01:46:54 | 従って、本来の「ブログ」

         「自己責任論と殺人」のつづき


 もちろん一概には言えないが、人は誰かを殺めることを決意する

時には当然自分自身にもそれ相応の責任が問われることを充分認識

した上での決意に違いない。つまり、他人を殺める決意の前に自分

自身の死についても考え及ばないはずがない。縦しんば裁判で死刑

を免れたとしても、それまでの社会生活がすべて失われることは明

白である。それにも拘らず他人を殺めようと決意するのは、自分の

命を犠牲にしても相手との関係を転換させたいという強い思いから

だろう。人は誰かを殺めなければならないと決意する時とは、そう

しなければとても自分は生きていくことができないと思ったからで

、誰かを殺める前に今在る自分を殺すのだ。そして、自死の代償と

して殺意が芽生える。

                         (つづく)


「自己責任論と殺人」

2019-12-13 23:13:44 | 従って、本来の「ブログ」

         「自己責任論と殺人」


 元キャリア官僚だった男性が家庭内暴力を繰り返す息子に恐怖を

感じて自らの手で殺めた事件の裁判のニュースが伝えられた。表沙

汰にしたくなかっただろう家族の事情までもがつまびらかに報じら

れて何ともやるせない思いがした。もちろん殺人は如何なる理由が

あっても社会的に許されないが、それでは、過激な言動を繰り返す

我が子を親としての責任から、彼は妻に宛てた手紙で「これ(殺す)

しか他に方法はないと思います。どこかで死に場所を探します。見

つけたら散骨してください。『長男』も散骨してください。葬儀が

終わったら、病院へ入院してください。心が落ち着くまでゆっくり

休んでください」と書き残していて、自らの死をも覚悟した上で我

が子を殺める決意した。犯行当日、息子は近所の小学校の運動会の

声がうるさいと腹を立て、「うるせーな、子供ぶっ殺すぞ」と叫ん

で父親にたしなめられて口論になった。折しも数日前には引き籠り

状態の中年男性が小学校のスクールバスを待つ児童ら20人を無差

別に殺傷して自殺してしまう事件が起きたばかりで、息子による同

様の犯行を危惧した父親が咄嗟に凶器を手にしたとしても頷ける。

 もちろん一概には言えないが、人は誰かを殺めることを決意する

時には当然自分自身にもそれ相応の責任が問われることを充分認識

した上での決意に違いない。つまり、他人を殺める決意の前に自分

自身の死についても考え及ばないはずがない。縦しんば裁判で死刑

を免れたとしても、それまでの社会生活がすべて失われることは明

白である。それにも拘らず他人を殺めようと決意するのは、自分の

命を犠牲にしても相手との関係を転換させたいという強い思いから

だろう。人は誰かを殺めなければならないと決意する時とは、そう

しなければとても自分は生きていくことができないと思ったからで

、誰かを殺める前に今在る自分を殺すのだ。そして、自死の代償と

して殺意が芽生える。

                         (つづく)


「目覚めた獅子 中国」(6)

2019-12-11 11:19:42 | 「目覚めた獅子 中国」

       「目覚めた獅子 中国」

 

            (6)


 これまで見てきたように、中国は未だ封建主義政治を続けていて

、そしてそれを精神面で支えているのは厳格な身分道徳を説く儒教

思想である。儒教は国民が身分を弁えずに政治に関わることを厳に

戒めて、人民もまた、政治のことは政治家に任せておけばいいと、

政治に無関心であることがある種の美徳のよう思われて、おおよそ

民主主義とはかけ離れた政治意識でしかない。かつて都知事であっ

た石原慎太郎は「中国のやり方はまるで暴力団と同じだ」と言った

が、それはまったく逆で、日本の暴力団が彼の国の任侠道を真似て

いるのだ。われわれが暴力団との係わりを避けるように、彼らも政

治とは係わらないようにしている。身分の低い者に口を挟ませない

というのはまったく暴力団と同じで、政治権力者とは暴力団と同じ

なのだ。もちろん日本も厳格な儒教社会だったが、欧米列強の進出

によって存亡の危機を迎えて、「天皇」という絶対的存在が見直さ

れ、閉鎖的な封建主義社会(鎖国主義の幕藩体制)を絶対的視点から

改革することによって、曲りなりにも天皇制による絶対主義の下で

議会政治が行われた。政治学者丸山眞男氏は、民主主義政治の前段

階としてどうしても絶対主義支配が必要だ、と語っているが、不完

全であったにせよ明治政府は戦後民主主義の前段階としての役割を

果たした。ところが、宗教的(絶対的)視点を持たない儒教思想は決

して平等思想を生むことがなかった。そして平等思想が生れない社

会に民主主義が育まれることはなかった。

 ところがである、英国による植民地支配によって一国二制度が認

められ民主主義社会を築いてきた香港に対して、中国共産党は様々

な政治干渉を行ない自治権を脅かして、ついには香港市民、とりわ

け民主主義の洗脳を受けた学生たちが抗議行動を起こして民主主義

社会を死守しようとしている。かつて、中国本土では民主化を求め

て天安門事件が起こったが、政治に関わろうとしない儒魂人民の支

持を得られなかったが、ところが、香港の学生たちによる抗議行動

はこれまでの民主主義社会の下で育まれた経験からそのあるべき姿

が実感できるのでそう簡単に諦めたりはしないだろう。事実、彼ら

はバリケードを築いて立て籠もった学校の中で二十歳にも満たない

学生たちが遺書を書き残していると聴く。果たしてわが国はその紛

争をただの対岸の火事と他人事のように眺めているだけでいいのだ

ろうか?


                        (おわり)


「あほリズム」(620)

2019-12-08 09:44:26 | アフォリズム(箴言)ではありません

          「あほリズム」

 

            (620)

 

 いま、最もAI化が望まれるのは政治ではないか?

 仮に、AIがこれまでの国会のデータを踏襲して何も決められな

かったとしても、しかし巨額の議員報酬が削減できるならそれだけ

で優れて政治的な成果ではないか。


「人工知能(AI)と人間」のつづき

2019-12-07 02:17:38 | 従って、本来の「ブログ」

       「人工知能(AI)と人間」のつづき

 

 以前に、出勤時の車の中で聴いていたラジオで、武田鉄矢がパー

ソナリティーを務める番組で、不確かだが、AIに関する本を取り

上げて、いや、まな板の上に載せて三枚に下ろしていて、そこでA

Iが苦手なのは哲学と芸術であると言った。それを聴いて、私の頭

を過ったのは、ハイデガーがニーチェについて書いた本の中で、ニ

ーチェは「われわれは真理によって没落することがないようにする

ために芸術をもっている」と記していて、そしてハイデガーによる

と、「(ニーチェがここで)(芸術について語る時)芸術とは、生を聖

化して、いっそう高い可能性の中へ的確に転移させるあらゆる形式

を表す名称として用いられている。この意味では、哲学も《芸術》

なのである。」そして、「ニーチェにとって最高の価値は芸術であ

ると主張するときには、この言明は芸術を形而上学的に把握する場

合にのみ意味と正当性をもつのであ」る。つまり、芸術を哲学的に

捉える場合にのみ最高の価値をもつ、とすれば近代の形而《下》学

的な商業芸術はとても芸術とは呼べないことになる。いまや「アー

ティスト」という肩書は全ての人間に当て嵌まるのだ。

 こうして、哲学と芸術についてのニーチェの認識とAIが苦手と

する分野が見事に一致したことに驚いた。哲学と芸術に共通する観

念は創造性だが、過去のデータを基にして未来を予測するAIが過

去には存在しない新しいものを創造することは出来ない。

 ここで改めて真理とAI( artificial人工 intelligence知能)につい

て言及すると、どちらも「理性」が関わる事柄であるが、理性と知

性の違いは、理性は真理を問うことができるが、知性は真理を《知

ること》ができても問うことができないところである。だとすれば、

その違いは創造性の有無ということになる。そして創造性をもたら

たのは間違いなく宗教だった。こうして、AI(人工知能)はいか

に進化したとしても「真理を問うこと」、つまり哲学はできないと

いうことである。また創造性こそが求められる作為とは芸術にほか

ならない。つまり、AIは創造力が求められる哲学と芸術は苦手な

のだ。

                        (つづく)