「二元論」 (12)

2021-06-13 11:08:08 | 「二元論」

         「二元論」

          (12)

 ここでもう一度「ハイデガーの思想」(木田元)の概要を「誤解を

恐れながら」できるだけ簡単に叙述しようと思います。おそらく、

どうしてそれほどまでにハイデガーに拘るのかと思われるかもしれ

ませんが、ハイデガーは今日の行き詰まりにきている循環再生され

ない科学主義の過ちにいち早く気付いて警鐘を鳴らし、「世界=内

=存在」としての人間は「存在=生成」という存在概念によって「

もう一度自然を生きて生成するものと見るような自然観を復権」(

木田元『ハイデガーの思想』)させなくてはならないという訴えは

、今まさに近代人が置かれている深刻な環境破壊の状況をまるで予

言していたかのように思えて、そしてそれは今もなお変わらないど

ころか昨今の環境変化を聴くたびに確信するに到ったからです。

 さて、ハイデガーはまず「存在とは何か」を問う前に、「存在と

は何か」を問う「人間とは何か」を問います。何故なら、「あらゆ

る存在者のうちひとり人間だけが存在の声によって呼びかけられ、

〈存在者が存在する〉という驚異のなかの驚異を経験する」(ハイ

デガー)と言うように、存在するということに驚き、そこで「存在

とは何か」を問うものは人間以外には存在しないからです。つまり

、ありとあらゆるものを在らしめている《存在》は、人間がその「

何であるか」を問わなければ日の目を見ることのない概念なのです

。たとえば、人間以外の生き物たちは世界内で他の存在者と目の前

の関係性の中だけで生きています。ただ人間だけが目の前の世界を

離れて世界を外の視点から、それはかつては神の視点だったが、世

界を知ろうとします。ハイデガーは人間の関心が世界を越えて《存

在》について知ろうとするのは進化した理性がもたらす時間意識に

拠ると言います。人間はほかの生き物とは違っては目の前の現実か

ら離脱して、ハイデガーはそれを〈自脱態〉と呼びますが、過去や

未来へ想いを馳せますが、、現実は過去の記憶と未来の可能性が緊

密に連関し合う時間性の下で思考されます。そして、それらの時間

性の中の意識のあり方は、たとえば漠然と日常生活を送る時と、死

を意識して覚悟を定めて生きる時とでは当然《存在》の了解のあり

方に大きな違いがある。つまり、自分をどう時間化するかによって

《存在了解》のあり方も変わってくる。たとえば、いかにビッグ

バーン現象が事実だと認識してもいまのわれわれにとっては係わる

ことのできない、存在しないことである。そしてもう一度繰り返し

ますが、人間が《存在》について問わない限り《存在》という概念

は存在しないのです。こうして《存在》は人間の時間性の中で了解

され、そして人間の時間性が《存在》に転換される。つまり (人間

の時間性の下で問われる《存在》とは)時間なのである。

 初期のハイデガーは「現存在(人間)が存在を規定する」と考えて

いた。それは、人間が世界を思い通りに作り変えてもいいというこ

とになるが、ところが木田元によると、「ハイデガーは人間を本来

性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、おそ

らくは〈存在=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生

きて生成するものと見るような自然観を復権することによって、明

らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義文化を

くつがえそうと企てていたのである。」(木田元『ハイデガーの思想

』)これは、自由を与えられているのに敢えて不自由を選択をしてい

るようでどうも納得できない。

                       (つづく)


「二元論」(11)

2021-06-06 12:20:56 | 「二元論」

   「二元論」


    (11)


 初期のハイデガーは現存在(人間)が《存在》を了解することに

よって世界を作り変えること(企投)が許容されると考えていた。

何故なら「現存在が存在を了解するときにのみ、存在はある」(

ハイデガー)のであれば、存在を了解(認識)できるのは人間を措い

て他に存在しない。つまり人間が存在しなければ《存在》という

概念も存在しない。実際、世界を人間の思い通りに作り変えること

はすでに近代社会の下で自然は単なる《材料・質料》(希hylēヒュレ

―はラテン語ではMateria マテリアと訳されそれが英語のMaterialに

なった)として、 現前の快適さだけを求めて作り変えられてきた。そ

れはプラトン・アリストテレス以来の「存在=現前性=被制作性」

という伝統的存在論によって構成されている。ところが、ハイデガ

ーは世界を循環再生する《生成》として捉え直さなければ、固定化

した非生成の世界はいずれ行き詰まると気付いて、世界を「存在=

生成=自然」という存在概念によって改めて構築し直さなければな

らないと考えた。形而上学的思惟がもたらした「二元論」的世界観

は生成としての自然を二分化して「死んだ世界」を固定化させるこ

とにほかならない。循環回帰しない文明はいずれ限界に達して間違

いなく行き詰まる。もしも将来にも人類が存在してるとすれば、今

われわれが享受している科学文明社会を続けることはできない。持

続可能な世界(SDGs)でなければいずれ限界に達して淘汰される

に違いない。それどころか、技術進化は本来の人類進化を妨げてい

るのではないか。文明の進化は車社会をもたらし、われわれの歩行

能力を徐々に衰えさせ、すでに乗り物のない生活は考えられなくな

っている。また来るAI化社会はおそらくわれわれの思考能力を著

しく退化させるに違いない。こうして人間は目の前の幸福だけを追

い求める近代社会の中で、たぶんわれわれは視力の退化によってす

でに遠くが見えなくなってしまったに違いないが、もはやわれわれ

は「人工の楽園」から脱け出せない家畜化へと向かっている。自分

自身を《生成》としての存在者であることを見失えば、つまり「自

然=内=存在」としての本来性を見失えば、間違いなく絶滅するで

あろう。そもそも何れ死んでしまうのであればさらなる幸福を求め

ることにいったいどれほどの価値があるのだろうか。幸不幸は社会

的な優劣感情であって、そんなことのために生れてくるわけではな

い。「なぜ生れてきたのか?」もまた形而上学的問題に違いないが、

すべての生き物と同じように、われわれだけが何らかの目的のため

に生れてきたわけではない。つまり「実存は本質に先行する」のだ。

話が大分逸脱しまいましたが、われわれが拠って立つ循環再生する

《生成》の世界こそが存在の根源であると認識しなければならない。

それは「現存在が存在を規定する」という存在概念から「存在が現

存在を規定する」という存在概念への転換であり、何よりも現存在

が主導権を行使する人間中心主義(ヒューマニズム)的文化の転換に

ほかならない。しかし、人間中心主義的文化からの撤退を人間によ

って行なわれることは如何にも自己撞着ではないか、と初期のハイ

デガーは、「存在と時間」上巻の発刊後に気付いた。確かに、近代

科学文明の黎明期にいち早くその過ちに気付いたからといって後戻

りすることなど到底できるはずはなかった。そこで、ハイデガーの

信奉者である木田元氏曰く、

「この形而上学の時代、存在忘却の時代に、われわれに何がなしう

るのか。失われた存在を追想しつつ、待つことだけ、と後期のハイ

デガーは考えていたようである。」(木田元『ハイデガーの思想』)

 ところで、いまや時代は科学技術がもたらした自然環境破壊や地

球温暖化による異常気象が深刻な問題になっていますが、それでは

「存在=生成=自然」という存在概念への回帰を訴えたハイデガー

は、いつまで待てばいいと思っていたのでしょうか?

「今でしょ!」(古いか?)

                        (つづく) 

 


「二元論」 (10)のつづき

2021-06-02 07:58:50 | 「二元論」

   「二元論」

 

 (10)のつづき

 

 これは以前にも記しましたが、そもそもプラトン・アリストテレスから始まった形而上学的思惟(伝統的存在論)は、まず《存在》概念を「事実存在」と「本質存在」に二分化する。そこで幾つかの思い付く《存在者》、これは存在するものすべてという意味ですが、を二分化してみようと思います。(尚、スマホ用に書式を変えています)

 

「事実存在」     「本質存在」

 ピュシス(physis)  イデア(idea)

「生成」        「固定化」

「変遷流転」     「絶対不変」

 天然          人工

「存在=生成  「存在=現前性

   =自然」   =被制作性」

 肉体          精神

 本能          理性

 自然          科学

 芸術          真理

 この世         あの世

SDGs       Capitalism

Sustainable Un-sustainable