今日の聖書箇所(マルコによる福音書 7:1-8, 14-15, 21-23)における
イエス様の言葉は、厳格なユダヤ教の律法主義者であった
ファリサイ派への痛烈な批判です。
当時のユダヤ教には、けがれを清めるための細かい規定や習慣がり、
手や体を洗うのもそのひとつでした。
7章の前半では、食事前に手を洗わなかった人が、ファリサイ派に非難されます。
今でもイスラエルでは、乾期には雨がほとんど降りません。
荒れ野で野宿していた羊飼いや、畑仕事に精を出す農民にとって、
貴重な水で毎度手を洗うのは大変なことだったし、
現実のそれを守っている余裕はありませんでした。
苦しい生活の中で、本当に救いを必要としている人たちが、
ただ、手を洗わないという理由で排除される。
イエス様には、そういったことは我慢ならなかったのでしょう。
本当の「汚れ」とは何でしょうか。
イエス様は、「食べたものは、腹に入って便所へ出て行く。それだけだ。
食べるものに清いも汚れもない」と、断言します。
「便所」というと、やけにストレートな表現だと思われるかもしれませんが、
本来の意味はそのように訳されるべきであると、
桃山学院大学の滝沢先生も言われています。(「人間イエス」より)
「外に出る」と訳している新共同訳の聖書の法は、
むしろ、意訳しすぎて意味がぼやけてしまっているように思われます。
本当に人を汚すものは何か。
それは、私たち、人の内側から出るものであるとイエス様はおっしゃるのです。
執事 マタイ金山昭夫 《2006.9.3 週報より》
イエス様の言葉は、厳格なユダヤ教の律法主義者であった
ファリサイ派への痛烈な批判です。
当時のユダヤ教には、けがれを清めるための細かい規定や習慣がり、
手や体を洗うのもそのひとつでした。
7章の前半では、食事前に手を洗わなかった人が、ファリサイ派に非難されます。
今でもイスラエルでは、乾期には雨がほとんど降りません。
荒れ野で野宿していた羊飼いや、畑仕事に精を出す農民にとって、
貴重な水で毎度手を洗うのは大変なことだったし、
現実のそれを守っている余裕はありませんでした。
苦しい生活の中で、本当に救いを必要としている人たちが、
ただ、手を洗わないという理由で排除される。
イエス様には、そういったことは我慢ならなかったのでしょう。
本当の「汚れ」とは何でしょうか。
イエス様は、「食べたものは、腹に入って便所へ出て行く。それだけだ。
食べるものに清いも汚れもない」と、断言します。
「便所」というと、やけにストレートな表現だと思われるかもしれませんが、
本来の意味はそのように訳されるべきであると、
桃山学院大学の滝沢先生も言われています。(「人間イエス」より)
「外に出る」と訳している新共同訳の聖書の法は、
むしろ、意訳しすぎて意味がぼやけてしまっているように思われます。
本当に人を汚すものは何か。
それは、私たち、人の内側から出るものであるとイエス様はおっしゃるのです。
執事 マタイ金山昭夫 《2006.9.3 週報より》