ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、
イエスは言われた。
「あなたがたはこれらの物に見とれているが、
一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
そこで、彼らはイエスに尋ねた。
「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。
また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
イエスは言われた。
「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、
『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、
ついて行ってはならない。
戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。
こういうことがまず起こるに決まっているが、
世の終わりはすぐには来ないからである。」
そして更に、言われた。
「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、
恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
しかし、これらのことがすべて起こる前に、
人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、
わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、
わたしがあなたがたに授けるからである。
あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。
中には殺される者もいる。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
[ルカによる福音書 21:5-19]
*
今年も教会暦が終わりに近づいて来ました。
この時期に読まれる聖書箇所は、
毎年終末についてのイエス様の御言葉の箇所が選ばれており、
「小黙示」と呼ばれています。
冬を迎えようとして、
木々は葉を落としこの世界では生命が終わってゆくかのように思える
この季節にこの箇所を読んで、自らの命の終わり、
あるいはこの世界の終着点に思いを致すのも
ふさわしいことなのだという気もして来ました。
本来、こうした黙示文学の終末の描写は、
ヨハネの黙示録や旧約のダニエル書などに顕著なように、
非日常的な表現でこの世界の崩壊を表しているものが多いでしょう。
しかし、今日の福音を読んでみて気付かされたのは、
これらの描写が今のこの世界の状態とよく似てはいないかということでした。
イラクやパレスチナでの戦争やテロ、
台風や地震などの自然の猛威、
世界中での飢饉や南アフリカなどにおけるエイズの蔓延が
今も私たちを脅かしています。
さらに、地球温暖化によって気象上の異変は
様々な危機を私たちにもたらしています。
また、社会では親は子供を虐待死させ、
子供が親を殺害するといった悲惨な事件も起こります。
今日の福音が述べているようなことが、
今この世界で起こっているということを
私たちはどのように受け止めればよいのでしょうか。
私たちのこの世界は、
すでに崩壊に向かう滅びの道を転がり落ちているのでしょうか。
こんな時に「しかし、あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない」。
福音のこのイエスさまの言葉に胸をなで下ろしたいような気が致します。
しかし、こうした、終末について明確な教えが与えられていることが、
私たちの信仰の救いでもあります。
単に世界の破壊とか人類の滅亡を描いて危機感を煽ったところで、
終末を語ることにはなりません。
本当の終末思想とは単に世界の終りを説くのではなく、
世界の完成を説くものなのです。
私たちの人生、歴史にどんな苦難と不条理があろうと、
最終的に秩序の中で完成する。
そして、すべての人が贖われるのであるという強い信念です。
これは人が約束できるものではないでしょう。
人の次元でいえば、過去の戦争や迫害などで犠牲となられた方に対して、
今生きている私たちは基本的に無力です。
この世界の未来に対しても長い目で見たときには、
個々の人間が責任を負うことはできないでしょう。
もし、それが出来るとすれば、
終末の完成をなされる神様への信頼によってのみ成り立つものです。
私たちは、使徒信教で「天地の造り主」への信仰を表しますが、
それは、「すべて」は神さまのご意思によって始まったのであるという
信念をあらわしているのです。
そしてこの創造信仰に終末信仰は呼応します。
すなわち、神によって始められたものは、何一つ残らず、
その神ご自身によって完成されるのだということです。
これはこの世界全体、あるいは、私たち一人ひとりの命についても同様でしょう。
だからこそ、「体のよみがえり、永遠の命を信じます」と私たちは唱えるのです。
私たちの生も神さまのもとで完成するのです。
「神は自ら人と共にいて、その神となり、
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。
最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録 21:3-4)。
このような、終末への信仰は、
私たちに次のようなことを教えてくれるのではないでしょうか。
まず、この世のことはすべて最終的なものではない、
いわば途上のものであり、変転し過ぎ去ってしまうということです。
黙示録が示すこの世の「消滅」はそれを教えているのでしょう。
ここにはキリスト教的な意味での「離脱」とでもいうような境地があります。
一方で、終末の完成への信頼は、この世を受け止め、
地に足をつけて生きてゆくことを可能にしてくれます。
もし、私たちの命とその終着点がまったく不確かであったならば、
今この時を大切に受け止めてゆくことは出来ないでしょう。
死や最後の審判、天国などという教えもこうしたことと関係しています。
「これらのことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ない」。
イエスさまが自然界の異変やこの世界混乱が、
即終末の徴だと考えてはならないと言っておられることを心に留めるべきでしょう。
いずれにしても、私たちはこの福音を通して
「生も死もすべて神さまのみ手にお委ねする」ということの中に
ある安らぎを感じて今日を生きて行きたいと思います。
司祭 マタイ金山昭夫
イエスは言われた。
「あなたがたはこれらの物に見とれているが、
一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
そこで、彼らはイエスに尋ねた。
「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。
また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
イエスは言われた。
「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、
『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、
ついて行ってはならない。
戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。
こういうことがまず起こるに決まっているが、
世の終わりはすぐには来ないからである。」
そして更に、言われた。
「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、
恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
しかし、これらのことがすべて起こる前に、
人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、
わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、
わたしがあなたがたに授けるからである。
あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。
中には殺される者もいる。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
[ルカによる福音書 21:5-19]
*
今年も教会暦が終わりに近づいて来ました。
この時期に読まれる聖書箇所は、
毎年終末についてのイエス様の御言葉の箇所が選ばれており、
「小黙示」と呼ばれています。
冬を迎えようとして、
木々は葉を落としこの世界では生命が終わってゆくかのように思える
この季節にこの箇所を読んで、自らの命の終わり、
あるいはこの世界の終着点に思いを致すのも
ふさわしいことなのだという気もして来ました。
本来、こうした黙示文学の終末の描写は、
ヨハネの黙示録や旧約のダニエル書などに顕著なように、
非日常的な表現でこの世界の崩壊を表しているものが多いでしょう。
しかし、今日の福音を読んでみて気付かされたのは、
これらの描写が今のこの世界の状態とよく似てはいないかということでした。
イラクやパレスチナでの戦争やテロ、
台風や地震などの自然の猛威、
世界中での飢饉や南アフリカなどにおけるエイズの蔓延が
今も私たちを脅かしています。
さらに、地球温暖化によって気象上の異変は
様々な危機を私たちにもたらしています。
また、社会では親は子供を虐待死させ、
子供が親を殺害するといった悲惨な事件も起こります。
今日の福音が述べているようなことが、
今この世界で起こっているということを
私たちはどのように受け止めればよいのでしょうか。
私たちのこの世界は、
すでに崩壊に向かう滅びの道を転がり落ちているのでしょうか。
こんな時に「しかし、あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない」。
福音のこのイエスさまの言葉に胸をなで下ろしたいような気が致します。
しかし、こうした、終末について明確な教えが与えられていることが、
私たちの信仰の救いでもあります。
単に世界の破壊とか人類の滅亡を描いて危機感を煽ったところで、
終末を語ることにはなりません。
本当の終末思想とは単に世界の終りを説くのではなく、
世界の完成を説くものなのです。
私たちの人生、歴史にどんな苦難と不条理があろうと、
最終的に秩序の中で完成する。
そして、すべての人が贖われるのであるという強い信念です。
これは人が約束できるものではないでしょう。
人の次元でいえば、過去の戦争や迫害などで犠牲となられた方に対して、
今生きている私たちは基本的に無力です。
この世界の未来に対しても長い目で見たときには、
個々の人間が責任を負うことはできないでしょう。
もし、それが出来るとすれば、
終末の完成をなされる神様への信頼によってのみ成り立つものです。
私たちは、使徒信教で「天地の造り主」への信仰を表しますが、
それは、「すべて」は神さまのご意思によって始まったのであるという
信念をあらわしているのです。
そしてこの創造信仰に終末信仰は呼応します。
すなわち、神によって始められたものは、何一つ残らず、
その神ご自身によって完成されるのだということです。
これはこの世界全体、あるいは、私たち一人ひとりの命についても同様でしょう。
だからこそ、「体のよみがえり、永遠の命を信じます」と私たちは唱えるのです。
私たちの生も神さまのもとで完成するのです。
「神は自ら人と共にいて、その神となり、
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。
最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録 21:3-4)。
このような、終末への信仰は、
私たちに次のようなことを教えてくれるのではないでしょうか。
まず、この世のことはすべて最終的なものではない、
いわば途上のものであり、変転し過ぎ去ってしまうということです。
黙示録が示すこの世の「消滅」はそれを教えているのでしょう。
ここにはキリスト教的な意味での「離脱」とでもいうような境地があります。
一方で、終末の完成への信頼は、この世を受け止め、
地に足をつけて生きてゆくことを可能にしてくれます。
もし、私たちの命とその終着点がまったく不確かであったならば、
今この時を大切に受け止めてゆくことは出来ないでしょう。
死や最後の審判、天国などという教えもこうしたことと関係しています。
「これらのことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ない」。
イエスさまが自然界の異変やこの世界混乱が、
即終末の徴だと考えてはならないと言っておられることを心に留めるべきでしょう。
いずれにしても、私たちはこの福音を通して
「生も死もすべて神さまのみ手にお委ねする」ということの中に
ある安らぎを感じて今日を生きて行きたいと思います。
司祭 マタイ金山昭夫