その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。
わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、
この方のことである。
わたしはこの方を知らなかった。
しかし、この方がイスラエルに現れるために、
わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
そしてヨハネは証しした。
「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、
この方の上にとどまるのを見た。
わたしはこの方を知らなかった。
しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、
『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、
その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
わたしはそれを見た。
だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
そして、歩いておられるイエスを見つめて、
「見よ、神の小羊だ」と言った。
二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、
「何を求めているのか」と言われた。
彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」
と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。
そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。
そしてその日は、イエスのもとに泊まった。
午後四時ごろのことである。
ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、
シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、
「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」
と言った。
<ヨハネによる福音書1章29-41>
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本日の福音書にはまた、ヨハネが登場します。
ここで気付かされるイエス様とヨハネの根本的な違いは、
ヨハネのメッセージが「裁き」であったのに対し、
イエス様はあくまでも「喜び」のメッセージであったということです。
ここにイエス様の宣教の中心があります。
しかし、「喜びのメッセージ」はそんなに簡単に語れるものではありません。
本当に「喜び」を語るということには、
それに伴う大きな責任があります。
神様の前に罪深い人間はどのように立てるのか。
すなわち「罪の赦し」の問題です。
これを抜きにして「喜び」を語ることはできません。
イエス様が人々に「罪の赦し」を語り「愛の神」を語る以上、
神と人間とに対して自らが責任をとらねばならないのです。
ヨハネがイエス様に対して「見よ、神の小羊」と語ったのは、
まさにこのことを指していたのです。
自分自身を「犠牲の小羊」にする覚悟がなくては
「神の愛」を語ることはできないでしょう。
しかし、それは「神から遣わされた者」だけができることです。
ヨハネ自らが言うように
「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」
(ヨハネによる福音書3:27)のです。
そこにヨハネをはじめとする預言者の限界がありました。
しかしイエス様はその限界を打ち破り、
自らを「神の小羊」として奉げられる生き方を選ばれたのだと思います。
司祭 マタイ金山昭夫