ヨハネによる福音書が書かれた言葉の意味とは別に、
深い神学的な内容をこめているということは
何度かお話したことがあると思います。
しかし、本日の福音書の箇所(ヨハネによる福音書6:53-59)は、
その中でも最も深いと同時に、理解が難しい箇所のひとつでしょう。
ここを読むとき、私たちは、その信仰が試されているように
感じることもあるのではないでしょうか。
ここで言っている群衆とは、イエス様のことを深く理解せず、
ただ、その名声や評判を聞きつけて
通りすがりに集まって来たような人々のことを指していると言われております。
そして、この箇所は、イエス様において、
その最も関係希薄な人々である「群衆」との対話
ということに注意しなければならないともいえます。
案の定、それらの群衆の大半の人々にとって、
イエス様の語った言葉は「失望」を起こし、
皆、イエスから離れ去っていく機会となりました。
ここでは、イエス様は本物の信仰を持たない人が
わざと去るようにされているようにも思える箇所です。
私たちは、ヨハネの示した言葉のひとつひとつに
神の深いメッセージが読み取れるよう、
祈りのうちに本日の福音にふれてみたいと思います。
執事 マタイ金山昭夫 《2006.8.20 週報より》
深い神学的な内容をこめているということは
何度かお話したことがあると思います。
しかし、本日の福音書の箇所(ヨハネによる福音書6:53-59)は、
その中でも最も深いと同時に、理解が難しい箇所のひとつでしょう。
ここを読むとき、私たちは、その信仰が試されているように
感じることもあるのではないでしょうか。
ここで言っている群衆とは、イエス様のことを深く理解せず、
ただ、その名声や評判を聞きつけて
通りすがりに集まって来たような人々のことを指していると言われております。
そして、この箇所は、イエス様において、
その最も関係希薄な人々である「群衆」との対話
ということに注意しなければならないともいえます。
案の定、それらの群衆の大半の人々にとって、
イエス様の語った言葉は「失望」を起こし、
皆、イエスから離れ去っていく機会となりました。
ここでは、イエス様は本物の信仰を持たない人が
わざと去るようにされているようにも思える箇所です。
私たちは、ヨハネの示した言葉のひとつひとつに
神の深いメッセージが読み取れるよう、
祈りのうちに本日の福音にふれてみたいと思います。
執事 マタイ金山昭夫 《2006.8.20 週報より》