今日(1月21日)は、腹切り問答の日。
腹切り問答とは、衆議院本会議中に立憲政友会の浜田国松代議士と寺内寿一陸相との間で起こったやりとりで、結果的に広田弘毅内閣の瓦解に繋がった事件で、割腹問答ともいう。
1881(明治14)年10月、「国会開設の詔」が発せられ、10年後の国会開設が約束され、その4年後に内閣制度が発足。帝国議会開設は1890(明治23)年と決定し、議事堂建設の取り組みが始まったが、計画は設計の段階から難航し、財政難を理由に当面は仮議事堂で急場をしのぎ、新議事堂建設計画などもあったが度重なる火災や震災などで建設は遅れ、やっと、新議事堂の完成も押し迫った1936(昭和11)年2月26日には、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げてニ・ニ六事件が発生、陸軍武装青年将校の一群が永田町一帯を占拠した。29日早朝に武力による鎮圧が決定されると、東京湾御台場沖には海軍の軍艦40隻が集結、永田町に艦砲射撃の照準を合わせて反乱軍を威嚇。反乱部隊は同日抵抗もせず帰順し、反乱は敢え無く失敗に終わった。そして、二・二六事件の責任をとり岡田啓介内閣が総辞職した。当時の総理大臣は最後の元老であった西園寺公望が天皇の御下問を受けて推薦していた。このとき西園寺はまず近衛文麿を推し、初めに近衛に組閣命令が下ったが、近衛は、病気を理由に辞退。そのため西園寺は岡田内閣の外相であった広田弘毅を候補に挙げ、天皇から広田に組閣大命が下ったのが1936(昭和11)年3月5日のことであった。組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平がでたという。好ましからざる人物として指名されたのは吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)、小原直(法相)、下村海南、中島知久平である。吉田は欧米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を兼務し、小原、下村らも辞退、川崎を商工相に据えることになり3月9日、広田内閣が成立した。
就任後はニ・ニ六事件当時の陸軍次官、軍務局長、陸軍大学校長の退官・更迭、軍事参事官全員の辞職、寺内ら若手3人を除く陸軍大将の現役引退、計3千人に及ぶ人事異動、事件首謀者の将校15人の処刑など大規模な粛軍を寺内寿一に実行させた。しかし軍部大臣現役武官制を復活させ、軍備拡張予算を成立させるなど軍部の意見を広範に受け入れることとなる。
1937年(昭和12年)の今日・1月21日、着工から実に17年を経て昨年11月に完成した新議事堂(現・国会議事堂)で、第70通常国会が開催された。
この日午後におこなわれた衆議院では、立憲政友会の長老浜田国松が代表質問者として登場。五・一五事件以来の軍部の政治関与を厳しく批判した。これを聞いた寺内陸相は答弁に立って、「軍人に対して聊(いささ)か侮辱するかのようなごとき感じ」と応じたが、浜田は、「軍隊を侮辱した言葉があったら、割腹して君に謝する。なかったら君割腹せよ」と迫った。そして、政党と陸軍が正面衝突、寺内寿一陸相が広田に衆議院解散を要求、広田は議会を解散するつもりがなかったため閣内不統一を理由に内閣総辞職を行なった。
広田の後任として、元老・西園寺公望は、政党内閣の陸相を長く勤めた宇垣一成を次期首相に推薦した。しかし、宇垣の政治力を恐れた陸軍が軍部大臣現役武官制をたてに陸相を出すのを拒んだため、宇垣は組閣を断念。替わって元陸相林銑十郎に組閣大命が下り、2月2日に林内閣が成立した。林内閣は、政治綱領で、国体観念の明徴(めいちょう 。はっきりと証明すること)、敬神尊皇をうたい、「祭政一致」の神がかり内閣と呼ばれた。しかし、軍事費中心の予算を無修正で可決するなど、抵抗らしい抵抗もしなかったが、軍部や右翼の政党批判に推されて、林内閣は議会最終日の3月31日に抜き打ち解散をする。国民はあっけにとられて、「食い逃げ解散」と呼んだ。しかし、この解散はこれまでの政党にかわる親軍的政党を作り出そうとしたようだが、総選挙で未曾有の敗北を喫し、西園寺ら宮廷グループ、陸軍も林内閣を見放し、5月31日、僅か4ヶ月で林内閣は総辞職した。その後を受けて、6月4日、国内の「対立・相克」の緩和をはかるべく近衛第1次内閣が成立する。この時点では、総力戦体制を急速につくろうとする軍部、革新官僚、既成政党分派、その体勢の中で社会的格差の解消をはかろうとする無産政党一部の勢力と、経済統制(以下参考に記載の※統制経済参照)に反発する財界主流、既成政党の「自由主義」勢力と、それらと「強調」する一部の無産運動などが整理されないまま存在していた。しかし、近衛内閣成立1ヵ月後の7月7日に起きた盧溝橋事件は、総力戦体制を急速につくろうとする軍部などの方向を決定的なものにし、やがて、国を挙げての翼賛体制(大政翼賛会参照)の中に政党は消滅していった。日中戦争(支那事変、日華事変)が始まると近衛内閣は、9月11日、国民精神総動員大演説会を日比谷公会堂で開き「時局に慮する国民の覚悟」を呼びかけた。こうした動きに対して、政友会、民政党は内紛、党略などから反対運動を起こせず、社会大衆党も戦争協力の姿勢を明らかにするなど、時局への影響力を失っていた。(アサヒクロニクル「週間20世紀」)
何か、当時の政治でも、内紛や党略などによって、混迷した時局の政治的解決が出来ない状況を見ていると、もし今の日本の政治家などでは当時のような状況ではやはり何も出来なかった。いや、それ以上に、頼りにはならなかったのだろうな~。今の独断専横の自民党や体制にへばり付いている公明党、頼りにならない民主党、反対ばかりしている共産党など見ていると、これからの日本がどこへ行くのやら見当ももつかない感じがするね~。1人ぐらいは、私の言っていることが間違っていれば腹を切る。貴様が言っていることが間違っていれば腹を切れ」ぐらいいえる奴はいないだろうか。自分の言った事や約束事を出来なかったり非難されると、べそをかいたり、直ぐ方向転換したりしている頼りない政治家を見ていると本当に軽蔑したくなるよね。
(画像は、「割腹問答」時の険しい表情で浜田議員に反駁する寺内陸相、奥が広田総理。フリー百科事典Wikipediaより)
腹切り問答 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E5%88%87%E3%82%8A%E5%95%8F%E7%AD%94
国会議事堂 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E4%BA%8B%E5%A0%82
政党内閣 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E5%85%9A%E5%86%85%E9%96%A3
祭政一致 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%AD%E6%94%BF%E4%B8%80%E8%87%B4
総力戦研究所- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E5%8A%9B%E6%88%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80
総力戦体制 - naow
http://www.wikiroom.com/naow/?%C1%ED%CE%CF%C0%EF%C2%CE%C0%A9
(強まる戦時体制) 日中戦争の勃発と戦時体制(1937年のうごき )
http://www5b.biglobe.ne.jp/~leaper/senjitaisei.htm
腹切り問答とは、衆議院本会議中に立憲政友会の浜田国松代議士と寺内寿一陸相との間で起こったやりとりで、結果的に広田弘毅内閣の瓦解に繋がった事件で、割腹問答ともいう。
1881(明治14)年10月、「国会開設の詔」が発せられ、10年後の国会開設が約束され、その4年後に内閣制度が発足。帝国議会開設は1890(明治23)年と決定し、議事堂建設の取り組みが始まったが、計画は設計の段階から難航し、財政難を理由に当面は仮議事堂で急場をしのぎ、新議事堂建設計画などもあったが度重なる火災や震災などで建設は遅れ、やっと、新議事堂の完成も押し迫った1936(昭和11)年2月26日には、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げてニ・ニ六事件が発生、陸軍武装青年将校の一群が永田町一帯を占拠した。29日早朝に武力による鎮圧が決定されると、東京湾御台場沖には海軍の軍艦40隻が集結、永田町に艦砲射撃の照準を合わせて反乱軍を威嚇。反乱部隊は同日抵抗もせず帰順し、反乱は敢え無く失敗に終わった。そして、二・二六事件の責任をとり岡田啓介内閣が総辞職した。当時の総理大臣は最後の元老であった西園寺公望が天皇の御下問を受けて推薦していた。このとき西園寺はまず近衛文麿を推し、初めに近衛に組閣命令が下ったが、近衛は、病気を理由に辞退。そのため西園寺は岡田内閣の外相であった広田弘毅を候補に挙げ、天皇から広田に組閣大命が下ったのが1936(昭和11)年3月5日のことであった。組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平がでたという。好ましからざる人物として指名されたのは吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)、小原直(法相)、下村海南、中島知久平である。吉田は欧米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を兼務し、小原、下村らも辞退、川崎を商工相に据えることになり3月9日、広田内閣が成立した。
就任後はニ・ニ六事件当時の陸軍次官、軍務局長、陸軍大学校長の退官・更迭、軍事参事官全員の辞職、寺内ら若手3人を除く陸軍大将の現役引退、計3千人に及ぶ人事異動、事件首謀者の将校15人の処刑など大規模な粛軍を寺内寿一に実行させた。しかし軍部大臣現役武官制を復活させ、軍備拡張予算を成立させるなど軍部の意見を広範に受け入れることとなる。
1937年(昭和12年)の今日・1月21日、着工から実に17年を経て昨年11月に完成した新議事堂(現・国会議事堂)で、第70通常国会が開催された。
この日午後におこなわれた衆議院では、立憲政友会の長老浜田国松が代表質問者として登場。五・一五事件以来の軍部の政治関与を厳しく批判した。これを聞いた寺内陸相は答弁に立って、「軍人に対して聊(いささ)か侮辱するかのようなごとき感じ」と応じたが、浜田は、「軍隊を侮辱した言葉があったら、割腹して君に謝する。なかったら君割腹せよ」と迫った。そして、政党と陸軍が正面衝突、寺内寿一陸相が広田に衆議院解散を要求、広田は議会を解散するつもりがなかったため閣内不統一を理由に内閣総辞職を行なった。
広田の後任として、元老・西園寺公望は、政党内閣の陸相を長く勤めた宇垣一成を次期首相に推薦した。しかし、宇垣の政治力を恐れた陸軍が軍部大臣現役武官制をたてに陸相を出すのを拒んだため、宇垣は組閣を断念。替わって元陸相林銑十郎に組閣大命が下り、2月2日に林内閣が成立した。林内閣は、政治綱領で、国体観念の明徴(めいちょう 。はっきりと証明すること)、敬神尊皇をうたい、「祭政一致」の神がかり内閣と呼ばれた。しかし、軍事費中心の予算を無修正で可決するなど、抵抗らしい抵抗もしなかったが、軍部や右翼の政党批判に推されて、林内閣は議会最終日の3月31日に抜き打ち解散をする。国民はあっけにとられて、「食い逃げ解散」と呼んだ。しかし、この解散はこれまでの政党にかわる親軍的政党を作り出そうとしたようだが、総選挙で未曾有の敗北を喫し、西園寺ら宮廷グループ、陸軍も林内閣を見放し、5月31日、僅か4ヶ月で林内閣は総辞職した。その後を受けて、6月4日、国内の「対立・相克」の緩和をはかるべく近衛第1次内閣が成立する。この時点では、総力戦体制を急速につくろうとする軍部、革新官僚、既成政党分派、その体勢の中で社会的格差の解消をはかろうとする無産政党一部の勢力と、経済統制(以下参考に記載の※統制経済参照)に反発する財界主流、既成政党の「自由主義」勢力と、それらと「強調」する一部の無産運動などが整理されないまま存在していた。しかし、近衛内閣成立1ヵ月後の7月7日に起きた盧溝橋事件は、総力戦体制を急速につくろうとする軍部などの方向を決定的なものにし、やがて、国を挙げての翼賛体制(大政翼賛会参照)の中に政党は消滅していった。日中戦争(支那事変、日華事変)が始まると近衛内閣は、9月11日、国民精神総動員大演説会を日比谷公会堂で開き「時局に慮する国民の覚悟」を呼びかけた。こうした動きに対して、政友会、民政党は内紛、党略などから反対運動を起こせず、社会大衆党も戦争協力の姿勢を明らかにするなど、時局への影響力を失っていた。(アサヒクロニクル「週間20世紀」)
何か、当時の政治でも、内紛や党略などによって、混迷した時局の政治的解決が出来ない状況を見ていると、もし今の日本の政治家などでは当時のような状況ではやはり何も出来なかった。いや、それ以上に、頼りにはならなかったのだろうな~。今の独断専横の自民党や体制にへばり付いている公明党、頼りにならない民主党、反対ばかりしている共産党など見ていると、これからの日本がどこへ行くのやら見当ももつかない感じがするね~。1人ぐらいは、私の言っていることが間違っていれば腹を切る。貴様が言っていることが間違っていれば腹を切れ」ぐらいいえる奴はいないだろうか。自分の言った事や約束事を出来なかったり非難されると、べそをかいたり、直ぐ方向転換したりしている頼りない政治家を見ていると本当に軽蔑したくなるよね。
(画像は、「割腹問答」時の険しい表情で浜田議員に反駁する寺内陸相、奥が広田総理。フリー百科事典Wikipediaより)
腹切り問答 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E5%88%87%E3%82%8A%E5%95%8F%E7%AD%94
国会議事堂 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E4%BA%8B%E5%A0%82
政党内閣 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E5%85%9A%E5%86%85%E9%96%A3
祭政一致 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%AD%E6%94%BF%E4%B8%80%E8%87%B4
総力戦研究所- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E5%8A%9B%E6%88%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80
総力戦体制 - naow
http://www.wikiroom.com/naow/?%C1%ED%CE%CF%C0%EF%C2%CE%C0%A9
(強まる戦時体制) 日中戦争の勃発と戦時体制(1937年のうごき )
http://www5b.biglobe.ne.jp/~leaper/senjitaisei.htm