今日(1月24日)~1月30日は、「全国学校給食週間」
日本の学校給食の歴史は、1889(明治22)年に、山形県鶴岡町(現鶴岡市)の私立忠愛小学校においておにぎり・焼き魚・漬け物といった昼食を貧困児童に与えたのが初めての給食とされているようだ。その後、国の補助などを得て主に大都市を中心に全国的に学校給食が広がっていったが、このころの給食の目的は、虚弱児救済、就学奨励といった意味合いが強かった。しかし、1944(昭和19)年に戦争のため給食が中断された。
1945 (昭和20)年8月15日第二次世界大戦が事実上終戦。終戦後は物資・食料不足等により、日本中が飢えていた。とくに都市では食糧の配給がとどこうり、食べ物の恨みで歌舞伎俳優・12 代片岡仁左衛門一家5人が同居人に殺害される事件さえ起こる(以下参考に記載の片岡仁左衛門一家殺害事件参照)など、食糧危機は大きな政治問題になった。翌1946(昭和21)年も極端な物不足は変わらず、同年5月1日、1935(昭和10年)を最後に中断されていたメーデーが11年ぶり・戦後初めて、東京・皇居(宮城)前に50万人が集まって行われた。このメーデーでは、飯米獲得に絞った集会が計画され、それが同月19日の「飯米獲得人民大会」(食料メーデー)となり、皇居前に25万人が押し寄せることになった。この集会には、学校の教師に引率された小学生も多数参加し、給食復活などを訴えた。1945(昭和20)年10月大阪・鴻の池の主婦たちによって始まった「米よこせデモ」(以下参考に記載の「米よこせ風呂敷デモ」参照)に続くものである。この時のデモの様子は以下の歴史記録映像-昭和21年中期頃中の「米よこせデモ」を参照。
歴史記録映像-昭和21年中期頃
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/p-rek1/p-sho7/p-s50/IPA-rek650.htm
当時、厚生省(現厚生労働省)は全国の浮浪児4000人と推定したが、それは少なすぎる。同じ厚生省が後の1948(昭和23)年2月現在の戦災孤児が12万余と発表している。NHKの新番組「街頭録音」の主題は、「あなたはどうしてたべていますか」だった。浮浪児はかっぱらいなどでもしなければ食べて行けなかった。この頃のモノへのこだわりは特別であり、日本人のモノへの異常な執着心がこの後の日本人の精神をずっと支配することになったといえるかもしれない(アサヒクロニクル「週間20世紀」)。
本当に当時は戦争で親をなくした浮浪児が街に溢れていた。こんな浮浪児の事を思い起こしながらネットで、検索していたら、「浮浪児の歌」と言うのがあった。私は見ていないが、「ソビエト連邦には浮浪青少年があってはならぬ。彼等を青春溌刺たる且つ幸福なる市民たらしむべし」(レーニン)という主題を基にして作られたソ連邦最初の全発声芸術音画「人生案内」(1931年)の主題歌だそうである。その中にも、「盗みは悪い 分かっちゃいるが こんなヤクザな俺に 誰がしたのか」・・・と言うセリフが出てくる。戦後の日本の戦災孤児も生きてゆくためには、悪いと判っていても仕方なく盗むものもいたのである。マア、良い歌だからちょっと聴いてみたら。(映画の内容は、以下参考に記載のgoo-映画「人生案内」の解説を見られるとよい。
浮浪児の歌【Dm】映画「人生案内」主題歌
http://bunbun.boo.jp/okera/haho/furouji_uta.htm
このような、日本の子どもたちの悲惨な様子をみて、アメリカなどから「ララ(アジア救済公認団体)放出物資」という救援物資が送られてきた。主に脱脂粉乳や小麦粉といったもので、これらを使って戦時中から中断されていた学校給食が再会されることになり、先ず、同年12月24日、東京、神奈川、千葉の三都県の学校で全児童を対象に試験給食が行われた。
文部科学省では、これを記念して、この日は学校の冬休みと重なるため、1ヶ月遅らせて、毎年、冬休みと重ならない1月24日から1週間を全国学校給食週間としているようだ。週間中は、全国で学校給食の意義や役割について児童生徒や教職員、保護者、地域住民の理解と関心を深めるためのさまざまな行事が行われているのだそうだ。
私は、小学生1年の時に終戦を迎えた。戦時中は、地元神戸などは、空襲が激しく住んでいられなかったので先ず兵庫県内の高砂市にある父方の親戚に疎開し、そこで幼稚園に通っていたが、高砂も住んでいられなくなり、徳島県の母方の実家の方へ疎開し、そこで小学校に入学していた。学校へはゲートルを巻いてゆかねばならぬがそれが上手く巻けず、べそをかいていたことを思い出す。その田舎の学校での思い出としては、勉強のことよりも校庭で、いもほりのような畑仕事ばかりしていた記憶が強く残っている。疎開先の母の実家は地元でも特に大きな農家であり、お蔭で、疎開している間、私は、食料難の時代にもかかわらず食べ物に不自由をすることはなかった。しかし、終戦後直ぐに、父親だけが仕事のため残っていた神戸の家へ帰ってくると、疎開前の家は戦災で焼けたらしく別の場所で中古の家を買っていた。周りは、焼け野原なのに幸い部分火災で難をのがれ住んでいた人が大工の棟梁だったのでちゃんと補修してあった。そのうちを買い取ることが出来たらしい。しかし、食べる方には困った。父親も当時は商売で成功をしていたので金銭的に不自由していたわけではなかったが、食料などは配給制で、闇でなければ手に入らないし、その闇でもなかなか満足に手に入れれるものではなかった。転校した神戸の小学校も田舎と違って、戦火に合い、教室の窓ガラスも割れたままのみすぼらしい状態であった。
1947(昭和22)年1月、全国主要都市の児童約300万人に対し学校給食を開始した。アメリカから無償で与えられた脱脂粉乳での給食である。私も覚えているが、不味くて飲めたものではなかったが、それは、贅沢と言うもので、何でも食べれるだけでも幸せな子たちが殆どであったのである。同年4月から、新しい教育制度がスタートし、学校給食も始まった。それが米国産小麦粉から作るパンを主食とする完全給食になったのは、大都市では1950(昭和25)年からで、この給食はガリオア( GARIOA=Government Account for Relief In Occupied Areas)占領地救済資金、及びエロア (EROA=Economic Rehabilitation in Occupied Areas)占領地経済復興基金、からの援助による米国産の小麦の払い下げを受けて発足したものであるが、これは、翌1951(昭和26)年6月には打ち切られた。そのことから、国庫補助による学校給食の継続を要望する運動が全国で繰り広げられ、1952(昭和27)年から、小麦粉に対する半額国庫補助が開始されるようになり、4月から、全国すべての小学校を対象に完全給食が実施されるようになった。学校給食は、有料で給食費を払えず校庭で時間を潰す子もいたのである。
このガリオア基金などによる援助は、戦後の荒廃した日本の復興ににとって非常にありがたいものではあったが、ただ、この援助は、”米国における余剰農産物の処理から、本来占領地域に対する無償援助の「はず」であったものが、無償援助ではなく有償でもない、ただ資金を貸与されただけで、日本政府が騙されたのだ”という意見もある。本当かどうかの真実は知らないが、もし、ここに書いてある様なことが事実であれば、情けないことであるが、その後のアメリカのやっていることなどを見ていると、まんざらでもなさそうにも思う。興味のある人は、以下参考に記載の「食生活」の中に記されている「米国の食糧輸出戦略」のガリオア、エロア、ララ援助以降を読んで見られるとよい。
過去に遡って、アサヒクロニクル「週間20世紀」などを歴史書を読み直してみると、1953(昭和28)年のものの中に、「学校給食に『学校』格差」の記事があった。”父兄の負担が重くなる学校給食ーーとして、給食費未払いの学童は月ごとに増え、都内だけでも2万8000人に達している。来年度の学校給食の来年度政府補助は、ぐっと減って17億9000万円(昨年度24億2800万円)、学童1人当り2円20銭だが、物価高と補助費の減少は、「豊かな家庭をもつ学校」と、「貧しい家庭をもつ学校」との差をますますひどくしている。この当時で1食分の父兄負担の割合によって月の給食回数が4段階に分かれている”・・・・とあった。その中身にも差があったようだが、この時代なら確かに、まだまだ、貧しい家庭も多くあったよ・・・。
1954(昭和29)年、「学校給食法」が成立、公布され、法的に学校給食の実施体制が整えられた。そして、これまでと違い、食事についての正しい理解や望ましい習慣をはぐくむと同時に、学校生活を豊かにし、明るい社交性を養う・・・など、学校給食を教育の一環としてとらえていくことになった。そして、小学校の学習指導要領は1968(昭和43)年の改訂により、学校給食が「学級指導」の領域に位置付けられたそうだ。そして、学校給食が少しずつ、教育活動の一環としてかかわりをもつようになっていったという。又、1976(昭和51)年には「米飯給食(ごはんを主食にした給食)」が正式に位置づけられたようだ。
成長期の子どもたちには、昼の昼食も体をつくるための大事なものであり、その意味で、学校給食のあり方は大事な問題であると思うが、この給食費未払い問題が、最近マスコミを賑わしている。それも、昔のような貧困のためではなく、お金には困らない贅沢な暮らしをしている人などの未払いが多いと言う。以下参照。
学校給食ニュース: 学校給食の給食費問題(未納、督促、無料化など)
http://gakkyu-news.net/jp/010/013/post_206.html
上記を見ていると、北海道などでは少子化対策、人口減少に対抗するため学校給食費を無料化する自治体も出てきたという。贅沢をしながら我が子の給食費を支払わないなどといったことはとんでもないことであるが、今、日本の中では、地域間格差や貧富の格差なども広がっていると言われている。そして、少子化が進んでいることも大変な問題である。そのような中で、これからの日本を担ってゆかなければならない成長期の子供たちの”まともな食事”と言われるものは、どのようなものがよいのか、又、子供たちに”まともな食事”を供給するのに給食費の個人負担をどこまでするのがよいかなど・・・色々、戦後の時期とは違った面での考えていかなければいけない問題も増えてきているのだろうね~。
(画像は1947年1月10日、東京永田町国民学校での給食風景。朝日クロニクル「週間20世紀」より)
参考:
全国学校給食週間(文部科学省)
http://www.mext.go.jp/b_menu/gyouji/2004/04122201.htm
給食 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%B5%A6%E9%A3%9F
学校給食調査特別委員会報告書(鶴岡市藤島町議会)
http://homepage3.nifty.com/sizenrankato/sizenran/gakkoukyusyokuhoukoku.htm
学校給食米飯導入促進事業実施要領の制定について(文部科学省)
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19780620001/t19780620001.html
学校給食ニュース
http://gakkyu-news.net/jp/
学習指導要領 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%8C%87%E5%B0%8E%E8%A6%81%E9%A0%98
法政大学大原社研_主要食糧の配給と消費
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/rnsenji1-134.html
飯米獲得人民大会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%B1%B3%E7%8D%B2%E5%BE%97%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%A4%A7%E4%BC%9A
米よこせ風呂敷デモ
http://www.wcac.jp/f/f_01_2.html
片岡仁左衛門 (12代目)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%B2%A1%E4%BB%81%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80_%2812%E4%BB%A3%E7%9B%AE%29
片岡仁左衛門一家殺害事件
http://yabusaka.moo.jp/kataokaikka.htm
食生活
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-1.htm
columnI-9 日本の戦後復興
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hakusyo/04_hakusho/ODA2004/html/column/cl01009.htm人生案内 (1931年)- goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD15074/
浮浪児の歌【Dm】映画「人生案内」主題歌
http://bunbun.boo.jp/okera/haho/furouji_uta.htm
ウラジーミル・レーニン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3
学校給食の歴史・日本編
http://www.nikonet.or.jp/~kana55go/rekisi/nirekisi.html
各種統計情報(学校給食実施状況調査)-文部科学省
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/index24a.htm
学校給食ニュース: 学校給食の給食費問題(未納、督促、無料化など)
http://gakkyu-news.net/jp/010/013/post_206.html
日本の学校給食の歴史は、1889(明治22)年に、山形県鶴岡町(現鶴岡市)の私立忠愛小学校においておにぎり・焼き魚・漬け物といった昼食を貧困児童に与えたのが初めての給食とされているようだ。その後、国の補助などを得て主に大都市を中心に全国的に学校給食が広がっていったが、このころの給食の目的は、虚弱児救済、就学奨励といった意味合いが強かった。しかし、1944(昭和19)年に戦争のため給食が中断された。
1945 (昭和20)年8月15日第二次世界大戦が事実上終戦。終戦後は物資・食料不足等により、日本中が飢えていた。とくに都市では食糧の配給がとどこうり、食べ物の恨みで歌舞伎俳優・12 代片岡仁左衛門一家5人が同居人に殺害される事件さえ起こる(以下参考に記載の片岡仁左衛門一家殺害事件参照)など、食糧危機は大きな政治問題になった。翌1946(昭和21)年も極端な物不足は変わらず、同年5月1日、1935(昭和10年)を最後に中断されていたメーデーが11年ぶり・戦後初めて、東京・皇居(宮城)前に50万人が集まって行われた。このメーデーでは、飯米獲得に絞った集会が計画され、それが同月19日の「飯米獲得人民大会」(食料メーデー)となり、皇居前に25万人が押し寄せることになった。この集会には、学校の教師に引率された小学生も多数参加し、給食復活などを訴えた。1945(昭和20)年10月大阪・鴻の池の主婦たちによって始まった「米よこせデモ」(以下参考に記載の「米よこせ風呂敷デモ」参照)に続くものである。この時のデモの様子は以下の歴史記録映像-昭和21年中期頃中の「米よこせデモ」を参照。
歴史記録映像-昭和21年中期頃
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/p-rek1/p-sho7/p-s50/IPA-rek650.htm
当時、厚生省(現厚生労働省)は全国の浮浪児4000人と推定したが、それは少なすぎる。同じ厚生省が後の1948(昭和23)年2月現在の戦災孤児が12万余と発表している。NHKの新番組「街頭録音」の主題は、「あなたはどうしてたべていますか」だった。浮浪児はかっぱらいなどでもしなければ食べて行けなかった。この頃のモノへのこだわりは特別であり、日本人のモノへの異常な執着心がこの後の日本人の精神をずっと支配することになったといえるかもしれない(アサヒクロニクル「週間20世紀」)。
本当に当時は戦争で親をなくした浮浪児が街に溢れていた。こんな浮浪児の事を思い起こしながらネットで、検索していたら、「浮浪児の歌」と言うのがあった。私は見ていないが、「ソビエト連邦には浮浪青少年があってはならぬ。彼等を青春溌刺たる且つ幸福なる市民たらしむべし」(レーニン)という主題を基にして作られたソ連邦最初の全発声芸術音画「人生案内」(1931年)の主題歌だそうである。その中にも、「盗みは悪い 分かっちゃいるが こんなヤクザな俺に 誰がしたのか」・・・と言うセリフが出てくる。戦後の日本の戦災孤児も生きてゆくためには、悪いと判っていても仕方なく盗むものもいたのである。マア、良い歌だからちょっと聴いてみたら。(映画の内容は、以下参考に記載のgoo-映画「人生案内」の解説を見られるとよい。
浮浪児の歌【Dm】映画「人生案内」主題歌
http://bunbun.boo.jp/okera/haho/furouji_uta.htm
このような、日本の子どもたちの悲惨な様子をみて、アメリカなどから「ララ(アジア救済公認団体)放出物資」という救援物資が送られてきた。主に脱脂粉乳や小麦粉といったもので、これらを使って戦時中から中断されていた学校給食が再会されることになり、先ず、同年12月24日、東京、神奈川、千葉の三都県の学校で全児童を対象に試験給食が行われた。
文部科学省では、これを記念して、この日は学校の冬休みと重なるため、1ヶ月遅らせて、毎年、冬休みと重ならない1月24日から1週間を全国学校給食週間としているようだ。週間中は、全国で学校給食の意義や役割について児童生徒や教職員、保護者、地域住民の理解と関心を深めるためのさまざまな行事が行われているのだそうだ。
私は、小学生1年の時に終戦を迎えた。戦時中は、地元神戸などは、空襲が激しく住んでいられなかったので先ず兵庫県内の高砂市にある父方の親戚に疎開し、そこで幼稚園に通っていたが、高砂も住んでいられなくなり、徳島県の母方の実家の方へ疎開し、そこで小学校に入学していた。学校へはゲートルを巻いてゆかねばならぬがそれが上手く巻けず、べそをかいていたことを思い出す。その田舎の学校での思い出としては、勉強のことよりも校庭で、いもほりのような畑仕事ばかりしていた記憶が強く残っている。疎開先の母の実家は地元でも特に大きな農家であり、お蔭で、疎開している間、私は、食料難の時代にもかかわらず食べ物に不自由をすることはなかった。しかし、終戦後直ぐに、父親だけが仕事のため残っていた神戸の家へ帰ってくると、疎開前の家は戦災で焼けたらしく別の場所で中古の家を買っていた。周りは、焼け野原なのに幸い部分火災で難をのがれ住んでいた人が大工の棟梁だったのでちゃんと補修してあった。そのうちを買い取ることが出来たらしい。しかし、食べる方には困った。父親も当時は商売で成功をしていたので金銭的に不自由していたわけではなかったが、食料などは配給制で、闇でなければ手に入らないし、その闇でもなかなか満足に手に入れれるものではなかった。転校した神戸の小学校も田舎と違って、戦火に合い、教室の窓ガラスも割れたままのみすぼらしい状態であった。
1947(昭和22)年1月、全国主要都市の児童約300万人に対し学校給食を開始した。アメリカから無償で与えられた脱脂粉乳での給食である。私も覚えているが、不味くて飲めたものではなかったが、それは、贅沢と言うもので、何でも食べれるだけでも幸せな子たちが殆どであったのである。同年4月から、新しい教育制度がスタートし、学校給食も始まった。それが米国産小麦粉から作るパンを主食とする完全給食になったのは、大都市では1950(昭和25)年からで、この給食はガリオア( GARIOA=Government Account for Relief In Occupied Areas)占領地救済資金、及びエロア (EROA=Economic Rehabilitation in Occupied Areas)占領地経済復興基金、からの援助による米国産の小麦の払い下げを受けて発足したものであるが、これは、翌1951(昭和26)年6月には打ち切られた。そのことから、国庫補助による学校給食の継続を要望する運動が全国で繰り広げられ、1952(昭和27)年から、小麦粉に対する半額国庫補助が開始されるようになり、4月から、全国すべての小学校を対象に完全給食が実施されるようになった。学校給食は、有料で給食費を払えず校庭で時間を潰す子もいたのである。
このガリオア基金などによる援助は、戦後の荒廃した日本の復興ににとって非常にありがたいものではあったが、ただ、この援助は、”米国における余剰農産物の処理から、本来占領地域に対する無償援助の「はず」であったものが、無償援助ではなく有償でもない、ただ資金を貸与されただけで、日本政府が騙されたのだ”という意見もある。本当かどうかの真実は知らないが、もし、ここに書いてある様なことが事実であれば、情けないことであるが、その後のアメリカのやっていることなどを見ていると、まんざらでもなさそうにも思う。興味のある人は、以下参考に記載の「食生活」の中に記されている「米国の食糧輸出戦略」のガリオア、エロア、ララ援助以降を読んで見られるとよい。
過去に遡って、アサヒクロニクル「週間20世紀」などを歴史書を読み直してみると、1953(昭和28)年のものの中に、「学校給食に『学校』格差」の記事があった。”父兄の負担が重くなる学校給食ーーとして、給食費未払いの学童は月ごとに増え、都内だけでも2万8000人に達している。来年度の学校給食の来年度政府補助は、ぐっと減って17億9000万円(昨年度24億2800万円)、学童1人当り2円20銭だが、物価高と補助費の減少は、「豊かな家庭をもつ学校」と、「貧しい家庭をもつ学校」との差をますますひどくしている。この当時で1食分の父兄負担の割合によって月の給食回数が4段階に分かれている”・・・・とあった。その中身にも差があったようだが、この時代なら確かに、まだまだ、貧しい家庭も多くあったよ・・・。
1954(昭和29)年、「学校給食法」が成立、公布され、法的に学校給食の実施体制が整えられた。そして、これまでと違い、食事についての正しい理解や望ましい習慣をはぐくむと同時に、学校生活を豊かにし、明るい社交性を養う・・・など、学校給食を教育の一環としてとらえていくことになった。そして、小学校の学習指導要領は1968(昭和43)年の改訂により、学校給食が「学級指導」の領域に位置付けられたそうだ。そして、学校給食が少しずつ、教育活動の一環としてかかわりをもつようになっていったという。又、1976(昭和51)年には「米飯給食(ごはんを主食にした給食)」が正式に位置づけられたようだ。
成長期の子どもたちには、昼の昼食も体をつくるための大事なものであり、その意味で、学校給食のあり方は大事な問題であると思うが、この給食費未払い問題が、最近マスコミを賑わしている。それも、昔のような貧困のためではなく、お金には困らない贅沢な暮らしをしている人などの未払いが多いと言う。以下参照。
学校給食ニュース: 学校給食の給食費問題(未納、督促、無料化など)
http://gakkyu-news.net/jp/010/013/post_206.html
上記を見ていると、北海道などでは少子化対策、人口減少に対抗するため学校給食費を無料化する自治体も出てきたという。贅沢をしながら我が子の給食費を支払わないなどといったことはとんでもないことであるが、今、日本の中では、地域間格差や貧富の格差なども広がっていると言われている。そして、少子化が進んでいることも大変な問題である。そのような中で、これからの日本を担ってゆかなければならない成長期の子供たちの”まともな食事”と言われるものは、どのようなものがよいのか、又、子供たちに”まともな食事”を供給するのに給食費の個人負担をどこまでするのがよいかなど・・・色々、戦後の時期とは違った面での考えていかなければいけない問題も増えてきているのだろうね~。
(画像は1947年1月10日、東京永田町国民学校での給食風景。朝日クロニクル「週間20世紀」より)
参考:
全国学校給食週間(文部科学省)
http://www.mext.go.jp/b_menu/gyouji/2004/04122201.htm
給食 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%B5%A6%E9%A3%9F
学校給食調査特別委員会報告書(鶴岡市藤島町議会)
http://homepage3.nifty.com/sizenrankato/sizenran/gakkoukyusyokuhoukoku.htm
学校給食米飯導入促進事業実施要領の制定について(文部科学省)
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19780620001/t19780620001.html
学校給食ニュース
http://gakkyu-news.net/jp/
学習指導要領 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%8C%87%E5%B0%8E%E8%A6%81%E9%A0%98
法政大学大原社研_主要食糧の配給と消費
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/rnsenji1-134.html
飯米獲得人民大会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%B1%B3%E7%8D%B2%E5%BE%97%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%A4%A7%E4%BC%9A
米よこせ風呂敷デモ
http://www.wcac.jp/f/f_01_2.html
片岡仁左衛門 (12代目)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%B2%A1%E4%BB%81%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80_%2812%E4%BB%A3%E7%9B%AE%29
片岡仁左衛門一家殺害事件
http://yabusaka.moo.jp/kataokaikka.htm
食生活
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-1.htm
columnI-9 日本の戦後復興
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hakusyo/04_hakusho/ODA2004/html/column/cl01009.htm人生案内 (1931年)- goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD15074/
浮浪児の歌【Dm】映画「人生案内」主題歌
http://bunbun.boo.jp/okera/haho/furouji_uta.htm
ウラジーミル・レーニン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3
学校給食の歴史・日本編
http://www.nikonet.or.jp/~kana55go/rekisi/nirekisi.html
各種統計情報(学校給食実施状況調査)-文部科学省
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/index24a.htm
学校給食ニュース: 学校給食の給食費問題(未納、督促、無料化など)
http://gakkyu-news.net/jp/010/013/post_206.html