1875年(明治8)年5月7日、日露が「樺太・千島交換条約」に調印。北方領土問題が解決した日なのだが・・・。
江戸幕府にとって代った明治新政府は、版籍奉還(明治2年)、廃藩置県(明治4年)の1連の過程を通じて国家統一にこぎつけ、いよいよその基礎固めの段階に入ったところで、1873(明治6)年の対朝鮮(当時は李氏朝鮮)問題をめぐる政府首脳の軋轢から思いもかけず突発した政変「明治6年政変」によって、明治維新を推進した政治勢力に大分裂が生じた。その結果、藩閥政府対自由民権運動・士族反乱の対抗関係が作り出され、政治に複雑な様相が持ち込まれることになった。
熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱などの士族の反乱は、西郷隆盛をも巻き添えにして翌年、西南戦争)引き起こしてゆくがす、これらの乱を押さえ、この難関を乗り切り政府の支配体制はやっと固まった。一方、民権派の方は、以降、武力反抗に代えて、合法的言論闘争に新たな活路を見出していった。
内政面の大揺れを見せたこの時期、日本の外交も又、また、多事多難であり、黒船の圧力に耐えうる民族自立をめざして、世界の荒波に船出した日本にとって、特に、日本の国家主権の及ぶ範囲、つまり、国境の確定は、死活の問題であり、千島列島・樺太をめぐるロシアとの紛争、及び、琉球の帰属をめぐる清国との争いは、急いでの解決を迫られている問題であったが、そこに、新しく、隣国朝鮮との修好問題も加わっていた(日朝修好条規参照)。
これら、国境問題は、新興国家のナショナリズムを極度に刺戟する性質があり、しばしば、国内紛争に連携する危険性がある。現に、樺太問題は、「明治6年政変」において、西郷使節潰しの口実に利用されたし、同政変の善後策として敢行された台湾出兵は、琉球帰属問題と深く関係していた。ともあれ、日本政府は、1875年(明治8)年の「樺太・千島交換条約」締結と、1879(明治12)年の琉球廃藩・沖縄県設置(琉球処分参照)によって、この難問を辛うじて乗り切り、近代国家の脇組みを作るのに成功したのである(週刊朝日百科「野本の歴史」)。
他の国境問題はここでは触れないが、「樺太・千島交換条約」は、1875(明治8)年5月7日に、日本とロシア帝国との間で国境を確定するために結ばれた条約である。署名した場所からとってサンクトペテルブルグ条約と呼ばれることもある。
18世紀から19世紀への変わり目に、ロシアの使節ラクスマンやレザノフ(以下参考に記載の「近世の海外関係史【船舶を中心とする事件・人物編】」参照)が相次いで渡来してきて鎖国日本を脅かした事件以来、渡島半島を除く現在の北海道を中心に、樺太(サハリン)と千島列島を含む「蝦夷地」は、北門の急として、知識人の危機感を刺戟し続けた(当時、蝦夷地は「皇国の北門」と呼ばれた。皇国=天皇が統治する国)。
明治前期、ロシアとの間に生じた領土問題では中でも焦点となったのは樺太(1809年~1869年まで、樺太は北蝦夷地と呼ばれていた)であった。
幕府が1855(安政元)年にロシアとの間で結んだ日露和親条約(日露通好条約、下田条約とも呼ばれる)では、千島列島(クリル列島)の択捉島(エトロフ島)と得撫島(ウルップ島)との間に境界を定め、エトロフ島から南を日本領、ウルップ島から北をロシア領と定めたが、樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされた。
1856(安政2)年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。(冒頭の画像左千島列島とその周辺図、左:北方四島図など参考。千島列島図はここで拡大図が見れる。)
1862(文久2)年、遣欧使節竹内下野守保徳による交渉、1866(慶応2)年に箱館奉行から外国奉行に転じた小出大和守秀美の1867(慶応3)年のロシア派遣でも樺太国境画定は不調に終り、樺太は是迄通りとされた(日露間樺太島仮規則参照)
結局その解決は明治政府に持ち越され、明治新政府は、成立早々の1868(慶応3=明治元)年3月、王政復古の大号令で、新たに設置された最高首脳の3職(総裁・議定・参与)会議で蝦夷地の対策を議論。そして、4月蝦夷地を治める役所として、函館裁判所が五稜郭に置かれ、直ぐに函館府と改められるが、この五稜郭が、旧幕府の海軍副総裁である榎本武揚に占領され、「蝦夷共和国」を樹立して総裁に納まるという事態が起るが、翌・1869(明治2)年、政府が制圧(箱館戦争参照)。この時、死を覚悟した榎本がオランダ留学から持ち帰った秘蔵の『万国海律全書』を政府軍の参謀黒田清隆に贈り、黒田の助命奔走により自決を果たせないまま捕虜となるが、これを契機に、黒田と榎本が北方領土問題解決の立役者となる。
榎本が黒田に託した『海律全書』には、平和時又戦時に、国家は他国に対して、どのような権利・義務を持つのかが記されているそうで、オランダ留学中に、例え戦争に勝利したとしても、国際的に定められた共通のルールを遵守しなければ、その勝利は認められないという国際法の存在をこの書で知ることになったが、長く鎖国政策を執っていた当時の日本はそのような国際法の存在など知る由もなかった。
この年8月、蝦夷地は北海道と改称され、開拓使の出張所が函館に置かれる(本庁は東京)。また、翌・1870(明治3)年3月には開拓使とは別に樺太開拓使が置かれるが、1年半ほどで両開拓使は統合される。黒田は、この開拓次官を経て開拓使の最高責任者となる。
世界中でロシアと張り合っていたイギリスの駐日公使ハーグは、ロシアの日本近辺への南下を懸念し、黒田に、日本は日露両国が雑居している樺太からは手を引き、北海道経営に全力を注ぐよう勧める。黒田もその方が良いと樺太放棄を政府に建議していたが、政府の方は、北緯50度での樺太島上分割を望んでいたが、樺太を流刑地に利用していたロシア側は島上分割には応じなかった。ロシア側とこの交渉をしていた副島種臣や西郷隆盛らが「明治6年政変」で下野すると、残った岩倉具視や大久保利通らは、西郷使節朝鮮派遣案を阻止するため、樺太問題解決を先に解決することを主張。そして、黒田が推した榎本が特命全権公使に任じられる。
そして、太政大臣三条実美から示された樺太全島をロシアに譲る代わりに千島列島(クリル諸島)を受け取るという方針に従いロシア側と交渉。
1875年(明治8)年の今日・5月7日、ペテルブルグにて、榎本武揚公使・ゴルチャコフ外相間で、日露間の「樺太・千島交換条約」が調印された。この条約により、以後、樺太(サハリン)をロシア領に、千島列島全島が日本領となった。この条約により、幕末以来の日露両国間の領土問題が確定したのだが・・・。
第2次世界大戦後、北方四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島。冒頭に掲載の右図参照)が現在に至るまで、ソ連・ロシア連邦に占領・実効支配されるという北方領土問題が起り、日本が固有の領土としてその返還を求めているのはご存知の通りであるが、この問題については、以下参考に記載の北方領土問題対策協会ホームページ等を見られると良い。
(画像は、左:千島列島と周辺の地形図。右:北方4島。A.歯舞群島(歯舞諸島)、B.色丹島、C.国後島、D.択捉島。1.色丹村、2.泊村、3.留夜別村、4.留別村、5.紗那村、6.蘂取村。Wikipediaより。)
参考:
明治維新- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0
樺太・千島交換条約 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E3%83%BB%E5%8D%83%E5%B3%B6%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E6%9D%A1%E7%B4%84
北方資料高精細画像電子展示 |「北大附属図書館」
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/detail/
近世の海外関係史【船舶を中心とする事件・人物編】
http://www2.ttcn.ne.jp/~sokei/nihonshi_yoten/1202_1.html
神戸大学 電子図書館システム「皇謨と開拓 (上・下)」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00482147&TYPE=HTML_FILE&POS=1
北方領土は4島に非ず22島なり!
http://homepage3.nifty.com/mizunashi/hoppou/outset.html
樺太交換始末記
http://www1.tcn-catv.ne.jp/ikenobunko/karahuto.htm
筑波大学付属図書館:古絵図資料一覧
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/kaken/kaken16-map/index.html
北方領土問題対策協会ホームページ
http://www.hoppou.go.jp/
北方領土問題
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm
北緯50度へサハリン鉄道周遊の旅<前編>
http://dvor.jp/photo3.htm
江戸幕府にとって代った明治新政府は、版籍奉還(明治2年)、廃藩置県(明治4年)の1連の過程を通じて国家統一にこぎつけ、いよいよその基礎固めの段階に入ったところで、1873(明治6)年の対朝鮮(当時は李氏朝鮮)問題をめぐる政府首脳の軋轢から思いもかけず突発した政変「明治6年政変」によって、明治維新を推進した政治勢力に大分裂が生じた。その結果、藩閥政府対自由民権運動・士族反乱の対抗関係が作り出され、政治に複雑な様相が持ち込まれることになった。
熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱などの士族の反乱は、西郷隆盛をも巻き添えにして翌年、西南戦争)引き起こしてゆくがす、これらの乱を押さえ、この難関を乗り切り政府の支配体制はやっと固まった。一方、民権派の方は、以降、武力反抗に代えて、合法的言論闘争に新たな活路を見出していった。
内政面の大揺れを見せたこの時期、日本の外交も又、また、多事多難であり、黒船の圧力に耐えうる民族自立をめざして、世界の荒波に船出した日本にとって、特に、日本の国家主権の及ぶ範囲、つまり、国境の確定は、死活の問題であり、千島列島・樺太をめぐるロシアとの紛争、及び、琉球の帰属をめぐる清国との争いは、急いでの解決を迫られている問題であったが、そこに、新しく、隣国朝鮮との修好問題も加わっていた(日朝修好条規参照)。
これら、国境問題は、新興国家のナショナリズムを極度に刺戟する性質があり、しばしば、国内紛争に連携する危険性がある。現に、樺太問題は、「明治6年政変」において、西郷使節潰しの口実に利用されたし、同政変の善後策として敢行された台湾出兵は、琉球帰属問題と深く関係していた。ともあれ、日本政府は、1875年(明治8)年の「樺太・千島交換条約」締結と、1879(明治12)年の琉球廃藩・沖縄県設置(琉球処分参照)によって、この難問を辛うじて乗り切り、近代国家の脇組みを作るのに成功したのである(週刊朝日百科「野本の歴史」)。
他の国境問題はここでは触れないが、「樺太・千島交換条約」は、1875(明治8)年5月7日に、日本とロシア帝国との間で国境を確定するために結ばれた条約である。署名した場所からとってサンクトペテルブルグ条約と呼ばれることもある。
18世紀から19世紀への変わり目に、ロシアの使節ラクスマンやレザノフ(以下参考に記載の「近世の海外関係史【船舶を中心とする事件・人物編】」参照)が相次いで渡来してきて鎖国日本を脅かした事件以来、渡島半島を除く現在の北海道を中心に、樺太(サハリン)と千島列島を含む「蝦夷地」は、北門の急として、知識人の危機感を刺戟し続けた(当時、蝦夷地は「皇国の北門」と呼ばれた。皇国=天皇が統治する国)。
明治前期、ロシアとの間に生じた領土問題では中でも焦点となったのは樺太(1809年~1869年まで、樺太は北蝦夷地と呼ばれていた)であった。
幕府が1855(安政元)年にロシアとの間で結んだ日露和親条約(日露通好条約、下田条約とも呼ばれる)では、千島列島(クリル列島)の択捉島(エトロフ島)と得撫島(ウルップ島)との間に境界を定め、エトロフ島から南を日本領、ウルップ島から北をロシア領と定めたが、樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされた。
1856(安政2)年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。(冒頭の画像左千島列島とその周辺図、左:北方四島図など参考。千島列島図はここで拡大図が見れる。)
1862(文久2)年、遣欧使節竹内下野守保徳による交渉、1866(慶応2)年に箱館奉行から外国奉行に転じた小出大和守秀美の1867(慶応3)年のロシア派遣でも樺太国境画定は不調に終り、樺太は是迄通りとされた(日露間樺太島仮規則参照)
結局その解決は明治政府に持ち越され、明治新政府は、成立早々の1868(慶応3=明治元)年3月、王政復古の大号令で、新たに設置された最高首脳の3職(総裁・議定・参与)会議で蝦夷地の対策を議論。そして、4月蝦夷地を治める役所として、函館裁判所が五稜郭に置かれ、直ぐに函館府と改められるが、この五稜郭が、旧幕府の海軍副総裁である榎本武揚に占領され、「蝦夷共和国」を樹立して総裁に納まるという事態が起るが、翌・1869(明治2)年、政府が制圧(箱館戦争参照)。この時、死を覚悟した榎本がオランダ留学から持ち帰った秘蔵の『万国海律全書』を政府軍の参謀黒田清隆に贈り、黒田の助命奔走により自決を果たせないまま捕虜となるが、これを契機に、黒田と榎本が北方領土問題解決の立役者となる。
榎本が黒田に託した『海律全書』には、平和時又戦時に、国家は他国に対して、どのような権利・義務を持つのかが記されているそうで、オランダ留学中に、例え戦争に勝利したとしても、国際的に定められた共通のルールを遵守しなければ、その勝利は認められないという国際法の存在をこの書で知ることになったが、長く鎖国政策を執っていた当時の日本はそのような国際法の存在など知る由もなかった。
この年8月、蝦夷地は北海道と改称され、開拓使の出張所が函館に置かれる(本庁は東京)。また、翌・1870(明治3)年3月には開拓使とは別に樺太開拓使が置かれるが、1年半ほどで両開拓使は統合される。黒田は、この開拓次官を経て開拓使の最高責任者となる。
世界中でロシアと張り合っていたイギリスの駐日公使ハーグは、ロシアの日本近辺への南下を懸念し、黒田に、日本は日露両国が雑居している樺太からは手を引き、北海道経営に全力を注ぐよう勧める。黒田もその方が良いと樺太放棄を政府に建議していたが、政府の方は、北緯50度での樺太島上分割を望んでいたが、樺太を流刑地に利用していたロシア側は島上分割には応じなかった。ロシア側とこの交渉をしていた副島種臣や西郷隆盛らが「明治6年政変」で下野すると、残った岩倉具視や大久保利通らは、西郷使節朝鮮派遣案を阻止するため、樺太問題解決を先に解決することを主張。そして、黒田が推した榎本が特命全権公使に任じられる。
そして、太政大臣三条実美から示された樺太全島をロシアに譲る代わりに千島列島(クリル諸島)を受け取るという方針に従いロシア側と交渉。
1875年(明治8)年の今日・5月7日、ペテルブルグにて、榎本武揚公使・ゴルチャコフ外相間で、日露間の「樺太・千島交換条約」が調印された。この条約により、以後、樺太(サハリン)をロシア領に、千島列島全島が日本領となった。この条約により、幕末以来の日露両国間の領土問題が確定したのだが・・・。
第2次世界大戦後、北方四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島。冒頭に掲載の右図参照)が現在に至るまで、ソ連・ロシア連邦に占領・実効支配されるという北方領土問題が起り、日本が固有の領土としてその返還を求めているのはご存知の通りであるが、この問題については、以下参考に記載の北方領土問題対策協会ホームページ等を見られると良い。
(画像は、左:千島列島と周辺の地形図。右:北方4島。A.歯舞群島(歯舞諸島)、B.色丹島、C.国後島、D.択捉島。1.色丹村、2.泊村、3.留夜別村、4.留別村、5.紗那村、6.蘂取村。Wikipediaより。)
参考:
明治維新- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0
樺太・千島交換条約 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E3%83%BB%E5%8D%83%E5%B3%B6%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E6%9D%A1%E7%B4%84
北方資料高精細画像電子展示 |「北大附属図書館」
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/detail/
近世の海外関係史【船舶を中心とする事件・人物編】
http://www2.ttcn.ne.jp/~sokei/nihonshi_yoten/1202_1.html
神戸大学 電子図書館システム「皇謨と開拓 (上・下)」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00482147&TYPE=HTML_FILE&POS=1
北方領土は4島に非ず22島なり!
http://homepage3.nifty.com/mizunashi/hoppou/outset.html
樺太交換始末記
http://www1.tcn-catv.ne.jp/ikenobunko/karahuto.htm
筑波大学付属図書館:古絵図資料一覧
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/kaken/kaken16-map/index.html
北方領土問題対策協会ホームページ
http://www.hoppou.go.jp/
北方領土問題
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm
北緯50度へサハリン鉄道周遊の旅<前編>
http://dvor.jp/photo3.htm