慶長20年5月8日(1615年6月4日)は、秀吉の側室・淀殿が秀頼と共に自刃した日とされている。
男達が覇を争い女はそれに翻弄されるしかなかった戦国乱世。織田信長の姪として生まれ、豊臣秀吉の側室となり、徳川家康と天下を賭けて戦った女・茶々・・・・。井上靖が1961(昭和36)年、野間文芸賞を受賞した『淀殿日記』(角川文庫)を基に、主演の茶々を演じるのは、元宝塚宙組のトップスター和央ようかで、彼女の映画初出演、初主演作品である2007年12月22日公開映画「茶々-天涯の貴妃(おんな)-」(以下参考に記載のgoo-映画参照)のチラシより。映画で、主役の和央は宝塚での男役時代に培った凛とした風格で、女帝茶々を見事に演じ上げているという・・・が。
「淀殿(淀君とも呼ばれる)」は、本名は 浅井茶々(お茶ともいう)。
永禄10年(1567年)頃、信長の命により近江(現在の滋賀県)の戦国大名・浅井長政と政略結婚させられた信長の妹お市(信長の姪との説もあるようだが・・)と長政との間に出来た「浅井三姉妹」の長女である。
次女の初(常高院)は、室町時代に守護大名、四職の一つとして繁栄した近江源氏の流れをくむ京極家当主京極高次の正室となり、三女の江(崇源院。小督もしくは江与とも)は、最初の婚姻相手は秀吉の命により母の姉(織田信長妹犬)の子・佐治一成へ嫁ぐが、のちに離縁させられる。2度目の婚姻相手は秀吉の養子(甥=秀吉の姉日秀の子)・豊臣秀勝、のち死別し、3度目は江戸幕府二代将軍徳川秀忠に再々嫁し、秀忠の正室となった。
また、子には棄(鶴松、夭折)と拾(秀頼)が、猶女には完子(秀勝と江の子)がいる。
お市の結婚により、織田家と浅井家は同盟を結ぶが、元亀元年(1570年)、信長が浅井氏と関係の深い越前(福井県)の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶。しかし、長政と市の夫婦関係は周りが羨むほど仲睦まじかったという。
朝倉義景が姉川の戦いで敗北した後、天正元年(1573年)に、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の手により、小谷城が陥落し、市(小谷の方とも呼ばれた)の夫・長政、長政の父・久政も自害した。この時、母市27歳と、3人の娘(茶々7歳、お初5歳、お江・3歳)はともに織田家に引き取られるが、長男の万福丸は捕われて処刑(享年10歳とされる)され、次男のまだ生後3ヶ月程の赤児だったという万寿丸は出家させられた(※その後、豊後細川藩を頼り子孫は杵築藩松平氏に召抱えられ、以後代々杵築藩士として続いたとも・・以下参考に記載の「除籍謄本を超えた家系図の作り方・調べ方: 浅井長政の子孫」参照)。
茶々ら三姉妹は母市とともに伯父の信長、信包の庇護を受け、過ごした9年余りは、平穏に、そして、たいへん厚遇されたという。
しかし、信長が天正10年(1582年)本能寺の変で没後、茶々ら姉妹は、織田氏家臣・柴田勝家に再婚した母・市に従い越前の国北庄城に入るが、信長の死後、秀吉と養父・勝家が対立。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れると、母・市は勝家とともに自害。このとき、城から脱出してきていた茶々ら三姉妹は父母と兄、そして義父をも殺した仇敵・秀吉に保護されることになるが、ここから、三姉妹の数奇な運命が始まるのである。
秀吉は茶々の母・市に思慕の情を抱いていたというが、やがて19歳となり、母親に似て匂うような美女に成長した茶々に目をつけ、末娘・小督(江)を佐治与九郎(一成)に、次妹のお初を京極高次に嫁がせて、茶々の元から離し、その後、茶々を聚楽第に召し出すと、強引に側室にしてしまった。こうして、憎んでも余りある仇敵の側室として、生きなければならなくなったのが茶々22歳のときである。
しかし、茶々が懐妊し、これを喜んだ秀吉から山城の淀城を与えられ入場。このことから淀殿・淀君として知られるようになった。但し、現在最も一般的に用いられる淀殿や淀君の名は、同時代の史料には一切見られず、いずれも江戸時代以降の呼び名のようである。又、茶々のいた淀城は今の淀城跡ではなく、ここより北(納所北城堀付近)にあり、伏見城の造営によって、文禄3年(1594年)廃城となったいわゆる「淀古城」である。
茶々は、天正17年(1589年)、淀城で鶴松(拾)を儲けたが、3歳で早世。そのため、秀吉の姉・日秀の子羽柴秀次が秀吉の養子となるが後に茶々が秀頼を産んだことから羽柴秀次と軋轢が生じることになる。
秀吉は、その後、小田原の役で後北条氏を下し天下を統一、戦国の世を終わらせたが、文禄元年(1592年)、明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥として16万の軍勢を朝鮮に出兵。(朝鮮の役。詳細は文禄・慶長の役#文禄の役を参照)。
この年、淀は、大坂城で二ノ丸に移り「二の丸殿」と呼ばれる。翌年、大坂城にて秀吉待望の嫡男・秀頼を儲けると、秀次との対立が深刻となり、後に謀反の容疑で秀頼は秀吉により切腹を命じられている。
慶長2年(1597年)には伏見城に上り「西の丸」と称されていたが、このころ、茶々は秀吉の正室寧(高台院、北政所)とほぼ同格に扱われていた。同3年(1598年)秀吉が没すると、大坂城へと入り、幼君・秀頼の「御母堂」として、秀吉の遺志を継ぐことになる。
慶長5年(1600年)に五奉行の石田三成が五大老となった徳川家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いに際しては表だって関与はしていないが、豊臣家の直轄領は大幅に削減される。関ヶ原の戦いの後に江戸に武家政権を構築しはじめた家康と対立し、臣従を求める秀頼の上洛要求などを拒否。慶長19年(1614年。一般に冬の陣と呼ばれる)・慶長20年(1615年。一般に大阪夏の陣と呼ばれる)の大坂の役で徳川勢に完敗し、大坂城落城に際して秀頼や大野治長らと共に自害したとされている。しかし茶々の最期を目撃した者がおらず、また遺体も確認されなかったため、秀頼と同様に彼女にも逃亡・生存説があるようだが、真偽については未だにはっきりしていないという。
ただ、大阪市北区太融寺町にある太融寺HPには、“大阪城落城によって秀頼と共に自刃して果てた淀殿の遺骨は、大阪城外鵙?野?(鴫野=しぎののことらしい)、弁天島に一祠を作って埋められた。これが淀姫神社である。明治10年11月、城東練兵場(現大阪城公園)造成に当り移祀されることとなり、豊臣に縁の深い当寺に埋め九輪の塔(現在戦災に依り六輪)を建て境内西北隅に祀った。”。とあるが・・・。
井上靖の小説『淀殿日記』は、とかく晩年の秀吉を巧みに操った女性として描かれることの多い茶々を、戦国時代に生きた一人の女性として描いていることが特徴であり、茶々の背後から描写した世界が綴られている。
浅井三姉妹の中で、秀吉がぞっこん惚れていた市と一番似ていた美貌の娘が茶々であり、だからこそ彼女の仇敵でありながらも秀吉が強引に側室にしたと言われるが、冒頭の映画のチラシを見ても分かるように、それを演じる平べったい顔の和央からは、そのような茶々の感じは・・・。
映画「茶々」では、元宝塚トップスター和央のキャラクターにあわせたのか、原作とは全く違う世界観が展開されているようで、チラシにもあるように、戦国時代に天下の徳川家康相手に「女は、負ける戦いをしてはならぬもの」と、清く、強く、美しい男役として、大阪の陣では武者姿になり単騎がけまでするのは宝塚時代の和央ファンへのサービスというものだろうか・・・。ただ、私のイメージの茶々とは大分違うのだが・・・。
女性が「政治の道具」として、また、権力を持つ男の欲望を満たすためにしか遇されなかった不幸な時代に生きた気の毒な女性・・・を思うと、現代の女性は、本当に強く逞しくなったよな~。
(画像はコレクションの映画「茶々 -天涯の貴妃(おんな)-」チラシ)
参考:
淀殿 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%AE%BF
茶々 -天涯の貴妃(おんな)- - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD11900/
近江の城郭:京都府の城郭:淀城と淀殿と淀川と淀駅
http://acta.jugem.jp/?eid=269
除籍謄本を超えた家系図の作り方・調べ方: 浅井長政の子孫
http://kakeizukoubou.seesaa.net/article/26537834.html
淀城 ザ・登城
http://woodone3831.web.infoseek.co.jp/kinki/c-1-3-6-2-siro-YODO.html
都名所図絵データーベース(国際日本文化研究センター)
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html
太融寺 HomePage
http://www.evam.ne.jp/taiyuji/
淀殿
http://www2.ttcn.ne.jp/~tot23/page022.html
淀どの日記 井上 靖
http://homepage1.nifty.com/Woodnote/books/literature/yododono.htm
映画公式サイト『茶々-天涯の貴妃(おんな)-』
http://chacha-movie.jp/
男達が覇を争い女はそれに翻弄されるしかなかった戦国乱世。織田信長の姪として生まれ、豊臣秀吉の側室となり、徳川家康と天下を賭けて戦った女・茶々・・・・。井上靖が1961(昭和36)年、野間文芸賞を受賞した『淀殿日記』(角川文庫)を基に、主演の茶々を演じるのは、元宝塚宙組のトップスター和央ようかで、彼女の映画初出演、初主演作品である2007年12月22日公開映画「茶々-天涯の貴妃(おんな)-」(以下参考に記載のgoo-映画参照)のチラシより。映画で、主役の和央は宝塚での男役時代に培った凛とした風格で、女帝茶々を見事に演じ上げているという・・・が。
「淀殿(淀君とも呼ばれる)」は、本名は 浅井茶々(お茶ともいう)。
永禄10年(1567年)頃、信長の命により近江(現在の滋賀県)の戦国大名・浅井長政と政略結婚させられた信長の妹お市(信長の姪との説もあるようだが・・)と長政との間に出来た「浅井三姉妹」の長女である。
次女の初(常高院)は、室町時代に守護大名、四職の一つとして繁栄した近江源氏の流れをくむ京極家当主京極高次の正室となり、三女の江(崇源院。小督もしくは江与とも)は、最初の婚姻相手は秀吉の命により母の姉(織田信長妹犬)の子・佐治一成へ嫁ぐが、のちに離縁させられる。2度目の婚姻相手は秀吉の養子(甥=秀吉の姉日秀の子)・豊臣秀勝、のち死別し、3度目は江戸幕府二代将軍徳川秀忠に再々嫁し、秀忠の正室となった。
また、子には棄(鶴松、夭折)と拾(秀頼)が、猶女には完子(秀勝と江の子)がいる。
お市の結婚により、織田家と浅井家は同盟を結ぶが、元亀元年(1570年)、信長が浅井氏と関係の深い越前(福井県)の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶。しかし、長政と市の夫婦関係は周りが羨むほど仲睦まじかったという。
朝倉義景が姉川の戦いで敗北した後、天正元年(1573年)に、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の手により、小谷城が陥落し、市(小谷の方とも呼ばれた)の夫・長政、長政の父・久政も自害した。この時、母市27歳と、3人の娘(茶々7歳、お初5歳、お江・3歳)はともに織田家に引き取られるが、長男の万福丸は捕われて処刑(享年10歳とされる)され、次男のまだ生後3ヶ月程の赤児だったという万寿丸は出家させられた(※その後、豊後細川藩を頼り子孫は杵築藩松平氏に召抱えられ、以後代々杵築藩士として続いたとも・・以下参考に記載の「除籍謄本を超えた家系図の作り方・調べ方: 浅井長政の子孫」参照)。
茶々ら三姉妹は母市とともに伯父の信長、信包の庇護を受け、過ごした9年余りは、平穏に、そして、たいへん厚遇されたという。
しかし、信長が天正10年(1582年)本能寺の変で没後、茶々ら姉妹は、織田氏家臣・柴田勝家に再婚した母・市に従い越前の国北庄城に入るが、信長の死後、秀吉と養父・勝家が対立。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れると、母・市は勝家とともに自害。このとき、城から脱出してきていた茶々ら三姉妹は父母と兄、そして義父をも殺した仇敵・秀吉に保護されることになるが、ここから、三姉妹の数奇な運命が始まるのである。
秀吉は茶々の母・市に思慕の情を抱いていたというが、やがて19歳となり、母親に似て匂うような美女に成長した茶々に目をつけ、末娘・小督(江)を佐治与九郎(一成)に、次妹のお初を京極高次に嫁がせて、茶々の元から離し、その後、茶々を聚楽第に召し出すと、強引に側室にしてしまった。こうして、憎んでも余りある仇敵の側室として、生きなければならなくなったのが茶々22歳のときである。
しかし、茶々が懐妊し、これを喜んだ秀吉から山城の淀城を与えられ入場。このことから淀殿・淀君として知られるようになった。但し、現在最も一般的に用いられる淀殿や淀君の名は、同時代の史料には一切見られず、いずれも江戸時代以降の呼び名のようである。又、茶々のいた淀城は今の淀城跡ではなく、ここより北(納所北城堀付近)にあり、伏見城の造営によって、文禄3年(1594年)廃城となったいわゆる「淀古城」である。
茶々は、天正17年(1589年)、淀城で鶴松(拾)を儲けたが、3歳で早世。そのため、秀吉の姉・日秀の子羽柴秀次が秀吉の養子となるが後に茶々が秀頼を産んだことから羽柴秀次と軋轢が生じることになる。
秀吉は、その後、小田原の役で後北条氏を下し天下を統一、戦国の世を終わらせたが、文禄元年(1592年)、明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥として16万の軍勢を朝鮮に出兵。(朝鮮の役。詳細は文禄・慶長の役#文禄の役を参照)。
この年、淀は、大坂城で二ノ丸に移り「二の丸殿」と呼ばれる。翌年、大坂城にて秀吉待望の嫡男・秀頼を儲けると、秀次との対立が深刻となり、後に謀反の容疑で秀頼は秀吉により切腹を命じられている。
慶長2年(1597年)には伏見城に上り「西の丸」と称されていたが、このころ、茶々は秀吉の正室寧(高台院、北政所)とほぼ同格に扱われていた。同3年(1598年)秀吉が没すると、大坂城へと入り、幼君・秀頼の「御母堂」として、秀吉の遺志を継ぐことになる。
慶長5年(1600年)に五奉行の石田三成が五大老となった徳川家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いに際しては表だって関与はしていないが、豊臣家の直轄領は大幅に削減される。関ヶ原の戦いの後に江戸に武家政権を構築しはじめた家康と対立し、臣従を求める秀頼の上洛要求などを拒否。慶長19年(1614年。一般に冬の陣と呼ばれる)・慶長20年(1615年。一般に大阪夏の陣と呼ばれる)の大坂の役で徳川勢に完敗し、大坂城落城に際して秀頼や大野治長らと共に自害したとされている。しかし茶々の最期を目撃した者がおらず、また遺体も確認されなかったため、秀頼と同様に彼女にも逃亡・生存説があるようだが、真偽については未だにはっきりしていないという。
ただ、大阪市北区太融寺町にある太融寺HPには、“大阪城落城によって秀頼と共に自刃して果てた淀殿の遺骨は、大阪城外鵙?野?(鴫野=しぎののことらしい)、弁天島に一祠を作って埋められた。これが淀姫神社である。明治10年11月、城東練兵場(現大阪城公園)造成に当り移祀されることとなり、豊臣に縁の深い当寺に埋め九輪の塔(現在戦災に依り六輪)を建て境内西北隅に祀った。”。とあるが・・・。
井上靖の小説『淀殿日記』は、とかく晩年の秀吉を巧みに操った女性として描かれることの多い茶々を、戦国時代に生きた一人の女性として描いていることが特徴であり、茶々の背後から描写した世界が綴られている。
浅井三姉妹の中で、秀吉がぞっこん惚れていた市と一番似ていた美貌の娘が茶々であり、だからこそ彼女の仇敵でありながらも秀吉が強引に側室にしたと言われるが、冒頭の映画のチラシを見ても分かるように、それを演じる平べったい顔の和央からは、そのような茶々の感じは・・・。
映画「茶々」では、元宝塚トップスター和央のキャラクターにあわせたのか、原作とは全く違う世界観が展開されているようで、チラシにもあるように、戦国時代に天下の徳川家康相手に「女は、負ける戦いをしてはならぬもの」と、清く、強く、美しい男役として、大阪の陣では武者姿になり単騎がけまでするのは宝塚時代の和央ファンへのサービスというものだろうか・・・。ただ、私のイメージの茶々とは大分違うのだが・・・。
女性が「政治の道具」として、また、権力を持つ男の欲望を満たすためにしか遇されなかった不幸な時代に生きた気の毒な女性・・・を思うと、現代の女性は、本当に強く逞しくなったよな~。
(画像はコレクションの映画「茶々 -天涯の貴妃(おんな)-」チラシ)
参考:
淀殿 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%AE%BF
茶々 -天涯の貴妃(おんな)- - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD11900/
近江の城郭:京都府の城郭:淀城と淀殿と淀川と淀駅
http://acta.jugem.jp/?eid=269
除籍謄本を超えた家系図の作り方・調べ方: 浅井長政の子孫
http://kakeizukoubou.seesaa.net/article/26537834.html
淀城 ザ・登城
http://woodone3831.web.infoseek.co.jp/kinki/c-1-3-6-2-siro-YODO.html
都名所図絵データーベース(国際日本文化研究センター)
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html
太融寺 HomePage
http://www.evam.ne.jp/taiyuji/
淀殿
http://www2.ttcn.ne.jp/~tot23/page022.html
淀どの日記 井上 靖
http://homepage1.nifty.com/Woodnote/books/literature/yododono.htm
映画公式サイト『茶々-天涯の貴妃(おんな)-』
http://chacha-movie.jp/