毎月17日は、「いなりの日」だそうだ。
日本の食文化の中で多くの人に親しまれているいなり寿司。そのいなり寿司を食べる機会を増やすきっかけを作ろうと、いなり寿司の材料を製造販売している株式会社みすずコーポレーションが制定したそうで、日付は「いなりのい~な」で毎月17日にしたのだとか。
いなり寿司に関する最古の史料としては、江戸時代末期に書かれた『守貞謾稿』があり、「天保(1830年~1844年)末年、江戸にて油揚げ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸(きのこ)干瓢(かんぴょう)を刻み交へたる飯を納て鮨として売巡る。(中略)なづけて稲荷鮨、或は篠田鮨といい、ともに狐に因(ちなみ)ある名にて、野干(狐の異称)は油揚げを好む者故に名とす。最も賤価鮨なり。尾(尾張国)の名古屋等、従来これあり。江戸も天保前より店売りにはこれあるか。」と記載されているようだ( Wikipedia。以下参考に記載の「寿司の歴史」も参照)。
江戸開府によって全国各藩の大名が屋敷を構え、その家臣、所要を担う商工業者、奉公人、賃職人などが移り住み、さらに、関東近郷からは冬の農閑期を利用した出稼ぎ人が大勢入ってきたため、江戸時代になると、こうした不特定多数の人々を対象に食事を供する様々な食べ物屋が出現するが、先ず天秤棒をかついで売り歩く振売が出現した。その後、当時の江戸の大半を焼失した明暦の大火(1657年【明暦3年】。振袖火事ともいう)が発生し、この復旧工事に、各地から集まった職人や労働者を相手に茶飯や煮豆などを食べさせる店が次々できたが、こうした食べ物屋は、当初、道端で立ったまま食べる屋台から小屋掛けの茶店、そして、一膳飯屋などへと発展していった。
私の蔵書、NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第1巻生活編の中に、江戸の外食について、そのころの食べ物屋の風景画が色々掲載されているが、その中に、このブログ冒頭に掲載の「稲荷鮨」をうる店(屋台)の画像があり、これには以下の補足があった。
“天明の大飢饉(1782年-1788年【天明2年-8年】)の折、油揚げの中に飯のかわりに「おから」をつめて屋台で売ったのがはじまりと伝えられており、魚を使っていないから、極めて安く人気を呼んだ。江戸では、多くの場末の鮨屋で売られていた。”・・と。
天保年間(1830年から1843年)末期には今日のような油揚げにキノコや干瓢を刻んでいれた稲荷すしを江戸で売る者がいたようだが、名古屋でも、江戸でもその前から売る者がいたとある。蔵書のヴィジュアル百科『江戸事情』に書かれているように、天命の大飢饉の頃に飯のかわりに油揚げに「おから」をつめたものを売るようになったのが、「いなりずし」の始まりであるとあるが、それだからと言って、江戸が先か名古屋が先かは定かには出来ない。私は、仕事で、よく愛知県の豊川市へ行ったが、ここには日本三大稲荷の1つとされている豊川稲荷がある。仕事先の近いところにあり、そこの責任者から豊川稲荷の門前町が「いなりずしの発祥の地」だと、昼食時にその元祖を名乗る店に数回食べに連れて行って貰った。ここはここで、元祖を主張しているのである。
「いなりずし」の “いなり”には“稲荷”の漢字をあて、稲荷寿司又、稲荷鮨とも書くが、関西、少なくとも私の住んでいる神戸などでは、“いなり”のことを“きつね”、その寿司は「きつね寿司」うどんなら「きつねうどん」などと言っているが、この油揚げを「いなり」と呼ぶか「きつね」と呼ぶか、その呼称も、どうも名古屋辺りを境にして違っているようだ。又、いなり寿司の形についても、正方形の薄揚げを斜めに切るか、長方形の薄揚げを横に切るかの違いがあるようで、関東では四角、関西では三角が多いようだ。冒頭の屋台で売っている画像の寿司は長方形で長い型をしている。
「いなりずし」の名前の由来は、お稲荷さんと関係があるようだが、本来、稲荷神は狐ではなく、日本における神の1つである。京の“東山三十六峰”の、最南端に位置する霊峰(以下参考に記載の「※霊峰とは」参照)稲荷山の西麓にある伏見稲荷大社は、日本各所にある神道上の稲荷神社の総本社とされており、元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神であり、同社は、稲荷山全体を神域としている。この稲荷神社の楼門の前に、ちょうど狛犬のように鎮座するキツネは、稲荷神の使女(つかわしめ)である。
伏見稲荷大社の起源については「山城国風土記」の逸文には、伊奈利社(稲荷社)の縁起として秦氏の遠祖伊呂具秦公(いろこのはたのきみ)の的にして射た餅が白鳥と化して飛び翔けり、その留まった山の峰に『稲』が生じた奇瑞によって、稲生り(いねなり)が転じてイナリとなり「稲荷」の字が宛てられ社名になったとあるなど、諸説あるようだが、稲荷神は、農耕神として崇められているが、後に、弘法大師が紀州田辺で出会ったという稲を担った老翁(これが稲荷神)が東寺の鎮守神として稲荷社に祀られるが、それが東寺での真言宗による病気平癒・国家安穏等の加持祈祷などが、霊狐信仰と結びつき、これが俗信により、稲荷神と狐の同化へと進み、いなり神の神使である狐の好物が油揚げであるという言い伝えから、江戸時代には油揚げに飯をつめた寿司が稲荷寿司へと繋がっていったのであろうと考えられている。稲荷信仰のことについて詳しくは、以下参考に記載の「稲荷信仰」「稲荷信仰について」「第2節 稲荷信仰の展開」など参照されると良い。
江戸時代・天明期を代表する狂歌師太田南畝(別号:蜀山人)が、蜀山百首(以下参考に記載の「狂歌のすすめ」参照)の中で以下の狂歌を詠んでいる。
「一つとり、二つとりては焼いて食い うずら無くなる深草の里」
これは、藤原俊成の千載和歌集の以下の本歌を取り、パロディとしたもの。
「夕されば野辺の秋風身にしみて 鶉(うずら)鳴くなり深草の里」(千載259)
稲荷山から深草のこのあたりは、野鳥が多くいたらしく、多くの歌が詠まれている(以下参考に記載の「藤原俊成 千人万首」参照)。そのようなことから、この辺りでは、野鳥多く食べられ「すずめ焼」や「うずら焼」など野鳥の背を開いて照り焼きにしたものが名物となってはいるが、「稲荷すし」は、特に名物とはなっていないようだ。
先に書いた豊橋稲荷は、稲荷神社と同じく日本三大稲荷の1つとされているが、「稲荷」とは称しているが神社ではなく寺院であり、正式の寺号は「妙厳寺」。本尊は千手観音で、「稲荷」は鎮守神として祀られる荼吉尼天(だきにてん)だそうであり、信仰対象は稲荷である部分もあるものの、伏見稲荷とは同一ではなく、別格本山を名乗っている。また、俗説では、平八狐を祀っているともいわれているが・・・。
キツネ(狐)は古来より日本人にとって神聖視されてきたようで、景行天皇42年(112年)、既に日本書紀に日本武尊命を助ける白狐が登場している(但し白犬説もある)という。
しかし、「稲荷」の総本山では、厚揚げが単に、稲荷神の使者である白狐さんの好物であるだけで、「稲荷ずし」がこの地域の特別な名物でもないのに、他の稲荷社が伏見稲荷にあやかって、「稲荷ずし」を名物にしたというのは面白いね~。
(画像は、稲荷鮨『晴風翁物売物貰尽』都立中央図書館蔵。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科「江戸事情」第1巻生活編。より)
参考:
株式会社みすずコーポレーション
http://www.misuzu-co.co.jp/
稲荷寿司 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%AF%BF%E5%8F%B8
振売 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%AF%E5%A3%B2
寿司の歴史
http://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/s-15-13.html
明暦の大火– Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%9A%A6%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB
天明の大飢饉 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89※霊峰とは
http://kotobank.jp/word/%E9%9C%8A%E5%B3%B0
稲荷信仰
http://inari.jp/b_shinko/b01a.html#top
稲荷信仰について
http://www.fuchu.or.jp/~kanamori/inarisinkou.htm
第2節 稲荷信仰の展開
http://www.tamariver.net/04siraberu/tama_tosyo/tamagawashi/parts/text/071210.htm
伏見稲荷 | 写真の中の明治・大正 - 国立国会図書館所蔵写真帳から
http://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/column/fushimi_inari.html
狂歌のすすめ
http://www7b.biglobe.ne.jp/~nishiou/hyoron/1/kyouka.htm
大田南畝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8D%97%E7%95%9D
藤原俊成 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%8A%E6%88%90
藤原俊成 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html
和歌 秋(2)/かたつむり行進曲
http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/waka/aki20.htm
狂歌百人一首(蜀山人)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kyouka100i.html
落語の舞台を歩く:第116話「助六伝」
http://ginjo.fc2web.com/116sukerokuden/sukerokuden.htm
歌舞伎への誘い | 『助六由縁江戸桜』
http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/5/5_04_23.html
日本の食文化の中で多くの人に親しまれているいなり寿司。そのいなり寿司を食べる機会を増やすきっかけを作ろうと、いなり寿司の材料を製造販売している株式会社みすずコーポレーションが制定したそうで、日付は「いなりのい~な」で毎月17日にしたのだとか。
いなり寿司に関する最古の史料としては、江戸時代末期に書かれた『守貞謾稿』があり、「天保(1830年~1844年)末年、江戸にて油揚げ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸(きのこ)干瓢(かんぴょう)を刻み交へたる飯を納て鮨として売巡る。(中略)なづけて稲荷鮨、或は篠田鮨といい、ともに狐に因(ちなみ)ある名にて、野干(狐の異称)は油揚げを好む者故に名とす。最も賤価鮨なり。尾(尾張国)の名古屋等、従来これあり。江戸も天保前より店売りにはこれあるか。」と記載されているようだ( Wikipedia。以下参考に記載の「寿司の歴史」も参照)。
江戸開府によって全国各藩の大名が屋敷を構え、その家臣、所要を担う商工業者、奉公人、賃職人などが移り住み、さらに、関東近郷からは冬の農閑期を利用した出稼ぎ人が大勢入ってきたため、江戸時代になると、こうした不特定多数の人々を対象に食事を供する様々な食べ物屋が出現するが、先ず天秤棒をかついで売り歩く振売が出現した。その後、当時の江戸の大半を焼失した明暦の大火(1657年【明暦3年】。振袖火事ともいう)が発生し、この復旧工事に、各地から集まった職人や労働者を相手に茶飯や煮豆などを食べさせる店が次々できたが、こうした食べ物屋は、当初、道端で立ったまま食べる屋台から小屋掛けの茶店、そして、一膳飯屋などへと発展していった。
私の蔵書、NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第1巻生活編の中に、江戸の外食について、そのころの食べ物屋の風景画が色々掲載されているが、その中に、このブログ冒頭に掲載の「稲荷鮨」をうる店(屋台)の画像があり、これには以下の補足があった。
“天明の大飢饉(1782年-1788年【天明2年-8年】)の折、油揚げの中に飯のかわりに「おから」をつめて屋台で売ったのがはじまりと伝えられており、魚を使っていないから、極めて安く人気を呼んだ。江戸では、多くの場末の鮨屋で売られていた。”・・と。
天保年間(1830年から1843年)末期には今日のような油揚げにキノコや干瓢を刻んでいれた稲荷すしを江戸で売る者がいたようだが、名古屋でも、江戸でもその前から売る者がいたとある。蔵書のヴィジュアル百科『江戸事情』に書かれているように、天命の大飢饉の頃に飯のかわりに油揚げに「おから」をつめたものを売るようになったのが、「いなりずし」の始まりであるとあるが、それだからと言って、江戸が先か名古屋が先かは定かには出来ない。私は、仕事で、よく愛知県の豊川市へ行ったが、ここには日本三大稲荷の1つとされている豊川稲荷がある。仕事先の近いところにあり、そこの責任者から豊川稲荷の門前町が「いなりずしの発祥の地」だと、昼食時にその元祖を名乗る店に数回食べに連れて行って貰った。ここはここで、元祖を主張しているのである。
「いなりずし」の “いなり”には“稲荷”の漢字をあて、稲荷寿司又、稲荷鮨とも書くが、関西、少なくとも私の住んでいる神戸などでは、“いなり”のことを“きつね”、その寿司は「きつね寿司」うどんなら「きつねうどん」などと言っているが、この油揚げを「いなり」と呼ぶか「きつね」と呼ぶか、その呼称も、どうも名古屋辺りを境にして違っているようだ。又、いなり寿司の形についても、正方形の薄揚げを斜めに切るか、長方形の薄揚げを横に切るかの違いがあるようで、関東では四角、関西では三角が多いようだ。冒頭の屋台で売っている画像の寿司は長方形で長い型をしている。
「いなりずし」の名前の由来は、お稲荷さんと関係があるようだが、本来、稲荷神は狐ではなく、日本における神の1つである。京の“東山三十六峰”の、最南端に位置する霊峰(以下参考に記載の「※霊峰とは」参照)稲荷山の西麓にある伏見稲荷大社は、日本各所にある神道上の稲荷神社の総本社とされており、元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神であり、同社は、稲荷山全体を神域としている。この稲荷神社の楼門の前に、ちょうど狛犬のように鎮座するキツネは、稲荷神の使女(つかわしめ)である。
伏見稲荷大社の起源については「山城国風土記」の逸文には、伊奈利社(稲荷社)の縁起として秦氏の遠祖伊呂具秦公(いろこのはたのきみ)の的にして射た餅が白鳥と化して飛び翔けり、その留まった山の峰に『稲』が生じた奇瑞によって、稲生り(いねなり)が転じてイナリとなり「稲荷」の字が宛てられ社名になったとあるなど、諸説あるようだが、稲荷神は、農耕神として崇められているが、後に、弘法大師が紀州田辺で出会ったという稲を担った老翁(これが稲荷神)が東寺の鎮守神として稲荷社に祀られるが、それが東寺での真言宗による病気平癒・国家安穏等の加持祈祷などが、霊狐信仰と結びつき、これが俗信により、稲荷神と狐の同化へと進み、いなり神の神使である狐の好物が油揚げであるという言い伝えから、江戸時代には油揚げに飯をつめた寿司が稲荷寿司へと繋がっていったのであろうと考えられている。稲荷信仰のことについて詳しくは、以下参考に記載の「稲荷信仰」「稲荷信仰について」「第2節 稲荷信仰の展開」など参照されると良い。
江戸時代・天明期を代表する狂歌師太田南畝(別号:蜀山人)が、蜀山百首(以下参考に記載の「狂歌のすすめ」参照)の中で以下の狂歌を詠んでいる。
「一つとり、二つとりては焼いて食い うずら無くなる深草の里」
これは、藤原俊成の千載和歌集の以下の本歌を取り、パロディとしたもの。
「夕されば野辺の秋風身にしみて 鶉(うずら)鳴くなり深草の里」(千載259)
稲荷山から深草のこのあたりは、野鳥が多くいたらしく、多くの歌が詠まれている(以下参考に記載の「藤原俊成 千人万首」参照)。そのようなことから、この辺りでは、野鳥多く食べられ「すずめ焼」や「うずら焼」など野鳥の背を開いて照り焼きにしたものが名物となってはいるが、「稲荷すし」は、特に名物とはなっていないようだ。
先に書いた豊橋稲荷は、稲荷神社と同じく日本三大稲荷の1つとされているが、「稲荷」とは称しているが神社ではなく寺院であり、正式の寺号は「妙厳寺」。本尊は千手観音で、「稲荷」は鎮守神として祀られる荼吉尼天(だきにてん)だそうであり、信仰対象は稲荷である部分もあるものの、伏見稲荷とは同一ではなく、別格本山を名乗っている。また、俗説では、平八狐を祀っているともいわれているが・・・。
キツネ(狐)は古来より日本人にとって神聖視されてきたようで、景行天皇42年(112年)、既に日本書紀に日本武尊命を助ける白狐が登場している(但し白犬説もある)という。
しかし、「稲荷」の総本山では、厚揚げが単に、稲荷神の使者である白狐さんの好物であるだけで、「稲荷ずし」がこの地域の特別な名物でもないのに、他の稲荷社が伏見稲荷にあやかって、「稲荷ずし」を名物にしたというのは面白いね~。
(画像は、稲荷鮨『晴風翁物売物貰尽』都立中央図書館蔵。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科「江戸事情」第1巻生活編。より)
参考:
株式会社みすずコーポレーション
http://www.misuzu-co.co.jp/
稲荷寿司 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%AF%BF%E5%8F%B8
振売 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%AF%E5%A3%B2
寿司の歴史
http://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/s-15-13.html
明暦の大火– Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%9A%A6%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB
天明の大飢饉 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89※霊峰とは
http://kotobank.jp/word/%E9%9C%8A%E5%B3%B0
稲荷信仰
http://inari.jp/b_shinko/b01a.html#top
稲荷信仰について
http://www.fuchu.or.jp/~kanamori/inarisinkou.htm
第2節 稲荷信仰の展開
http://www.tamariver.net/04siraberu/tama_tosyo/tamagawashi/parts/text/071210.htm
伏見稲荷 | 写真の中の明治・大正 - 国立国会図書館所蔵写真帳から
http://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/column/fushimi_inari.html
狂歌のすすめ
http://www7b.biglobe.ne.jp/~nishiou/hyoron/1/kyouka.htm
大田南畝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8D%97%E7%95%9D
藤原俊成 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%8A%E6%88%90
藤原俊成 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html
和歌 秋(2)/かたつむり行進曲
http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/waka/aki20.htm
狂歌百人一首(蜀山人)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kyouka100i.html
落語の舞台を歩く:第116話「助六伝」
http://ginjo.fc2web.com/116sukerokuden/sukerokuden.htm
歌舞伎への誘い | 『助六由縁江戸桜』
http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/5/5_04_23.html