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画家・詩人・竹久夢二の忌日

2009-09-01 | 人物
1934(昭和9)年の今日・9月1日は、画家・詩人・竹久夢二の忌日である。
竹久夢二(本名は、竹久 茂次郎)と言えば、愁いを含む数多くの美人画を残しており、その作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正ロマンを代表する画家であり、明治の末頃から子供のための挿絵を描いていた。夢二の残した著作57冊のうち、約半数が子供向けのものだったといわれ、それほどに、夢二にとって子供は大切な受け手であり、また、表現の対象だった。1922(大正11)年、夢二38歳の時に創刊され、絵画主任に岡本帰一、顧問に北原白秋野口雨情中山晋平らを迎え良質の童画、童話、童謡を提供し続けた雑誌「コドモノクニ」の新年号を飾ったのは夢二の作品であり、童画家達の先駆ともなった。また、文筆の分野でも詩、歌謡、童話なども作っている。冒頭掲載の画像、向かって左上は、「コドモノクニ」1922年5月号掲載「はるのかね」詩・画とも夢二のものである。
詩では宵待草」がよく知られている。

まてどくらせどこぬひとを

宵待草(よひまちぐさ)のやるせなさ

こよひは月もでぬさうな。

この詩は、1913 (大正2)年、夢二29歳の時に発表した処女出版詩集『どんたく』(以下参考に記載の※1:作家別作品リスト:竹久 夢二『どんたく』参照)中の一節に三行詩で発表されたものであるが、作者がはじめに"
「こはわが少年の日のいとしき小唄なり」。当作品は、少年時代にあった風景や人々や事物を扱ったと思われる「絵入小唄集」である。だが、七五調に似たリズムで続いていくそれぞれの小唄を読む内に、いつしか読者はそれぞれの少年少女時代のことを重ねて思うだろう。又、一つ一つの小唄を民話のように読む読者も出て来るであろう。”と記している。この宵待草の詩は、1917(大正6)年、夢二33歳のときに、宮内省雅楽部の ヴァイオリニストの多 忠亮が曲をつけ芸術座音楽会にて発表され、翌、1918(大正7)年、セノオ音楽出版社から『宵待草』(セノオ楽譜)が刊行された。このセノオ音楽出版社から刊行されたセノオ楽譜の表紙装丁を夢二は1916(大正)5年、32歳のときからはじめ、手がけた数は270点余に及んだという。そして、それぞれの表紙のイメージに添うよう表現も工夫されていたようだ。この 夢二作詩『宵待草』もこの時代のヒット曲であった。冒頭に掲載の画像右がセノオ楽譜に描かれた夢二の『宵待草』である。抒情的な中に悲しさと美しさが見事に混じりあった絵である。また、この歌を聞いて、なにか感じることはないですか?
この短い歌詞は先に述べた処女出版詩集『どんたく』の中に掲載されているものであるが、歌をきいていると、「子供には伺い知ることができない大人の世界、「童謡」というよりは、むしろ「叙情歌」といった方がよいだろう。因みに、この曲は、1938(昭和13)年に、松竹が同名で映画化した。その映画は見ていないので、内容はよく知らないが、歌を歌っているのは高峰三枝子。彼女は、この曲で、歌う女性スター歌手第1号となった。素晴らしい歌なので、先ずは、この曲を聴いてみてください。
YouTube - 宵待草 高峰三枝子
http://www.youtube.com/watch?v=s4bKswislMg
もともと、歌曲として作られていたものが大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。この曲の1番は、夢二自身の詩であるが、2番の歌詞は、西条八十が後に付け加えたものだそうだ。
「宵待草」という花は無いことから、夢二は、本来、植物学的には「マツヨイグサ(待宵草)」が正しいものを語感的に「宵待草」と呼んだのだろうといわれている。ツキミソウ(月見草)」などと同種の、群生して可憐な花(待宵草は黄色、月見草は白~ピンク)をつける植物のことである。夕刻に開花して夜の間咲き続け、翌朝には萎んでしまうこの花のはかなさが、一夜の恋を象徴するかのようだ。歌の主人公は、月の出をただひたすら待って咲くしかない花のように、望 みかなわぬと知りながら、ただひたすら来ぬ人のを来訪を首を長くして待ち続けている・・・そんな女性の、やるせない思い、侘しい姿を現しているのだろうが、いかにも "大正ロマン" というか "大正センチメンタリズム" を感じさせる歌である。尚、同じセノオ楽譜の表紙であっても版により「待宵草」「宵待草」の異なる2種類の表記があり、また、夢二自身の自筆記録(大正9年・日本近代文学館蔵・紙に墨書)においては「待宵草」となっているそうだ(Wikipedia)。
夢二は、1884(明治17)年9月16日、岡山県邑久(おく)郡本庄村(現、瀬戸内市邑久町)の酒屋に生まれた。子供の頃より絵に魅かれた夢二は、神戸の叔父宅に寄宿し、兵庫県神戸尋常中学校(後の神戸一中、現在の兵庫県立神戸高等学校)に入学し、エキゾチシズム(異国情緒。異国趣味。)の洗礼をうける。しかし、父の事業の都合により九州・福岡に移住するが、画家を志望する夢二は家出をし、上京。早稲田実業学校に入学した。しかし、洋画の研究所に通うばかりで、美術学校での正規の画家としての教育は受けることなく、雑誌コマ絵を投稿することから、画家としての道をスタートした。
夢二が生きたのは明治から大正・昭和のかけての49年間であった。日清日露戦争大逆事件大正デモクラシー関東大震災、そして、満州事変まで日本は激しく動く世情の中にいた。
当時、ナショナリズムを高揚させた日露戦争に対し、『萬朝報』(よろずちょうほう)を発行していた朝報社は、最初は非戦論を唱えていたものの、世間の流れが開戦に傾くにつれ主戦論に転じたことから、非戦論の主張を貫くために幸徳秋水堺利彦内村鑑三らが退社。内村はキリスト教者となり、幸徳、堺らは「平民社」をつくって「週刊平民新聞」を発刊し世に訴えていた。そして廃刊の憂き目にあうと「直言」「光」「日刊平民新聞」などが後を継いだ。
この「平民社」に出入りしていた荒畑寒村らと共に下宿しているうちに社会主義の影響を受け、早稲田実業在学中の1905(明治38)年、21歳の時、荒畑らの薦めで平民社発行の「直言」にコマ絵を寄稿したものが掲載され、これが、最初に印刷に附された夢二の絵であった。
今年・2009(平成21)年5月19日、朝日新聞夕刊「ニッポン・人・脈・記」に「夢二 コマ絵に刻む反戦」の記事があった。この中で、竹久夢二美術館学芸員が書いていたが、美術館所蔵の明治の新聞「直言」の合本の中にある、1905(明治38)年6月の紙面のコマ絵、今で言う政治漫画は、白衣の骸骨と泣いている丸髷の女が寄り添う姿であるという。「日露戦争の勝利の悲哀を描いており、夢二が描いた最初の政治風刺だろうといわれている」そうだ。 
夢二はこれらに結構コマ絵を寄稿しており、それは、結構どぎつい絵だそうで、冒頭に掲載の画像左下のコマ絵もその1つである。この絵は、先頭は凱旋の楽隊でも続くのは負傷兵、悲しむ女、交尾にいるのは得意顔の村長だそうだ。彼の寄稿したコマ絵は女性や子供たちへの同情にみちていたという。当時、夢二が、反戦主義者としてそのような絵も描いていたのは私も知らなかった。
夢二はその後、新聞や諸雑誌に挿絵を掲載するようになり、同年、雑誌『中学世界』にコマ絵「筒井筒」が一等入選し、初めて世に名を現し、ペンネーム「夢二」を名乗るようになった。(筒井筒の絵は以下参考に記載の*2:「YouTube -おどろきもものき竹下夢二語りき①/5」の中に出てくるで参考にされると良い。)そして、これを期に早稲田実業を中退し本格的に画家を目指す。
夢二は50年たらずの短い生涯にわたり、多くの女性に恋をするが、特に、たまき(他満喜)、彦乃、お葉という3人の女性(と深く関わったことでも知られている。
夢二が最初に愛した女性は、岸たまきという女性であった。そして、彼女は非常に美しい女性で、金沢の名家の女であった。彼女との出会いについては、先に紹介した、※2:「おどろきもものき竹下夢二語り」のなかで詳しく語られているが、なんでも、夢二は一目惚れをし、彼女に結婚を申し込むと、彼女は、「髪切ってくださいね。本当に私と添い遂げたいのなら」と言ったという。夢二はそれを承知し、長い髪の毛を切り、1907(明治40)年1月結婚した。その時、夢二22歳、たまき(他満喜)24歳だったそうだ。
彼女は、美大出で絵心もあり、彼女は夢二を本格的な画家として再生させようとした。夢二は彼女から絵を教わったようだ。そして、美しい妻をモデルに絵を描き始めるが、このときから、彼の絵に変化が起き、絵が一層あやしくなった。そして、不釣り合いなほど目が大きくなり、たおやかな微笑みを浮かべた絵を描き、抒情画家として、売り出すようになるが、そんな彼に絵を教えようとする彼女が次第に疎ましくなり、1児を設けるが、2年後の1909(明治42)年には協議離婚をしている。この年、最初の著書『夢二画集-春の巻』発刊、ベストセラーとなる。夢二はこの『夢二画集-春の巻』の序文のなかで「私は詩人になりたいと思つた。けれど、私の詩稿はパンの代りにはなりませぬでした。ある時、私は、文字の代りに繪の形式で詩を畫いてみた。それが意外にもある雑誌に発表せられることになつたので、臆病な私の心は驚喜した。」と書いているという(以下参考の※3:「生誕120年 詩人画家・竹久夢二展」参照)。これをきっかけに、『夏の巻』『秋の巻』『冬の巻』と続けざまに次々と画集を出版し、評判を得るが、夢二にとって、絵を描くことは、詩を書くことでもあったようだ。
夢二は、1910(明治43)年26歳の時、再びたまきと同棲しその後、二児をもうけているが、この年には、大逆事件が摘発され、幸徳秋水らが逮捕されるが、同事件関与の容疑で夢二も2日間拘留されたと伝えられている。また、この年の夏、夢二はたまきと息子を連れて、犬吠埼(千葉県銚子)で一夏を過ごしているが、このとき出合ったカタ(長谷川賢)という女性との恋は実ることなく終わった。そのカタへの思慕の歌が「宵待草」の原詩となっているようだ。その原詩は以下参考に記載の※4:「宵待草」の中の5.海鹿島参照)
この翌1911(明治44)年1月、天皇暗殺を企てた罪、いわゆる大逆罪が適用され幸徳秋水ら12名が死刑、12名が無期懲役に処せられている。そして、「宵待草」の原詩が雑誌「少女」誌上に発表されたのは、その又、翌1912(明治45)年のことであった。ここで発表された詩は正にあの「宵待草」と同じである。それが今の三行詩の形に改められて発表したのが、1913 (大正2) 年に発行した最初の詩集である絵入り小唄集『どんたく』だったのである。
この詩は、あまりに暗くやるせない。だから、「宵待草の歌は、単なる恋歌ではなく、待てど暮らせど来ないのは、自由な社会、大逆罪事件後の人々のやるせなさでもあるんじゃないか」とは、夢二のファンであり、俳優であり絵本作家でもある米倉斉加年さんの「宵待草」の絵を見ての感想であるが、この絵と詩からは、色々なことが感じられるが、夢二自身の見果てぬ夢が果たせない、夢二が理想とする女・・・、彼が出合った女性への恋がどうしても実らないことへのやるせなさ、わびしさをも表現しているのかもしれない・・・。夢二は、美人画を書き続けるが、彼自、生身の女性が次第に愛せなくなっていき、後に美人画も書きたくなかったと語っているようだ。
その後、雑誌の表紙や広告、絵はがき、封筒千代紙や浴衣、半襟などのデザインを手掛けるようになり、1914(大正3)年)30歳の時に、 日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店、その販売を行なった。この店は大いに繁盛し、当時の江戸名所の1つに数えられるまでになっていたようである。愁いを含んだ瞳の大きな美人画の制作に限らず、こうした広範な活動は生活と美術を結び付けようとする意識から生まれたもののようだ。このころ来店した笠井彦乃(夢二がつけた名は「山路しの」)と出会い、後に京都で同棲するが彦乃の両親に仲を裂かれ、彦乃は1920(大正9)年1月に胸を患い25歳の若さで没している。この2人目の女性彦乃は夢二が最も愛していた女性だったといわれているが、この間の悲哀は歌集『山へよする』(1919)に詞書きを交え切々と歌われている。以下参考に記載の※5:竹久夢二参照。
又、結婚できないまま、夢二と引き離された彦乃は、23年間の短い人生で最も充実していた夢二との生活を、日記に綴っていたものが彦乃の妹さんの許にあるという。その内容は以下参考に記載の※6:asahi.com:竹久夢二と笠井彦乃 - トラベル「愛の旅人」参照。
この前年1919(大正8)年に、寄宿先の本郷・菊富士ホテルにて紹介された藤島武二などのモデルもしていた美人で夢二より二十歳も年下の当時16歳だったお葉(夢二が名付ける・本名は本名:佐々木カ子【ネ】ヨ)と、彦乃が亡くなった翌・1921(大正10)年には、渋谷に同棲しているが、6年後には、この3人目の愛した女性お葉は、夢二の許を去り、結婚している(お葉のことは、以下参考に記載の※7:竹久夢二とお葉参照。
彼は、本物の画家を目指していたが、正規の画家としての教育を受けていないことにコンプレックスを感じており、そして、雑貨屋のような色々なものを扱い美人画を書いている自分自身を嫌悪しているところがあったようだ。その後、関東大震災による受難期をくぐりぬけ、1931(昭和6)年本格的な絵の勉強のために渡米。しかし、数回の個展を開くも成果を上げられず。続いてドイツ、イタリアなどを旅する。1933(昭和8)年、病で帰国。その後の台湾旅行の後、病状(結核)が悪化し、翌年、長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所で永眠した。
本格的な画家になれなかったか知れないが、私は、夢二の美人画が好きである。
(画像は、向かって左上:「はるのかね」詩・画とも夢二のもの。「コドモノクニ」1922年5月号掲載。右:宵待草(セノオ楽譜)表紙絵。アサヒクロニクル「週刊20世紀より。左下:「日露戦争凱旋」を描いたコマ絵。2009・05・19朝日新聞ニッポン・人・脈・記に掲載のものより。」
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参考:
大正ロマン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3
宵待草 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B5%E5%BE%85%E8%8D%89
宵待草 竹久夢二 川井郁子
http://www.anoword.com/movie/detail/1sfZDWse0Lg
竹久夢二 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B9%85%E5%A4%A2%E4%BA%8C
Yahoo!百科事典/竹久夢二
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%AB%B9%E4%B9%85%E5%A4%A2%E4%BA%8C/
小唄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%94%84
日露戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89
大正デモクラシー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC
高峰三枝子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B0%E4%B8%89%E6%9E%9D%E5%AD%90
多忠亮 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%BF%A0%E4%BA%AE
竹久夢二伊香保記念館
http://www.yumeji.or.jp/
弥生美術館・竹久夢二美術館
http://www.yayoi-yumeji-museum.jp/
竹久夢二専門店ギャラリー港屋
http://www.yumeji-minatoya.co.jp/
知られざる竹久夢二──川柳と風刺画
http://www.geocities.jp/ing9702/sirarezaru.htm
米倉斉加年 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%80%89%E6%96%89%E5%8A%A0%E5%B9%B4
[史跡]菊富士ホテル跡
http://local.goo.ne.jp/leisure/spotID_TO-13010647/
※1:作家別作品リスト:竹久 夢二
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person212.html
※2:YouTube -おどろきもものき竹下夢二語りき①/5
http://www.youtube.com/watch?v=hkJcGd0_E-Y
YouTube -おどろきもものき竹久夢二語りき④/5
http://www.youtube.com/watch?v=ic4lUyxLpVI&feature=related
※3:生誕120年 詩人画家・竹久夢二展
http://www.setabun.or.jp/archive/takehisayumeji.htm
※4:宵待草
http://luckypool.hp.infoseek.co.jp/yumeji/yoimachi.html
※5:竹久夢二
http://www.urban.ne.jp/home/festa/yumeji.htm
※6:asahi.com:竹久夢二と笠井彦乃 - トラベル「愛の旅人」
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200705050082.html
※7:竹久夢二とお葉
http://artmodel.jp/yumeji.htm
※:三書樓>コレクション>No.0043 直言=週刊平民新聞改題
http://sanshorou.jp/collection/0043/
YouTube - 宵待草 高峰三枝子
http://www.youtube.com/watch?v=s4bKswislMg

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