9月12日の今日は「宇宙の日」。
1992(平成4)年は、国際宇宙年(ISY)で、世界中が協力して宇宙のことを考え、地球環境について考えた年。日本でも、この国際宇宙年を記念して、文部省宇宙科学研究所、宇宙開発事業団、日本国際宇宙年協議会が日本にとってふさわしい日本の「宇宙の日」を一般から公募。その結果、毛利衛さんがスペースシャトルで宇宙へ飛び立った日である9月12日が選ばれ、この日を「宇宙の日」とした。ちなみに“92年の読み方と9月12日の読み方は同じ九十二で、日本語の語呂合わせにもなっているそうだ。
1992(平成4)年の「国際宇宙年」の趣旨である、「一般の人々の宇宙開発( Yahoo!百科事典参照)に対する理解を深める」ための広報普及活動の一環として、また、「この活動を1992年の国際宇宙年の期間中のみならず今後とも継続して行う」という趣旨で、「宇宙の日」を中心とする期間、各地でさまざまな行事が開催されているようだ。
1992(平成4)年は大航海時代にコロンブスが海をさ迷いながら新大陸(アメリカ大陸)を発見して500年目にあたる年(実際には彼が最初の発見者では無いが・・・ここ参照)。 新大陸の発見から宇宙の開発へ・・・。時代を感じさせる。
日本政府が宇宙開発の目的で1969(昭和44)年10月1日設立した特殊法人である宇宙開発事業団(英文略称: NASDA=ナスダ)は、1964(昭和39)年4月に旧科学技術庁(現・文部科学省)内に設置された宇宙開発推進本部が発展して発足したものであるが、2003(平成15)年10月1日には、航空宇宙技術研究所 (NAL) ・宇宙科学研究所 (ISAS) と統合し、独立行政法人宇宙航空研究開発機構 (JAXA) に改組されている。
人類が宇宙に積極的に関心を持ち始めたのは1万年前から数千年前で、農耕中心の定着生活に入り、生活が比較的安定してからのことで、天候の変化が星座の位置と関係あることに気付き、実利的な天文学が発達。同時に、きらめく星空や輝く太陽に畏敬(いけい)の念を、暗黒の宇宙に恐怖を抱き、宗教や哲学的思索を深めていった。近代になって、宇宙を含めた森羅万象(宇宙に存在するありとあらゆる事象のこと)を理解するため、天文学や物理学が系統化され、今世紀には物理学史上の2大革命と言われる相対性理論や量子力学が発達し、宇宙の理解が飛躍的に進んだ。しかし、宇宙はまだ知的興味の対象にしかすぎず、多くの人々の生活とは無縁であったが、それが大きく様変わりしたきっかけは、1957(昭和32)年10月、ソビエト連邦による史上初の人工衛星(スプートニク1号)を搭載したR.7型ロケット、の打ち上げだった。
150億年前のビックバン(宇宙誕生)以来、46億年前に地球が、15億年前に生命が誕生後、気の遠くなるような長い年月を経て、400万年前に人類が現れるまでの時期は、宇宙が一方的に人類の生存環境を作り上げてきた。その宇宙で、人類の作った人工の物体が初めて地球の衛星となったのである。
これにより世界の人々の目が宇宙に向けられるようになり、いわゆる宇宙時代が始まり、以後、米ソ間の宇宙開発競争が開始されることになるのであった。
ソ連は続いて、同年11月にも犬を乗せたスプートニク2号に成功、冷戦時代のアメリカに対して技術的優位を見せ付けた。アメリカは同年12月に「ヴァンガード1号」の打ち上げを実行するが失敗。このソ連の衛星打ち上げの成功は、世界の中での宇宙開発の、そして、また、ミサイル開発のリーダーを自負していたアメリカにスプートニク・ショックを引き起こした。
そして、アメリカではヴァンガード計画を改め、1958(昭和33)年にはNASA(アメリカ国立航空宇宙局)を設立し、1月にはジュノーI型(エクスプローラー1号)の打ち上げに成功。米国は NASAに軍事を除く宇宙開発計画を引き継がせて、ソ連との宇宙開発競争にあたって国の威信をかけた有人宇宙飛行を推進する体制を構築するが、ソ連の宇宙開発計画はさらに進み、1961(昭和36)年4月12日には、ユーリ・ガガーリン少佐が搭乗した史上初の地球を周回する有人宇宙船「ボストーク1号」を打ち上げた。このときの「地球は青かった」は有名な言葉として残っている。
米国は、これに遅れること3週間、5月5日、マーキュリー計画のフリーダム7(マーキュリー3号)で、アラン・シェパードを弾道飛行で打ち上げた。
アメリカのケネディ大統領は、フリーダム7の打ち上げ成功直後の5月15日、有名な「1960年代中に人間を月に到達させる」との声明を発表した。米国初の有人地球周回は1962(昭和37)年2月20日、ジョン・グレンを乗せたフレンドシップ7(マーキュリー・アトラス6号)だった。しかし、その後、ソ連は1963(昭和38)年に初の女性宇宙飛行士テレシコワを宇宙へ送り出し、1965(昭和40)年にレオーノフが初の宇宙遊泳を行うなど、絶えず、米国を先行していたが、米国では1968(昭和43)年、
ジェミニ計画の後、アポロ計画が始まり、1969(昭和44)年7月20日、ニール・アームストロング船長、バズ・オルドリン飛行士が乗り込んだアポロ11号を人類史上初めて月面に着陸させ、ケネディ大統領の公約を見事実現させた。この月面着陸の映像はテレビでも放映された。「月の地面は非常に細かい粒でできていて炭の粉のようだ」・・・これが、初めて月を踏んだアームストロング船長の感想だった。やっと、米国がソ連の一歩先をいったことになり、このアポロ計画ではその後5回の月面着陸が行われた。
1970年代には、米ソとも字宙ステーションの打ち上げに成功、1975(昭和50)年7月には米国とソ連の宇宙船が共同飛行した最初の宇宙計画「アポロ・ソユーズテスト計画(ASTP)」により、米国のアポロ(サターンIB、「ランデブー」アポロ18号と呼ばれることもある)とソ連のソユーズ19号が衛星軌道上でドッキングした。二つの超大国が共同して一つのプロジェクトを実行するASTPはデタント(緊張緩和)の象徴であり、熾烈をきわめた宇宙開発レースの終わりを告げるものとなった。
ソ連はこの飛行の後もソユーズや宇宙ステーションサリュートなどを使って有人宇宙飛行を継続したのに対し、米国にとっては、ASTPがアポロ宇宙船を使用した最後のフライトであり、1981(昭和56)年4月12日にスペースシャトル(コロンビア号)が初飛行を行うまで、人間が宇宙に行くことは中断されていた。
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クリック ⇒ 宇宙の日 Ⅱ&参考へ
(画像は、記念切手「1992年 国際宇宙年」1992・07・07 発行。左手前は環境観測衛星:「ADEOS【みどり】」
、左奥は宇宙往還機:「HOPE【H-II ロケット打上げ型有翼回収機】」、
右手前:静止放送衛星「ゆり」、右奥:「国際宇宙ステーション」。)
1992(平成4)年は、国際宇宙年(ISY)で、世界中が協力して宇宙のことを考え、地球環境について考えた年。日本でも、この国際宇宙年を記念して、文部省宇宙科学研究所、宇宙開発事業団、日本国際宇宙年協議会が日本にとってふさわしい日本の「宇宙の日」を一般から公募。その結果、毛利衛さんがスペースシャトルで宇宙へ飛び立った日である9月12日が選ばれ、この日を「宇宙の日」とした。ちなみに“92年の読み方と9月12日の読み方は同じ九十二で、日本語の語呂合わせにもなっているそうだ。
1992(平成4)年の「国際宇宙年」の趣旨である、「一般の人々の宇宙開発( Yahoo!百科事典参照)に対する理解を深める」ための広報普及活動の一環として、また、「この活動を1992年の国際宇宙年の期間中のみならず今後とも継続して行う」という趣旨で、「宇宙の日」を中心とする期間、各地でさまざまな行事が開催されているようだ。
1992(平成4)年は大航海時代にコロンブスが海をさ迷いながら新大陸(アメリカ大陸)を発見して500年目にあたる年(実際には彼が最初の発見者では無いが・・・ここ参照)。 新大陸の発見から宇宙の開発へ・・・。時代を感じさせる。
日本政府が宇宙開発の目的で1969(昭和44)年10月1日設立した特殊法人である宇宙開発事業団(英文略称: NASDA=ナスダ)は、1964(昭和39)年4月に旧科学技術庁(現・文部科学省)内に設置された宇宙開発推進本部が発展して発足したものであるが、2003(平成15)年10月1日には、航空宇宙技術研究所 (NAL) ・宇宙科学研究所 (ISAS) と統合し、独立行政法人宇宙航空研究開発機構 (JAXA) に改組されている。
人類が宇宙に積極的に関心を持ち始めたのは1万年前から数千年前で、農耕中心の定着生活に入り、生活が比較的安定してからのことで、天候の変化が星座の位置と関係あることに気付き、実利的な天文学が発達。同時に、きらめく星空や輝く太陽に畏敬(いけい)の念を、暗黒の宇宙に恐怖を抱き、宗教や哲学的思索を深めていった。近代になって、宇宙を含めた森羅万象(宇宙に存在するありとあらゆる事象のこと)を理解するため、天文学や物理学が系統化され、今世紀には物理学史上の2大革命と言われる相対性理論や量子力学が発達し、宇宙の理解が飛躍的に進んだ。しかし、宇宙はまだ知的興味の対象にしかすぎず、多くの人々の生活とは無縁であったが、それが大きく様変わりしたきっかけは、1957(昭和32)年10月、ソビエト連邦による史上初の人工衛星(スプートニク1号)を搭載したR.7型ロケット、の打ち上げだった。
150億年前のビックバン(宇宙誕生)以来、46億年前に地球が、15億年前に生命が誕生後、気の遠くなるような長い年月を経て、400万年前に人類が現れるまでの時期は、宇宙が一方的に人類の生存環境を作り上げてきた。その宇宙で、人類の作った人工の物体が初めて地球の衛星となったのである。
これにより世界の人々の目が宇宙に向けられるようになり、いわゆる宇宙時代が始まり、以後、米ソ間の宇宙開発競争が開始されることになるのであった。
ソ連は続いて、同年11月にも犬を乗せたスプートニク2号に成功、冷戦時代のアメリカに対して技術的優位を見せ付けた。アメリカは同年12月に「ヴァンガード1号」の打ち上げを実行するが失敗。このソ連の衛星打ち上げの成功は、世界の中での宇宙開発の、そして、また、ミサイル開発のリーダーを自負していたアメリカにスプートニク・ショックを引き起こした。
そして、アメリカではヴァンガード計画を改め、1958(昭和33)年にはNASA(アメリカ国立航空宇宙局)を設立し、1月にはジュノーI型(エクスプローラー1号)の打ち上げに成功。米国は NASAに軍事を除く宇宙開発計画を引き継がせて、ソ連との宇宙開発競争にあたって国の威信をかけた有人宇宙飛行を推進する体制を構築するが、ソ連の宇宙開発計画はさらに進み、1961(昭和36)年4月12日には、ユーリ・ガガーリン少佐が搭乗した史上初の地球を周回する有人宇宙船「ボストーク1号」を打ち上げた。このときの「地球は青かった」は有名な言葉として残っている。
米国は、これに遅れること3週間、5月5日、マーキュリー計画のフリーダム7(マーキュリー3号)で、アラン・シェパードを弾道飛行で打ち上げた。
アメリカのケネディ大統領は、フリーダム7の打ち上げ成功直後の5月15日、有名な「1960年代中に人間を月に到達させる」との声明を発表した。米国初の有人地球周回は1962(昭和37)年2月20日、ジョン・グレンを乗せたフレンドシップ7(マーキュリー・アトラス6号)だった。しかし、その後、ソ連は1963(昭和38)年に初の女性宇宙飛行士テレシコワを宇宙へ送り出し、1965(昭和40)年にレオーノフが初の宇宙遊泳を行うなど、絶えず、米国を先行していたが、米国では1968(昭和43)年、
ジェミニ計画の後、アポロ計画が始まり、1969(昭和44)年7月20日、ニール・アームストロング船長、バズ・オルドリン飛行士が乗り込んだアポロ11号を人類史上初めて月面に着陸させ、ケネディ大統領の公約を見事実現させた。この月面着陸の映像はテレビでも放映された。「月の地面は非常に細かい粒でできていて炭の粉のようだ」・・・これが、初めて月を踏んだアームストロング船長の感想だった。やっと、米国がソ連の一歩先をいったことになり、このアポロ計画ではその後5回の月面着陸が行われた。
1970年代には、米ソとも字宙ステーションの打ち上げに成功、1975(昭和50)年7月には米国とソ連の宇宙船が共同飛行した最初の宇宙計画「アポロ・ソユーズテスト計画(ASTP)」により、米国のアポロ(サターンIB、「ランデブー」アポロ18号と呼ばれることもある)とソ連のソユーズ19号が衛星軌道上でドッキングした。二つの超大国が共同して一つのプロジェクトを実行するASTPはデタント(緊張緩和)の象徴であり、熾烈をきわめた宇宙開発レースの終わりを告げるものとなった。
ソ連はこの飛行の後もソユーズや宇宙ステーションサリュートなどを使って有人宇宙飛行を継続したのに対し、米国にとっては、ASTPがアポロ宇宙船を使用した最後のフライトであり、1981(昭和56)年4月12日にスペースシャトル(コロンビア号)が初飛行を行うまで、人間が宇宙に行くことは中断されていた。
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クリック ⇒ 宇宙の日 Ⅱ&参考へ
(画像は、記念切手「1992年 国際宇宙年」1992・07・07 発行。左手前は環境観測衛星:「ADEOS【みどり】」
、左奥は宇宙往還機:「HOPE【H-II ロケット打上げ型有翼回収機】」、
右手前:静止放送衛星「ゆり」、右奥:「国際宇宙ステーション」。)