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顔見世

2009-11-01 | 行事
「顔見世」は、歌舞伎の年中行事で、11月1日~12月10日頃に至る興行のこと。
出雲阿国に始るとされる歌舞伎の常設の芝居小屋が江戸府内に出来たのは1624(寛永元)年頃とされるが、歌舞伎が泰平の世の町人の娯楽として定着しはじめると、府内のあちこちに芝居小屋が立つようになった。しかし奉行所は風紀を乱すという理由で遊女歌舞伎 (1629年) や若衆歌舞伎 (1652年) を禁止、野郎歌舞伎には興行権を認可制とすることで芝居小屋の乱立を防ぐ方針をとった。こうして府内の芝居小屋は次第に整理されてゆき、延宝の初めごろ (1670年代) までには中村座・村山座[後に市村座]・ 森田座山村座に限って幕府公許の印である「」をあげることが認められるようになった。これらを江戸四座といった。
天保年間に老中首座である水野忠邦を中心に行われた天保の改革は、逼迫した幕府の財政を立て直すことを目的としたものだったが、水野はこれと同時に倹約令によって町人の贅沢を禁じ、風俗を取り締まって庶民の娯楽にまで掣肘を加えた。特に歌舞伎に対しては、七代目市川團十郎を奢侈を理由に江戸所払いにしたり、役者の交際範囲や外出時の装いを限定するなど、弾圧に近い統制下においてこれを庶民へのみせしめとした。
そして、それまで堺町にあった中村座、葺屋町の市村座、木挽町の森田座(当時は河原崎座)等の歌舞伎座ほか、操り人形の薩摩座、結城座など江戸市中に散在していたものを1842 (天保13 )年に浅草聖天町(現在の台東区浅草6丁目)に移転させ、そこを猿若町と名づけて芝居町とした。山村座は、1714(正徳4)年1月におきた有名な、絵島生島事件を起こして取り潰されため、以後は中村、市村、森田の三芝居だけで、「江戸三座の制」と呼ばれて1872(明治5)年まで続いた。江戸時代末期の江戸の芝居町は猿若町では、幕府公許の芝居小屋が公許の印である「櫓」を座の定紋を染め抜いた幕で囲った物を芝居小屋の入口上方に取り付け、かつてはそこで人寄せの太鼓を叩いた。
上方の京、大坂とは違い、江戸の歌舞伎で、幕府から芝居の興行の権利権を与えられたのは個人であり、興行権を与えられた人は、その名義を代々世襲して受け継いだ。それが「座元」であり、興行権を所有する芝居小屋の座元との雇用関係で、役者・狂言作者(以下参考の※:「歌舞伎座公式ホームページ」のここ参照)・囃子方との契約は原則として1ヵ年と定められており、雇用期間は11月より翌年10月迄となっていた。又、興行のシステムも1年間を1サイクルとして行われていた。10月に契約の更改や更新があった後、毎年11月が新年度の初めで、芝居の正月に当たる。各座とも初めて新年度の顔ぶれで興行。文字どおり「うちの芝居小屋ではこれから1年間はこの新しい座組・座頭、つまり、座付き役者となった顔ぶれでやっていきますよ」と観客に俳優の「顔を見せる」機会であったことから、「顔見世」というが、古くは「面見世(つらみせ)」とも呼ばれていたようだ。
その起源は明らかではないが、Wikipediaでは、上方(京阪地方)においては村山又兵衛(※現:市村羽左衛門の初代となる 市村宇左衛門=村山又三郎の京で座元をしていた兄)にはじまり、初代嵐三右衛門が1年間の興行の順序、期間、式例などをさだめ、江戸においては中村勘三郎が万治年間に四季に応じた狂言を選ぶことにしたという。寛文年間ごろから恒例化し、元禄ごろに制度化したらしい。上方でも行なわれたが、江戸では特に重要な行事となった。
年度最初の興行が「顔見世興行」、年が改まると「初春興行」、以下3月の「弥生興行」、5月の「皐月興行」というように、興行は一種の年中行事のような約束を踏まえて運営されていた。それは、興行者の側から言えば、興行を成功に導くための計画的な仕掛けに違いなかったが、芝居を愛好した大衆の側から言えば、日常生活のリズムをととのえて生きる格好の節目にもなっていた。芝居小屋は、ハレの日の歓楽の為に、各種の看板・提灯・積物・造り物で所狭しと飾り立て、わくわくするような祝祭の場を作り上げていた。
毎年11月の顔見世興行は、芝居年中行事(以下参考の※:「芝居年中行事-Yahoo!百科事典」参照)のうちの最大規模のものである。その初日をいやが上にもにぎにぎしくはなやかにに迎えるために、興行主である座元は狂言作者や座頭と9月12日の「世界定め」という会合を持ち、顔見世狂言の世界(外題・狂言の方向付け、配役【座組・座頭】)を決めてから始めて、あらかじめ定められている内外の行事を次々と積み重ねていき、芝居茶屋を含む町全体を「まつり」のムードに誘い込んでゆく(「世界定め」については以下参考の※:「歌舞伎の世界構造」を参照)。
「顔見世は世界の図なり夜寝ぬ人」 井原西鶴(道頓堀)「花みち」
「顔見世」は、俳句の季語ともなっており、仲冬(大雪【12月7日ごろ】から小寒の前日【1月4日】ごろまで【太陽暦12月・陰暦:11月】)を表す。
旧暦の11月は、もう真冬の寒い頃であり、師走から正月を控えて庶民の財布の紐も固く芝居見物どころではない時期なのだが、正月を先取りした「顔見世は芝居のお正月」と銘打って、目先の変わった興行を打ち客を集めた。つまり、芝居町には正月が二度やって来るわけであり、これはなかなかの仕掛け上手と言うべきだろう。
江戸時代の戯作者式亭三馬 は、その筆名が式三番叟のもじりであることによっても判るとおり、終生格別の芝居好きであったというが、その著書に『戯場訓蒙図彙(しばいきんもうづい)』(1803年)がある。これは、芝居の世界のあらゆる事柄を分類して採り上げ、それぞれに図を添えて訓蒙(幼童や無知の人を教え導く意)の役を果させようというねらいに立って編まれたものだそうだが、その中の「第二巻 顔見世紋招牌(かおみせもんかんばん)並役者附配出図(やくしゃづけくばりいだしのず)」の中の“顔見世の光景”には、以下のように書かれている。
“積上ぐる蒸駕籠(せいろう)は酒樽の男山(おとこやま)に烈(つらなっ)て。重(てう)重と高きこと江戸っ子の気性に似たり。空には霞みの引き幕一張(ひとは)り。進上の札は風に翻(ひるがへっ)て、ここに陽気を招くかとうあやたまる。夫(それ)長尺(ながじゃく)の提灯は雷の臍(へそ)を貫き。手打の手拍子地震の頭上に響かば。彼は一番太鼓に競ひ。
此は万歳楽をや奏すべき。かかるめでたき俳優(わざおき)なれば。天地も感ずる時至って。一陽来復の今すでに。周の昔の春を知る。正月詞(ことば)は家毎の。礼者に繁き軒ならび。茶屋が飾れる 灯篭の。花の顔見世見ばやとて、おし合う人の山十は。醤油樽の銘に知られ。皆打よりてあたること。炭俵にあらを率(ひきゐ)て弘廂(ひろひさし)にて狂言尽をなせり。“・・・と。
補足すれば、顔見世などの特別興行の時には、役者に贈られた品物を、芝居小屋の木戸の前に積み上げて披露する、積物(つみもの)という慣習が江戸時代からあった。現在は酒樽に限られているが、江戸時代には酒樽のほか、米俵、炭俵、醤油樽、蒸籠(せいろう)などが積まれたそうだ。蒸籠(蒸駕籠)は木の枠の底が簀(す)の子になっている蒸し器で饅頭を蒸すのに使うものだが、芝居小屋は饅頭屋にとって大切な市場なので、中村座、市村座に出入りの、日本橋和泉町の饅頭屋虎屋は両座の特別興行には蒸籠を積むのが慣習になっていたという(以下参考の※:「歌舞伎座公式ホームページ」のここ参照)。尚、式亭三馬の『戯場訓蒙図彙』の翻訳物は以下参考の※:「電子図書 戯場訓蒙図彙」で見ることが出来る。この『戯場訓蒙図彙』の文章は猿若町へ移転する前の芝居町の光景だそうだがが、冒頭の錦絵でも同じような賑わいが見られる。
冒頭の画像は、江戸神田雉子町の名主である斎藤月岑(げっしん)編纂(長谷川雪旦画、長谷川雪堤補画)により、1838(天保9)年に刊行された『東都歳時記』に描かれている中村座の顔見世興業の様子である。向かって右上に見える櫓は中村座定紋「銀杏」を染め抜いた幕で囲われている。中村座の定紋はもともとは鶴が空から舞い降りてくるおめでたいデザインだったが、1690(元禄3)年に、将軍綱吉に姫君が誕生し鶴姫と名付けられたのをはばかり、銀杏にしたが、銀杏の葉は鶴が翼を拡げる様子に見立てられたとも、末広の扇に似た形でめでたいともされている。その向こうの櫓には市村座の定紋の根上り橘らしきものが見える。又、向かって左は、森田座(当時は河原崎座)の定紋らしい。
明治半ばから新歌舞伎を代表する劇作家となった岡本 綺堂の『綺堂むかし語』の中に『島原の夢』が収められている。そこには、
“『戯場訓蒙図彙(ぎじょうくんもうずい)』や『東都歳事記』や、さてはもろもろの浮世絵にみる江戸の歌舞伎の世界は、たといそれがいかばかり懐かしいものであっても、所詮(しょせん)は遠い昔の夢の夢であって、それに引かれ寄ろうとするにはあまりに縁が遠い。何かの架け橋がなければ渡ってゆかれないような気がする。その架け橋は三十年ほど前から殆(ほとん)ど断えたといってもいい位に、朽ちながら残っていた。それが今度の震災と共に、東京の人と悲しい別離をつげて、かけ橋はまったく断えてしまったらしい。”・・・と。
この作品は、1923(大正12)年9月の関東大震災の直後に書かれた作品の1つだが、失われ行く江戸・明治前期に、作品のトーンには悲しみが漂っている(この作品は、以下参考の青空文庫の※:「作家別作品リスト:No.82:岡本綺堂」で読める)。
1867(慶応3)年 暮れに幕府が崩壊すると、翌・1868(慶応4)年は春先から江戸開城・船橋の戦い・上野戦争などの騒擾が続き、猿若町への庶民の足も遠退いて、芝居興行は不振をきわめた。そんな中、新政府は同年9月末、突然猿若町三座に対し、他所へ早々に移転することを勧告。天保の所替えからすでに25年、世代も交替し、猿若町は多くの芝居関係者にとって住み慣れた土地となっていたので、三座の座元はいずれも移転を渋ったが、業を煮やした東京府は、1873(明治6)年 府令によって東京市内の劇場を一方的に十座と定め、猿若町にあった三座は「十座」の中に取り込まれてしまった。布令によって新劇場がいずれも外濠の内側に開店するのに対し、猿若町は歓楽街とはいえ東北に偏った地にあることが重い腰をあげ移転するひとつの理由となるが、三座のなかで最初に猿若町を離れたのは守田座(森田座を改称)で、1872(明治5)年 に新富町(しんとみちょう、現在の中央区新富2丁目)に移転、明治8年 (1875年) にこれを新富座と改称した。新富座の座元・12代目守田勘彌には先見の明があり、1876(明治9)年9月に新富座が類焼により全焼すると、その場は仮小屋でしのぎ、その間に巨額の借金をして、1878(明治11)年6月には西洋式の大劇場・新富座を開場。杮落としの来賓に政府高官や各国公使を招いて盛大な開場式を挙行するというのも前代未聞だったが、なによりも新富座は当時最大の興行施設で、しかもガス灯による照明器具を備えてそれまでできなかった夜間上演を可能にした、画期的な近代劇場だった。以後この新富座で専属役者の9代目團十郎・5代目菊五郎・初代左團次の三名優が芸を競いあい、ここに「團菊左時代」(だんぎくさ じだい)と呼ばれる歌舞伎の黄金時代を築いたが、1910(明治43)年松竹に買収され同社経営下に移り、大正12年の関東大震災で被災するとそのまま再建されず廃座となっている。
『島原の夢』の中で、劇場は日本一の新富座のあったときのその周辺の繁栄振りを回想しながら、そこを江戸期の猿若町が芝居町と呼ばれていたのとは違って、”一般に島原とか、島原の芝居とか呼んでいた。明治の初年、ここに新島原の遊廓が一時栄えた歴史を有(も)っているので、東京の人はその後も島原の名を忘れなかったのである。(中略)その島原の名はもう東京の人から忘れられてしまった。”・・・と最後は寂しい言葉で締めている。余り戦争の被害もなかったという現在の新富町の様子は以下参考に※:新富町 明治期の新島原遊郭にはじまる旧花街」を見られるとよい。
(画像は「芝居顔見世の図」『東都歳時記』齋藤月岑・長谷川雪旦画、長谷川雪堤補画。冒頭の画像は、NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科「江戸事情」第1巻生活編より)
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顔見世:参考

2009-11-01 | 行事
参考:
※:歌舞伎座公式ホームページ
http://www.kabuki-za.co.jp/
※ 作家別作品リスト:No.82:岡本綺堂
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person82.html#sakuhin_list_1
※:歌舞伎の世界構造
http://www.furugosho.com/profile/sekai.htm
※:芝居年中行事-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%8A%9D%E5%B1%85%E5%B9%B4%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E4%BA%8B/
※:電子図書 戯場訓蒙図彙(メニュー)
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/ebook01/mainmenu.html
※:新富町 明治期の新島原遊郭にはじまる旧花街
http://www.shurakumachinami.natsu.gs/03datebase-page/tokyo_data/shintomi/shintomi_file.htm
顔見世 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%94%E8%A6%8B%E4%B8%96
顔見世 - 歌舞伎事典
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc_dic/dictionary/dic_ka/dic_ka_01.html
井原 西鶴-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E5%8E%9F%E8%A5%BF%E9%B6%B4
式亭三馬 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E4%BA%AD%E4%B8%89%E9%A6%AC
高浜虚子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%B5%9C%E8%99%9A%E5%AD%90
市村羽左衛門 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E6%9D%91%E7%BE%BD%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
新富座 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AF%8C%E5%BA%A7
岡本綺堂 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E7%B6%BA%E5%A0%82
邦楽ニュース●話の種~顔見世
http://www.otakihogakki.com/news/tane195.htm
斎藤月岑 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E6%9C%88%E5%B2%91
季語・顔見世
http://cgi.geocities.jp/saijiki_09/kigo500b/136.html

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