1948(昭和23)年の今日(11月20日)は、日本で初めての競輪が小倉市(現:北九州市で開催された日。
競輪(けいりん)とは、1948(昭和23)年、8月1日に公布、施行された自転車競技法という特別法(適用対象がより広い法のことを一般法というが、適用対象がより特定されている法のことを特別法という)に基き、指定された自治体が自転車競走を開催し、この結果を賭けの対象としてパリミュチュエル方式により勝者投票券(車券)を販売して、的中した場合は確定オッズ(倍率)に基づき払い戻しを行う公営競技、言い換えれば、公の機関がギャンブルとして開催しているスポーツ競技の一つである。同様の公営競技には競馬や競艇・オートレースなどがある。
競輪の現在の所管省庁は経済産業省であり、戦後復興を目的として1948年(昭和23年)から実施された。
当初競輪の政府主催案もあったが、GHQの意向で、地方自治体の主催となった。最初の開催地には第3回国体で自転車競技を担当した福岡県小倉市(現:北九州市)が選ばれた。そして、第1回競輪は20日から4日間行われた。開催近くの産炭地(筑豊炭田参照)の活況もあり、入場者は、初日7千人、2日目2万人、3日目8千人、4日目2万人、合計5万5千人という大成功をおさめた。複勝式と単勝式勝者投票券はいずれも1枚100円であった。総売上高1973万円と、市当局の予想を大きく上回った。このため、当初は莫大な経費が嵩む自転車競技場の建設にはどの自治体も及び腰であったが、以後多くの自治体が競輪場建設にのり出すことになった。冒頭の画像は当時の小倉での競技の写真であろうか?・・アサヒクロニクル「週刊20世紀」より。
競輪の選手数は、日本のプロスポーツとしては最大規模の3,500名程度(2006年12月末で3,598人、2008年2月で3,531人、2009年5月で3,497人、2009年10月現在で3,472人)にのぼるっているが減少傾向のようである。また、1948(昭和23)年11月の小倉競輪場での競輪初開催と同時に女子競輪もオープンレースが開催され、翌1949年10月に開催された第2回全国争覇競輪(川崎競輪場)にて車券発売の対象となる正式レースとなったそうで、女性選手だけの「女子競輪」は、初期には多方面に話題を提供したが、元々選手間での力の差があり過ぎてレースが堅く収まってしまうことが多く、ファンから見てギャンブルとしての魅力が乏しかった事などから、人気は長続きせず、1964(昭和39)年9月8日に開催された名古屋競輪場でのレースが最後となり、女子競輪の歴史は幕を閉じたようだ(Wikipedia)。以下参考の※:「秘 宝 館」の中の“門司競輪の歴史”で、その時の絵葉書での写真と解説が見られる。
我国において自転車をスポーツ競技の一つとして楽しむようになったのが果たして何時頃からであったかなどは正確には不明のようであるが、新聞紙上に自転車競走という文字がはじめて見られるのは、1881(明治14)年3月14日付けの東京日々新聞だそうだが、内容からは、いったい何処で開催されているのか不明であり、1898(明治31)年3月5日発行の雑誌「運動界」の記事に、横浜居留地の外人により組織されたジャパン・バイシクル・クラブ(日本自転車倶楽部)と東京双輪倶楽部の人々との合同サイクリングが2月21日に横浜の本牧あたりで開催されたことが報じられており、恐らくこの頃、横浜居留地の外人とのこのような交流の中からレースが徐々に行われるようになったのではないかとされているようだ。東京バイシクル倶楽部は当時、1901(明治34)年頃結成された横浜の金輪倶楽部をライバルとして張り合っていたようだ。(以下参考の※:「日本自転車史研究会」の“自転車の歴史探訪”参照)。
その後、1905(明治38)年以降、報知新聞など新聞社各社が主催し、自転車業界が育てたノンプロ選手が宣伝のために走るという自転車競走が活発に行われるようになったそうだが、先に書いた横浜の金輪倶楽部の小宮山長造が日本における自転車競技のノンプロ選手第1号だそうだ。
当時、この小宮山と常に覇を競っていたのが京都の砂田松次郎選手だったそうで、以下参考の※:「スポーツ・レク文化史料情報館 」には、“1907(明治40)年10月31日:自転車の両横綱(横浜小宮山長蔵、京都砂田松次郎)いよいよ決戦。と「万朝報」報ず。”・・・とある(【万朝報】の記事はここ参照)。
戦前はロードレースを中心に盛んに行われていたようで、中には競走用自転車で全国各地を転戦する者もいたようだ。
競輪の誕生は、元満州国官吏だった海老澤清(海老澤清文。【川崎記念に『海老澤清杯』の名が見られるが、どのような人物かは、よくわからない。])と、久留米連隊に所属し後にGHQで働くことになる元陸軍大尉の倉茂貞助(本名は倉茂武。以下参考の※「倉茂記念杯とは」参照)の2人が、東京の有楽町に国際スポーツ㈱を設立したことに始まるようだ。Wikipediaによれば、当初は第二次世界大戦敗戦に伴う大陸や南方からの引揚者に、宝くじの利益をもとに住宅建設構想を練っていた海老澤の思惑と、湘南海岸に一大レジャーランドの建設を構想し、世界屈指の観光地とする構想を描いていた倉茂の思惑がそれぞれあったが、海老澤が構想を描いていた「住宅建設宝くじ」を取り入れる形で、「自転車産業の復興とサイクルスポーツの振興」を大義名分として、戦前は日本各地で人気を博していた自転車レースを競馬に倣って賭けの対象にし、その収益金をもとに戦後復興に役立てることはできないものかと考え出されたのが後の競輪であったという。しかし、後の競輪を国際スポーツ㈱の運営で行うのは不可能と分かり、2人は、後に日本自転車振興会連合会会長となる、当時は日本社会党所属の代議士だった林大作と出会い、立法として取り上げてもらうべく働きかけた。林が2人の提案を気に入り、党中央執行委員会の同意を得て法案作りをし、当時日本を占領下に置いていたGHQが権力の集中を防ごうとしていたため GHQ の意向を入れ、競輪施行者は地方公共団体ということで承認を得た上で「自転車競技法」として1948(昭和23)年6月26日衆議院本会議で可決、同年7月1日、参議院でも可決し成立。同年8月1日より施行されることになった。以下参考に記載の※:「自転車競技法」のなかにある、“第002回国会 商業委員会 第7号議案(昭和23年6月14日)” を見れば、「自轉車競技法案」(林大作外47名提出)審議の様子が分る。
その中での林大作の答弁に特に重要なものとして“第一は、國民の自轉車に対する関心を増大し、かつその智識を普及することにより、自轉車工業発展の無形的な素地をつくり得ること。第二は、この法案の施行によつて期待し得る、莫大な收益を活用することにより、あるいは品質の改良、生産の増強に必要なる助成を行い、あるいは自轉車に関する各種の試驗研究施設を完備し、あるいは諸外國における廣汎な市場獲得のために必要なる宣傳を行う時、自轉車の生産及び輸出の振興に直接寄與し得る。第三は自轉車工業の発達特にその生産及び輸出の増加が國内産業の復興に及ぼす影響。第四は、現在きわめて窮迫している地方財政の増收に寄與し、幾分でも大衆課税を軽減し得る。”・・・といったことが挙げられている。
競輪が誕生した1948(昭和23)年当時、国営競馬(現在の日本中央競馬会【JRA】)の控除率が34.5%であったのに対し、競輪の控除率は25%と低く抑えられたこともあり、国営競馬が不振をかこつ状況の中で、競輪は爆発的な人気を博すようになった。
しかし、競輪は統一された「日本中央競馬会」のような特殊法人である団体が主催している競技ではなく、GHQ の意向で競輪施行者は地方公共団体となっため、競輪開催に伴い各都道府県に設立された各都道府県自転車振興会に委託されて実施されたことから、競輪草創期には各都道府県自転車振興会、各自転車競技会、施行者である都道府県市町村などの団体が複雑に絡みあい、実施方法にも不備が多く、各地でしばし観客による暴動事件(当時のマスコミの表記は「騒擾【そうじょう】事件」)を引き起こした。とりわけ大掛かりな事件となったのが、1950(昭和25)年9月、兵庫県武庫郡鳴尾村(現在の西宮市)の鳴尾競輪場で発生した事件(鳴尾事件)であり、警官の威嚇射撃によって客が1人死亡する事態となったばかりか、最後には滞駐米軍のMPを出動させて漸く収拾させたほどであった。
因みに「競輪」の言葉を考え出したのは、当時毎日新聞西部本社・門司支局に勤めていた新聞記者・山本鹿男だそうで、当初は「きょうわ」、「きょうりん」と発音していたが、この鳴尾事件発生時に語られた揶揄(「狂輪」や「恐輪」など)を避けるため、今の「けいりん」という呼び方に改められた経緯があったようだ。
この事件直後より、新聞紙上では「競輪を廃止せよ」の論調一色となったことから、ファンの「射幸心(思いがけない利益や幸運を望む心)」をあおらないために、施行者は積極的なファン拡大よりは「自粛して実施」という立場をとらざるを得なくなった。もともと競輪はギャンブルである為、様々な批判にさらされ、施行者である地方公共団体の首長の中には歳入不足を競輪開催によって補っており、競輪の財源としての必要性を認めていながらも、選挙公約に「ギャンブル廃止」を掲げる者もいるなど、多くの施行者が「庶民の娯楽」としての必要性よりも、むしろ「社会悪」として認識していため、レジャーとして競輪を積極的に評価し、盛り上げようという地方公共団体は、一部を除けばほとんどみられなかったようだ。
今日、競輪全体の売上の落ち込みは激しく 2001年(平成13)度で、ピークだった 1991(平成3)年度の約 69%である1兆 3553 億円にまで落ち込んでいるという(以下参考の※:「「公営競技行政」成立に関する研究 -競輪の組織・構造を中心に-」参照)。
鳴尾事件以降、世論の反発が大きいため次々と競輪場は廃止され、競輪場最大の売り上げを誇っていた、「競輪のメッカ」後楽園競輪場の休止(1972年【昭和47年】。翌年廃止)へと繋がっていった。
しかし、1988(昭和63)年6月、競馬、競輪、競艇からパチンコ、宝くじに至るまで、都民はギャンブルをどう考えているのか、興味ある意識調査の結果が、財団法人・東京都市科学振興会の手でまとめられており、当時、後楽園「東京ドーム」での競輪復活問題が論議を呼んでいるが、「賛成」はわずか8.5%。それに比べて「反対」は54.6%もあり、はっきり「ノー」と出ている。その理由は、ギャンブルがきらいだから」(33%)というよりも、「ほかのレジャーや趣味の方が好きだから」(46%)という要素が強かったようだ。以下参照。
1988/06/28 朝日新聞朝刊
競輪復活反対54% 周辺に悪影響 都民のギャンブル意識調査
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00008/contents/005.htm
第二次世界大戦敗戦後の日本の戦災復興や公共施設の建設に公営競技の果たす役割は大きかっただろうし、国民にとっても、他に余り楽しめるレジャーの少なかったことから、宝くじやこのような公営のギャンブルは一つの夢をかなえてくれるものとして楽しみな競技だったろうね~。しかし、今や、国民にしても、このような射幸心をあおる賭博的なギャンブルを楽しまなくても、他に幾らでも楽しめるレジャーがあるのだから、先の都民の競輪復活への回答などは、ごく自然なものだと思う。
私的な賭博行為が法律で禁止されているのに、公営のギャンブルが何故認められるのかといったことは、前々から問題にされていることであるが、それに対して、公営のギャンブルがあるから禁止されている私的な賭博に向かうのを抑制しているといった考えもあるが、これは、健康に良くないと言われるタバコの販売を止めないから、麻薬などの方に走る人が増えるのを抑制しているといった考え方にも似ている。昔は、お遊びとしての、パチンコも小額で結構な時間楽しむことが出来たが、今は、あっという間に2~3万円を注ぎ込んでしまうと現役時代のパチンコ好きの同僚が言っていた。そんな、パチンコの景品買い取り制度には賭博的要素があり、パチンコにのめり込み、サラ金地獄に陥っている人も少なくないと聞く。兎に角、ギャンブルは、一度甘い汁を吸うと止められなくなり、どんどん深みにはまり込んでいくところがあるので、楽しむ人自身が、よほど、自制してやることが寛容だろうね~。
(画像は、競輪。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
このブログの字数制限上、参考は別紙となっています。以下をクリックするとこのページの下に表示されます。
クリック ⇒ 日本で初めての競輪が小倉市で開催された日:参考
競輪(けいりん)とは、1948(昭和23)年、8月1日に公布、施行された自転車競技法という特別法(適用対象がより広い法のことを一般法というが、適用対象がより特定されている法のことを特別法という)に基き、指定された自治体が自転車競走を開催し、この結果を賭けの対象としてパリミュチュエル方式により勝者投票券(車券)を販売して、的中した場合は確定オッズ(倍率)に基づき払い戻しを行う公営競技、言い換えれば、公の機関がギャンブルとして開催しているスポーツ競技の一つである。同様の公営競技には競馬や競艇・オートレースなどがある。
競輪の現在の所管省庁は経済産業省であり、戦後復興を目的として1948年(昭和23年)から実施された。
当初競輪の政府主催案もあったが、GHQの意向で、地方自治体の主催となった。最初の開催地には第3回国体で自転車競技を担当した福岡県小倉市(現:北九州市)が選ばれた。そして、第1回競輪は20日から4日間行われた。開催近くの産炭地(筑豊炭田参照)の活況もあり、入場者は、初日7千人、2日目2万人、3日目8千人、4日目2万人、合計5万5千人という大成功をおさめた。複勝式と単勝式勝者投票券はいずれも1枚100円であった。総売上高1973万円と、市当局の予想を大きく上回った。このため、当初は莫大な経費が嵩む自転車競技場の建設にはどの自治体も及び腰であったが、以後多くの自治体が競輪場建設にのり出すことになった。冒頭の画像は当時の小倉での競技の写真であろうか?・・アサヒクロニクル「週刊20世紀」より。
競輪の選手数は、日本のプロスポーツとしては最大規模の3,500名程度(2006年12月末で3,598人、2008年2月で3,531人、2009年5月で3,497人、2009年10月現在で3,472人)にのぼるっているが減少傾向のようである。また、1948(昭和23)年11月の小倉競輪場での競輪初開催と同時に女子競輪もオープンレースが開催され、翌1949年10月に開催された第2回全国争覇競輪(川崎競輪場)にて車券発売の対象となる正式レースとなったそうで、女性選手だけの「女子競輪」は、初期には多方面に話題を提供したが、元々選手間での力の差があり過ぎてレースが堅く収まってしまうことが多く、ファンから見てギャンブルとしての魅力が乏しかった事などから、人気は長続きせず、1964(昭和39)年9月8日に開催された名古屋競輪場でのレースが最後となり、女子競輪の歴史は幕を閉じたようだ(Wikipedia)。以下参考の※:「秘 宝 館」の中の“門司競輪の歴史”で、その時の絵葉書での写真と解説が見られる。
我国において自転車をスポーツ競技の一つとして楽しむようになったのが果たして何時頃からであったかなどは正確には不明のようであるが、新聞紙上に自転車競走という文字がはじめて見られるのは、1881(明治14)年3月14日付けの東京日々新聞だそうだが、内容からは、いったい何処で開催されているのか不明であり、1898(明治31)年3月5日発行の雑誌「運動界」の記事に、横浜居留地の外人により組織されたジャパン・バイシクル・クラブ(日本自転車倶楽部)と東京双輪倶楽部の人々との合同サイクリングが2月21日に横浜の本牧あたりで開催されたことが報じられており、恐らくこの頃、横浜居留地の外人とのこのような交流の中からレースが徐々に行われるようになったのではないかとされているようだ。東京バイシクル倶楽部は当時、1901(明治34)年頃結成された横浜の金輪倶楽部をライバルとして張り合っていたようだ。(以下参考の※:「日本自転車史研究会」の“自転車の歴史探訪”参照)。
その後、1905(明治38)年以降、報知新聞など新聞社各社が主催し、自転車業界が育てたノンプロ選手が宣伝のために走るという自転車競走が活発に行われるようになったそうだが、先に書いた横浜の金輪倶楽部の小宮山長造が日本における自転車競技のノンプロ選手第1号だそうだ。
当時、この小宮山と常に覇を競っていたのが京都の砂田松次郎選手だったそうで、以下参考の※:「スポーツ・レク文化史料情報館 」には、“1907(明治40)年10月31日:自転車の両横綱(横浜小宮山長蔵、京都砂田松次郎)いよいよ決戦。と「万朝報」報ず。”・・・とある(【万朝報】の記事はここ参照)。
戦前はロードレースを中心に盛んに行われていたようで、中には競走用自転車で全国各地を転戦する者もいたようだ。
競輪の誕生は、元満州国官吏だった海老澤清(海老澤清文。【川崎記念に『海老澤清杯』の名が見られるが、どのような人物かは、よくわからない。])と、久留米連隊に所属し後にGHQで働くことになる元陸軍大尉の倉茂貞助(本名は倉茂武。以下参考の※「倉茂記念杯とは」参照)の2人が、東京の有楽町に国際スポーツ㈱を設立したことに始まるようだ。Wikipediaによれば、当初は第二次世界大戦敗戦に伴う大陸や南方からの引揚者に、宝くじの利益をもとに住宅建設構想を練っていた海老澤の思惑と、湘南海岸に一大レジャーランドの建設を構想し、世界屈指の観光地とする構想を描いていた倉茂の思惑がそれぞれあったが、海老澤が構想を描いていた「住宅建設宝くじ」を取り入れる形で、「自転車産業の復興とサイクルスポーツの振興」を大義名分として、戦前は日本各地で人気を博していた自転車レースを競馬に倣って賭けの対象にし、その収益金をもとに戦後復興に役立てることはできないものかと考え出されたのが後の競輪であったという。しかし、後の競輪を国際スポーツ㈱の運営で行うのは不可能と分かり、2人は、後に日本自転車振興会連合会会長となる、当時は日本社会党所属の代議士だった林大作と出会い、立法として取り上げてもらうべく働きかけた。林が2人の提案を気に入り、党中央執行委員会の同意を得て法案作りをし、当時日本を占領下に置いていたGHQが権力の集中を防ごうとしていたため GHQ の意向を入れ、競輪施行者は地方公共団体ということで承認を得た上で「自転車競技法」として1948(昭和23)年6月26日衆議院本会議で可決、同年7月1日、参議院でも可決し成立。同年8月1日より施行されることになった。以下参考に記載の※:「自転車競技法」のなかにある、“第002回国会 商業委員会 第7号議案(昭和23年6月14日)” を見れば、「自轉車競技法案」(林大作外47名提出)審議の様子が分る。
その中での林大作の答弁に特に重要なものとして“第一は、國民の自轉車に対する関心を増大し、かつその智識を普及することにより、自轉車工業発展の無形的な素地をつくり得ること。第二は、この法案の施行によつて期待し得る、莫大な收益を活用することにより、あるいは品質の改良、生産の増強に必要なる助成を行い、あるいは自轉車に関する各種の試驗研究施設を完備し、あるいは諸外國における廣汎な市場獲得のために必要なる宣傳を行う時、自轉車の生産及び輸出の振興に直接寄與し得る。第三は自轉車工業の発達特にその生産及び輸出の増加が國内産業の復興に及ぼす影響。第四は、現在きわめて窮迫している地方財政の増收に寄與し、幾分でも大衆課税を軽減し得る。”・・・といったことが挙げられている。
競輪が誕生した1948(昭和23)年当時、国営競馬(現在の日本中央競馬会【JRA】)の控除率が34.5%であったのに対し、競輪の控除率は25%と低く抑えられたこともあり、国営競馬が不振をかこつ状況の中で、競輪は爆発的な人気を博すようになった。
しかし、競輪は統一された「日本中央競馬会」のような特殊法人である団体が主催している競技ではなく、GHQ の意向で競輪施行者は地方公共団体となっため、競輪開催に伴い各都道府県に設立された各都道府県自転車振興会に委託されて実施されたことから、競輪草創期には各都道府県自転車振興会、各自転車競技会、施行者である都道府県市町村などの団体が複雑に絡みあい、実施方法にも不備が多く、各地でしばし観客による暴動事件(当時のマスコミの表記は「騒擾【そうじょう】事件」)を引き起こした。とりわけ大掛かりな事件となったのが、1950(昭和25)年9月、兵庫県武庫郡鳴尾村(現在の西宮市)の鳴尾競輪場で発生した事件(鳴尾事件)であり、警官の威嚇射撃によって客が1人死亡する事態となったばかりか、最後には滞駐米軍のMPを出動させて漸く収拾させたほどであった。
因みに「競輪」の言葉を考え出したのは、当時毎日新聞西部本社・門司支局に勤めていた新聞記者・山本鹿男だそうで、当初は「きょうわ」、「きょうりん」と発音していたが、この鳴尾事件発生時に語られた揶揄(「狂輪」や「恐輪」など)を避けるため、今の「けいりん」という呼び方に改められた経緯があったようだ。
この事件直後より、新聞紙上では「競輪を廃止せよ」の論調一色となったことから、ファンの「射幸心(思いがけない利益や幸運を望む心)」をあおらないために、施行者は積極的なファン拡大よりは「自粛して実施」という立場をとらざるを得なくなった。もともと競輪はギャンブルである為、様々な批判にさらされ、施行者である地方公共団体の首長の中には歳入不足を競輪開催によって補っており、競輪の財源としての必要性を認めていながらも、選挙公約に「ギャンブル廃止」を掲げる者もいるなど、多くの施行者が「庶民の娯楽」としての必要性よりも、むしろ「社会悪」として認識していため、レジャーとして競輪を積極的に評価し、盛り上げようという地方公共団体は、一部を除けばほとんどみられなかったようだ。
今日、競輪全体の売上の落ち込みは激しく 2001年(平成13)度で、ピークだった 1991(平成3)年度の約 69%である1兆 3553 億円にまで落ち込んでいるという(以下参考の※:「「公営競技行政」成立に関する研究 -競輪の組織・構造を中心に-」参照)。
鳴尾事件以降、世論の反発が大きいため次々と競輪場は廃止され、競輪場最大の売り上げを誇っていた、「競輪のメッカ」後楽園競輪場の休止(1972年【昭和47年】。翌年廃止)へと繋がっていった。
しかし、1988(昭和63)年6月、競馬、競輪、競艇からパチンコ、宝くじに至るまで、都民はギャンブルをどう考えているのか、興味ある意識調査の結果が、財団法人・東京都市科学振興会の手でまとめられており、当時、後楽園「東京ドーム」での競輪復活問題が論議を呼んでいるが、「賛成」はわずか8.5%。それに比べて「反対」は54.6%もあり、はっきり「ノー」と出ている。その理由は、ギャンブルがきらいだから」(33%)というよりも、「ほかのレジャーや趣味の方が好きだから」(46%)という要素が強かったようだ。以下参照。
1988/06/28 朝日新聞朝刊
競輪復活反対54% 周辺に悪影響 都民のギャンブル意識調査
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00008/contents/005.htm
第二次世界大戦敗戦後の日本の戦災復興や公共施設の建設に公営競技の果たす役割は大きかっただろうし、国民にとっても、他に余り楽しめるレジャーの少なかったことから、宝くじやこのような公営のギャンブルは一つの夢をかなえてくれるものとして楽しみな競技だったろうね~。しかし、今や、国民にしても、このような射幸心をあおる賭博的なギャンブルを楽しまなくても、他に幾らでも楽しめるレジャーがあるのだから、先の都民の競輪復活への回答などは、ごく自然なものだと思う。
私的な賭博行為が法律で禁止されているのに、公営のギャンブルが何故認められるのかといったことは、前々から問題にされていることであるが、それに対して、公営のギャンブルがあるから禁止されている私的な賭博に向かうのを抑制しているといった考えもあるが、これは、健康に良くないと言われるタバコの販売を止めないから、麻薬などの方に走る人が増えるのを抑制しているといった考え方にも似ている。昔は、お遊びとしての、パチンコも小額で結構な時間楽しむことが出来たが、今は、あっという間に2~3万円を注ぎ込んでしまうと現役時代のパチンコ好きの同僚が言っていた。そんな、パチンコの景品買い取り制度には賭博的要素があり、パチンコにのめり込み、サラ金地獄に陥っている人も少なくないと聞く。兎に角、ギャンブルは、一度甘い汁を吸うと止められなくなり、どんどん深みにはまり込んでいくところがあるので、楽しむ人自身が、よほど、自制してやることが寛容だろうね~。
(画像は、競輪。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
このブログの字数制限上、参考は別紙となっています。以下をクリックするとこのページの下に表示されます。
クリック ⇒ 日本で初めての競輪が小倉市で開催された日:参考