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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

プロ野球で活躍した鉄腕・稲尾和久の忌日

2009-11-13 | 人物
今日・11月13日は、プロ野球の元西鉄ライオンズの黄金期を担った鉄腕・稲尾和久の2007(平成19)年の忌日である。
1950年代に、無名の高校球児が、水星の如くプロ野球界に登場すると西鉄ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズの前進)を率いた三原修監督(故人)やマスコミ、ファンなどから、「神様、仏様、稲尾様」と評されるような大活躍をし、その現役時代は正に伝説の連続だった。稲尾は、大分県別府市出身。1956(昭和31)年、別府緑丘高校(現・大分県立芸術緑丘高等学校)から、かって、福岡市中央区の平和台に本拠地のあった西鉄ライオンズに入団。高校時代補欠の選手から投手に転向した全く無名の選手であり、監督の三原は、「バッティング投手(打撃投手)として獲得した」と言っていたようだが、その彼が、バッティング投手としての練習の中で力をつけ、チームのベテラン選手たちから推薦されオープン戦で使われたときに良い結果を出し、開幕を一軍で迎えた。そして、開幕戦(対大映ユニオンズ)で11-0と西鉄が大量リードで迎えた6回表から、先発の河村英文(故人)の後を継いで2番手としてプロ初登板し4回を無失点に抑えた。その後もしばらくは敗戦処理などで登板していたが、投手陣の故障などから登板機会が増え、シーズンが終わってみると、なんと、21勝6敗、防御率1.06という驚異的な成績を挙げて新人王を獲得していた。
三原は、高校時代、無名選手であった稲尾の足腰の強さには一目おいていたという。彼は、漁師の家の7人兄弟の末っ子として生まれたが、漁師を継がせたいと考えていた父親の意向で、幼い頃から(ろ)を仕込まれ、海に出て親の漁の仕事を手伝っていたことから、足腰が鍛えられ丈夫であったようだ。又、「戸板一枚地獄の底」と言われる危険な漁船での漁をした経験からマウンド上でも何事にも動じない度胸がついたと本人も後年述懐している。いずれにしても、高校時代無名であった者が三原に見出されたことは、スターへの足がかりとなった。
彼は、翌2年目もジンクスを破る35勝をマーク、特にシーズン20連勝という日本プロ野球新記録を打ち立て(巨人:松田 清 (故人)が、20連勝を果たしているが、これは、 1951年~52年【1951年19連勝+1952年1勝】に亘って達成したもの)、史上最年少でのリーグMVP(最優秀選手)に選出されたている。
その翌・1958(昭和33)年には、33勝し、リーグ三連覇に貢献。巨人と対戦した日本シリーズでは、チームが0勝3敗からの奇跡の逆転優勝を果たすが、この日本リーグでの優勝は稲尾なくして起らなかったであろう。
この年のオールスター以降17勝1敗と大車輪の活躍を見せた稲尾は日本シリーズ直前に原因不明の高熱に襲われ、フラフラの状態で後楽園での第1戦に先発するも巨人打線に捕まり敗戦。第2戦も島原幸雄投手他で敗戦し、西鉄は2敗目を喫した。ホームグラウンドである平和台球場に移動しての第3戦にも三原は稲尾を先発で投入したが、稲尾は3回広岡達朗の右翼線へのタイムリー3塁打で先制された1点以外、4回以降は9回まで無失点で抑えたものの味方打線が点を取れずにこの1点で負け投手となり、これで、三原・西鉄は宿敵・水原茂(故人)監督率いる巨人に3連敗と絶対絶命のピンチに追い込まれた。
その翌日が雨により試合が順延となると、三原監督は第4戦にも稲尾を3度目となる先発投手に起用し、シリーズ初勝利を挙げると、第5戦も4回表から稲尾をリリーフ登板させるが稲尾はシリーズ史上初となるサヨナラホームランを自らのバットで放ち勝利投手になる。
そして、続く後楽園球場での第6戦も、稲尾は先発し、2-0で勝利するが、9回2死、この年巨人に鳴り物入りで入団し華々しくデビューした大物新人の長島茂雄(この年新人ながらセリーグのホームラン王・打点王の2冠を取り打率も2位だった)を迎え、一発食らうと逆転負けの場面で、三原監督は稲尾に「敬遠して次の打者藤尾茂で勝負」を支持したが、珍しく稲尾はこれを拒否。「一度諦めかけていた日本シリーズ。長島と勝負させてくれ」と言って、内角速球で勝負をし長島を討ち取った。これには、東京六大学出身のエリートに負けてたまるかの気概があったとおう(2007・11・14朝日新聞記事)。その後の3試合も、稲尾1人が投げ抜いて、4連勝し奇跡の逆転優勝をし、日本一を成し遂げた。実に、7試合中6試合に稲尾が登板し、第3戦以降は5連投。うち5試合に先発し4完投しているのである。当然稲尾が最高殊勲選手に選ばれた。このとき「神様、仏様、稲尾様」が流行語になった。冒頭掲載の向かって左画像が、この時の日本シリーズでの優勝パレードでの稲尾選手である又、右は力投する稲尾の英姿である。日本のプロ野球史上忘れることの出来ない1958年日本シリーズのことについて詳しくはここを参照されるとよい。又、この日本シリーズ優勝の翌・1959(昭和34)年には、早々と、西鉄の全面協力により、稲尾の半生を描いた映画『鉄腕投手 稲尾物語』(東宝、本多猪四郎監督。以下参考の※:goo 映画参照)が制作・公開され、稲尾が自分自身の役で主演している。
稲尾は、この翌・1959(昭和34)年にも30勝を挙げ、史上唯一の3年連続30勝を記録した。そして、1961(昭和36)年には元巨人のスタルヒン(故人)と並ぶ年間最多勝タイの記録となる42勝を挙げている。
その後も獅子奮迅の活躍で、西鉄入団1年目~8年連続で20勝以上を挙げ、234勝を稼ぎ出した。7年目には投手の
日本名球会界入りの条件とも言われる200勝を突破(200勝達成時年令:25歳2ヶ月)し、名球会入りを果たしているが、これは金田正一に次ぐ年少記録である。
2006(平成18)年ポスティングシステムを利用して、約60億円もの独占契約料が支払われ、ボストン・レッドソックスへ移籍した松坂大輔 は、高校時代「平成の怪物」と呼ばれた超大物選手であったが、その彼が、西武ライオンズへ1998(平成10)年に入団し、その後、2006年まで、西部時代の8シーズンで残した勝ち数は108勝である。稲尾はこの松坂選手の2倍以上の早さで白星を稼いできたのである。そんな男・稲尾には、「神様、仏様、稲尾様」に加えて「鉄腕」の称号もファンから与えられた。そんな彼は動物のサイに似てスケールが大きく、目が細いことから「サイ」ちゃんの愛称でも慕われていた。
しかし、1964(昭和39)年には、それまでの酷使がたたって肩を故障し、シーズン6試合に登板するが、プロ入り後初めて1勝も挙げられないシーズンとなった。これを機に1966(昭和41)年リリーフに転向、同年最優秀防御率のタイトルを獲得したが、1969(昭和44)年限りで現役を引退(実働14年)した。稲尾の早期引退がきっかけとなって先発ローテーション制度が導入されたと言われるほど当時の衝撃は大きいものがあった。
最近では、先発投手は中4日の登板が常識であるが、当時「エース」と呼ばれる投手は先発・リリーフの双方をこなすことが当たり前で、週2~3回の登板や連投も珍しくなかったが、そんな当時でも稲尾の連投に次ぐ連投の投球回数の多さは別格だった。42勝を挙げた1961(昭和36)年など、登板78試合(パ・リーグ記録)のうち先発で30試合、リリーフで48試合に登板している。当時は中3日で「休養十分」とみなされていたが、この年の稲尾は中3日以上空けて登板した試合がわずか18試合しかなく。逆に3連投4回を含め連投が26試合ある。
このような連投に次ぐ連投の中でも、2000イニング以上投げて通算防御率が1点台という凄い成績を残している。今の投手のように大事に使われていたら、どれだけの成績を残していただろう。
現役を引退した翌・1970(昭和45)年から、西鉄の監督に就任。32歳での監督就任は専任監督として最年少であった。
しかし、前年からの「黒い霧事件」の中で監督として指揮をとったが、永久追放者を出した西鉄は特に主力を失うこと著しく、稲尾が監督となった1970(昭和45)年から3年連続最下位と云う屈辱的な結果になり、観客動員も激減して球団経営が完全に行き詰まり、1972(昭和47)年シーズン終了後に、球団は西日本鉄道から福岡野球株式会社へ身売りされることになり、球団名も太平洋クラブとなる(太平洋クラブは、ネーミングライツによる冠スポンサーで、実質は当時のロッテオリオンズのオーナー中村長芳の個人会社)。稲尾は監督を引き継ぐが2年間5割に満たない勝率に終り、1974(昭和49)年限りで監督を退任。ユニホームを脱いでからは、評論家として野球界の発展に寄与。1993(平成5)年には野球殿堂入りも果たし、2006(平成18)年からは委員長に就任していた。
私など特別な野球ファンでもなく、野球の試合と言えば、セ・リーグの阪神か巨人の事ぐらいしか知らなかった者でも、現役当時の稲尾の活躍ぶりだけは、鮮明に記憶に残っている。思い起こせば、稲尾が活躍していた当時は、西鉄だけでなく、パ・リーグの各球団には良い選手が居り、それぞれ良い試合をして人気もあったが、黒い霧事件などで西鉄が低迷を始めると同時にパ・リーグの人気そのものも下降することになったよね~。
稲尾のことは以下参考の※:稲尾和久特集ページ : nikkansports.com が詳しい。
(画像左:1985年日本シリーズに勝ち優勝パレードする西鉄の稲尾。右:は力投する稲尾。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
稲尾和久 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E5%B0%BE%E5%92%8C%E4%B9%85
日本プロ野球名球会
http://www.meikyukai.co.jp/index.html
日本野球機構オフィシャルサイト
http://www.npb.or.jp/
平和台野球場 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%8F%B0%E9%87%8E%E7%90%83%E5%A0%B4
松田清 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E6%B8%85
松坂大輔 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%9D%82%E5%A4%A7%E8%BC%94
日本プロ野球名球会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E7%90%83%E4%BC%9A
※:稲尾和久特集ページ : nikkansports.com
http://kyusyu.nikkansports.com/baseball/inao/rensai_top.html
※:鉄腕投手・稲尾物語 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD26182/index.html