日本レコード協会(RIAJ)が1957(昭和32)年に制定。「レコードは文化財」ということから、文化の日を記念日とした。
レコードの語源は記録という意味の英語"record"である。円盤状の樹脂等に凹凸を刻むことで音楽などの音響情報を記録したメディアの一種であり、音盤と呼ばれることもある。
音の再生にはレコードプレーヤーと針を用いる。レコードの回転とともに、そのレコードに刻まれた溝の凹凸が針に振動を与え、それが電気信号に変換されて増幅回路を通してスピーカーから音が発せられることになる。レコードプレーヤーの登場以前は蓄音機で再生された。
レコード(音声記録)は、長い間、発明王ともいわれたアメリカの科学者トーマス・エジソン の発明に始まるものとされてきた。それは錫(スズ)箔を貼った真鍮の円筒(シリンダー)に針で音溝を記録するという方式であった。そして、そして、この溝を針で再びたどらせることにより、音を再生した。この発明の公開実験では直径 8 cmの錫(スズ)箔のシートにマザーグースの「メリーさんの羊」の詩一節を朗読したものが刻み込まれていたという。それ以来、彼が録音という技術を生み出した最初の人と考えられ、日本オーディオ協会は1994(昭和19)年に、この発明を記念して、12月6日を「音の日」に制定している。
しかし、世界初のレコードは、エジソンより、20年も前の1857年、フランスのエドワード=レオン・スコット(Edouard-Leon Scott)が発明した「フォノトグラフ」であることが2008年、レコーディング・エンジニアのデビッド・ジョバンノーニ(David Giovannoni)によって明らかとなった(以下参考の※1また※2参照)。
スコットは、振動板に豚の毛をつけ煤(すす)を塗り、音声を紙の上に記録させたという。再生装置が無かったため、フォノトグラフは実用にはつながらなかった(しかし、後に再生は可能であることがわかったという。)が、1876(明治9)年、グレアム・ベルが電話機を発明したことにより再生の目処がつき、複数の研究者が再生可能なレコードの発明に取り掛かった。エジソンが最初に作ったものは錫箔を巻いたものを記憶媒体に使用していたが、後に製造が容易な蝋(ロウ)管になっていき、この基本原理は後のレコード盤の原型となった。ついで、1987(明治20)年にアメリカのエミール・ベルリナーがワックスを塗った平円盤に音の波を記録する方式のレコードと蓄音機を発明、「グラモフォン」(以下参考※3:「Music・Boxののここ参照)と命名し、特許、出願。レコードの大量生産を可能にした。
日本に蓄音機が輸入さるようになったのは、1897(明治30)年ごろから。1910(明治43)年、には、レコード会社日本蓄音機商会(現日本コロンビアミュージックエンタテインメント)が設立され、当時流行っていた>長唄や、謡曲、常磐津、浪花節などのおもに邦楽を録音して売り出した。
レコード盤の片面に3分程前後吹込みをしたSPレコードで、回転数はメーカーによって違い、78、80、82回転などがあった。以下参考に記載の※:「自分史をまとめたい人の20世紀年表」の1910(明治43) 年物 価を見ると、“レコード1 円25銭。銀行の初任給40円(大卒) ”・・とあり、※:「初任給 業種、学歴でどれだけ違う?[マネー]All About」とを見ると、金融業・保険業の2007(平成19)年の初任給が185,1千円とあり、これから換算すると、この当時のSPレコード1枚は、5,784円・・と言うことになり、結構高いものだ。
この当時、つまり、SPレコード初期の頃は、集音器(ラッパ)の奥に取り付けられた振動板で直接針を振動させてレコード原盤にカッティングする、“ラッパ吹き込み“(機械式吹き込み=
アコースティック録音)という原始的な方法で録音された。そのため声が小さいと録音がないので、歌手の口が少しでもラッパに密着するように後ろから身体を押す役目の人がいたという。「八木節」の録音の時などは、歌手はふんどしひとつ、気合いを入れて録音に臨んだそうだ(以下参考の※:「おんがく日めくり | YAMAHA」【レコードの日】参照)。八木節は栃木県の八木宿において、 初代堀込源太(本名渡辺源太郎)が歌っていた歌がそのルーツと考えられており、当初は「源太節」と呼ばれていたものが、レコーディングの際に「八木節」と命名されたそうだ。以下で詳しい八木節の説明と「八木節」が聞ける。
桐生市|八木節
http://www.city.kiryu.gunma.jp/web/home.nsf/0/d5008f957ca1cae749256b6d000edcba?OpenDocument
1925(大正14)年に、ラジオ放送が始まるとラジオのスピーカーから流れる雑音のない音の方が良いので、レコードが売れなくなるのではないかと、レコード会社は戦々恐々となったという。ところが、その前年・1924(大正13)年にアメリカでマイクロホンによる電気吹き込み方式(電気録音)が開発され、1927(昭和2)年には日本のレコード会社でも採用されるようになった。この電気吹き込み方式により、それまでの録音とは比べものにならない高音質のレコードが作られるようになった。ちょうどこのころ、レコード界も大きな転機を迎えていた。それまでは、巷で流行っていた歌を録音して売り出していたが、この頃から、レコード各社は、専門の作詞家、作曲家によってつくられた新曲、それも邦楽ではなく、当時「ジャズソング」とか「流行小唄」と呼ばれた「流行歌」を売り出すようになったことである。
まずビクター(日本ビクター蓄音器。現:日本ビクター)が、1928(昭和3)年時雨音羽作詞、佐々木紅華作曲による「君恋し」を、ついで、1929(昭和4)年に西条八十作詞、中山晋平作曲による「東京行進曲」を出して大ヒットを飛ばした。一方のコロンビアは1931(昭和6)年に高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲による「酒は泪か溜息か」、島田芳文作詞、古賀政男作曲による「丘を越えて」などのヒット曲を送り出した。
こうした流行歌が巷に流れる一方、満州事変を機に「卑俗な流行歌を撲滅せよ」という声も高まり、1934(昭和9)年に、出版法が改正されると、レコードも検閲の対象となり、強権の下に曲がチェックされるようになった。おびただしい数の歌が検閲されるなかサトウハチロ作詞、万城目正作曲のリンゴの唄「リンゴの唄」が「戦時下に軟弱すぎる」という理由で検閲不許可とされ、戦後になって日の目を見た作品である。可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌う歌詞が、戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの解放感とうまく合っていたのと、敗戦によって憔悴しきった国民の心を癒される楽曲と評価され、空前の大ヒットとなった。レコードは1946昭和21年1月に日本コロムビアから発売されたが、3ヶ月で7万枚を売りつくし、17円50銭のレコードに100円の闇値がつくほどだったという。私の父もいつも歌っていたので、私も子供ながらいつの間にか覚えて歌っていた。しかし、こんな曲のどこが悪いのか一度知らない人は、以下で、聞いてみるとよい。流行歌や風俗が取り締まられるようになって以降、終戦まで、歌は、軍歌のようなものが中心となった。尚、以下の「二木紘三のうた物語」では先に挙げた「君恋し」、「酒は涙か溜息か」、「東京行進曲」、「丘を越えて」などの名曲も聴けると共に、その解説もされている。
リンゴの唄: 二木紘三のうた物語
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/04/post_5b00.html
しかし、日本のレコード文化は世界にまれにみる発展を続けてきたといえる。振り返ると、エジソンが発明した音を記録する技術は世界中に広がりをみせたが、レコードを文化として日本ほど高めた国はない。デモクラシーの時代といわれた大正時代は、外国音楽の吸収が盛んな時期でもあった。1914 (大正3) 年、近代演劇胎動の中、「復活」で主演女優の松井須磨子がうたった劇中歌「カチューシャの唄」は、西洋的なメロディをとりいれた最初のレコード流行歌となり作曲家の中山晋平が注目された。日本は、世界からクラシック・ロックなど西洋音楽を次々と取り入れると共にそれらを日本固有の伝統的な音楽と融合させ新しい日本の音楽を創りだしてきた。そして、日本人の豊かな感受性と共に世界をリードしてきた録音やオーデイオ機器の技術がレコードの普及を加速するという相乗効果を生み、世界に誇れるレコード文化を形成してきた。
しかし、音楽が販売される媒体として、レコードは長い間、非常にポピュラーであったが、現代、レコードそのものはデジタル情報を記録するためのメディアであるコンパクトディスク (CD) 等にとって代られたが、販売する会社は今でも「レコード会社」と呼ばれている。
レコーそのものの歴史は以下参考の※:日本レコード協会レコード産業界の歴史を見られると良い。
(画像は、日本ビクターなどのトレードマークで知られているニッパー 【犬】。左画像:画家フランシス・バラウドが最初に描いた絵では、ニッパーはフォノグラフ【円筒型蓄音機】を覗いていたが、後に、右画像:グラモフォン【円盤型蓄音機】を覗いている姿に修正された。Wikipediaより)
参考:
※:社団法人 日本レコード協会:レコード産業界の歴史
http://www.riaj.or.jp/chronicle/index.html
※:Music・Box
http://musical.jp/box/
※:自分史をまとめたい人の20世紀年表
http://www7.ocn.ne.jp/~volonte/015.html
※:初任給 業種、学歴でどれだけ違う?[マネー]All About
http://allabout.co.jp/finance/gc/12054/2/
※:おんがく日めくり | YAMAHA【レコードの日】
http://www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=19981103
※:[デジタルレコーディングの基礎知識]All About
http://allabout.co.jp/entertainment/dtm/subject/msubsub_series_dtm06.htm
日本オーディオ協会
http://www.jas-audio.or.jp/index.php
音ナビ:オーディオとは?オーディオの歴史
http://www.oto-navi.jp/audioguide/index-aud2.html
日本の流行歌 - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1161536422_2/content.html
アレグザンダー・グレアム・ベル- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB
コロムビアミュージックエンタテインメント - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%A0%E3%83%93%E3%82%A2
邦楽 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A6%E6%A5%BD
流行歌 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E8%A1%8C%E6%AD%8C
レコードの回転数
http://www1.pbc.ne.jp/users/hmv78rpm/page081.html
出版法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E7%89%88%E6%B3%95
レコードの語源は記録という意味の英語"record"である。円盤状の樹脂等に凹凸を刻むことで音楽などの音響情報を記録したメディアの一種であり、音盤と呼ばれることもある。
音の再生にはレコードプレーヤーと針を用いる。レコードの回転とともに、そのレコードに刻まれた溝の凹凸が針に振動を与え、それが電気信号に変換されて増幅回路を通してスピーカーから音が発せられることになる。レコードプレーヤーの登場以前は蓄音機で再生された。
レコード(音声記録)は、長い間、発明王ともいわれたアメリカの科学者トーマス・エジソン の発明に始まるものとされてきた。それは錫(スズ)箔を貼った真鍮の円筒(シリンダー)に針で音溝を記録するという方式であった。そして、そして、この溝を針で再びたどらせることにより、音を再生した。この発明の公開実験では直径 8 cmの錫(スズ)箔のシートにマザーグースの「メリーさんの羊」の詩一節を朗読したものが刻み込まれていたという。それ以来、彼が録音という技術を生み出した最初の人と考えられ、日本オーディオ協会は1994(昭和19)年に、この発明を記念して、12月6日を「音の日」に制定している。
しかし、世界初のレコードは、エジソンより、20年も前の1857年、フランスのエドワード=レオン・スコット(Edouard-Leon Scott)が発明した「フォノトグラフ」であることが2008年、レコーディング・エンジニアのデビッド・ジョバンノーニ(David Giovannoni)によって明らかとなった(以下参考の※1また※2参照)。
スコットは、振動板に豚の毛をつけ煤(すす)を塗り、音声を紙の上に記録させたという。再生装置が無かったため、フォノトグラフは実用にはつながらなかった(しかし、後に再生は可能であることがわかったという。)が、1876(明治9)年、グレアム・ベルが電話機を発明したことにより再生の目処がつき、複数の研究者が再生可能なレコードの発明に取り掛かった。エジソンが最初に作ったものは錫箔を巻いたものを記憶媒体に使用していたが、後に製造が容易な蝋(ロウ)管になっていき、この基本原理は後のレコード盤の原型となった。ついで、1987(明治20)年にアメリカのエミール・ベルリナーがワックスを塗った平円盤に音の波を記録する方式のレコードと蓄音機を発明、「グラモフォン」(以下参考※3:「Music・Boxののここ参照)と命名し、特許、出願。レコードの大量生産を可能にした。
日本に蓄音機が輸入さるようになったのは、1897(明治30)年ごろから。1910(明治43)年、には、レコード会社日本蓄音機商会(現日本コロンビアミュージックエンタテインメント)が設立され、当時流行っていた>長唄や、謡曲、常磐津、浪花節などのおもに邦楽を録音して売り出した。
レコード盤の片面に3分程前後吹込みをしたSPレコードで、回転数はメーカーによって違い、78、80、82回転などがあった。以下参考に記載の※:「自分史をまとめたい人の20世紀年表」の1910(明治43) 年物 価を見ると、“レコード1 円25銭。銀行の初任給40円(大卒) ”・・とあり、※:「初任給 業種、学歴でどれだけ違う?[マネー]All About」とを見ると、金融業・保険業の2007(平成19)年の初任給が185,1千円とあり、これから換算すると、この当時のSPレコード1枚は、5,784円・・と言うことになり、結構高いものだ。
この当時、つまり、SPレコード初期の頃は、集音器(ラッパ)の奥に取り付けられた振動板で直接針を振動させてレコード原盤にカッティングする、“ラッパ吹き込み“(機械式吹き込み=
アコースティック録音)という原始的な方法で録音された。そのため声が小さいと録音がないので、歌手の口が少しでもラッパに密着するように後ろから身体を押す役目の人がいたという。「八木節」の録音の時などは、歌手はふんどしひとつ、気合いを入れて録音に臨んだそうだ(以下参考の※:「おんがく日めくり | YAMAHA」【レコードの日】参照)。八木節は栃木県の八木宿において、 初代堀込源太(本名渡辺源太郎)が歌っていた歌がそのルーツと考えられており、当初は「源太節」と呼ばれていたものが、レコーディングの際に「八木節」と命名されたそうだ。以下で詳しい八木節の説明と「八木節」が聞ける。
桐生市|八木節
http://www.city.kiryu.gunma.jp/web/home.nsf/0/d5008f957ca1cae749256b6d000edcba?OpenDocument
1925(大正14)年に、ラジオ放送が始まるとラジオのスピーカーから流れる雑音のない音の方が良いので、レコードが売れなくなるのではないかと、レコード会社は戦々恐々となったという。ところが、その前年・1924(大正13)年にアメリカでマイクロホンによる電気吹き込み方式(電気録音)が開発され、1927(昭和2)年には日本のレコード会社でも採用されるようになった。この電気吹き込み方式により、それまでの録音とは比べものにならない高音質のレコードが作られるようになった。ちょうどこのころ、レコード界も大きな転機を迎えていた。それまでは、巷で流行っていた歌を録音して売り出していたが、この頃から、レコード各社は、専門の作詞家、作曲家によってつくられた新曲、それも邦楽ではなく、当時「ジャズソング」とか「流行小唄」と呼ばれた「流行歌」を売り出すようになったことである。
まずビクター(日本ビクター蓄音器。現:日本ビクター)が、1928(昭和3)年時雨音羽作詞、佐々木紅華作曲による「君恋し」を、ついで、1929(昭和4)年に西条八十作詞、中山晋平作曲による「東京行進曲」を出して大ヒットを飛ばした。一方のコロンビアは1931(昭和6)年に高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲による「酒は泪か溜息か」、島田芳文作詞、古賀政男作曲による「丘を越えて」などのヒット曲を送り出した。
こうした流行歌が巷に流れる一方、満州事変を機に「卑俗な流行歌を撲滅せよ」という声も高まり、1934(昭和9)年に、出版法が改正されると、レコードも検閲の対象となり、強権の下に曲がチェックされるようになった。おびただしい数の歌が検閲されるなかサトウハチロ作詞、万城目正作曲のリンゴの唄「リンゴの唄」が「戦時下に軟弱すぎる」という理由で検閲不許可とされ、戦後になって日の目を見た作品である。可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌う歌詞が、戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの解放感とうまく合っていたのと、敗戦によって憔悴しきった国民の心を癒される楽曲と評価され、空前の大ヒットとなった。レコードは1946昭和21年1月に日本コロムビアから発売されたが、3ヶ月で7万枚を売りつくし、17円50銭のレコードに100円の闇値がつくほどだったという。私の父もいつも歌っていたので、私も子供ながらいつの間にか覚えて歌っていた。しかし、こんな曲のどこが悪いのか一度知らない人は、以下で、聞いてみるとよい。流行歌や風俗が取り締まられるようになって以降、終戦まで、歌は、軍歌のようなものが中心となった。尚、以下の「二木紘三のうた物語」では先に挙げた「君恋し」、「酒は涙か溜息か」、「東京行進曲」、「丘を越えて」などの名曲も聴けると共に、その解説もされている。
リンゴの唄: 二木紘三のうた物語
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/04/post_5b00.html
しかし、日本のレコード文化は世界にまれにみる発展を続けてきたといえる。振り返ると、エジソンが発明した音を記録する技術は世界中に広がりをみせたが、レコードを文化として日本ほど高めた国はない。デモクラシーの時代といわれた大正時代は、外国音楽の吸収が盛んな時期でもあった。1914 (大正3) 年、近代演劇胎動の中、「復活」で主演女優の松井須磨子がうたった劇中歌「カチューシャの唄」は、西洋的なメロディをとりいれた最初のレコード流行歌となり作曲家の中山晋平が注目された。日本は、世界からクラシック・ロックなど西洋音楽を次々と取り入れると共にそれらを日本固有の伝統的な音楽と融合させ新しい日本の音楽を創りだしてきた。そして、日本人の豊かな感受性と共に世界をリードしてきた録音やオーデイオ機器の技術がレコードの普及を加速するという相乗効果を生み、世界に誇れるレコード文化を形成してきた。
しかし、音楽が販売される媒体として、レコードは長い間、非常にポピュラーであったが、現代、レコードそのものはデジタル情報を記録するためのメディアであるコンパクトディスク (CD) 等にとって代られたが、販売する会社は今でも「レコード会社」と呼ばれている。
レコーそのものの歴史は以下参考の※:日本レコード協会レコード産業界の歴史を見られると良い。
(画像は、日本ビクターなどのトレードマークで知られているニッパー 【犬】。左画像:画家フランシス・バラウドが最初に描いた絵では、ニッパーはフォノグラフ【円筒型蓄音機】を覗いていたが、後に、右画像:グラモフォン【円盤型蓄音機】を覗いている姿に修正された。Wikipediaより)
参考:
※:社団法人 日本レコード協会:レコード産業界の歴史
http://www.riaj.or.jp/chronicle/index.html
※:Music・Box
http://musical.jp/box/
※:自分史をまとめたい人の20世紀年表
http://www7.ocn.ne.jp/~volonte/015.html
※:初任給 業種、学歴でどれだけ違う?[マネー]All About
http://allabout.co.jp/finance/gc/12054/2/
※:おんがく日めくり | YAMAHA【レコードの日】
http://www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=19981103
※:[デジタルレコーディングの基礎知識]All About
http://allabout.co.jp/entertainment/dtm/subject/msubsub_series_dtm06.htm
日本オーディオ協会
http://www.jas-audio.or.jp/index.php
音ナビ:オーディオとは?オーディオの歴史
http://www.oto-navi.jp/audioguide/index-aud2.html
日本の流行歌 - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1161536422_2/content.html
アレグザンダー・グレアム・ベル- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB
コロムビアミュージックエンタテインメント - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%A0%E3%83%93%E3%82%A2
邦楽 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A6%E6%A5%BD
流行歌 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E8%A1%8C%E6%AD%8C
レコードの回転数
http://www1.pbc.ne.jp/users/hmv78rpm/page081.html
出版法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E7%89%88%E6%B3%95