今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

歌麿が手鎖50日の刑に処せられる 日

2007-05-17 | 歴史
1804(文化元)年の今日(5月17日)、 豊臣秀吉の醍醐の花見を題材とした『太閤五女花見之図』が幕府の禁忌に触れるとして、喜多川歌麿が手鎖50日の刑に処せられるれた。
喜多川 歌麿は、葛飾北斎と並び、国際的にもよく知られる江戸時代の浮世絵師で、繊細で優麗な描線を特徴とし、さまざまな姿態、表情の女性美を追求した美人画の大家であるが出生地・生年等は不明である。、「南総里見八犬伝」の作者・滝沢馬琴の『後の為の記』には、「歌麿には妻もなし子もなし歿後無祀の鬼となりたるべし」とあるようだが、浮世絵師の経歴をまとめた「浮世絵類考」という史料には、二代目喜多川歌麿が初代歌麿の妻をめとったという記述があるそうだ。江戸時代、身分の賤(いや)しまれていた浮世絵師の伝記は、あの謎の多い「写楽」ほどではないにしても、ほとんど手がかりはないようだ。1806(文化3)年9月20日(グレゴリオ暦1806年10月31日)、54才で世をさったと言われていることから、1753(宝暦3)年頃に生まれと推定されている。彼の作画期は1776(安永5)年から卒年までの約30年間。初期の北川豊章(狩野派の師の鳥山石燕の名、豊房の一字を与えらる。)と称した頃から、その後の狂歌師や戯作者との提携による絵本等々に挿絵していた時期と、浮世絵画家(役者絵はかかず)としての活躍時代の二期に大別されるようである。(以下参考の鳥山石燕参照)。1782(天明2)年以後、歌麿の名を使い錦絵時代に入り、これ以降を後期としているようである。1784(天明4)年頃、新進の版元蔦谷重三郎と出会い、蔦屋の援助を得、1791(寛政3)年頃から描きはじめた「美人大首絵」で人気を博した。代表作品としては、『婦女人相十品(婦人相学十躰)』の1枚『ポッピンを吹く女』が特に有名。それまでの美人全身像とは違って大判錦絵の画面いっぱいに体を省き顔を中心とする構図法は、人物の顔の表情や内面を詳細に描くことが可能となり、ことに白雲母摺(しろきらずり)の技法は、女性の肌の白さや、柔らかさを表現するうえで効果をあげた。歌麿が作品の対象にしたのは、遊女花魁、さらに茶屋(この場合、客に遊興・飲食をさせる店。水茶屋・引き手茶屋・色茶屋・芝居茶屋・相撲茶屋など)の娘など無名の女性たちばかりであった。しかし、歌麿の浮世絵によって、モデルになった者の名前はたちまち江戸中に広まるなど、歌麿の浮世絵はひとつのメディアにもなった。さらには、春画(しゅんが)や肉筆画にも異彩を放つなど、名実ともに浮世絵、艶本(えんぽん。閨房〔けいぼう〕)の秘事・秘戯を描いた書物。春本)の第一人者として活躍した。
彼の特色は忠実な観察と写実に基ずく、理想美の表現にあり、且つ狩野派の筆触もあって、始めは美人画には不調和な点も見られたが、やがて独特な優雅な描線を画くようになり、その美人絵は、全く浮世絵の絶頂と称されるようになった。中でも、彼の春宵(しゅんしょう)秘戯(男女の房事)の画は、また格別のものとされていたようで、川柳にも「歌麿の毛がき彫師の泣きどころ」と詠まれた程だという。私も趣味で、切絵を作っていたことがあるのでわかるが、 武者絵にしても美人画にしても毛がきは難しい。特に春画などの場合は、その描き(彫る)方で随分と違ってくるだろうね~。(好きな人は、ここをクリックしてみたら)
歌麿の代表作が次々と刊行され、美人画の絵師として人気が絶頂に達した寛政期、この時期歌麿にとっては受難の時代となる。老中に就任した松平定信は、寛政の改革を断行し、風紀粛清や出版統制を行ったからである。
文化元年(1804)、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材とした3 枚続きの『太閤五女花見之図』(「太閤五妻洛東遊観図」)が幕府の逆鱗に触れ、歌麿は手鎖の処分を受けた。
○本物部分(2枚)→世界遺産醍醐寺展「桜舞う、醍醐寺」  ○復刻版3枚続き→『太閤五女花見之図』
当時、「豊臣秀吉」はタブーであり、また北政所淀殿、そのた側室に囲まれ花見酒にふける秀吉の姿が当時の将軍、徳川家斉を揶揄したものであるとも言われる。
徳川家斉は、特定されるだけで40人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人の子をもうけ、まだ、そのほかにも妾がいたとも伝えられており、御落胤は数知れず、それら膨大な子供たちの養育費が、逼迫していた幕府の財政を更に圧迫することとなり、やがて幕府財政は破綻へ向かうことになった。 家斉の時代は、最も大奥が活用された時代であったという。
家斉の行った、「処士横断の禁」は、 幕府に対する政治批判を禁止し、蘭学を公的機関から徹底廃止し、蘭学者を公職から追放した。海防学者の林子平などが処罰された。さらに贅沢品を取り締まる倹約の徹底、公衆浴場での混浴禁止など風紀の粛清、さらには、絵草紙、武者絵等に対する出版取締令が出され、『絵本太閤記』(法橋岡田玉山筆。江戸後期の画家 )を初め、錦絵類も絶版に処される。 そして、洒落本作者の山東京伝、版元の蔦屋重三郎なども処罰されている。
『絵本太閤記』廃版及び、歌麿の手鎖の処分のことは、以下参考に記載の「街談文々集要/古文書を楽しむ」の「第十八 太閤記廃板」にも記されてある。
『街談文々集要』は、文化文政期(1804年-1 829年)の巷の話題を書き記したもので作者は石塚豊芥子. (いしづか ほうかいし )、別名集古堂豊亭とも言ったようっだ。
度々の弾圧や制約にもめげず、果敢に美人画を描き続けていた歌麿も、手錠の刑に処せられ、ショックを受け、遂にその画家生活を閉じると共に2年後に世を去った。
京都・伏見区の真言宗醍醐派総本山・醍醐寺で毎年4月第2 日曜日、豊臣秀吉の「醍醐の花見」に因んだ「豊太閤花見行列」が行われている。
(画像は歌麿の浮世絵。Wikipediaより)
喜多川歌麿 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E5%A4%9A%E5%B7%9D%E6%AD%8C%E9%BA%BF
鳥山石燕(とりやませきえん)
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/toriyama.html
大御所様/大奥の賑やかな家斉将軍
http://csx.jp/~amizako/mitamuraoogosho.txt
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル・曲亭遺稿 滝沢馬琴著
http://www.dap.ndl.go.jp/home/modules/dasearch/dirsearch.php?id=oai%3Akindai.ndl.go.jp%3A50005340-00000&cc=09_01_04&keyword=&and_or=AND
世界遺産醍醐寺展「桜舞う、醍醐寺」
http://www.thekyoto.net/kyoukyou/0703/070326_03/index.html
太閤五妻洛東遊観之図
http://homepage3.nifty.com/itoti/ref31.html
喜多川歌麿
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/kwg1840/utamaro.html
浮世絵春画ギャラリー:サイトマップ(玄耀堂)
http://homepage3.nifty.com/itoti/sitemap.html
浮世絵
http://www.hat.hi-ho.ne.jp/moch/ukiyoe/index.htm
浮世絵類考 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AE%E4%B8%96%E7%B5%B5%E9%A1%9E%E8%80%83
(展観目録第69号)
http://www.library.tohoku.ac.jp/main/exhibit/sp/rec/sp-069.html
狂歌 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%82%E6%AD%8C
戯作 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%AF%E4%BD%9C
水田美術館-水田コレクション・歌川豊広(?~1829)「南楼名妓」
http://www.jiu.ac.jp/museum/collection/vol13.html
婦女人相十品 ポッピンを吹く女
http://www.gekkanbijutsu.co.jp/shop/goods/02070421.htm
文学の館 江戸艶本
http://kanwa.jp/xxbungaku/Classic/ClassicalRoom.htm
醍醐寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E5%AF%BA
醍醐寺 ホームページ
http://www.daigoji.or.jp/index3.html
絵本太閤記(法橋岡田玉山)
http://school.nijl.ac.jp/kindai/KGTU/KGTU-00048.html
絵本太閤記下巻(法橋岡田玉山)
http://school.nijl.ac.jp/kindai/KGTU/KGTU-00049.html
街談文々集要/古文書を楽しむ
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/BUNBUN0.html
石塚豊芥子
http://www.ndl.go.jp/zoshoin/zousyo/02_isizuka.html
唐土名勝圖會top
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/karameishozu/top.html
.「草津温泉膝栗毛 冗談しっこなし」
http://www.geocities.jp/suiun_an/newpage137.html
山口県立萩美術館・浦上記念館作品検索システム 絵師名一覧
http://www.hum.pref.yamaguchi.jp/seek/cgi-bin/index_n.htm
ponpokoのひとりごと
http://ponpoko-y.blog.drecom.jp/monthly/200501/2
「江戸の判じ絵」
http://www.book-navi.com/book/syoseki/edo.html









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『オレたちひょうきん族』の放送が開始された日

2007-05-16 | 歴史
1981年(昭和56)の今日(5月16日)は、フジテレビで『オレたちひょうきん族』の放送が開始された日。
オレたちひょうきん族は1981年10月10日~1989(平成元)年10月14日までフジテレビ系で放送されたバラエティ番組。土曜日20:00から1時間番組として放送。通称「ひょうきん族」。原案はビートたけし(北野武)。
1981(昭和56)年5月16日に『決定!土曜特集』という単発特番枠(正確にはナイター中継中止時の雨傘番組)として数回放送され、同年10月10日よりレギュラー放送となったもの。
1979(昭和54)年から1980〔昭和55)年にかけてのMANZAIブームによって、大衆の笑いの好みが大きく変わった。一言で、言えば「ナマ」嗜好であり、それまでの旧来のお笑いは、落語であれ、漫才であれ、コントといった演芸のいずれもが、作者の練り上げた台本と、芸人は演じる際の決められたさまざまな約束事の枠のなかで、アドリブを抑制した表現を繰り返し訓練し、それを舞台で再現することで、笑いを取った。
そのような完成度の高い「ツクリモノ」の代表的な番組が、お笑い番組の頂点に君臨していた裏番組TBS系のザ・ドリフターズによるコント番組「8時だョ!全員集合!」であり、最盛期には視聴率40~50%を稼ぐ「お化け番組」と呼ばれ、土曜8時戦争と呼ばれる視聴率競争の王者であった。しかし、このような完成度の高い「ツクリモノ」の番組も次第に飽きられかけていた。そして、それより、芸人個人の日常生活、あるいは、世相に対しての観察眼、といったナマの情報に関心が移行して行ったのである。こうなると、求められる芸人の能力も大きく変わってくる。頭が良いこと、時代に敏感なこと、私生活情報が豊かなことなどである。それまでのただ面白みのあるだけの芸人ではもう対応できない次元になってしまった。こうした時代背景のもとにスタートしたのが「オレたちひょうきん族」である。
そして、当時まだ一介の若手お笑い芸人であったビートたけし明石家さんま島田紳助片岡鶴太郎山田邦子らを擁し、視聴率で土曜午後8時(土8)の超人気番組であった、「8時だョ!全員集合」の王座を脅かし、遂には、放送終了に追い込むまでの勢いを誇り、1980年代バラエティのリーダー格番組にまでなったのである。
人気コーナーとして、最も有名なのが「タケちゃんマン」であるが、ほかに「ひょうきんベストテン」「ひょうきん懺悔室」「ひょうきん絵描き歌」「かまへんライダー」「ラブユー貧乏」などがあった(主なコーナー参照)。
この番組が大成功した理由は、ビートたけしと明石家さんまという、たぐい希な人物がいたことは言うまでもないが、もう1人欠くことのできない人物・プロデューサー横澤彪(よこざわ たけし)の存在を見落とすわけにはいかない。
そのような時代の風(お笑いの変化)を身体で感じていた横澤は、この新しい番組で危険な賭けに出た。リハーサルなし、出たところ任せの一発勝負。相手もスタッフも予備知識なしのギャグに爆笑する。その声までも放送してしまう。これが、「ナマ嗜好」の大衆にアピールする・・・・・。
丁度、開始当時は、フジテレビも、視聴率ノルマを廃し、製作者が作りたいものを作る路線に転じ、“楽しくなければテレビじゃない”をキャッチフレーズにし始めた頃であったことから、俄然燃え始めた製作者たちの勢いがそのまま現われたバラエティ番組となり、横澤の狙いは見事的中したのである。まるで、荒馬を放牧したようなあぶなっかしいものではあったが、お笑い芸人達の生き生きとしたバラエティーになったのである。また、それまでの漫才コンビをバラバラにし、ひとりひとりにキャラクターを与えた。
そして、あの異常ともいえるMANZAIブームによって燃焼しつくしていたビートたけし個人もピン芸人として、漫才という様式芸から開放されることが出来、生来のテレ性をカモフラージュする方法をこの番組の中で見つけた。「たけちゃんマン」と言う役に扮する、つまり、他人化することで逆に自分の自己を出すという逆説的な手法を・・である。後年色々な番組での進行をするのに不必要だと思える扮装や化粧、着ぐるみなどを着用しているのは、この他人化の手法を用いているのである。兎に角、彼は、この「ひょうきん族」を跳躍台にして、小説、絵画、評論、そして、今や世界的な監督として映画作りへと進んできた。「たけちゃんマン」は「スーパーマン」のパロディーであるが、今やたけちゃんは20世紀のスーパーマンになろうとしている。
また、タケちゃんマン」はビートたけし扮するタケちゃんマンと明石家さんま扮するブラックデビル等の敵キャラによるコーナードラマであるが、「タケちゃんマン」の主要キャラクターの一人・ブラックデビル役を最初に演じていたのは高田純次であるが、第2回の収録日の直前におたふく風邪にかかり急遽降板。2回目以降急遽、たまたまスケジュールがあいていたさんまが代役に抜擢されブラックデビルを演じた。それが高田より数段面白く、そのままレギュラーとなりブラックデビル役に定着した。当時まだ大阪のローカルタレントだったさんまは関西では売れていたものの、全国的には知られていなかった。だから、ひょうきん族開始当時、さんまの出演シーンは「ひょうきんベストテン」の司会ぐらい。他のコーナーでは端役扱いであったのだ。だから、さんまもこの番組によって、全国的な人気を得るきっかけとなったのである。
このとき以来、お笑いの形が変わってしまったが、残念なことは、従来の日本の伝統的な芸能である、漫才や、落語といったものが、衰退してしまったことである。そして、頭は昔の芸人より良いのかは知らないが芸のないただの駄洒落やギャグだけの、低俗なというか、未熟なタレントが画面上を独占する結果となってしまったことではないだろうか。以下では懐かしい場面が動画見れますよ。
オレたちひょうきん族 - 最終回
http://www.youtube.com/watch?v=7QOwjl-9yr4
(画像は、「オレたちひょうきん族 THE DVD 1983~1984(2)」出演: ビートたけし, 明石家さんま )
オレたちひょうきん族 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%B2%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%8D%E3%82%93%E6%97%8F
オレたちひょうきん族
http://qvarie.hp.infoseek.co.jp/var/hyokin/v_hyokin.htm
片岡鶴太郎- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%B2%A1%E9%B6%B4%E5%A4%AA%E9%83%8E
オレたちひょうきん族 - 最終回
http://www.youtube.com/watch?v=7QOwjl-9yr4
オレたちひょうきん族 THE DVD 1983~1984(2)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%B2%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%8D%E3%82%93%E6%97%8F-DVD-1983~1984-2-%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%9F%E3%81%91%E3%81%97/dp/B0000UN42Q/ref=pd_bxgy_d_img_a/503-7377063-0499158

日本テレビで『笑点』の放送を開始 した日

2007-05-15 | 歴史
1966(平成19)年の今日(5月15日)は、日本テレビで『笑点』の放送を開始した日。
笑点(しょうてん)は、日本テレビが毎週日曜日夕方に放送している寄席風の演芸番組。
1966(昭和41)年5月15日に放送がスタート。前身は1965(昭和40)年3月12日から1966年4月22日までの金曜日22:30から放送されていた『金曜夜席』である。番組名は三浦綾子の小説で、後にテレビドラマにもなった『氷点』を捩ってつけたもの。「笑いの焦点」という意味合いもある由。落語番組らしい名前である。
放送回数は昨・2006(平成18)年1月22日の放送で2000回に到達し、現在の日本テレビの番組では、『NNNきょうの出来事』(2006年9月放送終了)、『キユーピー3分クッキング(NTVバージョン)』に次いで、放送期間の長さで歴代第3位という、日本を代表する長寿番組である。
昨2006(平成18)年には、放送開始から40年以上経っているが、今でも基本的には15%前後、時には20%以上を超える視聴率を叩き出す怪物番組でもある。2005年11月には、40周年を記念して、「笑点」の放送開始から現在までを振り返り総覧する、「完全保存版の笑点公式ガイドブック」なども、日テレ笑点webから売り出されている。
開始当時は演芸ブームで、TV各局でも演芸番組が数多く放送されていた時期でもあった。今では、「笑点」が、民放では唯一と言っていいほどの落語(寄席)番組ともいえ、日曜のお茶の間を代表する番組となっている。現在は、前半に落語などの演芸を披露する演芸コーナー、後半がレギュラー出演者による大喜利(おおぎり)の二部構成となっているが、放送開始当初から演芸と大喜利の間には、司会者が初代立川談志の時には「談志とゲストのトーク」、3代目三波伸介の時は、「伸介の何でもコーナー」、4代目三遊亭圓楽「円楽のよろずガイダンス」等のコーナーが存在し、長らく三部構成であった。
初代 の司会者立川談志は、前身番組『金曜夜席』からの司会であり、1966(昭和41)年5月15日(第1回)から 1969(昭和44)年11月2日担当しているが、1969(昭和44)年3月に、談志と対立した大喜利メンバー全員(三遊亭圓楽桂歌丸柳亭小痴楽(のち梅橋、故人)三遊亭金遊〔のち小円遊、故人〕、林家こん平)が座布団係石井伊吉 (毒蝮三太夫) らと共に降板するに至り、メンバー総入れ替えにより、リニューアルを測ったが視聴率が低迷していた、1969(昭和44)年11月9日より前田武彦を2代目司会者として始めたが、前田が多忙であったため翌年12月13日、急遽降板、その代役に立てたてんぷくトリオの三波が大変好評だったことから3代目司会者となる。その評判の良かった三波が1982(昭和 57 )年12月8日急逝後、臨時に司会を担当した愛川欽也の辞退を受け圓楽が、4代目 を継ぎ今日に至る人気を気付いてきた。その圓楽が脳梗塞を発症して、中途休養しながらも、頑張っていたが、昨・2006(平成18)年5月14日の番組放送40周年特番を機に勇退。 その後は、歌丸→楽太郎→小遊三→好楽→木久蔵の順で、週交代で代役司会をしていたが、11月27日放送分から歌丸に固定。 今は、桂歌丸が5代目司会者として頑張っている。
脳梗塞で、退いたていた圓楽は、9月から高座に復帰していたが、今年(2007年)2月25日、東京・国立演芸場で「芝浜」を上演後の記者会見で、「もうちょっと、はっきりしゃべれるかと思ったが、だめですね。こんな調子で、また恥をかきたくない。今日が引退する日ですかね」などと語り今後、高座で本格的な落語は口演しない考えを明らかにした(引退表明)。
若い頃は「星の王子さま」の愛称で親しまれ、演芸ブームの際脚光を浴びた人だが、どうも、あのきざっぽさは、関西人の私などには鼻に付いたものだが、落語は別として大喜利の司会者としては、良かった。もっとも、最後の方は、少々ぼけてはいたが・・・。
♪チャンチャカチャカチャカ、チャチャンチャンチャン
現在使われている中村八大作曲によるお馴染みの『笑点のテーマ』曲は、2代目司会者前田武彦になってから使われている。導入当初は、前田による歌詞があり、歌は大喜利メンバーが歌っていたが、あまりの下手さに不評を買ったという。
以下では、『笑点のテーマ』曲を色々アレンジして演奏してしている。面白いので聞いてみては。↓
155ヴァイオリン協奏曲第1番ロ長調「笑点」他
http://www2u.biglobe.ne.jp/~heboi/html/155syouten_f.htm
今では、前半の演芸コーナーよりも後半の「大喜利」に人気があるように思うが、私も、この「大喜利」が大好きだ。
大喜利という名は浄瑠璃歌舞伎といった古典芸能の舞台で、最後の演目を意味する言葉として使われる「大切り」に由来し、「切り」は「ピンからキリまで」の「キリ」で、最後の意。「喜利」は客も喜び演者も利を得るという意味の当て字だそうである。
もともと、寄席において観客へのサービスとして行われていたもので、最後の演目として複数の出演者が再び登場し、お題に応じた面白い回答を披露し、競い合う余興であった。
「大喜利」で、よく行われるものに、、「川柳」、「短歌」、「都都逸」などのほか「あいうえお作文 」、「なぞかけ 」や、「ベンベン 」(「○○のようで○○でない、△△のようで△△でない、それは何かと尋ねれば、□□、□□」のように、AでもなくBでもないCを問うもの。合いの手として、「ベンベン」(三味線の音色に由来?)と入れることから、上方ではこの名がある。) などの言葉遊びが多い。なかなか知識がないと洒落た回答は出来ない。流石落語家といつも感心している。「笑点の大喜利」では、大喜利メンバー同士の罵倒合戦も登場するがこの歴史もかなり古く、これはこれで面白いものだ。今司会者となっている桂歌丸は、細身であることから死去ネタにされたれり、髪が薄いことからハゲを材料にされることも多い。それが、ただの非難中傷ではなく、洒落を効かせているから笑えるのだよね。
NHKが放送する視聴者参加お笑い番組「着信御礼!ケータイ大喜利」 は、視聴者が携帯電話でネタを投稿する生放送のお笑い番組で、昨・2006(平成18)年3月28日分以降から毎月1回週末深夜の放送となったそうだが、番組放送中に到着するメールは十数万件にも上るという。
以下参照。
NHK視聴者参加番組「ケータイ大喜利」・投稿15万通の舞台裏
http://it.nikkei.co.jp/mobile/news/index.aspx?n=MMITfa000014082006
着信御礼!ケータイ大喜利
http://www.nhk.or.jp/o-giri/
大喜利が好きなので、一度聞いて見たいものだが、私は、夜に弱いので、その時間は夢の中、ちょっと無理なようだ。残念・・(-。-)。
(画像は、林家たい平 『笑点 絵日記』。日テレWebにて販売)
参考:
笑点-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%91%E7%82%B9
日テレ「笑点」公式サイト
http://www.ntv.co.jp/sho-ten/
笑点の大喜利 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%91%E7%82%B9%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%96%9C%E5%88%A9
155ヴァイオリン協奏曲第1番ロ長調「笑点」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~heboi/html/155syouten_f.htm
三遊亭円楽が引退表明「恥かきたくない」 - 芸能ニュース
http://www.nikkansports.com/entertainment/f-et-tp0-20070225-162112.html
着信御礼!ケータイ大喜利 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%80%E4%BF%A1%E5%BE%A1%E7%A4%BC!%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A4%E5%A4%A7%E5%96%9C%E5%88%A9
芝浜 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E6%B5%9C

「蛮社の獄」で、渡辺崋山や高野長英らが逮捕された日

2007-05-14 | 歴史
5月14日 「蛮社の獄」で、渡辺崋山や高野長英らが逮捕された日。
1839(天保10)年5月14日(旧暦。グレゴリオ暦では6月24日) 「蛮社の獄」で、渡辺崋山や高野長英らが逮捕された日。
蛮社の獄とは、天保10年に起きた幕府による蘭学者弾圧事件のことである。
対象とされたのは、渡辺崋山とその同士たちである。従来は、崋山を中心に「尚歯会(しょうしかい)」と呼ばれる結社が存在したかのように説明されていたが、最近は結社の存在は否定されている(『佐藤昌介著洋学史研究序説』)。蛮社というのも、「蛮学社中」、つまり「オランダ学(洋学)を学ぶ人々」という普通名詞の略称に過ぎない。
崋山は、三河田原藩の藩士で通称登。極貧にうちに育ったため、家系を助ける積りで画を志し、画家として独自な地位を築いた。家老、海防掛になったことを機として、本格的な蘭学研究を開始、経世(世を治めること)的な性格の強い崋山の学風を慕ってその周囲には、多くの知識人、高野長英小関三英ら洋学者を中心に多くの町医者・藩士・幕臣等が集まるようになり、蘭学や内外の情勢を研究していたのであるが、これが、幕府の文教をつかさどる林家一門の恨みなどを買い、モリソン号事件と江戸湾防衛問題をきっかけに「蛮社の獄」の弾圧を受ける遠因となった。
幕末の対外政策は、鎖国を維持し、外国船の接近を妨げるにたる海防(沿岸防衛体制)を整え、しかも、外国との戦争は避けることが基本になっていた。幕府が直轄する防衛線は蝦夷・長崎・浦賀(江戸湾)であるが、1837(天保8)年、鹿児島湾、浦賀沖に現れたアメリカ商船「モリソン号(Morrison)」に対し浦賀奉行及び薩摩藩は異国船打払令に基づき砲撃を行った。しかしこのモリソン号には漂流しマカオで保護されていた日本人漁民音吉ら7人が、乗っており、モリソン号はこの日本人漂流民の送還、通商・布教のために来航していた事が1年後に分かり、異国船打払令に対して批判が強まった。またモリソン号は非武装であり、イギリス軍艦と勘違いされてのものであった。この当時長崎に来航するオランダ船以外は相手の意図も聞かずに問答無用でひたすら追い払うよう幕府が支持していた指令に基づいて行われたものであるが、その強行方針のきっかけとなったのは、前の年に常陸や薩摩でおきたイギリス捕鯨船の乗組員による略奪などの事件であったが、伏線としては、1700年代の末から漂民送還を口実に執拗に通称を求めるロシアやそれよりも一層強圧的な態度で対日交渉を開始したイギリスの行動があり、これらの行動に幕府は神経をとがらせていたからのようである。
モリソン号事件の翌年、モリソン号が漂流民を送還ししにきたことを知った幕府は、「漂流民送還うを口実とする通称要求に対して如何に対処すべきか」を政策論争の中で、長崎奉行のオランダを通じて漂民を受け入れるという提案を受け入れるという結論を出すが、もう1本の柱となる海防に一定の枠をはめていた。ところが、幕閣の討議の過程で最も強硬な態度をとっていた評定所の「漂民ともどもモリソン号を打ち払ってしまえ」という意見だけが、偶然、渡辺崋山を中心とする洋学者グループに漏れてしまった。そのことから、幕府が海外危機の深刻化を認識しないまま、実力をともなわない恫喝的な打ち払い礼によって局面を打開しようとしているものと考え、危機意識ををもち、崋山は『慎機論』を長英が「戊戌(ぼじゅつ)夢物語」を書いて、幕府の撃退方針を思いとどまらせようとした。このことが、幕府内の保守派に処士横議(民間人の幕府批判)として不快感をいだかせ、洋学者弾圧の伏線となったようである。
特に、大塩の乱で神経を尖らせていた幕府目付鳥居耀蔵が敵視し尚歯会に目をつけていた。
「慎機論」などによる幕政批判の罪で伝馬町入牢ののち在所蟄居を命じられていた崋山は2年後、「不忠不幸渡辺登」と大書して割腹自殺した。
蘭学医・高野長英は、長崎でシーボルトに蘭学を学びシーボルト事件後江戸に戻り開業医をしていた。後に崋山を知り蘭書を翻訳して彼の西洋事情研究を助けた。長く崋山、長英とこの時代を代表する人物として並び称されてきたようであるが、近年の研究では、蘭学における役割は、崋山の補助的な地位にとどまるとされているようである。「蛮社の獄」で逮捕されてから、放火脱獄して江戸に潜伏、兵書の翻訳などをしていた。後、伊予・宇和島藩に招かれ密かに同地におもむいたりしたが、江戸に戻り、薬品で焼いて顔を変えて医者をしていることが発覚し、捕史に囲まれて自殺するという凄惨な最後を遂げたという。
また、弾圧にあたった居蔵は大学頭を務めた幕府儒者の林衡(はやし・たいら。号・述斎(じゅっさい)の実子で、後に、二千石の旗本・鳥居一学の養子となり家督を継ぎ、天保8年目付けとなり、同12年には町奉行に抜擢され水野忠邦天保の改革の下、水野の三羽烏の1人として働いた。印旛沼干拓事業(新田開発)の中で、天保9年(1838年)、江戸湾(現在の東京湾)測量手法を巡って争った際に洋学者の江川英竜に敗れ、老中水野忠邦に叱責されたこともあって、このときの遺恨が従来の保守的な思考も加わり洋学者を嫌悪するようになったといわれている。それが、目付け時代には「蛮社の獄」の取調べを行い崋山や長英らを獄に送り、町奉行になってからは、高島秋帆 の所業を調べ上げ、下獄させるなど執念深い性格は、鳥居耀蔵の耀(よう)と甲斐守の甲斐(かい)をもじって「妖怪」とまで蔭口をたたかれた。後に罷免され、在職中の不正の廉(かど)で丸亀藩京極氏のもとに預けられ、維新になり解放された時、「俺の言ったように蘭学を禁圧しなかったから、徳川はたおされたのだ」と言ったといわれている。(週刊朝日百科{日本の歴史」参考)
(画像は、獄中の崋山。絵師崋山は出獄後、獄中の生活を早速書きとめている。田原町教育委員会蔵。週刊朝日百科{日本の歴史」より)
参考:
蛮社の獄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%AE%E7%A4%BE%E3%81%AE%E7%8D%84
蛮社の獄(学研学習事典データベース)
http://db.gakken.co.jp/jiten/ha/506100.htm
慎機論 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%8E%E6%A9%9F%E8%AB%96
戊戌夢物語(学研学習事典データベース)
http://db.gakken.co.jp/jiten/ha/523380.htm
鎖国 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD
結社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E7%A4%BE
印旛沼
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E6%97%9B%E6%B2%BC
高島秋帆 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E7%A7%8B%E5%B8%86
佐藤昌介 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%98%8C%E4%BB%8B
佐藤昌介著洋学史研究序説
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/0/0023640.html

カクテルの日

2007-05-13 | 記念日
今日(5月13日)は、「カクテルの日」
アメリカの雑誌『バランス』の1806年5月13日号に、「カクテル」という名称が初めて登場したことによるそうで、カクテルとは、酒(種類は何でも良い)に砂糖と水とビターを混ぜた興奮飲料で、俗に『ビタースリング』と呼ばれ、選挙運動の妙薬ということになっていると紹介されているそうだ。
カクテル(英語:Cocktail )とは、カクテルがビターを混ぜた興奮飲料と言うのがよく判らないが、ビターと言うのは、英語で書けば【bitters】(ビターズ)のことで、薬草香草・樹皮・香辛料など数種類を酒に付け込んで作成する、苦味の強いアルコール飲料。苦味酒・苦味剤ともよばれるもので、主にカクテルに苦味をつけたり、香りや色を良くしたりする目的で使用される。
人の手による最古の酒造りの記録は、紀元前4000~5000年「ギルガメシュ叙事詩」にワインをつくったことが記されており、当時は不老不死の飲み物と信じられていた。このワインのことは以前のブログ「ワインの日」で書いた。その後、長い歴史の中で酒造りに蒸留技術が応用され、蒸留酒が誕生するまでは、醸造酒(ビール・ワイン)といったアルコール度数の低い酒しか存在していなかったが、アルコール度数の高い蒸留酒の発明により、ストレートだけではなく、飲み口の良いほかの飲み物とミックスして飲むという文化が一気に加速した。
カクテリは、先に述べたように主にベースとなる酒に、他の酒またはジュースなどを混ぜて作るアルコール飲料であり、アルコール分を含まないもしくは1%未満のノンアルコールカクテルもある。ノンアルコールカクテルは、酒に弱い人、酒を飲まない人のために、カクテルと同じ手法を使って作られる飲み物。飲まない人がバーで飲んでいるとき、場の雰囲気を壊さないためにも使われる。その中に「サンドリヨン」(別名「シンデレラ」)と言う名の飲み物があるが、これはグリム童話 の中のシンデレラ』の名に由来するするものである。女性などが飲むのには、洒落た名前でよいだろう。
私は日本酒党なので、普段飲兵衛と飲む時などは、居酒屋やキャバレーなどで飲んで騒いでいたが、時には、普通ーのバー(Bar)へ行ってもバーボンウオッカなどをストレートか水割りで飲んでいたが、カクテルは飲まなかったので、カクテルのことはよくは知らない。しかし、そんな私でも、若い頃、若い女の子と酒を飲む時などには、格好をつけてよく洒落たホテルのバーなどに誘い、僅かに知っているものの中から、もっぱら「マティーニ」か「マンハッタン」などを飲んでいた。また、たまに、ただ1人で酒が飲みたくなった時などには、行きつけの静かなバーに行き、カウンターで独りグラスを傾けながらバーテンダーと話をしながら飲むのも好きであった。そんな時、同じ様に、バーで一人、静かにカクテルを飲む女性・・何故かそのような時には、その後ろ姿が寂しげに見え心を奪われることがある。そんな時、バーテンダーが目ざとく私の気持ちに気付き、彼女に声をかけてくれ、一緒に飲むこともあった。
トム・クルーズ主演の映画に「カクテル」というのがあった。 野望を胸にニューヨークへやってきたブライアン・フラナガン(トム・クルーズ)は、ふと目にしたマンハッタンのカクテル・バーの求人広告を見て、昼間は大学に通いながら、夜はオーナーのダグ(ブライアン・ブラウン)から踊るようなリズミカルなバーテンダー・テクニックを教わり働くようになると、たちまち界隈きっての人気バーテンダー2人組になる。この映画の中で、トム・クルーズ演じる主人公、ブライアン・フラナガンが年上の女性を口説くときに使用するカクテルが「ジュ・ダムール」(愛のジュース)。どんなカクテルかは知らないが、もし、私が、こんなものをすすめたら、たちどころに嫌われただろうね~。しかし、当時、悪い男どもには、慣れていない女性に近寄り、「スクリュー・ドライバー」などを飲ませ、酔わせて悪さをするものがいた。スクリュー・ドライバーは、アルコール度数のわりに飲み口が滑らかなので、「レディーキラー」と呼ばれていた。 まだ、私が若かった昭和30年代当時は、サントリーバーが流行し始めた頃であり、まだ、女性などには、そのような場で飲む機会の少なかった人が多かった。それに目をつけて、酔うことが判っているのに勧めるのであるが、そのような悪い輩は今でも多いのだろうね~。以下参考の「特集 カクテルのヘミングウエイとカクテル 」によると、『老人と海』で有名な、ヘミングウエイは、代表的カクテルのひとつダイキリを好んで飲んでいたそうだが、ヘミングウエイ自身が考案したものだというアブサン(ペルノ)をシャンパンで割るだけのカクテル「ヘミングウエイ」というカクテルがあるそうだ。別名「午後の死」とも呼び、ヘミングウエイ自ら〈ゆっくりと飲んで、せいぜい3杯ぐらいで止めるように〉と忠告しているという。世の女性たちよ。面白そうな名前に引かれてこのようなカクテルを飲まされないよう用心してよ・・・。
以下参考に記載の「SUNTORY」ホームページによると、日本のバーの始りは、1860(万延元)年 2月3日(現在の暦では2月24日)に出来た、横浜外国人居留地70番(中区山下町70番地。レストランかをり付近)に開業した横浜ホテルに設置されたバーだそうだ。その後、1870(明治03)年に、横浜外国人居留地20番にグランドホテルが開業し、1890(明治23)年 サンフランシスコからグランドホテルの支配人として、ルイス・エッピンガーが招かれ、その後、間もなくして、同氏により、我が国初のカクテル『バンブー』が誕生したのが日本で最初のカクテルだそうだ。そして、1894(明治27)年、 ルイス考案のカクテル『ミリオンダラー』が同ホテルのメニューに掲載されたという。
小説家、劇作家、ジャーナリスト菊池寛は、文芸春秋社を創設した実業家でもあるが、なかなかの宣伝上手でもあり、1926(大正15)年に、菊地寛が讀売新聞に「酒ならばコクテール、コクテールならばミリオンダラー、雑誌ならば、わが文藝春秋」という広告文を掲載したという。 この年は、3月1日に我が国初のタウン誌『夜の横濱』が発刊され、同誌にはモボ・ボガ(モダンボーイ・モダンガールの略)が街を濶歩する様子や、当時隆盛を極めていた、カフェやバーが数多く紹介されているそうだが、1910(明治43)年に、松山省三が銀座に一般に日本初の「カフェー」とされるカフェプランタンをオープンしており、翌年、同地にカフェライオンをオープンし、この二店が日本のバーの先駆けとなるが、カフェライオンには、横浜のグランドホテルで腕を磨いた浜田昌吾氏(後に日本バーテンダー協会会長に就任)が勤め、グランドホテルの名物カクテルだった『ミリオンダラー』をおおいに客に奨めたといい、この店の常連には、文藝春秋の菊地寛がいて、ミリオンダラーを愛飲したという。
このカクテルと言う名前の起こりには様々な説(語源参照)があっるようだが、その中の「雄鶏の尻尾」説 が、最も有力なそうだ。つまり、「飾りのため、あるいはグラスの中身にアルコールが含まれていることを示すために、羽根をグラスに差す風習があったとされる。この羽根は雄鶏の尻尾(cock tail)からとったもので、そこからカクテル(cocktail)の名がついたとの説」である。
MILLION DOLLAR(ミリオン・ダラー)のレシピと作り方↓
http://www.suntory.co.jp/cgi-bin/wnb/cktl.pl?ID=million_dollar
このカクテルは、大正時代から特に人気のあったもので、当時は、オールド・トム・ジンが使われていたが、近年、ドライ・ジン使用に変ってきているそうだ。
(画像はカクテル。 Wikipediaより)
カクテル - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AF%E3%83%86%E3%83%AB
SUNTORY
http://www.suntory.co.jp/
カクテルタイプ - カクテルレシピサイト -
http://www.cocktailtype.com/
100%カクテル
http://www.misichan.com/cocktail/
カクテル - goo 映画(1988)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD1794/index.html
ビターズ-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA
ワインの日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/81da6904415324fe6ef262aad54c92ef
外国人居留地 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%B1%85%E7%95%99%E5%9C%B0
菊池寛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E5%AF%9B
松山省三 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E7%9C%81%E4%B8%89
カクテル - 知泉Wiki
http://tisen.jp/tisenwiki/index.php?%A5%AB%A5%AF%A5%C6%A5%EB
特集 カクテル(ソウテツグループ)
http://www.sotetsu-group.co.jp/kawaraban/109/Hemingway.htm
アーネスト・ヘミングウェイ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4
Yokohama
http://nba-yokohama.jp/
スコッチから日本の味を造るジャパニーズ・ウイスキー(5)
http://72.14.235.104/search?q=cache:jPgafi2upzAJ:www.eiken.co.jp/mm/pdf/MM0606-05.pdf+%5BPDF%5D+%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%81%E3%81%8B%E3%82%89%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%91%B3%E3%82%92%E9%80%A0%E3%82%8B%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%91%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%885%EF%BC%89&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp