今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

海上保安の日

2007-05-12 | 記念日
5月12日「海上保安の日」
海上保安庁は、海上の安全及び治安の確保を図ることを任務とする行政機関であり、芦田内閣の下、1948(昭和23)年5月1日設立された。 これは、第二次世界大戦後、それまで日本周辺海域における法秩序の維持にあたってきた日本海軍が掃海部隊を除いて解体され、その後、日本の海上における法秩序の維持および掃海などを担当する機関として運輸省(現・国土交通省)の外局として設立されたものであり、初代長官(大久保武雄)の手により庁舎屋上に庁旗が掲揚された。これを記念して、以後この日を「開庁記念日」として位置づけてきたが、2000(平成12)年より海上保安庁が地域の人々に広く親しまれ、その役割、活動をより一層理解してもらうために「海上保安の日」に改称したというもの。(掃海部隊については、以下参考の「海上自衛隊掃海隊群」参照)
設立にあたってはアメリカ沿岸警備隊(コーストガード)の助言があったというが、アメリカ沿岸警備隊はアメリカ海軍の一機関としての任務を担当することもあり、そのための装備も充実しているが、海上保安庁は、海上自衛隊からは完全に独立しており、装備面での共通性も少ない。
1952(昭和27)年には第3次吉田内閣の下、より軍事組織に近い海上警備隊が海上保安庁附属機関として組織されたが、これはまもなく警備隊として分離され、後の海上自衛隊となった。保安庁創設(1952年)に際して、治安組織の一元化の見地から、海上保安庁も海上公安局に改組されて、保安庁の下に置かれることになっていた(保安庁法及び海上公安局法)。ところが、海上保安庁側の猛反発により結局、保安庁法の海上公安局に関する規定及び海上公安局法は施行されないまま、それに代わる自衛隊法の制定によって廃止となる。そのため、海上保安庁は改組を免れてそのまま存続することとなった。
我が国は国の周りを海に囲まれており、周辺海域における海上テロの未然防止、また、国際組織犯罪の摘発など治安を維持し、海上交通の安全を確保することが我が国の安定した経済活動を支える上でも極めて重要なことであり、その意味で、我国周辺海域での不法行為や、日本の領海侵犯予防などをきっちりとやって欲しいものだ。
因みに2000年以降を見ても、
・2001年(平成13年)12月22日 - 九州南西海域工作船事件発生。威嚇射撃したのち不審船の反撃を受ける。銃撃戦の末、北朝鮮工作船は自爆し沈没。
・2004年(平成16年)11月10日 - 漢級原子力潜水艦領海侵犯事件発生。対軍艦ゆえに海上保安庁の能力では必要な対策が出来ず、海上警備行動の発令となった。
・2005年(平成17年)5月31日 - 対馬沖の日本の排他的経済水域 (EEZ) を韓国の漁船「502シンプン」が侵犯。第七管区海上保安本部所属の巡視艇2隻が、臨検の為「502シンプン」を停船させたが、当該船は、臨検のために乗り移った保安官2名を乗せたまま韓国側EEZへ逃走。追跡した巡視艇7隻が、韓国蔚山沖で漁船員の引渡しを求めて韓国海洋警察庁の巡視艇6隻と39時間に渉って海上で対峙。結局、漁船のEEZ侵犯を認める代わりに身柄を韓国側に引き渡されるという灰色決着になった。
・2005年(平成17年)12月6日 - 韓国海洋警察庁が海上保安庁に対し、日本領海における捜査権の譲渡を要求したが、海上保安庁は「捜査権の譲渡は主権侵害にあたる」として拒否した。
・2006年(平成18年)4月14日 - 海上保安庁は、韓国の竹島周辺の排他的経済水域での海洋調査を、国際水路機関 (IHO) に通報。
といった領海侵犯や周辺海域でのトラブルのほか、日本の領海内での不法な漁獲などといった不法行為が頻繁に行われているが、そのようなことに対しての、海上保安庁の対応は必ずしも十分とはいえない。
海上保安庁の年度ごとの活動等については「年度報告(海上保安レポート)(元海上保安庁白書)」として、「海上保安の日」(5月12日)に毎年公表されている。
海上保安レポート2006(海上保安庁)↓
http://www.kaiho.mlit.go.jp/info/books/report2006/index.html
上記報告によると、「我が国の海洋権益の保全のために 」として、第二次世界大戦末期や戦後の混乱期に生じた北方領土、竹島に係る領土問題、石油埋蔵の可能性から生じた尖閣諸島領有権主張問題、また、最近では、中国が我が国の領土である沖ノ鳥島を岩であると主張する問題など、我が国の海洋権益を脅かす問題が山積しており、周辺諸国とも国際的に協調していかなくてはならないが、近年、中国は我が国周辺海域における海洋調査や東シナ海におけるエネルギー開発などを活発に行い、東シナ海の日中地理的中間線付近には、石油・天然ガス採掘用の海洋構築物を既に複数設置するなどわが国の権益を侵害し始めている。このようなことを防止するためにも航空機、通信器材、高性能な巡洋艦を配備して警戒態勢を強化する必要性を示している。
日本は、領海侵犯に対しては、基本的に海上保安庁が対応しているが、海上保安庁の船舶・航空機だけでは広い日本の海域をカバーできないため、自衛隊との協力は欠かせないし、実際に、海上自衛隊のP-3C・対潜哨戒機からもたらされることも多い。海上保安庁では、これら通報に基づき現場海域に急行し、まずは国際的に定められた手順に則り、停船命令を出し、停船した場合、船舶に乗り移って臨検を行い、事情聴取等、調査し、場合によっては逮捕するが、船舶が停船に従わない場合は、警告弾の投擲を行うほか、強行接舷により要員の移乗を行い臨検するが、該当船舶に武装の可能性など、強行接舷などに危険がある場合は、「警察官職務執行法」に基づき、まずは攻撃の意思を表す射撃警告、次に上空や海面に向けて威嚇射撃を行う。それでも停船に従わない場合は船体射撃を行い、状況を見て強行接舷を行う必要のある場合がある。そして、実際に実施されてもいる。しかし、強力な武器を携行している・高速で逃亡する・潜水艦であるなど海上保安庁の能力を超えていると判断されたときは、現行では、国土交通省から防衛省に連絡があり防衛大臣によって海上警備行動が命ぜられる。発令には閣議による合意に基づく内閣総理大臣による承認が必要である。・・・・なんと、まどろっこしいことか・・・。
日本の国土は約38万km2で、世界第60位だが、領海、EEZの広さでは世界6位である。水域面積は広大で、領海(含:内水)とEEZを合わせて約447万km2となる。[日本の領海等概念図]。日本は漁業や海運などが盛んな海洋国家でもあり、その領海を守る事は日本の国益と言うよりも領土を守る事と同様に重要な事である。もう少し、諸外国の沿岸警備隊(コーストガード)、国境警備隊等と呼ばれる機関(準軍事組織)同様の装備の充実が必要であろう。ここのところ、特に中国の日本に対する強硬な対応は、日本の中国脅威論にもつながっており、この中国の動きに対しては、ジャーナリスト桜井よしこも指摘している。
桜井よしこブログ:特集 「 緊迫の海域『尖閣諸島』を視た! 」
(前編)→http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2004/12/post_320.html
(後編)→http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2005/01/post_319.html
(画像は、「海上保安レポート2006」海上保安庁 HPより)

ブログの字数制限により、参考のリンク集は以下に記載しています。

参考
この下に表示されます。

海上保安の日(参考)

2007-05-12 | 記念日
参考:
海上保安庁
http://www.kaiho.mlit.go.jp/
海上保安庁 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E4%B8%8A%E4%BF%9D%E5%AE%89%E5%BA%81
領海侵犯 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%98%E6%B5%B7%E4%BE%B5%E7%8A%AF
海域 - Wikipedi
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%9F%9F
北方領土 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F
尖閣諸島 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6
[PDF] 年表HTMLバージョン
http://www.kaiho.mlit.go.jp/06kanku/tokei/nenpyo.pdf
海上自衛隊掃海隊群
http://www.mod.go.jp/msdf/mf/index.htm
電子政府の総合窓口 - 白書、年次報告書等
http://www.e-gov.go.jp/link/white_papers.html
海賊問題の現状と我が国の取り組み平成17年12月(外務省)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/pirate/index.html
櫻井よしこ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AB%BB%E4%BA%95%E3%82%88%E3%81%97%E3%81%93
警察官職務執行法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E5%AE%98%E8%81%B7%E5%8B%99%E5%9F%B7%E8%A1%8C%E6%B3%95

鵜飼い開き

2007-05-11 | 行事
今日(5月11日)は「鵜飼い開き」
毎年この日に、岐阜県長良川で「鵜(ウ)飼い開き」が行われる。
鵜飼いは、松明の火で」「」(アユ)をおびき寄せ、飼いならした(ウ)を使ってそれを捕る古式漁法のひとつ。
岐阜県(岐阜市・関市の長良川)、愛知県(犬山市・木曽川)、京都府(宇治市・宇治川)などで行われているが、特に長良川での鵜飼いが最も有名である。
今日(5月11日)は長良川の「鵜飼い開き」。
鵜飼は、今日から10月15日まで連夜行われる。ただし、満月の日は除外される。それは、満月の月明かりでかがり火が意味をなさないからで、通常暗くなる午後6時30分~8時00分くらいに 長良川河畔のかがり火広場などで行われる。
鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』、神武天皇の条に鵜養部のことが見え、『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。
”ここに、また高木(たかぎ)の大神の命もちて覚(さと)して白ししく、「天つ神の御子、これより奥(おく)つ方(かた)にな入り幸(いでま)さしめそ。荒ぶる神いと多(さは)にあり。今、天(あめ)より八咫烏(やたからす)を遣はさむ。かれ、その八咫烏引道(みちび)きてむ。その立たむ後(あと)より幸行(いでま)すべし」かれ、その教へ覚しのまにまに、その八咫烏の後より幸行せば、吉野河(よしのがは)の河尻(かはしり)に到りましし時に、筌(やな)を作(ふ)せて魚(うを)取れる人あり。しかして、天つ神の御子、「なは誰(たれ)ぞ」と問(と)ひたまへば、「あは国つ神、名は贄持之子(ひへもつのこ)といふ」と答へ白しき。こは阿陀(あだ)の鵜養(うかひ)が祖(おや)ぞ。”・・・(以下参考の「古事記・日本書紀」神武天皇熊野村に到りて参照)
”また兄師木(えしき)・弟師木(おとしき)を撃ちたまひし時に、御軍(みいくさ)暫(しま)し疲(つか)れぬ。しかして、歌ひしく、
楯(たた)並(な)めて 伊那佐(いなさ)の山の 木(こ)の間(ま)より い行きまもらひ 戦へば われはや飢(ゑ)ぬ 島つ鳥 鵜養(うかひ)が伴(とも) 今助(す)け来(こ)ね"
以下参考の「古事記・日本書紀」神武天皇・伊那佐山。また、「千人万首」の神武天皇参照)
また中国の史書『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法として紹介されている。
”毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同。好棋博、握槊、樗蒲之戲。氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少。以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭。”
(日本語訳)毎回、正月一日になれば、必ず射撃競技や飲酒をする、その他の節句はほぼ中華と同じである。囲碁、握槊、樗蒲(さいころ)の競技を好む。気候は温暖、草木は冬も青く、土地は柔らかくて肥えており、水辺が多く陸地は少ない。小さな輪を河鵜の首に掛けて、水中で魚を捕らせ、日に百匹は得る。(以下参考の「『隋書』倭国伝」)
その後、中世までは日本各地で鵜飼は行われた。鵜飼漁で獲れる魚には傷がつかず、ウの食道で一瞬にして気絶させるために鮮度が非常に良い。このため、鵜飼鮎は献上品として殊のほか珍重されてきた。『延喜式』などに見られる神々への新撰の中で不可欠な品目として大きな比重を占めているのが海産物であり、農産物も品目は予想に反して少ない。律令国家への貢献物でこのような海産物が何故多いのかを、平城京跡なから発掘された膨大な木管類の調査によって、贅(にえ)の場合は、調や庸と違って、夫々の国の浦、嶋などにこれを負担する海民集団が特定されていて、特に畿内の江人(えびと)、網曳(あみひき)、鵜飼いなどは、天皇に直属する人々であったことがわかっているという。この制度の起源は律令国家成立以前に遡り、それは、天皇家による諸国の支配の存続に不可欠の儀礼と結びついた制度であり、海民集団化と各地域の首長との関係に根ざしているという。そのような神饌品目の中で最も大切なものとされているのが鮑であるが、その中に「鱫鱜(あゆ)」も上位に入っている。そのことは、先の『古事記』などの神武東征の中の伊那佐山での戦いを歌った『楯並(たたな)めて・・・」の歌から、神武が呼びかけている「鵜養が伴」が神武の家系と深いかかわりのある家柄であった“事が推測できる。
岐阜県岐阜市および関市の長良川河畔における鵜飼は、宮内庁式部職である鵜匠によって行われている。鵜匠は岐阜市長良に6人、関市小瀬に3人おり、これらは全て世襲制である。長良川の鵜飼では、1人の鵜匠が一度に12羽もの鵜を操りながら漁を行う。もともと長良川の鵜飼はその起源を1300年ほど前までさかのぼることができる。
因みに、添付の画像は、東京国立博物館蔵の「一編聖絵」の上部をカットしたものである。大食漢として知られるウミウ(海鵜)カワウ(川鵜)を飼いならして使う漁法は、日本と中国にしか残っていないという。この画像は、鎌倉時代の鵜飼いの様子を示す貴重な絵であるが、1人で2羽の鵜しか扱っておらず、中世の零細な鵜飼い漁業をうかがわせているものだという。手縄を用いない”放ち鵜飼い”であろうか。古くから民間信仰では、鵜に霊性をみとめ、また、中世には殺生を悪とする仏教思想の深い影響があり、鵜飼いも、他の漁師や猟師と同様の立場におかれていたらしい。その後、鵜飼いの技業は洗練され、鵜匠が十数羽の鵜を手綱で巧みに操って鮎を採る”つなぎ鵜飼い”は、大名保護下で江戸時代に最盛期を迎える。(週刊朝日百科「日本の歴史」)
そして、江戸時代においては徳川幕府および尾張家の庇護のもとに行われていた。明治維新後は一時有栖川宮家御用となるも、1890(明治23)年に宮内省(現宮内庁)主猟寮属となり、長良川鵜飼は宮内省の直轄となった。1300年来、我が国の古代漁法として伝承されてきた鵜飼漁が今でも「御料鵜飼」として皇室の保護のもとに行われているが、「御料鵜飼」は狭義には毎年5月11日から10月15日まで行われる漁のうち特に宮内庁の御料場で行われる8回の漁を指し、「御料鵜飼」で獲れた鮎は皇居へ献上されるのみならず、明治神宮伊勢神宮へも奉納されているのだとか。
しかしながら、鵜飼は決して漁獲効率のよい漁法ではないため、安土桃山時代以降は幕府および各地の大名によって後援されていた鵜飼も明治維新には大名等の後援を得られず全国から次々と姿を消してゆき、現在では数えるまでにその規模を縮小。現在の鵜飼は、漁による直接的な生計の維持というよりは、客が屋形船からその様子を見て楽しむというよう観光事業として行われている。
山梨県笛吹市笛吹川や和歌山県有田市の有田川で行われている鵜飼は、「徒歩鵜(かちう)」と呼ばれる、小船等を用いず、鵜匠が1羽ないし2羽の鵜を連れて直接浅瀬に入って漁をする鵜飼である。また,島根県益田市の高津川で行われている鵜飼は、全国で唯一の「放し鵜飼」と呼ばれるもので、鵜に手綱をつけずに漁を行うもので、「一編聖絵」に描かれているような鵜飼いであったろうか。(以下参考の「高津川の恵-放し鵜飼い-」参照)
日本で鵜飼いに使われる鵜について面白い話がある。
地球には、色々な動物がいるが、其々の国によって、また、歴史的にも動物との関わりは違うであろう。日本の場合中世人にとって、動物は人界の彼方から「境」を越えてやってくる友でありまた、敵でもあった。そして・しばしば、不可思議な霊性が感得されてそれに、依頼する心や、それを忌避する念を人々にもたらし、吉凶・禍福の予兆とみなすものもあった。
「アユ」の語源は、古語の「アユル」から来たものだとされている。アユルとは落ちるという意味で、川で成長したアユが産卵をひかえて川を下る様からつけられた呼び名であるが、その「アユ」に現在の「鮎」の字が当てられている由来にはアユが一定の縄張りを独占する、つまり占めるところからのほか、日本書紀にでてくる神功皇后が今後を占うために釣りをしたところ釣れた魚がアユであったため魚篇に占の字があてられたという説もある。わが地元神戸市の名の由来は、あの藤原紀子と陣内智則の結婚で話題になった「生田神社」の「神の戸の民」で、生田神社に所属する民であった。生田神社は神功皇后ゆかりの、稚日女尊(わかひるめのみこと=天照大神)を祭る神社で、海上安全と海運の神である。同神社境内には、『神功皇后釣竿の竹』という竹が生えている。神功皇后が三韓に遠征する時に、占いのためにアユ(鮎)を釣った釣竿を、地面に突き刺しておいたものが根付いたのがこの竹だと言われている。
また、熊野の神の使者といわれるカラス(烏)には、極端には3年先までの予知能力があるとさえ信じられていた。例えば、神武天皇東征の際には、3本足のカラス「八咫烏(やたがらす)」が松明を掲げ導いたという神話がある。また、ツル(鶴)カメ(亀)は、「鶴は千年、亀は万年」など長寿の象徴とされ慶事の衣装に充てられているが、その心は「遐齢延年(かれいえんねん)」「寿福増長」にある。ツル・カメともに「目出度い」ものとされ、昔話にもよく登場していることはご存知のとおりである。
このようなカメを害することは悪であった。とりわけ、海に生きた民にとっては、カメは海神の使者として畏敬の対象であったようである。伝承の世界の”カメの恩返し”の話は、ツルのそれとともに、いわゆる”異類報恩譚”の主翼を担ってきた。(以下参考の「浦島太郎の文学史」参照)。
そのカメを一方では、敢えて殺さねばならない漁業もあった。川漁の鵜飼いがそれであり、カメの肉を鵜の餌としていたのだそうだ。平安末期、後白河院が執筆・編纂した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』という今様 歌謡集があり、そこには、鵜飼に関する以下の句がある。
「鵜飼はいとおしや 万劫年経る亀殺し また鵜の首を結い
    現世はかくてもありぬべし 後生わが身をいかにせん」(355)
直訳すると、”鵜飼ほど哀れな生業はない 一万年生きる亀をさっさと殺すし 鵜の首しめて魚をとるし 現世はそのまま過ごすしかないが 来世のわが身をどうしよう 罰があたったらどうしよう”・・・といったところである。(以下参考の「今様ラプソディ(新釈・梁塵秘抄口伝集)」参照)
つまり、後生を思えば殺生の罪業の深さが案じられるというのであって、仏教思想の罪業感による鵜飼いの卑賤視が重要で、それと、あわせて、ウ(鵜)というのが、霊鳥視されていたのも見のがせないという。そして、石川県の羽咋(はくい)市気多神社の、今に伝わる「鵜祭」では、遠く石川県の七尾市の鵜浦町で生け捕った一羽のウミウ(海鵜)を、同地の「鵜捕部」(うとりべ)の役の人々が神社に運び、師走16日の早暁に本殿内の灯火だけを残して消灯し本殿に向かって放つ。鵜は本殿の灯火をしたって昇り、殿内の台にとまったところで、その殿内への進み具合で吉凶を占ったあと、海浜に運ばれて放ち戻すのだという。この、鵜祭りの由来は明らかでないが、神社の所伝によれば、祭神の大己貴命(大国主神)が神代の昔、初めて七尾市鵜浦町の鹿島に来着したとき、同地の御門主比古神が鵜を捕らえて捧げた故事によるとか、あるいは同地の櫛八玉神(くしやたまのかみ)が鵜に化して海中の魚を捕って献上した故事にもとづくと説かれているそうだ。(以下参考の「気多大社 本殿ー歴史」また「週間古事記」の中の葦原中国のことむけ参照)
海鵜が磯辺に群れ寄ると海が荒れると案じられたのは、漁民の信仰に関わる事だが、普通鵜飼いに充てられたのは川鵜であったらしく、中世特に聞こえたのは京の西郊を南下する桂川での鮎漁で、その鵜飼いの姿は、ここに添付の画像鎌倉時代末期に描かれた「一編聖絵」(時宗の祖一遍の諸国遊行[ 教化行脚] を描いた絵巻物)に描かれており、そこで使われていたウ(鵜)は琵琶湖の川鵜と推察されるという(週刊朝日百貨「日本の歴史」)。
しかし、このブログでの字数制限上、これ以上かけないので、この続きは続編として、以下のぺーじで、『梁塵秘抄』に出てくる鵜の歌、芭蕉の詠んだ鵜の句、そして、世阿弥の能「鵜 飼」などにも触れながら書いてみたいと思う。是非見てください。
参考のリンクなども次ページにあります。この下に続いて表示されます。

続・「鵜飼い開き」

続・「鵜飼い開き」

2007-05-11 | 行事
続・「鵜飼い開き」
現代、鵜飼いに使われるウ(鵜)はウミウ(海鵜)であり、和歌山県有田市と島根県益田市を除く全国11ヶ所全ての鵜飼は、茨城県日立市伊師浜海岸で捕獲されたウミウを使用しているそうだ。また、今は、天然記念物として保護されているカワウ(川鵜)が、愛知・岐阜では大量のカワウ(川鵜)による鮎の食害が深刻化しており、岐阜県では有害鳥獣として少数だが駆除が認められているのだとか。
江戸時代の有名な俳人・松尾芭蕉は、各地を訪れ、多くの俳人仲間と交遊をかわしているが『笈の小文』(以下参考の芭蕉db 笈の小文参照)の旅の帰路、岐阜の油商賀島善右衛門の別邸に招かれた際に、金華山・長良川の自然美と、鵜飼の幽玄な世界に感動して、「十八楼の記」を著わしている。また、「鵜舟」と題して、以下のように書いている。
”岐阜の庄長柄川の鵜飼とて、世にことごとしう言ひののしる。まことや、その興の人の語り伝ふるにたがはず、淺智短才の筆にも言葉にも尽すべきにあらず。「こころ知れらん人に見せばや」など言ひて、闇路に帰る、この身の名残惜しさをいかにせむ。
「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」芭蕉 印
この句のことは、以下参考の芭蕉db 鵜 舟に詳しく書いてあるので参照されると良い。
この句は、世阿弥『鵜飼』を下地にして作ったものであるが、その謡曲『鵜飼』そのものは、先に記した、『梁塵秘抄』の歌をベースに作られたものなのである。
能『鵜飼』では、甲斐国(山梨県)を目指す安房の国清澄の僧主従が、石和 に辿り着く。日が暮れたので、土地の人に、一夜の宿を頼むが、旅の者に宿を貸すことは禁制だと断られたが、代わり、川岸の御堂ならば泊まっても良いといわれそこに泊まることにした。そこへ、闇の中から松明を振りながら鵜使いの老人が現れ、鵜使いの面白さに殺生を重ね、また生活のため殺生を重ねる罪深さを逑懐する。僧が、2,3年前この地を訪れたとき、このような老人に会い、もてなしを受けたと話すと、老人はその鵜使いは禁猟を犯したため殺されたと語り、実は、自分がその亡霊だと明かす。僧の勧めで鵜使い(亡者)は罪業消滅のため、扇を鵜篭に、鵜飼の様を見せて冥途へと帰っていく。(この能の最高の見せ場となっている)。僧達は河原の石に法華経の経文を書き付け川に投げ入れ、鵜飼いの供養をする。すると、地獄の鬼が現れて、かの鵜使いは生前、長い間殺生の罪を犯したので地獄に堕ちるはずであったが、生前、僧を接待した功徳と、法華経の利益(りやく)によって救われ、極楽へ送ることになったと告げ、法華経のありがたさをたたえる。以下参考の「能 鵜 飼」参照)。
芭蕉の「鵜 舟」の前段”岐阜の庄長柄川の鵜飼とて・・・闇路に帰る・・・・”は、謡曲『鵜飼』中、「・・・・鵜舟のかがり影消えて、闇路に帰るこの身の、名残惜しさをいかにせん・・・・」からの引用で、ここにある闇路はあの世を指す。石和の笛吹川で禁断の殺生をしたために地獄におちた亡霊が、朝の到来とともにあの世に帰る無念を表している。
下賤の者はその貧しさ故に多くの罪を犯しその罪科は重い。鵜飼いは、生活のためとは言え、亀の肉を鵜の餌にしていたのである。中性のそのような罪業の深いものを救えるものは、「法華経」以外にない。現在も笛吹川のほとりにこの鵜使いの供養に建てたという鵜飼山遠妙寺がある。
山梨県笛吹市石和町市部の鵜飼山遠妙寺の縁起、また石和地域の民話に次のような話があるそうだ。「平安末期、殺生を禁じる領主により禁漁となっていた笛吹川で鵜飼をした勘作という老鵜匠が、極刑を言い渡され簀巻きにされて川へ沈められた。 だがその後勘作の亡霊が出るようになり、村人が困り果てていたところ、たまたま通りかかった日蓮と弟子・日朗が供養を申し出る。 二人が法華経69380字余りを一字一字河原の石に書いて川に流し、供養塔を建てたところ、それ以降勘作の亡霊は出なくなった。 この時に日朗がこの地に草庵を結び、それが現在の鵜飼山遠妙寺となった。」 ・・と。当寺および地元ではこの話の鵜匠「勘作」が実は平時忠であり、1185年、壇ノ浦の戦いで捕虜となって後、配流先の能登国から逃れてこの地に流れ着き、漁師をしていたという伝説を伝えているそうだが、時忠は能登国で死去しており、なぜ時忠が全く縁もゆかりもない甲斐国の伝説に結びつけられているのかは不明だという。
【日本ねっ島】 鵜飼山遠妙寺 [山梨県 / 笛吹市 ]
http://www.piconet.co.jp/nippon-net/nippon.cgi/see/12812
(画像は、(「鵜と鵜飼い」一編聖絵から上部をカット。東京国立博物館蔵。手綱を用いない”放ち鵜”のようである。週刊朝日百貨「日本の歴史」より)
参考:
鵜飼い - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E9%A3%BC
第1回 越中の川魚漁
http://www.tkc.pref.toyama.jp/furusato/ryo/t96-1.html
松尾芭蕉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89
芭蕉db
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
芭蕉db 十八楼ノ記
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/others/kasimatei.htm
芭蕉db 鵜 舟
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/others/ubune.htm
「鵜飼と長良川」鵜飼の歴史としくみ - 岐阜市観光案内
http://www.city.gifu.gifu.jp/kankou/ukai_01.html
梁塵秘抄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E5%A1%B5%E7%A7%98%E6%8A%84
梁塵秘抄
http://www.geocities.jp/itaka84/bookn/koka/ryoujin.htm
古事記・日本書紀
http://www2.odn.ne.jp/cbm54970/framekiki2.html
千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jinmu.html
日本建国史
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/index.html
八咫烏 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F
『隋書』倭国伝
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm
延喜式 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%96%9C%E5%BC%8F
高津川の恵-放し鵜飼い-
http://www.iwami.or.jp/takatsu/mame/ukai.htm
今様ラプソディ(新釈・梁塵秘抄口伝集)
http://the.server.ne.jp/garden/kuden/index.html
鴉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%89
ツル(鶴)-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%AB
浦島太郎の文学史(三浦佑之)
http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/urashima.html
気多大社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E5%A4%9A%E5%A4%A7%E7%A4%BE
気多大社 本殿_歴史
http://www.keta.jp/honden/rekisi.html
神々の系譜
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-kamigami.html
週間古事記
http://www.linkclub.or.jp/~pip/ututu/kami/furukotobumi/
生田神社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE
時宗 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E5%AE%97
「平家物語」の旅 神戸市
http://www.netpassport.or.jp/~winoguti/kodaishi/index.htm
能  鵜 飼
http://junseikai.cool.ne.jp/ukai.htm
【日本ねっ島】 鵜飼山遠妙寺 [山梨県 / 笛吹市
http://www.piconet.co.jp/nippon-net/nippon.cgi/see/12812
平時忠
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%99%82%E5%BF%A0

国鉄が客車の等級制を廃止し旅客運賃料金を一本化した日

2007-05-10 | 歴史
1969(昭和44)年の今日(5月10日)国鉄(現・JRグループ各社の前身)が客車運賃及び特急急行料金にモノクラス制(Mono-class、等級制廃止)を採用し、旅客運賃料金を一本化し、グリーン車を設置した。( グリーン車に乗車するためには、グリーン券を購入)
グリーン車は、3等級制時の2等車及び2等級制時の1等車の名残りであり、「グリーン」の由来は、2等級制時の1等車時代から側面窓下に表示されていた淡緑色の帯の色及び硬券の色を基にしたとされる.。
等級制時代には、運賃および特急・急行料金は等級別に異なっていた。例えば1960年以前であれば、3等級制時代の等級を示す帯の色は、1等:白、2等:青、3等:赤であった。
そして、3等運賃・料金を基準とすると、2等運賃・料金はおおむねその2倍、1等運賃・料金は2等運賃・料金の2倍ということになっていた。1960(昭和35)年に2等級制に変更された際、1等が青帯となったがこれが後に淡緑色に変更された。グリーン車がそれまでの1等に相当するのその色の名称を使ったということである。車体には淡緑色の帯も残されれていたが、その帯も昭和年代の末期には廃止された。(以下参考に記載の「客車の塗装色・等級帯について」参照)
1969(昭和44)年と言う時代を振り返ってみると、日本の経済は、1955(昭和30)年からの高度経済成長 の波に乗り、輸出競争力の増大から、高い経済成長国際収支の大幅黒字が定着するようになり、年末の外貨準備高は35億ドルに達した。そして、1968(昭和43)年の日本のGNP(国民総生産)は、資本主義国家の中で第2位に達した。しかし、その反面「円」切り上げに対する要請が高まってきた。また、 経済白書別表参照 )。
1969(昭和44)年の流行語、「エコノミックアニマル」、「Oh!モーレツ!」!」(丸善石油)などがこの時代をよく反映しているといえるだろう。
1969(昭和44)年5月26日には、 東名高速道路が全線開通。 6月10日には夜行高速バスドリーム号の運行を開始。8月には、「愛のスカイライン」が登場、10月には「フェアレディZ」も世に出るなど、日本のモータリゼーションは、この年に始まったといえる。」日産自動車の車名に「愛の」を加えただけの単純なものに見えるかもしれないが、車が何故「愛」なのか?それは、日本人には使い慣れたない言葉であるが、「愛」と言うだけで、車がもうステイタスシンボルや高嶺の花ではなく生活の一部に加わったことをメッセージしていたのである。
以下参考の国土交通省の「国鉄改革について」や「運輸白書」などを見ると、国鉄は、1949(昭和24)年に国有の公社として発足し、基幹的輸送機関として大きな役割を果たしてきた。しかし、日本の高度成長を通じ、モータリゼーションの急速な進展等により、それまでの国鉄中心の輸送構造に大きな変化が生じた。旧国鉄の旅客輸送は1960(昭和35)年までは、全旅客輸送量の1/2以上を占めていたが、道路の整備や自動車の増加により近距離輸送については自動車が大きな役割を果たすようになった。その結果、国鉄の旅客輸送の全旅客輸送に占める割合(シェア)が低くなっってきた。また、旧国鉄の貨物輸送についても1955((唱和30)年までは、全貨物輸送の1/2以上を占めていたが、その後は産業構造の変化や自動車輸送の増加により、鉄道による貨物輸送量そのものも減少傾向にあり、シェアを大幅に落とし、国鉄は1964(昭和39)年に、初めて赤字を計上、以降毎年赤字が続いていた。 事業の経営は能率的な経営を前提とする適正な原価に見合った運賃、料金収入により維持されることが原則となっている。しかしながら従来、昭和30年代後半以降の経済の高度成長過程で発生した物価上昇への対応策の一つとして、公共交通機関の運賃も公共料金として程度の差こそあれ一貫してその値上げを抑制する方針がとられてきた。輸送構造の変化に伴なう収入の伸びなやみ、人件費の高騰等により財政状況はきわめて悪化し、このため運輸省では国鉄財政再建の抜本策について国鉄財政再建推進会議を開催し検討をすすめていたが昭和43年11月、同会議から他の施策と並んで運賃改訂が必要である旨の意見書が提出された。以上の経緯にもとづき,1968年第61国会において,国鉄みずからの能率化、合理化および国の財政措置に関して規定した日本国有鉄道財政再建促進特別措置法(国鉄財政再建参照)とともに,国有鉄道運賃法の一部改正が成立した。
そして1969(昭和44)年の今日(5月10日)、 国鉄旅客運賃平均15%の引上げを行なつた機会に従来の1等の旅客運賃・料金制度を廃止し,旧1等車を利用する場合には運賃のほかにいわゆるグリーン料金を収受することにしたが、グリーン車を利用する場合の運賃料金は普通車の1.5倍強となつており,従来の1等運賃が2等の約2倍であつたことと比較するとその格差はかなり縮少したという。
国鉄は一方では自動車と、他方では国内航空との競争に直面している。これらの対策としてダイヤ改正に代表されるような輸送力増強、時間距離の短縮等により都市間輸送の責任を果たしてゆく姿勢をこのとき示している。しかし、その後も、収入の減と人件費,物件費の急騰により財政危機に瀕した過去債務の棚上げ等の対策を講ぜざるを得なくなり、1987(昭和62)年4月1日、国鉄は、JRグループ各社へ、分割・民営化された。しかし、この分割・民営化の方法は、単純に日本地図上に線を引いて、分割しただけの民営化である。そのため、民営化した出発当初から立地的な面などで格差がある。例えば、JR西日本(西日本旅客鉄道) の場合、中国北陸地方を中心にローカル線を多数抱えているうえ、戦前の鉄道省時代から、人口の多い京阪神周辺地区では、近畿日本鉄道阪急電鉄阪神電気鉄道南海電気鉄道京阪電気鉄道などと並行する大手私鉄山陽新幹線航空機、またほぼ全域でマイカーなどの道路交通との激しい競争もあり(特に北陸3県は一世帯あたり日本有数の自動車保有台数を誇る)、莫大かつ安定した収入源である首都圏の通勤路線を抱えるJR東日本(東日本旅客鉄道)や東海道新幹線を保有するJR東海(東海旅客鉄道 )と比べると経営基盤が弱かった。そのため、そのような他の私鉄などとの激しい競合を生き抜くため列車増発・スピードアップに対応した安全分野への投資が必ずしも十分なものでなかったとの指摘もあり、分割・民営化が、1991年の信楽高原鐵道列車衝突事故や2005年のJR福知山線脱線事故などの重大事故を引き起こした原因の一つとも指摘されている。確かに、JR西日本の管理体制や職員の責任に帰すこともあるであろうが、私もその最大の要因は、安易な分割・民営化の仕方に一番多くの問題があるだろうと思っている。
(画像はグリーン車(185系サロ185)のリクライニングシート。Wikipediaより)
参考:
一等車 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E7%AD%89%E8%BB%8A
客車の塗装色・等級帯について
http://homepage3.nifty.com/jnrpc/P-train/PC-COLOR.html
経済白書 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E7%99%BD%E6%9B%B8
高度経済成長 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BA%A6%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%88%90%E9%95%B7
国際収支統計 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8F%8E%E6%94%AF%E7%B5%B1%E8%A8%88
経済白書(年次経済報告) 年次リスト
http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/index.html
広告景気年表:1969年
http://www.dentsu.co.jp/trendbox/adnenpyo/r1969.htm
国土交通省
http://www.mlit.go.jp/
運輸白書
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/index_.htm